月船書林

フィギュアスケートの話題を中心に芸術を語る

夢の香りのタンゴ

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◇◇◇◇◇


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No mistakes in the tango, not like life.
It’s simple. That’s what makes the tango so great.
If you make a mistake, get all tangled up, just tango on.
タンゴに間違いはない。それが人生とは違うところ。
実に簡単。それがタンゴの素晴らしいところさ。
たとえ間違えても、足がもつれても、踊り続ければいい
(『セント・オブ・ウーマン/夢の香り』)

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偏愛のエキシビション・ナンバーのひとつ2008年-2009年『ポル・ウナ・カベサ』へのオマージュである。
このナンバーへの解説もまた、幾度となく以下のような記事に書いた。

『首の差で』
『冷静と情熱のあいだで』
『遠い踵はタンゴのリズム』

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過去記事の中でタチアナコーチの『ポル・ウナ・カベサ』動画もご紹介しているが、まさにコーチのフェイバリットナンバーであるタンゴの名曲を、まだ当時年齢的にはかなり若すぎると思われる愛弟子に、是が非でも踊らせたかったのだろうなという意図がありありと見える。

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それにしても、動画のタチアナコーチが胸に抱いた薔薇を投げ捨てる場面の格好良さったら、ぞくぞくするほどたまらない。男性パートナーと足を絡めて踊っていても、しなだれかかるでもなく凛として、それでいて艶っぽく官能的だ。コーチの考える理想的な女性像というのも透けて見えて、浅田選手の演技に「強さと美しさ」を要求したのもさもあらんというところだろう。
また、このナンバーを含むタチアナコーチコレオから、まさきつね個人が勝手に好きな五選を並べた記事も以下の通り。

『灰色の菫は語る-アンドロギュノスの系譜-』

無論まさきつねがわざわざ名前を挙げずとも、この珠玉のプログラムに対するファンからの人気は絶大で、2015年『THE ICE』のHPでネット投票された「もう一度見たい、浅田真央プログラム大募集」なるアンケート調査では堂々の一位である。
そして粋なことに、ショーでは伝説のナンバーをそのまま再現するのではなく、ジェフリー・バトルとのペアで、アイス・ダンス風にアレンジして披露してくれたのも、ファンには嬉しいプレゼントだった。

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【浅田真央&ジェフリー・バトル 2015年コラボ「ポル・ウナ・カベサ」 】


この二人のペア歴も、アイス・ショー限定とはいえ実に長く、その息の合ったシンクロ率もさることながら、浅田選手の美しさを引き立てるように影のように寄り添って、なおかつ的確にリードするバトルの巧さ、そして毎度少し照れたような表情を浮かべつつもバトルの動きに合わせて、初々しいパートナーを演じる浅田選手の可憐さが、微笑ましくも上々の舞台を作り上げるのだ。

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バトルが踏むタチアナコーチのステップを見ていると、(彼の完璧なコピー技術も勿論拍手喝采の素晴らしさだが、)そもそもいかに高度に洗練されたスケーティング技術がふんだんに盛り込まれているかが、改めて確認できる。
そしてスケートだけではなく、本来のタンゴのステップが体の中に浸透していないと、相手に挑むようなエモーショナルな動きや感情を揺さぶる振付、官能的な足捌きといったものを表出できないのだということも理解できるのである。

浅田選手はシングル演技においても、たおやかで少しコケティッシュな身体表現を、はにかみつつもごく自然に演じていたので、精密なステップを繰り返すまでの狂おしい努力や柔らかなポジションを決めるための試行錯誤など、目に見えない奮闘を微塵も感じさせないのだが、この豪華な宝石のようなタンゴを見ていると、彼女が日々積み上げてきた労苦、砕身の練習がいかに賜物となって、演技に結晶化しているかが伝わってくるのだ。

あっという間にプログラムは終了してしまうが、何度でも繰り返し観たくなる時間の濃密さは掛け値なしだ。

氷塵のかなたに消えて、また立ち現れるふたりの姿を目で追っていると、いつかどこかで見た夢の欠片にふいに出会えたかのような懐かしさを覚える。
長く忘れていたけれど、記憶の底に眠っていた過去が、めくるめくタンゴのリズムに揺り動かされて、憂いに充ちた感情とイメージのシナプスをつなぐのだ。

生きることの情念、夢見ることの切なさ、断ち切れない欲の狂おしさ、およそ人間が人間たるゆえんの悲しみへ回帰させるタンゴのメロディーと、氷上を舞い踊るスケーターの疾走が、観衆にパトスの高揚をもたらして、過ぎ去ったものを愛撫するかのような悔恨の情さえ呼び戻してしまうのである。

◇◆◇◆◇

さて、バトルとのペア演技を見てしまったら、やはりこの『ポル・ウナ・カベサ』を使用した映画について語らずにいられない。
映画自体の評価は人さまざまと思うが、タンゴのダンスシーンだけでいえば、最も秀逸なのは1992年の『セント・オブ・ウーマン/夢の香り』だろう。

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クリス・オドネル演じる、オレゴン州の片田舎からボストンの名門校へ進学した苦学生のチャーリー・シムズと、アル・パチーノ演じる盲目の退役軍人フランク・スレード中佐との心の交流を描いた、これぞヒューマンドラマという映画で、アル・パチーノはいかにも彼らしい斜に構えた女好きの中年男を存在感のある演技で示し、念願のアカデミー主演男優賞を受賞している。
(以下、ここは映画ブログではないので必要なあらすじだけご紹介するが、ネタバレは斟酌しないのでご留意を。)

真面目だが帰郷するための金すらない学生チャーリーは、感謝祭の休暇を利用してフランクの世話係をするというバイトに就く。普段フランクは、姪一家に身の回りの面倒を見てもらいながら生活しているのだが、姪たちが旅行に出る間、家に残る彼の介助というのが仕事の内容である。

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ところがフランクは、家族も手を焼く毒舌の気難し屋で、さらに困ったことに姪の留守をこれ幸い、自分も負けじとニューヨーク旅行を企てる食わせ者である。飛行機はファースト・クラス、ホテルは最上級のウォルドルフ・アストリアでスイート・ルーム、大金を摘んだ試乗で乗り回すのはフェラーリ・モンディアルと贅の限りを尽くし、おまけに真昼間からジャック・ダニエルをオールドファッションのグラスにダブルで浴びるように飲むフランクは、部屋にあるミニ・バーに用意された酒の銘柄をチャーリーに聞き、「子供だましはいらん、ジョン・ダニエルを並べさせろ」と暴君さながら横柄極まりない。

だがこの場面、「ジャック・ダニエルでしょ?」と聞き返すチャーリーに、「お前にはジャックだろうさ。俺は奴とはつきあいが長いから渾名でいいんだ…(He may be Jack to you, son.But when you’ve known him as long as I have……)」とフランクが返す台詞がなんとも小粋で、ウィスキー党には新手のCMコピーか何かのような衝撃だろう。

一方、チャーリーの方も休暇前に、学校で起きた趣味の悪い悪戯事件をたまたま目撃したことから、その証言者になってハーバート大学への推薦を得るか、断って退学になるかという二者択一を校長に迫られ、その答えを出せずにいる悩みを抱えている。
この悪戯事件の一部始終も、お金持ちの御曹司だが痴れ者の級友たちが、校長の愛車ジャガーXJSを白い塗料まみれにするという実に子供じみた愚行なのだが、ジャガーやリムジン、フェラーリといった高級車が映画全編でキー・ポイントになっているあたり、いかにも九十年代アメリカのセレブリティな空気を醸し出していて、憧憬のアメリカン・ドリームの光と影を象徴しているのだ。

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そしてこの映画の序盤、暴言と猥談で手に負えない、ひたすら感じの悪い中年男のフランクと、生真面目なひよっこ学生というだけではない苦悩を隠した若者チャーリーが、お互いの良いところ悪いところを探り合うように、年代差のある親交を深めていく醍醐味に、酒、車と並んでもうひとつ花を添えるのが、二人に絡む女性たちが身につけている香水などの香りである。

副題にも「夢の香り」とあるくらいなので、この映画には場面を次々に彩る女性たちが身にまとっているフレグランスが重要な鍵になるのだけれど、まさに全盲のフランクならではの研ぎ澄まされた嗅覚が前提の設定だろう。
とはいえ視覚や聴覚とは違い、なかなか映像作品では伝えきれないリスキーな感覚を取り上げ、登場する女性たちの個性や魅力まで、その身体から立ち上る香気に象徴させて語らせるのは、映画としてはかなり挑戦的な手法だと思う。

まずフランクは、カリフォルニア訛りで話す飛行機の客室乗務員が漂わせる匂いに、英国製のコロン「フローリスFROLIS」と言い当て、イギリスの貴婦人気取りの田舎娘という意味で彼女に「ダフネ」という渾名をつける。

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フローリスは英国王室御用達の高級フレグランスブランドで、地中海のメノルカ島に生まれ育った創立者ジュアン・ファメニアス・フローリスがロンドンに渡り、故郷の芳しいアロマの記憶をもとに、伝統的な製法と上質な香料を使って香水や石鹼などの調合を始めたのが幕開けだという。

ライムなどのシトラス系の香水も人気だが、ヴィクトリア女王やナイチンゲールも愛用したという優雅なホワイトローズの香りや、エレガントな花々を集めたようなフローラルブーケの香りもロマンチックで奥深い。トップノートはとろりと甘やかでも、ミドルは爽やかで、そして清楚で品のある香りが余韻のラストノートとして持続する。人を惹きつけるための香水というよりも、清潔感を与える身だしなみのようなアロマが、このブランドの持ち味なのだろう。

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次に印象的なのは、フランクの来訪を快く思わない彼の実兄の家で、甥の妻が身につけていた香水「ゲランGuerlain」のミツコMitsouko を「満たされていない女がつける香りだ」と言い捨て、実兄を挑発する場面。

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ゲランはフランスの無形文化財企業に認定されるほど文化的価値を認められた、知らぬ者のないフレグランスメゾンだが、その代表格の香水が散々な扱いである。
それというのも、この香りを好んだ著名人だけでもチャップリンやディアギレフと曲者が多く、さらに1930年代アメリカのセックスシンボル「プラチナブロンド」のジーン・ハーロウに至っては、二番目の夫が全身に妻愛用のこの香水を浴びて浴室で拳銃自殺するという逸話が残っている。

伝説的ないわくの多いフレグランスだが、香料バランスが絶妙なシプレー系の最高傑作で、アルデヒドC14(ピーチの香り)を初めて使用したことでも有名。
トップにベルガモットが高貴な宝石のように立ち上り、ミドルにピーチやフローラルの甘さが増すが、ラストでスパイシーなアンバーやオークモスが存在感を示す。爽やかなシプレーに土の温かみを感じさせるモスが被さって、季節の変わり目のように変幻自在な香りの変化が、名香の証。官能的だが媚びない品格と賞賛される所以だろう。

ちなみにミツコのようなクラシックノートは、体温や発汗を考慮して纏う時間やつける箇所を選ばないと、薬品のような刺激臭に撃沈してしまう羽目になる。
都市伝説では、基礎体温や肌質によって香水の合う合わないがあり、ゲランを体温の低い人や低い箇所につけると、スパイスの強い香りや抹香臭さ、革の生臭さばかりが匂って、香料の繊細なバランスが崩れてしまうという。
逆に、シャネルを体温の高い人が纏うと、ウッディでメロウなラストノートが初めから強く立ち上がってしまい、蒸し暑く甘ったるい香り立ちになるといわれている。
おそらく競合する二つのメゾンに引っ掛けた根も葉もない噂だろうが、香水が自分にだけ香るものでなく周囲に広がるという特性を考えれば、TPOをわきまえた使用法が重要なのは当然だろう。

そうすると、家族の集まる家の中でミツコの香りをぷんぷんさせている女性をたしなめるように「欲求不満」と当てこすったフランクの言葉は無論、香水そのものへの悪口というより、つけ方を知らない厚顔無恥で野暮な女性に向けられているということなのだ。

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ところで、まさきつねがミツコ以上にお気に入りなのは、ゲランの「夜間飛行Vol de Nuit」。

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ミツコ以上に複雑かつ神秘的、そしてオリエンタル。トップに立つガルパナムのグリーンな香りと、入り混じる柑橘系に、最初はいささか当惑するが一度嗅いだら忘れられないインパクトだ。

万年筆のインクのような堂々とした香りが底調にあり、それが「文学的」とか「おっさん臭い」とか褒めているのか貶しているのか批評される所以だが、フランク自身がつけていたとしたら、このようなフレグランスだったのではと思うような香水の名品である。

そしていよいよ登場するのが、「オグリビーシスターズogleby sisters soap」の石鹸の香りと麗しきガブリエル・アンウォー演じるドナである。
漂う香りだけでドナの存在に気づき、人を待っているという彼女に「虫除けに同席させてくれ」と臆面もなく頼み込むのは、まさにフランクの女たらしらしい面目躍如といったところだ。

それでもこの場面だけは、さしものフランクでさえいつもの暴言を差し控え、チャーリーの後見人という役回りをはみ出さない。
彼女の匂いをオグリビーの石鹸と言い当て、香水だけでなく石鹸にも造詣の深さを見せるあたり、ただ女性を口説く道具で下世話に香りの名を覚えているというわけではなく、良いものを見極めるフランクの嗜みとしての教養の深さを感じさせる。
そしてドナはこの石鹼を祖母からの贈り物だと答えるのだが、もしかしたら同じ銘柄を、フランクの初恋の女性か母親が使っていたのかもしれないとさまざまに憶測もさせる温かなやり取りが続く。

オグリビーシスターズはどうやら通販専門の石鹸メーカーのようだが、ハンドメイドの石鹸やボディオイルなど、自然原料にこだわっているのが売りのようだ。香料の入っていないものもあるが、フローラルやフルーツ系、ハーブ系といったフレグランスのバー・ソープは色とりどりで見た目も楽しい。

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この映画から触発されて作られたのか『タンゴTango』というムスク系の石鹸もあるようで、ネーミングだけでなくオーガンジーやリボンを使ったラッピングも凝っているらしく、やはり普段使いの自分用というより贈答用を意識しているのだろう。

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さて、ついに映画のハイライトになる洒落たタンゴシーンに入るのだが、粋な台詞で踊りに誘うフランクのダンディーさ、恥ずかしそうに踊りに引き込まれていくドナの輝く薔薇のような美しさ、そしてそんな二人を戸惑いつつも笑顔で見守るチャーリーの複雑な胸の内など、人生の哀歓がさまざまに交錯する場面である。

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【The Tango - Scent of a Woman (4/8) Movie CLIP (1992) HD】


このときのフランクの誘い文句が冒頭にあげた台詞なのだが、最初は「(ステップを)間違うのが怖いのよ」と言って断ろうとするドナに、「タンゴは人生じゃない、間違いなんかないんだ」という言葉で返すやり取りは、浅田選手ファンなら少しばかり胸に滲みるのではないだろうか。

「フィギュアスケートに間違いはない。それが人生とは違うところ」と、ふっと気持ちが軽くなるような言葉を、あの日あの時、誰かが浅田選手にかけていたら、いやもしかしたら、誰かがかけていたのだろうかと、ファンであれば誰しも思わないではいられないのではないか。

勿論まさきつねは今更ここで、実際の演技を取り上げてミスの有無を云々と蒸し返すつもりはない。
ただ今となって思うのは、マスコミの執拗な取材に対し、いつもけなげに「ノーミスで」と言い続けていた少女の逃げ場のない胸の内を考えるにつけ、優しくその手を取って「たとえ間違えても、足がもつれても、踊り続ければいい」とささやいてくれるような、度量のある大人があの時ひとりでも、彼女のそばにいただろうかと振り返らざるを得ないのだ。

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話を映画に戻そう。

ダンスの前に、目が見えないフランクがチャーリーにダンスフロアの説明を求めるのだが、場所の広さや楕円の形状、テーブル席とバンドの位置を的確かつ手短に表現して伝えるチャーリーの利発な聡明さが印象的だ。気難しいフランクが何のかんの言っても、チャーリーを信頼し、気に入っている様子が垣間見えるディティールだ。

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そしてタンゴを踊るフランクは、紳士たるものこうあるべきという最高の気遣いでドナをリードし、軽やかなステップを熟すことで失いかけていた自信をしばし取り戻す。
暗闇の中に束の間差し込んできた温かな光のような、至福の時の美しさ果敢なさを充分に堪能させてくれる、まさに馥郁たる映像美の世界である。
だがこの直後、ドナは待ち人とあっさり立ち去り、憮然として勘定を支払うフランクの表情が痛々しくも秀逸だ。
手に入りかけた希望の欠片が、またもや「首の差で」消えてしまった人生の瞬間を、美しくも残酷に切り取った映画ならではのフレームカットである。

多くの映画批評で語られている、瞬きどころか眼球ひとつ動かさないアル・パチーノの壮絶な演技が視覚障害のリアリティを余すところなく伝えるが、フロアを滑るようになめらかなタンゴを披露できるのも、フランクが生まれながらの盲目ではなく、かつては、視力は無論のこと、軍人としての地位も栄誉も、女性も金も思いのままの人生を謳歌していた証であり、それゆえにこそ、すべてが手の中からすり抜け落ちていった不甲斐ない現在とのギャップが物悲しく胸に響くのだ。

それにしても毎度高級レストランで食事、あげくチャーリーにまで上等のスーツを仕立ててやり、きりのない散財を続けるフランクの意図がどこにあるのかといえば、この豪遊旅で有り金を全部使い果たして自殺で人生のけりを付けようということなのである。

実兄の家で甥が無残に暴き立てた、フランクが視覚を失う羽目になった経緯が自業自得とはいえ、またそれだからこそ重い楔となって彼の人生をさらに穿つ。
フランクは戦場で名誉の負傷したからではなく、昇格できない自分に自棄を起こして手榴弾を弄んだはずみの事故で、視力を失ったのだ。
自分のしてきた愚かな行為も家族との埋められない溝も、わずかに見えていた光を失くした絶望も、すべてがフランクを自責の念に駆り立て、行き場のない悲しみに追いやってゆく。
救いもなく、疲れ果てた彼にとって、豪放磊落な遊興三昧の果てに燃え尽きるのがせめてもの矜持だったのかもしれない。

What life!? I got no life! I’m in the dark here!  Do you understand?  I’m in the dark!
「何の人生だ。俺に人生なんてないんだ。あるのは暗闇だけ。わかるか、暗闇の中なんだ」とチャーリーにつかみかかるフランクのやるせない思いは、屑な老人の戯言としか思えない人には同情無用で白けるだけだろうが、同じように苦悩を抱えた若者チャーリーには、他人事ではない煩悶として感じられ、なんとか彼を助けたい義侠心に駆られたのだろう。

Oh, where do I go from here, Charlie?
「ああ、俺はこれからどうすればいいんだ、チャーリー」と嘆くフランクに、チャーリーが答える台詞が本当に粋で秀逸だ。

“If you’re tangled up, just tango on.”
「『足がもつれても、踊り続ければいい』」

ドナをタンゴに誘ったフランクの言葉そのままで、チャーリーは死に損ないの老兵を奮い立たせる最後の励ましを投げかける。

長い人生の間に誰もが軽率な行いをしたり、間違いを犯したり、誤った選択をしたり、決して許されることではないが、それでもできる限りの償いをして、過ちを正して、苦しくても辛くても、それでも最後まで踊り続ける。
困難は乗り越えて、理不尽な思いは耐えて、そうやって誰もが生きてゆく。
情熱のタンゴを踊るようにして。

若者からエールのように、𠮟責のようにぶつけられた言葉は確かに、かたくなだった老兵の胸に届き、それはやはり、死しかないと思い詰めていたフランクには、生きることへの加勢になったと思う。
年齢や立場を超えて、二つの孤独な魂がつながった瞬間だった。

映画の終章、お互い分かり合えたチャーリーに向かって、朝に目覚めた後も一緒にいてくれる女性がほしいと、ずっと心の奥にしまっていた夢を語るフランクはどこか穏やかで、もはや口汚い皮肉屋たる面影はない。

そして、今までの恩返しのようにチャーリーの危機を救う感動的なフランクのスピーチが、悪戯事件の目撃者としてチャーリーの処分を決定する懲罰委員会の前、全校集会の中で華々しく行われる。
チャーリーの隣にいるのは、もはや酒飲みの気難しい老いぼれなどではなく、威風堂々とした退役軍人であり、信頼するに足る真の意味での後見人である。

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フランクの演説は全校生徒からの拍手喝采、審議の結果はチャーリーの免責が決定し、二人は意気揚々と寄り添って車に向かう。
ここでフランクに声をかける女性の高校教師がつけている香水が「キャロンCaron」の「フルール・ド・ロカイユFleurs de Roc aille」、岩間に咲く花という美しい名前のフレグランスである。

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キャロンはパリ創業、正統派のフレグランスメゾンであり、パリとニューヨークの店頭ではバカラ製のガラス甕から香水の量り売りもする。

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香水、コスメ、パフ、どれをとってもお姫様気分満載の可愛らしさだが、女性なら生涯一度はキャロンの香水をつけると言われているのも頷ける「女子力」の高さである。
「フルール・ド・ロカイユ」はファッションデザイナー、カール・ラガーフィールドが絶賛したことでも知られるが、もともとキャロンの創始者であり調香師であったエルネスト・ダルトロフ(Ernest Daltroff)が、印象派の画家モネの『睡蓮』にインスパイアされて1933年に創作した傑作だ。

当時香料としてはまだ新しい発見だったアルデヒドを巧く用いて、幾層にも色を重ねたモネのマチエールのように、さまざまな香りが複雑に入り混じるデコラティブな名香を作り上げた。

トップにローズやライラック、ジャスミンといったフローラルの香りのハーモニーを奏でさせ、その前面にアルデヒドのグリーン感が爽やかに際立つ、エレガントな女性らしい立ち上がりである。
ミドルでは、イランイランのエキゾチックな重たいフローラルの香りが柱になって、スズランの涼やかさやニオイスミレのパウダリーな匂いの深さが春の大地を思わせ、クラシカルな香水らしい落ち着きを持たせる。
ラストノートは、イランイランのバルサムな色調が白檀のウッディ―な香りを広げ、モスの苦みにムスクが甘い夢のような余韻を残していく、気品のあるフレグランス。

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なお、この香水は1993年にレシピがリニューアルされ、アルデヒドの香りが飛ばされて、フェミニンだが軽さと甘さが強調されたファンシーな雰囲気に変わってしまった。『セントオブウーマン』公開後なので、女教師ドーンズがつけていたのは、当然クラシックの方だろう。

例のごとく、ドーンズ女史の香水を言い当てたフランクは、別れ際に「そう、ミス・ドーンズ、この香りをたどれば、いつでもあなたを探し出せますね」と彼女にささやく。ストーカーに言われたらぞっとする台詞だが、ロマンチックな恋の始まりにはたまらない口説き文句である。
ついに「夢の女性」らしき相手にめぐり会えたフランクは、彼女の風貌を説明しようとするチャーリーに、「何も言わなくていい」と制する。そして「170㎝、赤褐色の髪、美しい茶色の瞳」とつぶやくのが、もしかしたらこの後のフランクの人生を彩るかもしれない恋の予感ということなのだ。

人生はフランクならずとも、いつも一寸先は闇、絶望と隣り合わせだ。
それでも、酒や車、美味しいご馳走に香水、そして美しい女性たちなど、心を震わせ、人生をひととき楽しませてくれるものに事欠かない。
何より、恋や友情も然り、ダンスして話して、人とつながる瞬間こそ唯一、闇を拓く希望の光なのだとフランクの夢の欠片が語っている。
たとえ首の差で、すべてを失いかねない危うい人生であったとしても。


◇◆◇◆◇

閑話休題。
ここで少しだけ、私事で恐縮だが、まさきつねの個人的なタンゴの思い出を語ろう。

一昨年逝去したまさきつねの叔父、正確にはまさきつねの母の妹の主人の話だ。

昭和戦前生まれの叔父は、長身の瘦せ型、繊細な指先の爪をいつもきれいにやすりで磨き、革靴にワックスをかけ、出かけるときは丁寧にアイロンしたシャツにネクタイという洒落者だった。
煙草はハイライト、お酒はハイボール、背広のポケットにはネクタイに合わせたハンカチーフを欠かさなかった。二十代のころ、休日には戦後流行りのダンス・ホールでタンゴを教え、どうやらそのホールで叔母と知り合ったようだ。
叔母はハイヒールなしだと140㎝ぎりぎりの小柄だったから、すらりと背の高い叔父に一目ぼれだっただろう。

物資や楽しみの少ない戦後であっても、いや、むしろそれだからこそ、わずかな遊興場でダンスに興じる若者の恋と青春など、どこでも転がっているようなお話だ。

戦後はやがて高度経済成長の時代を迎え、昭和は平成へと年号を変え、その流れの中でいつしか隆盛を極めたダンス・ホールも時代と共に消え、社交ダンスで楽しむ若者も、生演奏するバンドマンも、時の彼方へ姿をくらましてしまった。

タクシー会社に勤めながら、年に一度の自動車で各地の城や寺社をめぐる旅行がただ一つの楽しみで、道に迷ったときは「ケセラセラ(なるようになる)」が口癖、曲がったことが大嫌いでフランク中佐にも劣らない気難しい剣呑な性格だったが、誰に対しても公明正大、長いものには決して巻かれない矜持があった。
そんな昭和の伊達男の頭も白髪となり、煙草を挟む指にも皴が増えた。背筋の伸びた矍鑠とした姿勢はあいかわらずだったが、盛り場に出かけてもタンゴを踊る機会はないまま、酒を飲む量だけが増えた。

まさきつねは大学生の時分に、この叔父から車の運転を伝授されたが、ダンスの手ほどきを受ける場面にはついに恵まれず、叔父が踊る姿を一度も見ることはなかった。

亡くなる数年前に、テレビのバラエティ番組で社交ダンスを踊る芸能人を見ながら「もう少し若かったら、お前にステップを教えてやったのにな」とぽつりつぶやいていたのを聞いたのが、タンゴと叔父にまつわる唯一の懐かしい記憶。

どこにでもいる一般人だったが、誰にひけらかすでもない趣味と教養をひそかに楽しみ、誰に押しつけるでもない信念に従って慎ましく暮らしていた。
昭和の時代には大勢いたはずの典型的な日本人男性のひとりだったと思うのだが、そのひとが踊るタンゴをこの目で見ることができなかったことは、今でもやはり唯一の心残りなのである。

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最後にもう一度、浅田選手の『ポル・ウナ・カベサ』について。

2016年-2017年シーズンでポゴリラヤ選手がSPでこの曲を使用した。

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【Anna POGORILAYA SP - 2017 EC】

振付はミーシャ・ジー、音源は『セント・オブ・ウーマン』のサントラをリミックスしたものだったので、ポゴリラヤ選手の演技は純粋なタンゴの曲を踊るというより、映画のドナを意識したものだったのではないかという気がする。
しかし、ヘルシンキ・ワールドなどで彼女のプログラムを観た人の多くはやはり、浅田選手のエキシビション・ナンバーを思い起こしたのではないだろうか。

ポゴリラヤ選手は、肉感的で手足の長い長身をパワフルな踊りに活かし、華やかなスピンと伸びやかでキュートなステップで、魅力的なプログラムを作っていた。
特に、ミーシャお得意のファンキーな楽曲アレンジで、アップビートのパーカッションを強調したステップの部分はインパクトがあり、彼女の妖艶さを巧く引き出してジャッジ受けもよかったのではないか。
ただ前半から中盤にかけての演技は、シーズン初めなどは少し粗雑で、振付が楽調にも外れており、タンゴらしい雰囲気があまり出ていない様子だったが、それもついつい、浅田選手の演技と比べてしまったがゆえのバイヤスだったかもしれない。

競技用のプログラムとEXを比較するのは、もとより論外のことではあるが、そうはいっても、氷の上であることをまったく感じさせないほど音楽と融合した動きや、超絶なステップを、これでもかと見せつけた浅田選手の『ポル・ウナ・カベサ』は、やはり途轍もなく突出した傑作だったとしか思えない。
しかも発表当時から数年経た今、繰り返し見ても、スタイリッシュで新しい。

ポゴリラヤ選手の演技は、ダイナミックでドレッシーな彼女らしい長所を遺憾なくアピールしていたと思うが、ノーブルな印象が強すぎて、これぞタンゴという醍醐味に欠けるのだ。
一方、浅田選手のタンゴはクールかつエレガントで、女性が演じているにもかかわらず、大胆でハンサムなステップに思わずため息が洩れる。

勿論、ポゴリラヤ選手は文句なく美しく、まさに映画のドナを彷彿とさせるチャーミングな踊りでGPファイナルでは三位、、欧州選手権では二位などの好成績をあげている。

しかし、選手としての持ち味が違うとはいえ、洗練された歯切れのよいリズムをキレのある動きに馴染ませ、センチメンタルな旋律を俗に落とさず、メランコリーな音のエッセンスが香り立つタンゴに作り上げた浅田選手のプログラムの凄さは、とても競技の成績などでは推し量れないクオリティの高さなのだ。

匂い立つ高貴なフレグランスのように、甘い追憶のかなたから立ちのぼり、やわらかな風に揺れるヴェールのように、優しくこころの琴線に触れてゆく、エモーショナルなタンゴ。

コレオ自体が、タチアナコーチとミーシャの間に一日の長があるということも致し方ない違いなのかもしれないが、首の差ですべてがすり抜けてゆく人生の光と影、良くも悪くも踊り続けるしかない人間の哀愁を、感傷的なタンゴの名曲に乗せて、余すことなく表現したナンバーだったことを、しみじみと思うのだ。


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【浅田真央(mao asada) World 2009 EX 「ポル・ウナ・カベサ」 ~ HD 高音質Ver. 保存版 】

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Now I have come to the crossroads in my life.
I always knew what the right path was.
Without exception, I knew, but I never took it.
You know why? It was too damn hard.
Now here's Charlie.
He's come to the crossroad.
He has chosen a path.
It's the right path.
It's a path made of principle,that leads to character.
Let him continue on his journey.
You hold this boy's future in your hands, committee.
It's a valuable future. Believe me. 
Don't destroy it. Protect it. Embrace it.
It's gonna make you proud one day, I promise you.
私も幾度となく人生の岐路に立ってきた。
そしていつも、どちらが取るべき道なのかわかっていた。
なのにいつも例外なく、取るべきその道を選んだことはない。
なぜだ? 険しく困難な道であることもわかっていたからだ。
チャーリーも今、岐路に立った。
彼は取るべき方の道を選んだ。
真っ当な人間が進むべき試練の道だ。
彼の人生を支えてやってほしい。
彼の未来はあなたがた委員会の手の中にある。
かけがえのない未来だ。保証する。
潰すことなく、見守ってやってくれ。温かく。
いつかあなたがたが、それを誇りに思う日が来るから。
(『セント・オブ・ウーマン~夢の香り』Scent of a Woman)


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☆おまけ☆ソチ五輪のときの、ミーシャ・ジー選手からのツイート。
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凍れる星の王子の薔薇 其の弐

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Welche Musik soll an Ihrer Beerdigung gespielt werden?
「ご自分の葬儀で流したい曲があるならば?」
Die «Vier Jahreszeiten» von Vivaldi. Das Stück begleitet mich schon mein ganzes Leben. Als ich klein war, lief meine Schwester eine Eislaufkür dazu - es erinnert mich an meine Kindheit. Dann war es 2006 meine Musik, als ich WM-Gold und Olympia-Silber gewann.
「ヴィヴァルディの『四季』でしょうね。この曲は僕の人生において常にそばにありました。僕がまだ子供だった頃、姉がこの曲でスケート演技をしたのです。だから聞くたびにその頃のことを思い出します。2006年には僕がこの曲で滑って、世界選手権では金メダル、オリンピックでは銀メダルを獲得しました。」
Die bisher dümmste Idee Ihres Lebens?
「今までの人生で一番馬鹿なことをしたと思うのは何でしたか?」
Die rote Katze. Ich habe tatsächlich einmal ein Showprogramm gezeigt, verkleidet als rote Katze. Und leider ist das Video auch noch auf Youtube aufgetaucht (wirft die Hände vors Gesicht).
「赤猫でしょう。一度、赤い猫の格好をしてショーで滑ったことがあるんです。残念なことにユーチューブにまでその映像が流れてしまって(顔をてのひらで隠しながら)。」
Welche Bücher haben Ihr Leben massiv beeinflusst?
「あなたの生き方に影響を与えた本は何ですか?」
«Der kleine Prinz». Diese Geschichte hat meinen Geist und Horizont geöffnet.
「『星の王子さま』ですね。この物語は僕の心を開放し、広い視野を与えてくれました。」
Wer ist Ihr bester Freund?
「あなたの一番のお友だちは?」
Meine Katze Wonka. Sie widerspricht mir nie (lacht).
「僕の猫のウォンカ。彼女は僕と一心同体ですから(笑)。」
(ステファン・ランビエール『SCHWEIZER ILLUSTRIERTE』2016年4月22日インタビューより抜粋)
【«Das persönliche Interview» mit Stéphane Lambiel】

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ランビエールは過去に幾度か、プログラムのレベル上げに固執するあまり、選手一人ひとりの個性が失われたり、演技の芸術性が損なわれたりすることに対する危惧をインタビューで答えているが、それに対するひとつの対処法として、アイスショーでの展開や、プロのスケーターたちによる親善試合のようなものを視野に入れて、フィギュア競技の未来を考えているようだ。

以下参照:Icenetwork/Posted 7/15/15 by Vladislav Luchianov, special to icenetworkより抜粋
lambiel: 'I prefer investing in my sport and my art'
Swiss choreographer elaborates on recent work with world-class students
【Lambiel: 'I prefer investing in my sport and my art'】

Icenetwork: In 2012, you told me that the complexity of programs has attained a level never reached before, but that, unfortunately, the artistry has been somewhat lost in the process. Has anything changed in the last three years?

Lambiel: I think it has become difficult to be creative when you have to follow so many rules, to get the highest levels. Every season, the rules change and new features become the focus of the technical panel, which basically means that everyone has to have them. As a result, most pairs and single skaters do the same lifts, step sequences and spins.
In 2014-15, it was like that with the illusion entrance into spins. And it doesn't even look good half the time. But despite that, when you are able to forget a little bit about the math, and just perform well and share your emotions with the audience and the judges, everyone feels it. There's something in the air. As an athlete, you know when you're on your way to a medal or to the title. Fortunately, this hasn't changed!

Icenetwork: In May, 21-year-old U.S. skater Samantha Cesario, who is known for her artistic and creative approach, announced her retirement, saying that the new scoring system didn't lend itself to her strong suits (performing for an audience, bringing music to life, etc.). Do you fear that early retirements may become a trend in our sport because of such factors?

Lambiel: I don't think it will be a trend. Skaters are athletes; they want to win, and for that they need to abide by the rules and do the best they can, given the constraints. Of course, everyone has the right to take a different route if they feel that things don't work for them anymore. Everyone has their own motives for retiring. Personally, I hope that show skating continues to develop because that's where you can really be free. Professional competitions would also be a great addition if an arrangement can be found with the ISU.

記者:2012年にあなたは、「プログラムの複雑さがこれまでにないほど高いレベルに達してしまった。その反面、残念なことに芸術性が少々失われる結果になっている」と語っています。あれから三年経って何か変化はありましたか?

ランビエール:競技選手はたくさんのルールに従って、最高のレベルを目指します。その中で、演技の独創性を追求するのは、ますます難しくなったと思います。毎シーズン、ルール変更があり、テクニカル・パネルが注目する部分も変わりますが、選手たちはみなこぞってそれに適応しようと努力します。その結果、ペアもシングルの選手も、ほとんどが同じようなリフトやステップ・シークエンスやスピンをやることになってしまうのです。
2014-15シーズンでは、イリュージョンスピン(ウィンドミル・スピンの別名で、キャメルスピンの体勢からフリーレッグと上体を斜めに傾けて風車のようにスピンに入ること)がひとつの流行でした。なのに、ほぼ半々の割合で出来がよくなかったのです。
しかし、たとえそうであっても、得点のことを少し忘れて、良い演技をすることに専念することで、観客やジャッジに思いのたけを伝えることができたとしたら、それは必ず彼らに伝わるのですよ。そのような演技は自分でも何かを感じるのです。アスリートとして、自分がメダルを獲れるとか、勝てるとか、そんなときには自分でも薄々わかるのです。幸いなことに、この感覚は昔からずっと変わらないのですよ!

記者:この五月に、演技の芸術性や創造性で知られていたアメリカのサマンサ・シザリオ選手が、二十一歳で引退を発表しました。彼女の持ち味(観客受けのする演技や、音楽に添った踊りなどなど)では、現在の新採点システムに太刀打ちできないということのようですが。今後もこのような理由で、選手たちの若年での引退という流れが来ると思いますか?

ランビエール:そのようなことにはならないと思いますよ。スケーターはアスリートですから。彼らは勝ちたいと思っていますから。勝つためにはルールを遵守して、制約の中でもできるだけの努力を尽くさなくてはいけないのです。もちろん、どうあがいてもうまくいかないということになれば、いろんな選択肢を考えるのも自由ですからね。引退の動機は人さまざまだと思います。私自身は、アイスショーこそ、スケーターが本当に自由な演技を披露できる場所だと思うので、これからもショーとしてのスケートが発展し続けることを願っています。もしもISUがうまくお膳立てしてくれたなら、プロスケーターによる競技会も素晴らしい選択肢になると思いますね。



ランビエールの言葉には多くの示唆があり、かつ彼が非常に明確なビジョンを持って、多くの試みに挑戦している姿勢がうかがえる。
そして何よりも、彼のインタビューの端々から滲み出るのは、どのスケーターよりも芸術性の高い表現者として定評のある彼が、決して技術をないがしろにしない、むしろ誰よりもルールや規律を重んじるファイターであるという点だろう。

浅田選手について述べたインタビューでも、「規律」という言葉が印象的だったが、ランビエールの目指す美や芸術は、あくまでもこつこつと積み重ねられた練習によって磨き上げられた技術によってのみ表現され、そしてその先に初めて、ルールや定型を超えた独創性や芸術性が表出するということのようだ。

以下の言葉もまた、スケートの仕事に対する彼らしい姿勢が率直に述べられていて、実に清々しい。
2011年ドイツのスケート雑誌『Pirouette』に掲載されたインタビューからの抜粋である。これは原文記事が見つからなかったので、以下のサイトから翻訳記事を引用させていただいた。

【ステファン・ランビエル:心で滑らなければいけない】

「(前略)…振り付け師のキャリアを、多くの可能性を持った才能豊かな人達との仕事で始めることができて僕は幸せです。僕は本当に広いレパートリーの中から創造することができています。その上この夏僕は、日本、ロシア、イタリアといった様々な国の様々なレベルの選手達と仕事をする機会に恵まれました。
自分がこの仕事を愛していることを自覚したし、これから先ますます振り付け師として、選手達と体を使った表現や音楽性を追求し、それによってプログラムに個性が現れるような仕事をしていきたいと思っています。
僕はチャンピオンとだけ仕事をしたいとは思っていません。自分と同じ情熱をフィギュアスケートに持っている選手達、単にジャンプ、ジャンプ、ジャンプだけでなく他の上質なものを求めている選手達と仕事をすることに歓びを感じるのです。
そりゃあテクニックは大切です。でもフィギュアスケートにはもっと他の何かがあると思うのです。そうしてその何か、こそが追求されるべきものなのです。それがしっかりした時、フィギュアスケートは単なるエレメンツの継ぎ合わせだけではなくなるのです。
点数のためではなく、心で滑らなければいけないのです。
一番重要なのは感情でしょう。
滑り終わったときにどのような感情をそこに残していくか、それによってそのスケーターは人の記憶に残るのです。
成功したジャンプは覚えていても、そのプログラムや感情は記憶に残らない選手が多くいます。
僕は、今新しく出て来てトップに向って上がって来ている若い選手達とこの方面について追及していきたいのです。」



『アイスレジェンド』の人選も実に彼らしいが、ランビエールの世界観を構成するためには、勝負に強い選手以上に情感のある演技をするスケーターが求められているということなのだろう。

今の採点システムにおいては、高得点のためにジャッジが加点を与える要件のエレメンツを揃え、高いレベルを獲得しないと勝利していくことは難しい。
だが逆に言えば、毎度高いレベルが取れるエレメンツを並べて、ジャッジ受けの良い無難な演技にまとめておけば、たとえプログラムの密度が薄っぺらでも、得点を伸ばすことはことのほか簡単ということになる。
その結果どの選手たちも、個性的で難しい振付にわざわざ挑戦して芸術性の高いプログラムを作ることよりも、毎回加点を見込める要素ばかりを詰め込んだ似たり寄ったりの演技を、ミスなく熟していくことに終始するのである。

ランビエールがたびたびのインタビューで嘆いている、演技から失われていく芸術性や選手たちの独創性は、このような背景においては必然のことだったといえるだろう。

奇しくも先日引退を表明した村上佳菜子選手が報道陣に語ったという、次のような発言が興味深い。

「全日本の前から、もうこれが最後なのかという思いがあって、先生と相談した上で自分がやりたい演技は、もし最後だったら何だろうと。全日本は悔しい決断だったが、ジャンプのレベルを下げて、皆さんの心に残るような演技がしたいというのが一番に出てきた。それができたのでこれで終わりなんだと。今まではよくても悪くても心残りがあった。全日本の後はあっ、終わりだなとすっきりすることができました」

この発言が掲載されたニュースのタイトルにあったような「ジャンプのレベルを落としても」という表現には、スポーツ競技の側面から鑑みればいささか疑問を感じざるを得ないが、無論、村上選手が発信したかったのは、(いかがわしいマスコミが擦り付けている?)ジャンプ蔑ろな演技推奨などではない。
今の自分の競技選手としての力量や限界を省察して、技術ではない表現で伝えたいものがあったということなのだろう。

海外で修業したらとか、コーチを変えていたらとかのさまざまな「たられば」論もあるようだが、それを今更持ち出すのは酷というもの。
競技者として年々積もっていく精神的ストレスや身体的疲弊を考えれば、村上選手ならずとも、採点システムが課すレベルの要件に食らいついていくことから襲って来る苦痛や苦悩は察して余りある。
村上選手が決してジャンプや技術を軽視したわけではなく、彼女のできる限り努力した上で、ベストを尽くした挑戦が「心に残るような演技」だったのだ。

先ほどのランビエールの言葉にリンクすれば、表現としての完璧さ美しさを求めることもまた、フィギュアスケートのひとつの在り方であり、競技として「追求されるべきもの」であり、人の記憶に残るスケーターとして成就する道なのだ。

とはいえ誤解してはならないのは、ランビエールも述べているように、フィギュアスケートにおいては表現も芸術も、あくまでも優れた技術ありきである。
しかし大事なのは、ランビエールがトップスケーターに求めているような、美しさや芸術に到達するための基礎のしっかりしたスケーティング技術と、競技で得点を重ねることに特化しただけの、ポジションを変えたりレベルを上げたりするための単なるテクニックを混同してはならない。

同時に(このブログでも幾度となく述べてきたが)、美しいものを知る感覚も感動するこころも、そもそもレベルで測れるものでも数値化できるものでもないのだから、観衆の感情を揺さぶるためには、感情のこもった演技で、美しいものを探し求めるこころで、アスリートは銀盤に立つしかないのだとランビエールは繰り返し述べているのだ。

「星の王子さま」ランビエールは、2006年の若かりし頃、憧れのためなら自分の命を落としても構わないとインタビューで語っていた。
またさらに前の、2004年の十八歳当時には、夢は何かという質問に対して、ワールドや五輪での優勝とか表彰台に上がるとか、あるいはジャンプの成功やノーミスの演技とか、いわゆる選手らしい目先の目標を答えるのではなく、「ジャッジ全員からスタンディングオベーションをもらうこと」とスポーツ選手らしからぬ、まるで俳優かダンサーのような願望を口にしている。

あれから競技者としての経験を重ねる中で、多少なりとも変化はあったかもしれないが、それでも試合に勝つことやチャンピオンを目指すこと以上に、スケーターとしての彼を駆り立てる何かがあったということは一貫として変わらない。

勝負にどうしてもこだわるというのなら、プロ選手同士のコンペティションも視野に入れてという風なことを述べてはいるけれども、ランビエールの興味はそもそも、選手同士が数字を狙って競い合うことにはなく、お互いの個性がぶつかり合い響き合い、新しいシナジーが生まれるような精神的な闘いに向けられているように思う。

サン=テグジュペリの『星の王子さま』の一節に「もし、きみが、どこかの星にある花がすきだっら、夜、空を見あげるたのしさったらないよ。どの星も、みんな、花でいっぱいだからねえ」という言葉がある。

ランビエールもまた王子さまのように、夢見ているのだろう。

銀盤の舞台一つ一つで、選手たちひとりひとりがそれぞれに目指す演技を思う存分披露できたなら、星のような光がきらめく冷たい氷の上にも王子さまが愛した美しい薔薇が咲き、やがていっぱいの個性ゆたかな薔薇たちが、すべての観衆に捧げられる花束になることを。


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最近、巷でいろいろ騒がれている、ランビエールのコーチ写真。腐女子心をそそられるんですよね…


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もし誰かが、何百万もの星のなかのたったひとつの星にしかない一本の花を愛していたなら、そのたくさんの星をながめるだけで、その人は幸せになれる。
(アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ『星の王子さま』)

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ランビエールの彼女ウォンカちゃん…

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凍れる星の王子の薔薇 其の壱

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インタビュアー:On vous surnomme Le petit prince etvous aimez aussi particulierement le livreeponyme d’Antoine de Saint-Exupery.A la fin du livre, le petit principe meurt dumal du pays...
あなたには「星の王子さま(小さな王子)」というあだ名がありますね。そしてあなたもあだ名の由来であるサン・テグジュペリの本が大好き。でも本の最後で星の王子さまは、あまりにも大きな憧れの代償に命を落としてしまいます…
ステファン:J’espere que je peux conserver l’innocencedu petit prince. D’un esprit ouvert,il parvient a analyser les chosesdifferemment et a trouver son bonheurdans les petites choses. En plus,il ne se soucie pas de l’image qu’onpeut avoir de lui. Je voudrais poursuivre cette mentalite et je reve derester un petit prince, meme s’il mefaudra mourir comme lui. 
僕は星の王子さまのような「無邪気なこころ」を持ち続けていたいと思います。
王子さまはすべてに開かれた精神を持ち、そのため誰も分かろうとしないあらゆる物事を理解し、ささいなものにも幸せを見つけることができるのです。王子さまは他人が自分のことをどう思っているかということを意に介しません。僕も王子さまと同じこころを追い求めたい。僕は「星の王子さま」のようにあり続けたいと夢見ているのです。たとえ彼のような最期を迎えねばならないとしても。
(ステファン・ランビエール『スイス鉄道発行誌VIA』2006年のインタビューから抜粋)



ランビエールがインタビューに答えて、引退した浅田選手のことを語っている動画が素敵だ。

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【フィギュアスケートステファン・ランビエールが語る浅田真央、「お手本のような人」】
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上原亜紀子
2017-04-27 11:30
フィギュアスケート男子で2006年トリノオリンピック銀メダル、2010年バンクーバーオリンピックで4位のステファン・ランビエール(32)が、自分の出発点となったヴィラールのスケート場でインタビューに応じ、現役引退した浅田真央(26)について、「キャリアの長さや練習や美に対する彼女の規律は、みんなが見習うべき一例」と感情を込めて語った。
ランビエールは、今月10日に引退を表明した浅田真央を、「常に安定していて、集中力があって情熱がみなぎり、規律正しくとても美しいスケーター。信じられないほどの技術と力強さがあった」と振り返り、小さな頃からの輝かしい実績やトリプルアクセルを称賛した。
 昨年7月、浅田真央が出演するアイスショー「ザ・アイス」のリハーサルを見たとき、浅田真央がステップや動きの多いバッハの曲に合わせて練習する姿は印象的で、「とても音楽に敏感で、細かい動きを何度も何度も繰り返し練習して、すべての動きがコントロールできるようになるまで集中し、すごいエネルギーを見た」と語る。「真央はお手本のような人」で、「今日のフィギュア界において、彼女ほど精神的に強くて能力があって、選手としてのキャリアを長く続けられる人はなかなかいない」とも言う。
 ランビエールは昨年4月、自身が主催するスイスのアイスショー「アイスレジェンド」に浅田真央を招待し、浅田真央は情感溢れる「蝶々夫人」を披露した。今年は、ショーの開催を5月に予定していたが、平昌オリンピック準備により出演者が集まらないことやスポンサーが足りずに開催を断念した。ただ、来年末に開催する際は、浅田真央をはじめ、髙橋大輔、荒川静香、羽生結弦、宇野昌磨といった日本フィギュア界のスターをぜひスイスに呼んで「夢のようなキャスティングをしたい」と微笑んで話す。

【ステファン・ランビエールが語る浅田真央、「お手本のような人」】


真央との思い出は沢山あります。
とても若い真央がすでに国際大会で活躍していたのを覚えています。
パワーとエネルギーがあって、素晴らしいトリプルアクセルをし、とっても小さいのに大きな笑顔で、世界の偉大なスケーターのようなことができていた。
トリノ五輪の前には、グランプリ・ファイナルでも優勝した。
その頃から現役を引退するまでの真央は、常に安定していて集中力があって情熱がみなぎり、
規律正しいとても美しいスケーターで、
信じられないほどの技術と力強さがあって好きでした。
みんなのお手本だと思います。
日本や若者だけに限らず、キャリアの長さ、練習と美に対する彼女の規律は
みんなが見習うべき一例です。



古い記事だが、続けてランビエールが演出した『アイスレジェンド2016』の広報記事を掲載しておく。

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【7アイスレジェンド ランビエール、コストナー、大輔、真央、ブニアティシヴィリが紡ぐ夢のひととき】
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里信邦子
2016-04-24 13:22

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ピアニストのブニアティシヴィリが弾く稲妻のような音に合わせ、ステファン・ランビエールと高橋大輔がジャンプをする。月の光が微妙に変わっていくようなきらきらとしたリズムに、カロリーナ・コストナーが頭の方向を微妙に変えながら回転する。ショパンの音の流れに浅田真央もスピンで応える。ジュネーブで22日に開催された「アイスレジェンド2016」の一部をなす創作作品「ル・ポエム」は、4人の表現性に優れたスケーターの動きが、ピアノとの相乗効果をかもし出す、奇跡のバレエ作品だった。
 ランビエールが2回目の試みとして演出するアイスレジェンド2016の構想は、「ストーリー性のある創作作品とスケーターの人生を変えたショートプログラムの再現を組み合わせること」だった。その結果、2幕目が主にショートプログラムの再現であるのに対し、1幕目は、幾つかのショートプログラムの後に愛をテーマにした創作作品「ル・ポエム」が演じられた。
 ランビエールは、この作品を自ら「氷上で繰り広げられる、3部で構成されるバレエ作品」と言っている。あらすじは、コストナーの演じる女性がランビエールの演じる男性に恋い焦がれるが、男性は「愛の狩人」のようにさまざまな人に言い寄り、「コストナー」を苦しめる。だが「ランビエール」も、そうした自分の愛のあり方に苦しみ、悩み、自己破壊の方向に向かっていくといったものだ。

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浅田真央が演じるショパンの「バラード」
 浅田真央は、この作品の第1部「村に住む人々(今回参加するスケーターたち全員)」を紹介していく役だ。黒いドレスに身を包んだ浅田は、ショパンの「バラード」を、ジャンプやスピンなどの技術もしっかりと加えながら、曲の「内容」に丁寧に添い、繊細に仕上げていった。
 それは、ブニアティシヴィリが弾く、薫り高いショパンの音の流れに反応したもの。ショー前のインタビューでも、「ショパンの曲は大好きだが、それをピアノの生演奏でやるのは今回が初めて。よい経験になる。できれば自分のショーにも加えてみたい」と語っている。

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コストナーが演じるドビュッシーの「月の光」
 ドビュッシーの「月の光」で、コストナーが演じる第2部は圧巻だ。薄いピンクのドレスに包まれたコストナーが、ブニアティシヴィリのピアノの前に座り、夢見るように上方を見上げるところから始まる。それは、ランビエールが演じる男性に恋する女性の姿を象徴する。
 結局コストナーは、自分で作り上げた男性の理想像を愛し、愛がもたらす全てを夢想し、それに没頭していく。その喜びあふれる夢想の過程は、ブニアティシヴィリが月の光のさまざまな姿を音に変換するようにして弾く音の流れに呼応しながら、動きに翻訳される。または、コストナーのこの動きをブニアティシヴィリが感じ取り、それを、表現できない言葉の代わりとして「音」で補足してあげようとするともいえるかもしれない。
 この音と動きの「出会い」を、ブニアティシヴィリはこう言う。「ステファンやカロリーナのエネルギーと組むとき、共通のエネルギーを見つけなくてはならない。ときには相手が表に出るように私は陰に隠れ、ときには私が表に出るといった工夫がいる。つまり、私自身の流れに没頭しながら、同時に相手の流れに配慮するとき、まるでそれまで知らなかった2人が舞台の上で突然恋に落ちるように、新しい感情やハーモニーが生み出され、自由になる」

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ランビエールが爆発するラヴェルの「ワルツ」
 第3部の前半は、ランビエールとコストナーが2人の愛を語る場面だ。2人は手をつないで一緒に踊り滑る。ソロのスケーターである2人にとって、この場面はかなりの挑戦だったとランビエールは振り返っている。「3月に2週間集中して練習した。1日目が終わったとき、2人の間に沈黙が続いた。ぜんぜんうまくいかなかったからだ。相手の動きとリズムに合わせるのは本当に難しいことだった。例えばカロリーナはすごいスピードの持ち主で、あっという間に1人でリンクの反対側に行っている。でも2日目からはうまくいくようになった」
 ここでも2人は、どこかで演劇やバレエの指導を受けたにちがいないと思わせるほどに、スケートのいわゆる技術以外に、胴体のひねりやちょっとしたステップや指の「表情」などを使い、深い愛や愛への疑い、苦しみなどを表現している。
 そして、なんと言っても今回の「山場」は、ランビエールがソロで舞う第3部の後半だ。自分の愛のあり方に苦しみ、悩み、最後は自己破壊へと向かう男性の内面を、高くジャンプし、身体をうねらせながら滑り、頭を振り、得意のスピンで回転しながら表現する。
 こうした動きで爆発するエネルギーを、ブニアティシヴィリはさらに高めるかのように、ピアノのキーを打楽器のようにたたき、右から左へとさっと一気にキーに触れ、椅子から落ちんばかりに右腕を大きく振り上げ、聞いたこともないような「ラヴェル」をとどろかせる。12月から共同で構想を練ってきたこのピアニストとの「コラボ」は、ここで燃焼し尽くしたように思える。

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大ちゃんファンの中で
 こうした愛の物語の中で高橋大輔は、ランビエールの仲良しの男友達を演じて、コストナーの嫉妬をあおる役だった。ここでも素晴らしい動きで観客を沸かせるのだが、今回の高橋は、むしろ日本から持ってきたソロの、宗教的・精神的な「ラクリモーサ」と、これとは対照的な楽しいナンバー「マンボ」で、観客を酔わせた。
 日本からはるばる駆けつけたおよそ100人もの「大ちゃんファン」が、横断幕をかかげ、大いに沸いたことはいうまでもない。

次のアイスレジェンドは2027年?
 ショーの終了直後に、ランビエールの長年のコーチだったピーター・グルッターに会った。「次のアイスレジェンドは2027年だとステファンが言った」という。
 10年後というのはちょっと大げさでは?とたずねると、「確かに彼にはちょっと大げさなところがある…。でも全てのエネルギーを使い果たしたのだと思う。いつもそうだった。選手のころから試合直前まで一日何十回も滑って、試合前は休めというのにいうことを聞かなかった」
 ランビエールの表現力については、「小さいときから他のスケーターとは違っていた。耳がよく、音楽に内面から反応した。またステップ一つでも、他のスケーターは教えた通りにするのに、彼は自分で試行錯誤した末に独自のステップを編み出していた」
 だから、ランビエールが表現性の高い、「夢の中に誘い込むようなバレエ作品」をいつか作ってくれるのではないかと思っていたという。
 今後も、この夢の中に誘い込むようなアイスレジェンドをランビエールが開催してくれることはまちがいないだろう。ただし3回目は、グルッターさんも言うように、スイスで1回限りではなく、他の国でも行い、しかも10年後ではないことを期待したい。

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【アイスレジェンド ランビエール、コストナー、大輔、真央、ブニアティシヴィリが紡ぐ夢のひととき】



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【アイスレジェンド2016浅田真央、スイスのアイスレジェンドで舞う】
2016-04-25 11:00
「ヨーロッパで滑るのは初めて。招待されてうれしいです」と、浅田真央さん。プロフィギュアスケーターのステファン・ランビエールが演出する「アイスレジェンド2016」に出演するため20日夜、ジュネーブに着いた。21日の、ぎっしり詰まったリハーサルの間に、インタビューに応じてくれた。(インタビュー・里信邦子 撮影・Vania Aillon 編集・Vania Aillon&里信邦子 制作・スイスインフォ)
 浅田真央さんがアイスレジェンドで演じるのは、第1幕の「愛」をテーマにした3部作の1番目。イタリアのスケーター、カロリーナ・コストナー演じる女性がランビエールの演じる男性に恋焦がれるが、男性は「愛の狩人」のようにさまざまな男女に言い寄っていき、カロリーナを苦しめる。
 そうした話の始まりで、真央さんは優雅に美しくショパンの曲に乗って、小さな村に住む人々(今回参加するスケーターたち)を紹介していく。
 アイスショー本番のわずか3日前にジュネーブ入りした真央さん。2日間で振りができるのだろうか?と心配になるが、マネージャーさんによると、「最初にソロで踊るショパンの『バラード』の一部は、ショートプログラムでいつも踊ってきたもの。村の人々を紹介する部分は、まだ披露せずに持っていたこの『バラード』の残りの振りを使うので、まったく問題ない」という。 
 そんな得意のショパンを、今回は情熱あふれるピアニスト、カティア・ブニアティシヴィリの演奏で踊る。「日本では、ショーで生演奏というのはなかなかないので、踊るのがとても楽しみです。いつか自分のショーにも取り入れられたらいいなと思います」と語る。
 「スケーターたちの人生を変えたショートプログラム」をそれぞれが披露する第2幕で、真央さんは得意の「蝶々夫人」を演じる。「日本人の芯の強さをヨーロッパの人に感じてもらえたらうれしい」と答えた後に、「蝶々夫人は日本人の物語なので、日本人が演じることで思いがもっと伝わるのではないか」と、付け加えた。

私自身も、ヨーロッパのショーに出ることがないので、今回初めてですよね多分、なので、私も招待されてうれしいです。
生演奏で滑るってこともなかなかないことなので、私自身も今回ショパンを、ピアノの生演奏で滑るんですけど、すごくいい経験になると思います。私自身も、ショーで生演奏というのは、結構なかなか日本ではないことなので、そういうのは素敵だなと思います。
以前歌手の人と一緒で滑ったことがあるんですけど、ピアノだけっていうのは初めてなので、私自身もすごい楽しみですし、また今後機会があったら滑りたいなと思います。
(クラシックの方が好きか?)
どちらも好きなんですけど、私は結構ショパンの曲をよく使っていたので、今回こうしてまたショパンの曲をこの舞台で滑ることができてうれしいです。
(ランビエールや彼の芸術性については?)
ほんとにジャンプや技術だけじゃなくて、本当に芸術性ゆたかなセンスと思うので、私自身も間近で一緒にこうして滑ることができて本当にすごくうれしいです。
技術ももちろんなんですけど、より一層こう芸術を表現することの方を重視して滑っているので、そういう意味ではまた、競技者としても視野に、表現する部分ではプラスしていけたらいいなと思っています。
(『蝶々夫人』について?)
ヨーロッパの明日が本番なんですけど、ヨーロッパの方にも日本の芯の強さ、日本人の芯の強さというのを感じてもらえたらいいなという風に思います。あとこの『マダム・バタフライ』は日本人の物語なので、日本人が演じることによってまた思いが伝わるかなというように思うので、ヨーロッパの人にもまた楽しんでもらえればいいなという風に思います。

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【浅田真央、スイスのアイスレジェンドで舞う】



ランビエールに関しては、まさきつねも何度もこのブログで以下のような記事を書いた。

【銀盤のドゥエンデ 其の壱】
【銀盤のドゥエンデ 其の弐】
【瞬間の風をまとう者 其の壱 】
【瞬間の風をまとう者 其の弐】
【至宝の解説者】

語るもがな偏愛のスケーターのひとりだが、ランビエールに関して、五輪の金メダルがどうだとかジャンプの成功率がああだとか、無粋な話で彼のスケーティングを語ろうとする輩は、フィギュアスケートファンの中にはまず見当たるまい。

ランビエールは現役選手の時代から、彼独自のスケート理論を持ち、美に対する彼なりの基準をすでに確立していた。

『アイスレジェンド』は彼らしい、芸術的なスケートへのこだわりと思惟的なテーマ性を持ったストーリーを屋台骨とするアイスショーで、エンターティメントとして楽しむいわゆる一般的なアイスショーとは少しばかり一線を画する。
いわば、ランビエールの夢をそのまま具現化したような美に特化した演出と、選び抜かれた音楽が幻想的な世界を構築し、さらに彼のお眼鏡にかなったスケーターのみがその世界の住人となり得る、まさに伝説的な舞台だ。


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暗渠

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なにもないなにもなかつた裏切りとむらさき木槿(むくげ)のほかにはなにも


ほろびしものの名前も知らず飴色の琥珀にとどまる時間(とき)のたしかさ


帰らぬ日帰らぬ時よ夕刻の埠頭の霧に溶けるロング・グッドバイ


喪失は底ぬけのやみ 蒼穹をはろばろとゆく雲のひとつ影


都市をくぐる暗渠(あんきょ)の水の音を聴く夜ふかまれば花落ちむとす


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少女が大人になるとき

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悲しみよ さようなら
悲しみ こんにちは
天井のすじの中にもお前は刻みこまれている
お前はみじめさとはどこかちがう
なぜなら
いちばん 貧しい唇さえも
ほほ笑みの中に
お前を現す
悲しみよ こんにちは
欲情をそそる肉体同士の愛
愛のつよさ
からだのない怪物のように
誘惑がわきあがる
希望に裏切られた顔
悲しみ 美しい顔よ
(ポール・エリュアール『直接の生命』)

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2007年-2008年シーズンのエキシビションナンバー『ソー・ディープ・イズ・ザ・ナイト』へのオマージュである。

この曲と演技に関しては以下のような過去記事で何度か語っているので、いくつか繰り返しになる部分もあるかもしれないが、まさに何度でも物申したくなるほど、今にして思えば浅田選手の演技表現においてターニング・ポイントというべき作品だった。

【空中庭園の散歩 其の拾 梔子と雨と悲しみと】
【悲しみは夜の底に】


この曲の振付は前年のプログラムをすべてお願いしていたローリー・ニコルだが、浅田選手は2007年の夏にロシアのタチアナ・タラソワコーチのもとで十日間滞在、その薫陶を受ける機会に恵まれた。タラソワは浅田選手に、外国籍選手としては異例の破格の待遇で英才教育を施し、同時に新シーズンに向けてSPの振付も行っている。

タチアナコーチは、ロシアのナショナルスポーツクラブ『CSKAモスクワ』にあるホームリンクに浅田選手を迎え入れ、スケート教育を与えるのみならず、より女性らしく優美な動きや表現を身につけるために、ボリショイバレエ出身のタチアナ・ステパノワの個人レッスンを受けさせている。
また、練習後にはバレエやオペラなどの舞台観劇に連れ出し、西洋の伝統的な身体表現に直に触れさせて、まだ原石のような浅田選手を磨き上げたのだ。

もともと練習熱心で努力家の浅田選手は、乾いた土に水が染み込むようにタチアナコーチの教えを次々に吸収し、本格的なバレエの動きや優雅なポージングまで、まさに開眼というべき身のこなしや演技力をわがものとしたのである。

成長期にあった体つきも大人びた女性らしいものに変わり、身に備わった舞踏の表現も、爪の先まで神経を使った繊細な動作も、愛嬌のある表現者から風格のある芸術家のそれへ進化した。

ニコルの振付は、ショパンの「別れ」や「悲しみ」をテーマとした名曲をわかりやすい所作や印象的なポーズで具現化し、やわらかく流れのあるスケーティングでつないでいるが、そこに何かタチアナコーチ仕込みらしき情感や表現者としての意識が加わって、昨シーズンまでの浅田選手とは一瞬別人のような錯覚を覚えるほどの、憂いを帯びた感情表現や奥行きのある官能性を醸し出し始めたのである。

当時アイスショーで披露された、競技用プログラムに全く引けを取らないこのエキシビションナンバーを観ていながら、よくも浅田選手の演技に対して「子供っぽい」だの「幼稚」だの、はては「表現力がない」だのと、競技関係者やメディアがよってたかって好き勝手なことを言えたものだと思う。

無論、そのほとんどが不可解な政治的圧力が関係したロビー活動によるものだとはわかっているものの、こんな露骨な印象操作の積み重ねで、珠玉のようなプログラムに正当な評価が与えられず、競技の採点にも影響を及ぼしたのだと思うと、今更のように腹立たしいことこの上ない。

まだ人間の悪意というものに対して、ほとんど免疫というものを持たないいたいけな少女に、老獪な人々が数の暴力と権力とで、いかに狡猾な罠を仕掛け、悲しみの底へ突き落としたのかを考えると、このギャレットの甘くむせぶような歌声を聞いていても、胸が疼いて苦しくなる。
曲の最後、寄る辺もなくあたりを見まわし、そして頼りもなくひとりうずくまる名場面は、今改めて観ていると、浅田選手というより、汚い手で穢されたフィギュア競技の悲しみを体現しているようで、さらに切なく締めつけられる。

そして何より、一番傷ましくてつらいのは、この悲しみが結晶化したナンバーが、誰をも、苦悩の元凶をも責めることなく、ただひたすら美しく、孤独の中に凛然としてあることだろう。

美しさが強さと共鳴し、果敢ない少女が雄々しい勇者と一体化して、深い悲しみの中から立ち上がる者たちの孤独な闘いに純粋無垢なこころを寄せていくような、画期的なエキシビションだった。

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【浅田真央(mao asada) 4CC 2008 EX ~ 「ソー・ディープ・イズ・ザ・ナイト」 HD高音質Ver 保存版 】


思うに、少女が大人になる瞬間とは、いつだろうか。

人それぞれいろんな意見があるとは思うのだけれど、まさきつねは「悲しみを覚えたとき」だと考えている。

このことを語るには、まずあまりにも有名な著作、フランソワーズ・サガンの『悲しみよこんにちは(Bonjour Tristesse,1954年)』について、少し話をしたい。

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『悲しみよこんにちは』は、第二次世界大戦を前にした1935年、フランスの富裕家庭の三人兄弟の末っ子に生まれ育った文学少女フランソワーズ・コワレが、愛読書プルーストの『失われた時を求めて』の登場人物にちなんで付けたペンネーム「サガン」の名で、若干十八歳の時に発表したデビュー作である。
早熟な文才と刺激的な内容で、瞬く間に賛否両論のセンセーショナルな話題をさらい世界中のベストセラーになり、批評家賞を受賞した。

サガンはいわゆる美人というより、繊細な細面の風貌で、育ちの良い知的な印象を与え、聡明な受け答えと気取りのない人当たりがチャーミングな女性だったようだ。

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しかし最初の一作であっという間に時代の寵児になり、ありあまる富と名声を手にしたサガンは、次第にギャンブルと飲酒、奔放な恋に興じる享楽的な生活にはまっていく。
たちの悪い取り巻きに傅かれ、今でいうパパラッチのカメラに追いかけまわされる破天荒な日々に、サガンの自意識は途轍もなく肥大していき、そんな不安定な精神状態の中でも一、二年に一作のペースで作品を書き続け、その多くが映画化されている。

処女作も無論、刊行から三年後の1957年早々に映画化されて、米国人女優ジーン・セバーグが主演し、そのベリーショートの髪型は主人公の名をとって「セシルカット」と呼ばれ、当時の大流行となった。

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セバーグが演じたセシルはキュートで小悪魔的な魅力で、思春期の少女が持つ純真だが残酷な一面をスクリーンに焼き付け、その後、ジャン・リュック・ゴダールが初監督作品の『勝手にしやがれ』に名優ジャン=ポール・ベルモンドと共に彼女を起用する。
セバーグもまたあれよという間に時代の寵児となり、フランス映画の潮流ヌーベルヴァーグのアイコンとしてもてはやされている。

サガンの小説の大半は、フランスの中流家庭を舞台に、一見平穏無事な暮らしの中での男女の三角関係を描き、人間同士の心理ゲームのような策略と背徳の甘い蜜が入り混じる愛憎劇を展開する。

社交界を背景にして、繰り返し構築される愛と孤独の物語は、どれもが似たような主人公が恋や不倫に煩悶するが、優秀な戯曲家でもあり、サルトルの実存主義にも傾倒していた彼女の作風は、構成の骨組みがしっかりしており、破綻のない心理描写が詩情に充ちたエピグラムで綴られている。
ラクロやフローベール、コンスタンといったいわゆるフランス人好みの重厚な心理小説の流れを汲んでいながら、一方で通俗的な恋愛小説に似たドラマ性を持ち、さらにエスプリに富んだ警句で、軽妙な独特のスタイルを確立。
読みやすく掛け値なしに面白い述作を重ねた彼女の作品は、素直に大衆に受け入れられ、次々ベストセラーに名を連ね、日本でも新潮文庫の人気タイトルとしてほとんどが翻訳刊行された。

流行作家の名声を欲しいままにして晩年までペンを執り続けたサガンだが、やがてマスコミや世間の好奇な目は文学を離れ、アルコールや薬物に溺れるスキャンダラスな行動や派手な暮らしぶりにばかり向けられるようになる。

2004年に六十九歳で没したサガンの墓碑銘は、生前から彼女自身が考えていたらしく「フランソワーズ・サガン、安らかならず、ここに眠る」と刻まれているが、マスコミらによるゴシップ・クイーンの命名通り、生涯通じて平穏とは無縁のまま、自身の欲望と情熱に忠実な生き方を貫いた彼女は、連日の乱痴気騒ぎで莫大な印税を湯水のように散財し、終には住むところにも事欠く困窮に陥った。

こうした彼女の破滅的な生き方の最初の発端は、二十二歳のとき時速180キロものスピードで、愛車アストン・マーチンDB2/4・マーク2・カブリオレを運転して道路脇に転落、瀕死の重傷を負った大事故だろう。

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『悲しみよこんにちは』の中で、ヒロインの策略により引き起こされた悲劇もまた自動車事故であり、自身の著作と不思議な因縁を持つこの一件で、全身大怪我を受けたサガンは、鎮痛剤で使用したモルヒネから、重度の薬物依存、そして大量のアルコール摂取、非行的享楽へと危うい生き方を加速させていく。

ただ彼女の薬物や飲酒への中毒症は、いわゆる現実逃避や重圧からの解放を求めてというより、より過激な興奮や快感を得るためのものだったようで、それは彼女の「わたしは人の持つ安心感や人を落ち着かせるものが大嫌いです。精神的にも肉体的にでも、過剰なものがあると休まるのです。」という言葉からうかがい知ることができる。
同様に、スピードの陶酔感に対する傾倒も「賭けや偶然に通じるように、スピードは生きる幸福(よろこび)に通じる。そしてそれゆえ、この生きる幸福(よろこび)の中につねに漂っている死への漠とした希望にも通じるのである。」と語っているように、常にサガンはダメージを怖れないパッションに身をゆだねた生きざまを変えることはなかった。

ドラッグの不法所持と常用で有罪判決を受けた際に、物議を醸した「『人は他人の自由を冒さない限り自由だ』と人権宣言は言っている。私は自分の好きなように死ぬ権利がある。『法律は人間にあわせて変わるべきで、その逆ではない』とモンテスキューは言っている。」という発言は社会的な道義から決して許されるものではないと、当時誰も彼女に組する者はいなかったが、現在において個人の自由と権利を純粋に突き詰めると賛同者は決して少なくない気がする。

いかなる経済的窮状も、彼女の稼ぎをむさぼるだけむさぼった人々から打ち捨てられた末の孤独も、周囲からの非難糾弾や掌を返したマスコミからの攻撃も、サガンの破滅をも含めた窮極へとひた走る自由への渇望や、情熱的な生への心酔を打ち砕くことはなかった。

「早熟」と「過剰」というふたつの謳い文句で始まったサガンの小説家人生は、処女作『悲しみよこんにちは』の、奔放な恋愛遍歴を繰り返す登場人物やスキャンダラスで過激な内容、悲劇的な結末といった多くの面で宿命的につながりを持ち、それは彼女にとって冷酷な予兆でもあり、凋落への最後通牒でもあった気がする。

思うにサガンは、『悲しみよこんにちは』のヒロイン十七歳のセシルが破局する人生の悲しみを知った瞬間に、少女から大人に脱皮したように、処女作の世界的大ヒットによるスター的名声で「早熟」どころか老成というべき、人生を達観した境地に至らざるを得なかった。

聡明で繊細な少女のこころが、無残な現実の崩壊を前にしてぼろぼろに傷つくのを回避するには、有象無象の取り巻きやマスコミに対して、品行方正で貞潔な振る舞いで世渡りをしていくような精神的なゆとりは持てない。
シニカルでクールに冷めていく感情とは裏腹の、衝動的な破壊行動のようなスリリングな生き方で、人生の終結を早めていくしかなかったのだろう。

スピード狂もギャンブルも、飲酒や薬物や派手な男関係も、そのすべてが過酷な時の流れをさらに加速させて、老練に大人びてしまったこころに身体的な感覚を寄せていくための手段であり、奇行によって最早少女ではいられなくなったこころに、過ぎ去ってしまった時間と壊れてしまった現実を、肉体的な実感として与えようとした結果であったように思う。

人並み以上に明晰な頭脳と、センシティブな神経を持ちあわせていたサガンであったからこそ、人生に半端ない加速の負荷をかけねばならないくらい、この世の悲しみ、残酷で美しい世界が打ち砕かれていく傷みを押し流すことができず、歳を重ねれば重ねるほど、ひとり時間に取り残された少女のような愚かで浅はかな酔狂三昧に身を焦がすしかなかった。

悲しみに「こんにちは」と語りかける少女は、この世の真実が失われてしまった非情な現実を知りつつも、なおもその真実を追いかけねばならぬ人間の根源的な「悲しみ」に気付いている。

幸福だった思春期の終わりは、これからは永遠に、失われた幸福な思春期を恋い焦がれる、老後のような季節の始まりだと薄々気付いている。

サガンは愛読書『失われた時を求めて』に関して、「私は限界、底、がないということ、真実、むろん人間的真実という意味だが、真実はいたるところに在る、いたるところに差し出されており、真実こそ唯一の望ましいものであると同時に唯一の到達不可能なものである、ということを発見した」と回想する。

永遠に手が届かないことを知りつつも、永遠に手が届かないものを求め続けなくてはならぬ歯がゆさ痛ましさが、少女を大人にし、またそのことが少女を傷つける。

サガンだけではない。

すべての少女が、無垢な少女であった幸福を愛惜しながら大人になり、妻や母や老婆になり、そして失われた少女をこころのどこかで永遠に求め続けるがゆえに、悲しみから逃れられずに、穢されない思春期の幸福を二度と戻らないと知りつつ、それとの邂逅をいついつまでも願うのだ。

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文学から、浅田選手の話に返そう。

美しさと悲しみと、そして大人への成長を先急がされた少女の戸惑いが、青い夜の底に深く沈殿した星屑のように煌めいているエキシビションナンバー『ソー・ディープ・イズ・ザ・ナイト』。

この演技を観るとき、多くの大人になってしまった少女たち(まさきつねも含め老婆やおばさんになってしまった、いわゆる元少女たちですな)は、サガンの『悲しみよこんにちは』を読んだときのように、思い起こさずにいられなくなるのだ。

カメラに絶えず付きまとわれながら、金で買えるあぶくのような夢に溺れ、冷たい夜にかじかんだこころを抱えて、そして人生で得たものの大半を奪われていった女流作家の、「悲しみ」さえ振り切るように疾走した人生。
だが誰もがかつては少女であり、強欲無慈悲な大人や冷厳たる現実を知らないでいられた季節、孤独にも愛にも無頓着で、無邪気で幸福な少女でいられたのに、胸をえぐるような深い悲しみを知らずにいられたのに、と。

夜の底へ誘うノスタルジアが、ショパンの美しいメロディーが、少女の悲しみを加速させる。

年老いた少女たちはみな誰もが、多かれ少なかれサガン同様、若さも愛も情熱も、人生からすべてを奪われ、過酷な時の流れにわずかに残った矜持さえ奪われ続けていくけれども、それでも傷つきやすい純真なこころへの憧れ、ひたむきな魂の自由だけは、誰からも奪われることなく誰からも制約を受けることはない。

銀盤に残された浅田選手のトレースを思い出すたびに、こころの底に残された、誰にも奪えない真実こそが、誰もが少女期に出会った「悲しみ」の正体なのだと気づくのである。


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ものうさと甘さがつきまとって離れないこの見知らぬ感情に、悲しみという重々しいりっぱな名をつけようか、私は迷う。その感情はあまりにも自分のことだけにかまけ、利己主義な感情であり、私はそれをほとんど恥じている。ところが、悲しみはいつも高尚なもののように思われていたのだから。私はこれまで悲しみというものを知らなかった、けれども、ものうさ、悔恨、そして稀には良心の呵責も知っていた。今は、絹のようにいらだたしく、やわらかい何かが私におおいかぶさって、私をほかの人たちから離れさせる。
(フランソワーズ・サガン『悲しみよこんにちは』)

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おまけ☆海の底の真央☆


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