月船書林

フィギュアスケートの話題を中心に芸術を語る

祈りとしての舞踏

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ボードレールの祈り、両手を合わせての、真実の、率直な祈り、ロシア人の祈りのように不器用で美しい祈り。
彼がここまで来るのは遠い道のりでした。
彼はその道を膝をつきながら這いながら進んできたのです。
(ライナー・マリア・リルケ『書簡1903年7月18日ルー・アンドレアス-ザロメ宛』)




浅田選手の2008年から二シーズンに渡るプログラム『仮面舞踏会』へのオマージュである。

このプログラムも、これまで何度も語ってきた。
バンクーバーオリンピックと切っても切れない因縁のプログラムであり、浅田選手にとって二期にわたる長いシーズン、闘いの寄る辺となった楽曲である。

【百鬼夜行の夜】
【マスカレードの苦悩】
【空中庭園の散歩 其の拾七 仮面の下に緞帳の奥に】


フィギュアスケートの使用曲としては、アイスダンスでは定番のナンバーではあるし、男子でもアボット選手や織田選手が浅田選手とほぼ同時期に使っているのだけれど、いかんせん最早このワルツが流れれば「真央ちゃんの曲」という代名詞がつくほど、馴染みのものになってしまった。
それだけ多くの日本人が、浅田選手の演技と共に繰り返し耳にした旋律であり、五輪の記憶と共に忘れようにも忘れられない運命の一曲ということなのだろう。

前の記事でも紹介した、2015年『THE ICE』で募集された「もう一度見たい、浅田真央プログラム」では、『ポル・ウナ・カベサ』に次ぐ人気第二位だった。
コメントでもいただいたが、この人気投票、三位に『ヴァイオリンと管弦楽のためのファンタジア』、四位が『鐘』、五位に『バラード第一番ト短調』と、タチアナコーチのコレオ作品ばかりが名を連ね、まさにコアなファンの間では、タラソワ作品への絶大な評価が定まっているということのようだ。

今更と思うが、2015年の『THE ICE』オープニングの画像を掲載しておこう。


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☆【浅田真央】2015 Mao Asada The Ice 「Masquerade」.Pan☆


『ポル・ウナ・カベサ』のバトルとのペア演技もそうだったが、出演スケーターたちをずらりと並べて『仮面舞踏会』を群像劇にアレンジしたこのオープニング演出も秀逸で、まさに何度でも見たくなる圧巻の出来だった。

このときのアイスショーは、彼女が現役続行を表明した直後でもあり、その喜びと祝福に溢れているためか、出演者たちの演技も競技会に勝るとも劣らない集中と密度で、素晴らしい出来のものが多かった。

オープニングもまたこれぞ舞踏会という雰囲気を充分に醸し出し、出演スケーターたちによる豪華なペアダンスが披露された後、浅田選手が扮するクラウンが陽気にお皿を回しながら、ミーシャ、リッポンらと一緒に登場する。
せっかくの華やかな舞踏会場を引っ掻き回すクラウンたちのどたばた劇に、最初は浅田選手がそこに紛れているとは思わない見事な演出である。
やがてチャンが演じる仮面の魔術師が、大きな酒甕を担いで疾風のような速さで飛び出してくる。

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この酒にはどうやら気分が高揚する魔法がかけられているらしく、次々に回し飲みするスケーターたちは、ジャンプをしたりスピンをしたり、さまざまに特技を演じて見せる。
その様子に興味を持ったクラウンが奪い合いをするように、ついに酒甕を手にしてラッパ飲みをすると…、突然雷鳴がとどろき、会場は暗転、そしてスポットライトの中に、マスカレードとドレス姿の浅田選手が登場という算段である。

クラウンからお姫さまに、ディズニー映画さながらの変身だが、舞踏会仕様のビスチェ・ドレスもミモレ丈でエレガントなデザインが実に華やかだ。(クラウンがふりふり振っていた大きなお尻の中に、このドレスが隠れていたのは…ご愛敬だろう。)
オーガンジーのつけ袖あり、チュールタフタのパニエありと、ロマンチックなアイテムも満載で、ふわりと広がるワインカラーのタフタスカートの下から、いわゆる「真央カラー」のフューシャピンクのチュールがひらひらのぞくのは、きらびやかだが可憐で愛らしい雰囲気がある。

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そして繰り広げられた五輪前シーズンの仮面舞踏会の再演、赫々たるゴージャスなフリープログラムのステップは、ファンには感涙もの、ファンでなくとも懐かしさにこころを揺さぶられるワルツだった。

浅田選手の演技の魅力は、このブログだけでなく多くの人がさまざまに、これまでもさんざん語りつくしてきたと思うのだけれど、その中でもほかの選手にない彼女ならではの特性が、ファンタジーの構成力だとまさきつねは思う。

アンチはよく「マヲタの妄想」と嘲笑するのだが、まさにその妄想と紙一重の想像力を観る者に掻き立て、観衆に目では見えない世界を構築させてしまう、不思議なイリュージョンに誘い込むのが、浅田選手の魅力の本質ではないのか。

『ポル・ウナ・カベサ』の演技でも、浅田選手はソロでタンゴを踊っていても、現実にはいないパートナーを氷上にいるかのように表出させて、情熱的なダンス・フロアの熱気を伝えていた。
バトルとのペア演技は、欠けたピースを嵌めたように素晴らしかったが、それはもともと、浅田選手シングルのプログラムがペアで踊るタンゴとして完成されていたが故にほかならない。
同様に『仮面舞踏会』もまた、『THE ICE』でのミュージカル仕立ての舞踏会の演出が物語性をもって、これほど見事に構成できる背景には、浅田選手シングルのプログラムが、レールモントフの作り上げていた物語の世界観を、仮想現実の舞台としてしかと確立していたということなのだろう。

ダンスにしても、パントマイムにしても、およそ優れたパフォーマンス表現の多くは、実際には存在しない物や人物などをいかにリアリティをもって観衆に伝えるかを基本とし、さらに言葉ではないメッセージやテーマをいかに個性的に描写できるかが重要なのだ。
目の肥えた観衆ともなると、表現が陳腐であれば興覚めするし、演技がお座なりであれば感動しない。
フィギュアスケートがそもそも、虚構の創造であり、かたちのない物語を描くものであるとわかっているからこそ、なおさらファンタジーの質を問う。

浅田選手の卓越した身体表現とタチアナコーチのコレオは、恐るべき化学反応で音楽に物語性を、そして演技に幻想性をもたらした。

ミステリアスな仮面舞踏会の夜、行き交う怪しげな人々に隠された秘密という演劇的醍醐味、愛憎入り混じる社交界に翻弄された女性に対する共感的人間理解といった、エンターテイメントの域を超えた文学的解釈を深める知的悦楽に、跳躍するスケーターの動きを目で追いかける視覚的陶酔が重なり、幻想の夜会の幕が開く。

浅田選手を「アスリートか国民的アイドルか」と論じるアイドル評論家や芸人の発言が一時期話題になったりしていたが、こんな些末な視点がヘイトを争点に炎上するのは、そもそも彼女を追いかけるメディアや周囲の関係者の側に問題があるからで、現役の競技者であった彼女自身は一貫して、ストイックなアスリートのスタンスから外れることはなかった。

だが、彼女に誰もが「(国民的)アイドル」の刻印を押したくなる、むしろ押さざるを得ないのは、浅田選手の演技がスポーツ競技の頂点に立つこと以上に、純粋なパフォーマンスとして観衆をファンタスティックな世界へいざなう魅力に長けており、彼女が並みのアイドル以上に、できればこのままいつまでも醒めてほしくない無限の夢への水先案内人として抜きんでていたからだろう。

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◆◇◆◇◆

閑話休題。

このたびもフィギュアとは無縁の話題を交えてしまうが、NHKの特集番組ETVがとりあげていた『その名は、ギリヤーク尼ヶ崎 職業 大道芸人』についての所感である。

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☆その名はギリヤーク 職業 大道芸人☆


まさきつねは以前、舞踏家大野一雄さんの逝去に際して、以下のような記事を書いた。

【白き花のくずれるように】

大野一雄さんとギリヤーク尼ヶ崎さんは、それぞれ舞踏家と大道芸人という肩書の違いもさりながら、ギリヤークさんは自身のパフォーマンスを「舞踏でなく踊り」と語っているように、なかなかにこだわりがあって興味深い。

このお二人は生前から親交も深かったが、生まれが大野さんが1906年(明治39)、ギリヤークさんが1930年(昭和5)と年齢差があるものの、共に北海道函館のご出身である。
お二人のパフォーマンスの根底には、生まれ育ちの共通項からくる、土着的な信仰心やアナーキーな線の太さといった類似性も感じるが、大野さんの舞踏には洗練された身体表現への執着、ギリヤークさんの踊りにはよりプリミティブで泥臭い舞うことへの拘泥といった違いがある。
とまれこうした舞踏演劇論を語りだしたらきりがないのだが、ここではひとまず、特集番組の中でギリヤークさんの語っていた内容にポイントを絞って論述したいのだ。

ギリヤークさんはその収入を、観衆から投げ与えられるいわゆる「おひねり」によって得るという、前時代的というべきプロフェッショナル意識をお持ちのようで、それゆえに「最後の大道芸人」と称され、文化庁芸術祭をはじめ多くの公演に参加されている。
だが天下のギリヤークさんといえど、寄る年波に勝つのは至難のことで、2011年に東日本大震災追悼の「祈りの踊り」を、津波による廃墟の中で涙ながらに披露された時にはすでに、心臓にはペースメーカーが付けられ、椎間板ヘルニアは折れている状態の満身創痍だったらしい。
2016年にはパーキンソン病および脊柱管狭窄症への疾患が判明し、踊るどころか歩くのもやっとというありさまで、手足の痙攣と絶え間ない垂涎に苦しみつつ、同居する実の弟さんに手取り足取りお世話になっている様子が、テレビカメラに映し出されていた。

生老病死は仏教でいうところの、人間として逃れられない必然の苦難だが、長年自分の身体ひとつを生きる糧としてきたギリヤークさんにとって、自分の思うがままにならない肉体ほど、頭脳で理解しがたいものはないだろう。
さても、病名が判明し適切な治療が行われ始めた途端、驚異の回復力で、毎年恒例の新宿公演に向けて日夜練習に励む姿は、とても常人には真似のできない不屈の精神と自己の芸への渇望がもたらした結果なのだ。

とはいえ、周囲からすればこれほど自分のわがまま放題に好き勝手している人間はいないわけで、介護よろしく面倒を見ている弟さんからすれば憤懣やるかたない思いが溜まっておられると思うのだが、それを億尾にも出さず、炊事洗濯、病院の送り迎えと献身的に尽くしておられるのは、見ている側の方が身につまされる。だが一度だけ、どうにもやるせないお気持ちがあったのか、どうしてもお確かめになりたかったのかわからないが、番組の中でギリヤークさんに、なぜ動かない体を駆使して何のために踊るのかと問いかけになる場面があった。

新宿公演を前にして、弟が兄に人生をかけて踊る意味を問う、静謐だが緊迫した時間が流れる。
そしてギリヤークさんが語ったのが胸がつまるような次の言葉だった。

「弟の今言った質問っていうのはね、やったことのない人間の言い草なの。
そういうことを語り切れたらみんな小説家になって、本もどんどん売れてますよ。
これやった人間からでなく、やらない人間だったら、いくらでも格好のいいことしゃべれるわ。」

これを聞いた弟さんは、兄にひとこと「ごめん」と言って場を立ち去る。
なぜ聞いたか、なぜ答えたか、いずれにとっても辛い質問であり回答だったと思うが、しかしギリヤークさんの仰っていることは実に正論で、世のあらゆる批評家、評論家の類いなら誰もが猛省せざるを得ない鋭い指摘である。

まさきつねも自分のブログとはいえ、自分の思うこと感じたことを勝手気ままに語っているが、自分がやったことでもないこと、自分が創作したわけでもない絵画や音楽や文学などの芸術、そしてフィギュアスケートの演技など、いくらでもどのようにでも言葉にしたところで、それは所詮文字の羅列で、わかったようなことをわかったような体で述べているだけだ。

命をかけて、自分の願いをかけて何かをする意味、創造する意義など、実際にはやっている本人にさえわかりはしない。わかってできるものでもない。
だから自分はただ、たとえ体が思うように動かなくても、地べたを這ってでも、自分のやりたい芸をするのだとギリヤークさんは仰りたかったのだろう。

「路上で踊ってる最中に死にたい」というギリヤークさんの思いは、おそらくただひたすらに、不器用でも無骨でも、自分の思うがままに必死に生きている人には大なり小なり、共感できるのではないか。

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番組の最後、紆余曲折はあったもののギリヤークさんは見事に復活、新宿公演を無事に成功させる。
兄のいつもながらの演技を遠くから眺めながら、弟もまた安心したように一息つく。

八五歳と七五歳、六人兄弟の次男と末っ子という二人は、大道芸人とタクシー・ドライバーという全く違う人生を歩んで来ながら、老年期に入って、それまで離れ離れだった流木がいつのまにか寄り添うように、世田谷の都営住宅、角部屋に同居して、介護しつつされつつ慎ましく暮らす。

公演が終わって、ギリヤークさんは変わらず昼御飯の支度をする弟のはるさんにそっと、「ありがとう」と感謝の言葉を述べる。
はるさんは「何もやっていないよ」とけろっとしているが、ギリヤークさんは「それでいいの、それがはるさんのすごいところなの、わかってきた」としみじみと語る。

お母さんが生きていたころは、ギリヤークさんの面倒をお母さんがやってくれていた。
つまり、家族にとって誰もが同じように大事なお母さんを、昔はほとんどギリヤークさんが独占してきたということだ。
はるさんはそんなことに対する恨み節さえ、ひとつもギリヤークさんに洩らさない。
ギリヤークさんにも、はるさんが母と同様、これまで黙って兄のわがままに耐えて、すべて許してきたということがわかっているのだろう。

「なにもしていないようでちゃんとしてくれてたの、ほんとはるさんいてくれなきゃ、今日までぼく、踊れたかどうかわかんなかった」とギリヤークさんがしみじみ話す言葉は、すべてが本音であり本当のことだ。

はるさんは「やりたいこと一生懸命やってるんだからいいんじゃないかい」と笑う。
その言葉にギリヤークさんははっと気づいたように、「そうだ、今はるさんが言ったように、ぼくの芸の特徴は、一生懸命ただ踊ってきただけです」と番組のディレクターに話す。

何のためにとか、そんな意味付けも題目も関係ない。
「一生懸命生きてきたってことですよ」という、はるさんの言葉もまた重い。

言葉ですべて語れるくらいなら、誰もしんどい思いをして、言うことを聞かない体を引きずるようにして、こんな年になるまで踊ってきたりなどしない。

踊ることでしか表現できない何かがあったから、それしか生きるすべがなかったから、ギリヤークさんは今までもこれからも、踊り続けるということなのだと思う。

ところで、ギリヤークさんの代表的な演目に『白鳥の湖』がある。

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☆『白鳥の湖』. 2007 ギリヤーク尼ヶ崎 ~神戸湊川神社青空公演☆


チャイコフスキーのバレエ音楽ではなく、サン=サーンスの組曲『動物の謝肉祭』第13番を、彼なりに白鳥の舞うさまをイメージして、処々にバレエのステップやポージングを取り交ぜた至極真面目な踊りである。

ギリヤークさんの演目は『じょんがら』や『おはら節』など日本の民謡を使用した和風のものが多いのだけれど、『白鳥の湖』は彼の渡航体験もベースにあるのか、衣装もぼろぼろではあるがラヴェンダー色のタイツで、洋風のイメージにまとめている。

男性の踊る『白鳥の湖』となると、どうしてもマシュー・ボーンの人気公演であるコンテンポラリー・ダンスを思い出すが、アダム・クーパーの精悍で美しいダンスや華麗なパ・ド・ドゥは、ギリヤークさんの踊りとはまた違う世界の話だ。

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とはいえ、スワン・レイクの持つ悲劇性に特記するならば、アダムが紡ぎだす物語の切なさも、ギリヤークさんの肉体が醸し出す人間の本質的な悲しみも決して別次元のものではない。
アダムはダンスを「肉体を使った言語」と述べているが、それはギリヤークさんがはるさんに食ってかかった「やったことのない人間の言い草」という言葉の裏返しでもある。

『白鳥の湖』はご存知の通り、2013年のソチ五輪前シーズンに、浅田選手もタチアナコーチのコレオで演じているが、ここでアダムやギリヤークさんの白鳥と比較したいわけではないし、そもそも比べる意味もない。

だが、ギリヤークさんに「やらない人の言葉」と𠮟られるのを承知で、あえてまだ言葉を重ねれば、まさきつねはギリヤークさんの踊りにも、アダムのダンスにも、浅田選手の演技にも、その本質にあるシンプルだが力強いただ一つのメッセージを受け取る。
それは一生懸命生きたひと、一生懸命自分の好きなものをやり続けたひとの自らの身体というフィルターを通した、命への祈りであり讃歌である。

自分の肉体が語り得る言葉を信じているひとのみが、粛々と貫き通すことができる「祈りの踊り」。

まさきつねはこの論の初めに、浅田選手をフィギュアスケートを通じて観衆をファンタジーへいざなう水先案内人と論じたが、優れた身体表現はすべて、もの言わぬ肉体を言語としてストーリーを語り、言葉にならない感情をほとばしらせ、かたちのない心象風景を立ち上げる。

あふれだす想いのいきつくところ、人々が求めてやまないファンタジーの究極が、こころを募らせ夢をかける祈り、待ちこがれるものへの願いである。

老いさらばえたギリヤークさんの肉体も、野性的な男性バレエ・ダンサーの肉体も、瑞々しいフィギュア・スケーターの肉体も、奇跡のようなファンタジーの母胎であり、そのダンスはすべての人に捧げられたファンタジーなのだ。

森厳として美しいファンタジー、魂が宿る肉体の祈りである。

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ゆきなれた路(みち)の
なつかしくて 耐えられぬように
わたしの祈りのみちをつくりたい
(八木重吉『祈』)


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Comment

ホビット says... "言葉にならないもの"
前記事のコメントへの返信ありがとうございます。
返信や記事の遅れを謝罪なさっていましたが、私は、今、まさきつねさまが、また記事をアップしてくださる、それだけで満足です。どうぞ、ご自分のペースで、ましてやコメントへの返信なぞ気になさらずにいてくだされば、と思います。

仮面舞踏会のあの素晴らしかった演出についての描写、私にとってはあの日がよみがえったように感じて読みました。目がいくつもあってほしいと思うほどの群舞にあって、パトリック・チャン選手の滑りは異次元で、皆仮面をつけていて遠目には誰が誰なのかわからないのに、チャン選手だけははっきりと認識できたことを思い出しました。まさに疾走でした。
今思えば、この時のTHE ICEを観られたことは、このうえない幸せでした。記事にしてくださって、ありがとうございます。

真央さんの滑りを見ていると、いつも言葉にならない想いにとらわれるのですが、もう一人、宇野昌磨選手のスケートにも似たものを感じています。彼が、プログラムの始まりと同時に一蹴りして、スーッと滑り出しただけで、何とも形容しがたい感情にとらわれて、見入ってしまいます。情感がこもる、と言ってしまえばあまりに簡単ですが、おそらくは彼自身さえ意識していないものが激しく伝わってくるのです。いつか、まさきつねさんの宇野選手評もお聞きしたいです。
2017.06.01 20:30 | URL | #- [edit]
まさきつね says... "Re: 言葉にならないもの"
コメントとお気遣いありがとうございます。まさきつねも、皆さまのご訪問やご反応が本当に支えになりますので、いつでもお気軽にコメントいただけたらと存じます。

> パトリック・チャン選手の滑りは異次元で

チャン選手も大ベテランの域になって、本当に成熟した演技で魅せてくれますよね。一時期は四回転ジャンプ頼みかと思いましたが、やはりあのクールなエッジ使いとスピードは彼ならではのものですね。

> 宇野昌磨選手のスケートにも似たものを感じています。彼が、プログラムの始まりと同時に一蹴りして、スーッと滑り出しただけで、何とも形容しがたい感情にとらわれて、見入ってしまいます。

宇野選手はまさきつねも大好きです。帝王、羽生選手もチャン選手同様、異次元レベルの演技ですが、何かを語りたくなる魅力となると、まさきつね個人としては、宇野選手の方ですね。(というか、羽生選手については、鈴木明子さんどころではない、まさきつねごときが語るべきことなど何もありませんものね…)
とはいえ、男子選手についてもまた機会があったら、記事にあげたいと思います。でも、ランビエールの記事のように、どちらかというと競技結果とはあまり関係なく、選手たちの演技表現にポイントを絞ってお話しできたらと思います。

すでに若い選手たちの四回転ジャンパーが山ほど揃った時代ですから、それぞれのジャンプの質や構成に関して逐一つつくのも無意味ですし、競技会でのジャンプの成功もメダル狙いの賭け事のようになって、男子フィギュアは今や、まさきつねには言葉無用のスポーツのように思えるのです。
けれどまだ、何か語るべきものがあるとしたら、多分それは演技の「エモーショナル」な部分にあると思うのですけれどね。

2017.06.01 22:08 | URL | #- [edit]

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