月船書林

フィギュアスケートの話題を中心に芸術を語る

美し国の水の物語

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今朝一滴の水のすきとおった冷たさが
ぼくに人間とは何かを教える
魚たちと鳥たちとそして
ぼくを殺すかもしれぬけものとすら
その水をわかちあいたい
(谷川俊太郎『朝』)

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浅田選手引退後の予想記事が引きも切らない。

記事の内容は玉石混淆で、明らかに悪意のある駄文も多いが、ファンの数だけアンチが騒ぐのも今に始まったわけではないので、それだけ彼女の人気の高さが今更のように窺い知れるというものだろう。

その中で、再スタートの初仕事という話題が、愛知県民栄誉賞第一号に顕彰されるというニュースとほぼ同時に報道された。

初仕事は、彼女の新しいスポンサーになるらしいウォーターサーバーの㏚会見で、地元名古屋を拠点とする会社の新しい給水器「Kirala(キララ)」のブランドパートナーに就任ということだった。
どうやら、こうした地元企業とつながりを深くする中で、彼女の長年の夢である「真央リンク」開設への布石としたいという思いがあるらしく、浅田選手らしいフィギュアスケートへの一途な気持ちが、会見で話した言葉の端々に滲み出て、現役の時と変わらず清々しい印象のある質疑応答だった。


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【真央さん「第1号頂けて光栄」…新設の愛知県民栄誉賞】

 フィギュアスケートの2010年バンクーバー冬季五輪銀メダリストで、今月引退した浅田真央さん(26)が24日、名古屋市内で新CM出演の記者会見に臨み、愛知県が新設した県民栄誉賞に選ばれたことに「愛知県で生まれて、第1号の名誉ある賞を頂けてすごくうれしいし、光栄」と喜んだ。

 約130人の報道陣が集まった今回の記者会見が引退後の初仕事。新しい給水器のブランドパートナーになった浅田さんは純白の衣装で登場し「名古屋の地で再スタートできて、とてもうれしく思っている」と笑顔を見せた。

 12日の引退会見後は友人と一緒にご飯を食べたりして「楽しい時間を過ごした」と言い、第二の人生について「わくわくの方が強い。もっと(人間として)上へいけるように(今の)自分を超えていかないといけない」と話した。
【産経ニュース2017.4.25 07:15更新】

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人間にはそれぞれ、その人固有の霊的な佇まいというものがある。

よく知られた言葉では、それを「オーラ」と呼んだり、「雰囲気」とか「風情」「ムード」と言ったりするものだが、いずれにしても、頭脳的な計算や思惑で人工的に作り出せるものではなく、内面的な人となりが自然にあふれ出て、鮮烈なインパクトを周囲に与える個性的な空気といったものである。

※「アウラ」についての学術的な思索に関しては、2010年のこの記事を参照してほしい。
【滅び得ぬアウラ】

小難しい話はさておいても、すでに銀盤から降りたアスリートにさえ、いまだにまとわりつくプリマヴェーラの風のような光り輝く香気、天真爛漫な神々のような風格というのは、下世話なマスコミの要らぬ詮索や卑俗な言葉などにも一切びくともしないもので、泰然自若とはまさにこのことだなと感心する。

というよりも、端から次元が違う場所から世界を眺めているのだろうから、およそ経済的な損益で、引退後の活動戦略だの人間関係の軋轢だの商品価値だのとさまざまに憶測記事を並べ立てているライターには、とても考えの及ばない価値観で、「浅田真央」は再スタートする第二の人生を思索しているように思う。

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閑話休題。
真央さんの初仕事に踏襲して、「水」の話をしよう。

今では周知の生物学的事実ではあるが、人間の体内の水分量は、年齢、性別、あるいは肥満度によって違いがあるものの、胎児ではなんと体重の約90%、新生児は体重の約75%、子どもは約70%、成人は約60%、老人では約50%を水が占めているという。

さらに体内の水は、血液などによって体中を循環しながら、各細胞に栄養分や酸素を補給し、また、代謝老廃物を排泄したり、体温やPHの調節をしたりしながら、健康を維持するための重要な役割を果たしている。
尿や便、汗、あるいは呼吸などによって体外に常に排出される水は、一日に約2リットル以上、そこで排出された水分量を毎日摂取しなければ、たちまち血流が悪くなり、代謝が正常に働かず、体の機能不全や細胞組織の破壊、栄養不良といった状態に陥り、しいては脱水症状による生命の危機を招くとされている。

つまり、体調不良の原因を避け、すべての健康管理の基本となるのが、適切な水分補給ということになる。

ところで、今では当たり前のように知られているこのような事実も、今から三十年ほど前にはあまり認知されておらず、特に運動中の水分補給に関しては、吐き気に襲われたりお腹が痛くなるとか、運動効果が下がり疲労しやすくなるとかといった理由で、絶対というくらい厳しく禁じられており、まるきり正反対な常識がまかり通っていたものである。

無論すべてが非科学的で、とんでもない妄信かと言われればそんなことはなく、現在のようにPHを調整して体に消化の負担をかからなくするようなスポーツ飲料や、ミネラルを適度に含んだ飲料水などがなかった時代、激しい運動による発汗で体液濃度が高くなっている場合には、急にいわゆる普通の水道水を摂取すると、体液中の塩分などの諸成分が一気に溶け出して、結果、かえって脱水症状が進んだり、疲労困憊の程度が強くなったりしてしまうということもある。

また、いきなり冷たすぎる水を飲むと心臓に負担がかかる場合もあり、ジュースやお茶といった糖分やカフェインを含有する飲料を摂取すると、腹痛や頭痛、嘔吐、痙攣、昏睡あるいは急性の糖尿病などの水中毒による症状に見舞われる場合もままあることなのだ。

とはいえ、かつての日本で、スポーツやダンス演習などの運動中に水分補給することを禁じた背景の多くには、ハードな練習を根性で乗り切るとか、水を飲むとそれまでの努力が水の泡になるとか、理不尽極まる精神論がはびこっていたことは確かで、運動科学やスポーツ医学に対する十分な知識が、指導者やトップ関係者の中ですら欠落していたことも否めない事実なのである。

さても今や、常識が時代とともに変化することも当然の話、情報も知識もネット社会においては豊富なソースに困ることはない。
現代では個々の人間が、多くの情報源の中からいかに信頼できる情報を引き出し、健全で公正な判断をするか、その先にとるべき行動の道筋が残されているのだろう。

重要なのは、誰もが既成の概念や体制の圧力に屈することなく、特定の社会や時代にはびこる常識に疑念を持ち、知性的な良識をもって物事に対処しうるかということなのだ。

真央さんが「水」というキーワードに着目し、アスリートの枠を超えて、すべての生物にとって大切な、生きるための健康、安心、快適な飲料水の事業開発に携わったのは、ある点で結びついた必然であったし、ある点で彼女にとって何よりも大事なライフワークにつながっていくこととなるのだろう。
(勿論、「ある点」というのは、彼女が「人生」といったフィギュアスケートであるし、「ライフワーク」というのは、リンク開設を含む後進へのフィギュアスケート教育のことである。)

彼女が第二の人生に向かって再スタートと、はりきって臨む新しいブランドパートナーの事業が、この美し国の美しい精神によって起ち、美しい水で多くの人のこころを潤す流れとなって、美しい人が夢みる新しい希望、新しい(真央)リンク開設への礎となれば、それは真央さんにとってオリンピックの金メダルどころではない、人生の大金星ではないか。

真央さんの理想がどこまで現実に近づき、夢の実現化にこぎつけられるか、まだその果ては誰にも明らかな展望とは言えないが、だがたとえ、厳しい困難な現実が夢の行く手を阻んでも、あるいはまた、どこからか彼女の理想がかたちを変えてしまって、まったく別の結末へ向かったとしても、夢の終着を目指したその美しい精神、高潔な意志は、美しい水のごとく決して汚されないものだとまさきつねは思う。


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美しい精神は美しい姿にあらわれる。
ひそかにコレクションしてきたカレンダー画像の数々。最後にお愉しみあれ。

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水は澄んでいても 精神(こころ)はげしく思い惑っている
思い惑って揺れている
水は気配を殺していたい それなのにときどき聲をたてる
水は意志を鞭で打たれている が匂う 息づいている
水にはどうにもならない感情がある
その感情はわれている 乱れている 希望が失くなっている
だしぬけに傾く 逆立ちする 泣き叫ぶ
落ちちらばる――ともすればそんな夢から覚める

そのあとで いっそう侘しい色になる
水はこころをとり戻したいとしきりに禱る
禱りはなかなか叶えてくれない
水は訴えたい気持ちで胸がいっぱいになる
じっさい いろんなことを喋ってみる が 葉はなかなか意味にならない
いったい何處から湧いてきたのだろうと疑ってみる
形のないことが情けない
やがて憤りは重なってくる 膨れる 溢れる 押さえきれない
捨てばちになる
けれどもやっぱり悲しくて 自分の顔を忘れようとねがう
瞬間――忘れたと思った
水はまだ眼を開かない
陽が優しく水の瞼をさすっている
(丸山薫『水の精神(こころ』)

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前に進むだけ

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一歩ふみだすためにどうしたらいいかって?どうしようかと思うこと自体がおかしいんだよ。やりたいことがあるならやればいい。
(酒井雄哉大阿闍梨)





浅田選手引退の報道に、多くのスケート関係者のみならずさまざまな分野のアスリート、著名人が、世界中からコメントを寄せていると、連日メディアが伝えている。

浅田選手の国際的な人気は推して知るべしということだろうが、彼女の存在はもはや、フィギュアスケートというスポーツ分野は勿論のこと、国境さえも超えたトップスターであることを誰しも否定しえないということだと思う。

浅田選手への愛情やリスペクトにあふれる数々のコメントの中で、これはどうしても採録として残しておきたいと思ったのが、浅田選手とは切っても切れないタチアナコーチの言葉である。

「真央を決断は間違っていません。今の状態では、自分自身をこれ以上向上することができないと判断したからです。
彼女は、ショートとフリー二つのプログラムに、トリプルアクセルを三つ組み込むという偉業を成し遂げた初めての女子選手で、幾度も世界選手権を制覇しました。
真央は類いまれな才能を持つ素晴らしいアスリートなのです。
誰しも潮時というものはあります。今後の成功を祈ります。
人生はまだ始まったばかりですから」

短く簡潔な所感であるにもかかわらず、浅田選手の心境や功績における核心をしっかり押さえ、そして温かい。
誰よりも浅田選手に寄り添い、バンクーバー、ソチ二つの五輪のフリープログラムを芸術作品として共に作り上げていったコーチならではの、愛情と思いやりに満ちたコメントだと思う。

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さらにもう一つ(というか二つ)、イギリス、ユーロスポーツの解説者として著名なサイモン・リードとクリス・ハワースから寄せられたコメントも、覚書として載せておきたい。


【サイモン・リードのコメント】

僕は彼女の決断を完全に支持します。気力がなくなってしまったのだとしても、彼女が残してくれた驚くべき瞬間を私たちは記憶に残すことができる。それを思えば私たち全員にとっても良いことでしょう。
確かにオリンピックの金メダルを手にすることはできませんでしたが、3回世界選手権で優勝した彼女は疑いようもなくここ10年で最高の女性スケーターでした。エレガントで勇敢で、本当の意味でチャンピオン(勝者、闘士)です。

(サイモン・リード Simon Reed : 英ユーロスポーツの解説者。1969年に英BBCラジオにてブロードキャスターとしてキャリアをスタート。1970年代後半に英ITVスポーツのプレゼンターを経て、1984年に本格的にフィギュアスケートの解説をはじめる。1989年に英ユーロスポーツのフィギュアスケートのヘッド・コメンテーターに就任後、毎年開催されるワールド・チャンピオンシップと過去10回のオリンピック解説を担当している。)


【クリス・ハワースのコメント】

ニュースを読みました。本当にもったいない。
膝の故障も抱えていて、非常に苦労した日本選手権だったと思います。
彼女の気力は来年の冬季オリンピックで金メダルを取るという目標にあったのでしょうが、ヘルシンキの世界選手権で(優勝した)メドヴェージェワや、彼女に次ぐ順位だった選手たちパフォーマンスを見れば、彼女の決断は相応しいものではないでしょうか(それでも私たちにとっては違いますが)。それに、彼女は膝に故障を抱えていましたし。
フィギュアスケートは厳しいスポーツです。たとえしっかり鍛えて、気力もある時であっても……。たったひとつのエレメンツを落としてしまっただけで、最高レベルでの闘いでは競争から外されてしまうのですから。
彼女は女子フィギュアに非常に貢献してくれました。そして、ずっと革新者であり、多くのスケータのメンター(指導者、牽引者)でした。どれだけ彼女が財産を残してくれたことか……。
彼女の類いまれなる人生の次の章が、彼女にとってよいものになることを切に願っています。

(クリストファー・ハワース Christopher Howarth : イギリスの元フィギュアスケーター。英ユーロスポーツの解説者。数々のオリンピック、ナショナルおよびインターナショナル・チャンピオンシップに出場し、1981年にイギリスのナショナル・チャンピオンになる。現役引退後はヨーロッパやアメリカにてコーチとして活躍。1989年のパリのワールド・チャンピオンシップよりフィギュアスケート解説をスタートし、過去7回のオリンピックを解説している。2004年よりアメリカのシカゴに移住。)


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誰もが涙してしまうほど、凛として清々しい浅田選手の引退会見だったが、それでも危惧した通り、「引退の時期を誤った」だの「金メダルの壁を越えられなかった」だのと、相変わらず姦しく頓珍漢極まる批判的意見で彼女を貶めようとする輩が、一部で騒ぎ立てている。

こうした取るに足らない人間の取るに足らない偏狭的な意見など、端から取り上げるに値しないのではあるが、単純な試合結果だけで「引き際を間違えた」「晩節を汚した」云々と残酷にも的外れな言葉を、結果の良いときも悪いときも全く変わりなく必死に努力を重ねてきたアスリートに対して、いとも軽々しく口にできるなと呆れ果てるのである。

空前絶後のフィギュア人気と言いつつも、結局のところ、大半の人間は試合の順位にしか興味関心がなく、氷上で繰り広げられたパフォーマンスそのものをまともに鑑賞してはいないのだろうと、半ばうんざりしつつも諦念の境地に至らざるを得ないこともある中で、こうしたユーロスポーツの名解説者たちのような、至極まともであると同時に明鏡止水のごときコメントを読むと、アンチの何の根拠もない冒涜に汚された空から暗雲が一斉に払われて、やれ回転不足だスピードだと四角四面に数値化するスポーツの範疇を抜け出した、身体芸術としてのフィギュアスケートの価値や意義を噛みしめることができるというものである。

ハワースのコメントの中から拾えば、「もったいない」という言葉に尽きるとまさきつねは思うのだが、圧倒的なパフォーマンスの力、氷の上を滑走し、飛翔し、回転する身体能力の限界、観客を惹きつける美の結晶という、およそ最高レベルの身体表現の限りを尽くしながら、スポーツ競技の枠の中ではとどのつまり、浅田選手の演技内容に相応しい格付けをし得なかった、評価を下し得なかったということに過ぎぬのではないかと改めて思い至るのではある。

有り体に言おう。

ソチ五輪からここ数年、浅田選手よりも回転の足りている(いわゆる質の良い)ジャンプを跳び、浅田選手よりも速いスピードで多くのエレメンツをこなし、浅田選手よりも巧くジャッジから得点を引き出すコツを心得た若い選手は、日本に限らず世界中に今、大勢ひしめいていることだろう。

そしてこのような若い選手たちが、組織が何のためだか猫の目のように変え続ける採点システムの中で、次から次へと史上最高得点とやらを日々更新し続け、互いに世界女王の座を懸けて切磋琢磨しており、フィギュアスケートファンもマスコミも、彼らのメダル争いの応援に余念がないということなのだろう。

だが熱狂は?

何だか途轍もなく怖しいほどの、この世に在り得べからざるほどの、およそこれまでに出会ったことがないほどの鮮烈な身体表現の極致を見せつけられた観衆の、筆舌に尽くしがたい陶酔と熱狂は、浅田選手が去った後の銀盤の上にまだ残っているのだろうか?

五輪の金メダルとは縁がなかったにもかかわらず、多くの人々をテレビ画面の前に釘づけにして、歓喜と感動の渦に巻き込んだ、浅田選手の演技以上の白熱と狂乱のプログラムが、今後の女子フィギュアスケート界に生まれる予兆があるだろうか?

無論、数十年先のことはわからない。

だがこれから数年の間、特に平昌五輪までの間ともなると、競技者としての浅田選手が氷上に登場するまで待ちわびたあの熱気や、演技が終わるまで息をつめて見つめた興奮や、フィナーレの感動が、ほかのどの選手を想像しても再びもたらされるとは、とても考え難いのだ。

失ってしまったものの重さを、指の隙間からこぼれ落ちていったものの大切さを、かけがえのないものの代え難さを、ひとはいつも時が過ぎて、もはや取り返しがつかないほどの後悔を重ねたのちに、しみじみと思い知る。

レガシーだレジェンドだといくら讃えたところで、いくら悔いても悔やみきれない宝物を、代われるもののない稀代のカリスマを、競技界を牛耳っている煩雑極まる組織のルールやシステムが、気持ちも身体もぼろぼろになるまで追い詰めて、その真の価値を凌辱して、孤高の中での最後の決断を迫ったのだという思いが、終焉の時を迎えた今となってもまさきつねにはどうしても拭い去れないのである。

しかし、もはやすべての幕は閉じられた。

同時にスポーツ競技という狭い舞台の中で、芸術を至高の座から遠ざけ続けた厳格なルールも、採点システムも、およそ表現者の枷という枷になっていた、つまらない組織の枠組みが外されたのである。

今年の二月、スケートのルールどころか靴さえも脱ぎ捨てて、ショーで舞い踊るダンサーとしてお目見えした高橋選手が報道にアップされていたが、身体能力の高い彼らにはそれくらい大きな幅をもって、身体芸術の表現を突き詰めてほしいと、まさきつねは思う。

勿論、浅田選手自身が会見で述べていたように、フィギュアの世界に育ち才能を開花した彼女が、アイスショーやスケート教室といった大小さまざまなスケートにまつわるイベントから、まるきり離脱してしまうことは決してないだろう。

だが彼女のパフォーマンスの魅力は、氷の上だのジャンプだのというせせこましいジャンル限定で味わうには、それこそ「もったいない」し、もっと多くの世界や分野での広い活躍の可能性が望まれて余りあると思うのだ。

フィギュアスケート界に、浅田選手はもう充分すぎるほどのレガシーを残し、レジェンドとなった。競技界でのすべての幕は閉じて、アスリートはリンクを去ったが、年齢から鑑みてもまさにまだ彼女の「人生は始まったばかり」で、誰からも無粋な点数値で語られない純粋な表現者としての彼女の幕はこれから上がるのだ。

時間は巻き戻らず、人生は前に進むだけ。

やりたいことが無限にあるなら、可能性も無限にあり、わくわくすることも無限にある。失敗も成功も無限にあるから、涙も笑顔も無限にあって、そして人生はいとおしい。

奇跡はまだまだ生まれる。


伝説の終幕はまだ閉じられない。


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自分達は後悔なんかしていられない、
したいことが多すぎる 
進め、進め。

麦が出来そこなった!
それもいいだろう 
あとの為になる
進め、進め。

人がぬけました 
仕方ない、
更にいゝ人が入るだろう、
進め、進め。

何をしたらいゝのかわからない!
しなければならないことを
片っぱしからしろ、忠実に。
進め、進め!

こんな生き方でもいゝのか。 
いゝのだ。
一歩でも一寸でも、信じる道を 
進め、進め。

神がよしとした道は
まちがいのない道だ 
進め、進め。

兄弟姉妹の
幸福を祈って 
進め、進め。

つい足をすべらした、かまわない 
過ちを再びするな 
進め、進め。

後悔なんかしていられない、
したいことが多すぎる 
進め、進め。
(武者小路実篤『進め、進め』)


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(巷で噂になっていた江口寿史先生の真央ちゃんイラスト…)

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惜別

散る桜残る桜も散る桜(良寛和尚)

笑顔の能力

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人間は鷹のように遠くを見る眼は持っていない。しかし、人の眼を見て人の気持ちを想像する眼を持っている。
人間は、犬のように小さな吉を聞く耳を持っていない。しかし、川のせせらぎから心地よさや平和を想像できる耳を持っている。
人間の身体はその身体そのものの中に他者の気持ちを想像したり、思いやる機能(感性)を持っている。
(ルートヴィヒ・アンドレアス・フォイエルバッハ)





先日たまたま見ていたテレビ番組で、織田信成選手が天才子役の女の子とコラボしてスケート演技を披露するという企画があった。

プログラムは織田選手のバンクーバー五輪のフリー演技『チャップリン・メドレー』、宮本さんが振付し直したというパフォーマンスは、男子シングルの演技に女子シングルの華やかなコレオが重ねられ、なかなか巧くアレンジされていて、可愛らしい九歳の女の子の愛くるしい所作とともに、エンターティメントとしてかなり楽しめる内容になっていた。

織田選手の卓抜したやわらかな演技は無論言うまでもない出来だが、天才子役という女の子の演技も、ジャンプ、ステップどれをとってもなかなかハイレベルで、さすがフィギュア大国日本で育成された若手の一人と、若年層の裾野の広さを改めて感じ入る次第だった。

それにしても天才子役ならではということなのかも知れないが、身振り手振り、顔つきどれをとっても九歳らしからぬさすがの完成度で、ベテランの織田選手相手に一歩もひけを足らないパワフルなスケーティングもさることながら、大人顔負けの俳優根性で披露された芝居っ気たっぷりの演技表現は、むしろ織田選手以上に濃密な芸達者ぶりに思われた。

これほどの熱演、愛嬌たっぷりに振り撒かれる笑顔を見ていると、たとえどんなに口さがないジャッジやマスコミ連中でも、表現力がないとは言い難いだろうなとは思うものの、それにしても、音楽とは切り離せない舞踏のような身体芸術の表現というものと、芝居を演じる上での動作や表情というものが何故かフィギュアでは、いつも同次元で論じられ、作り笑顔や外連味のある所作をしなければ一括りに表現力がないと断じてしまうのは、やはり芸術性を評価する視点からすればいかがなものかと、まさきつねなどは首を傾げる。

小芝居や印象的なポーズ、顔や動きを使った具体的な感情表現が不要とは勿論言わないが、演技的なパフォーマンスとは一線を画す純粋な身体表現を、(視覚芸術の領域からのアプローチも含め)抽象的な音楽表現として認識するべきだと思う。
(こうしたパフォーマンス・アートを論じるとき、避けて通れぬ演劇性の否定、物語や背景の否定という問題についてはまた後日、機会があったら語りたいと思う。まさきつねが実は最も、浅田選手の演技に感じる芸術的意義は、フィギュア競技をパフォーマンス・アートの領域に近づけたその業績の部分なのだ。)

浅田選手を長らく悩ませたのが、何かといえば表現力が足りないという通り一遍のこき下ろしだったが、これほど何ひとつ根拠もなく、いわゆる印象操作の決まり文句としてメディアで垂れ流しされ続けたネガキャンもあるまい。

確かに、天才子役のパフォーマンスに比較すると、浅田選手の演技には、大仰な動作やしなを作る振付、誇張した表情や取ってつけたような派手な笑顔といった、意識的なアクションは少ない。
そもそも彼女は女優ではなく、アスリートなのだから、スケートの練習以上に、芝居演習に割く時間などあるはずがない。

むしろ浅田選手は、過剰なポーズで音楽を寸断させないように、ひとつひとつの動きを流れるように結びつけており、大抵の場合、笑顔も演技メソッドで培われたものではなく、内面からにじみ出る自然な感情表現で、ジャッジングにおもねる類いの作られた表情ではない。

キャンデロロが十五歳頃の浅田選手の演技を解説しながら、「真央はもう少し笑えばいいのに」と注文を付けていたが、彼女はおそらく昔も今も、演技的パフォーマンスの一部として故意に笑顔を作るのは苦手で、音楽や自分の演技に触発されてわき起こる感情が伴わなければ、笑顔のみならず喜怒哀楽の感情表現を、所作や顔の表情に投影することが難しいのではないかという気がする。

思うに、彼女は昔も今も、内面はごく普通の(スケートが大好きな)少女で、それもごく普通にどこにでもいる、はにかみ屋だったり甘えん坊だったりする女の子と変わらないのだから、スケーティングの練習とは別に、子役たちのように役作りのための演技力をことさらに磨いて、笑いたくない時に笑い、泣く必要がない時に泣くなんて芸当を強いられる方が、本来違和感があることなのだろう。

ましてやまさきつねの感覚からすれば、スポーツとしてはスケーティングの巧拙を評価するべき競技であるのに、満面の笑顔を浮かべていたというだけで、表現力があるなどと芸術的評価が跳ねあがるなんて採点基準の方がよっぽどおかしく、こんな非論理的なジャッジ・アピールがまかり通っているのが、いつまでも採点競技として不可解だと指摘を受ける要因のひとつに思われてならない。

以下(拙ブログへのコメントでも触れられていた)、デイリー・スポーツの記事より抜粋。

※※※※※


「一番首をかしげるのは、キム・ヨナではなくトリプルアクセルを成功させた浅田のフリーの点の低さである。ソトニコアはフリーで両足着氷のミスあったと思うが、ミスとは判定されておらず149・95点の高得点を挙げた。ノーミスのキム・ヨナは144.19点で、銅メダルのカロリーナ・コストナーの142.61を上回ったものの浅田は142.71点にとどまった。

 浅田は試合後、『できるって思ってやって、これが自分がやろうと思っていた構成なのでよかった。今回のフリーは、しっかり自分が4年間やってきたことを、そしてたくさんの方に支えてもらったので、その恩返しもできたのではないかなと思う。五輪という大きな舞台で、自分が目指しているフリーの演技ができた』とコメント。フリーでのパーソナルベストを振り返ったが、ここで、出来栄え点といわれるGOE(Grade of Execution)に注目してほしい。演技審判によって0をベースとし-3から+3の7段階で評価された各要素の出来栄えのことだが、要素ごとにそれぞれ評価の観点(着眼点)が設定されている。

 ソトニコアのGOEが14・11点、キム・ヨナは12・20点、コストナーは10・39点だったのに対し、浅田はわずか6・69点。浅田はトリプルアクセルで回転不足を取られず、0・43点の加点をもらったが、続く2連続3回転ジャンプは二つ目が回転不足の判定。3回転ルッツも踏み切り違反と判定された。さらに、その後のダブルアクセル3回転トゥループも回転不足と判定され、ステップシークエンスなどで加点はあったが、GOEはわずか6・69にとどまったのである。

 なぜ、浅田のGOEが優勝したソトニコアと7・42点、キム・ヨナとは5・51点、コストナーとも3・70点も離れているのか?さらに、演技構成点の合計もソトニコアは74・41点、キム・ヨナ74・50点、コストナーは73・77点に対し、浅田は69・68点にとどまっている。日本国内のみならず、世界中に感動を生んだ浅田の評価が、これほど低いのか。私は今のところ納得のいく説明を目にはしていない。
(フィギュア 4年後の平昌開催ヘ向け公正な採点方法を/3月15日(土)配信 今野良彦)」


※※※※※

今野さんでなくとも、納得のいく説明など一度たりとも聞いたことがないフィギュアの演技構成点ではあるが、長年その恩恵を被ってきた選手の側から、今回はメダルの色が気に入らなかったと異議申し立てが出ているのだから、まったく笑止千万だ。

この騒動もいずれほとぼりが冷めた頃、組織の伏魔殿がなあなあの着地点を探して、何事もない決着に収まるのだろうが、それでも今回、採点方法の在り方をめぐって多少なりともさざ波が立ったのは、表彰台上の醜い争いよりも、浅田選手の歴史的なプログラムが不可解な評価のまま、メダルの圏外に置き捨てられていることに起因するのだろう。


以下は浅田選手の八年の軌跡を綴った画像メモリアル。

彼女の試練の多くは、まさに偏向ジャッジングと不可解な採点システムがもたらした苦悩に起因し、その対応策として、バンクーバー五輪から後の四年間は、選手生命を賭けたジャンプの改造に取り組んだのだ。


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先ほどまさきつねは、浅田選手には天才子役ほど、笑顔を故意に作る演技メソッドに長けた力はないだろうと語ったが、かといって彼女に、「笑う」能力が欠けていると言っている訳ではさらさらない。
むしろその逆で、浅田選手は演技パフォーマンスの一環として「笑顔を作る」という意識には乏しいと思うが、いわゆる人間の力として「笑う」という能力には誰よりも秀でているという風に、まさきつねは考えている。

動物行動学者フランス・ドゥ・ヴァールによると、「笑い」は人間が進化の過程で獲得した能力であり、相互のつながりや幸福感をもたらす機能として働き、「あくび」や「泣き」という行動と同様に、周囲との連帯感や仲間意識を生み出す「身体的同調機能」のひとつであるという。
ヴァールは、類人猿の持つ協力行動などの連帯感が人類の道徳心に発達したと考えているらしく、「身体的同調機能」の中にこそ、他者の気持ちに共感したり、他者の気持ちを思いやったりする、人間の身体に埋め込まれた社会性の起源があると、動物行動を宗教学や哲学的な視点で分析している。

「笑う」という行動は、人間のコミュニケーション・ツールとして重要な働きを持つものだが、とはいえ、人間同士の相互関係を円滑に保つために、目に見える表現媒介として「笑いを作る」ということになると、身体的存在としての人間にある「感性の知」という概念からはどこか程遠く、「笑い」が持つ本来ポジティヴなメカニズム、すなわち人間の心身の健康と、共同生活の親和性を保持するという機能とはまるで逆に、人間が社会的関係性を維持するためには「笑う」という行動を起こさねばならぬというストレスを与えられているように思える。

つまり人間がこころから「笑う」という行動は、感性の働きである感情表現と直結しているなら、心身の健康や社会の連帯という幸福感につながるものとなり得るが、「笑顔」を作る、「笑い」を演じるという行為はその作為性が露わになれば、人間関係の緊張や対立を解消するという側面においてはかえって逆効果で、機能としては本末転倒でしかない。

要するに人間の「笑う」能力と、「笑い」を作る能力とは、そもそも似て非なるものだということなのだ。

「表現は、作るもの」と言ったコラムニストをまさきつねは否定したが、同じように「笑顔は、作るもの」ともし誰かが発言したら、それもやはり違うと否定するだろう。

こころから切り離された「笑顔」に、人と人を結びつける、健全でポジティヴな「笑い」の機能が働くとはとても思えないからである。

翻って、演技のメソッドで培われたものではない浅田選手の「笑顔」というものは、いかに彼女の心身の状態に直結して、純粋な感情の発露であるかとまさきつねは考える。
「表現力」「表現力」とさかんに煽るマスコミを尻目に、彼女は決して取って付けたような笑顔をジャッジ・アピールとして浮かべることはなく、音楽や自身の演技内容に誘起されなければ、「笑い」という感情表現を意識的にパフォーマンスに組み込むことはなかった。

ニコルが近年、『アイ・ガット・リズム』や『スマイル』といった楽曲をわざわざ選び、さまざまな苦悩で気持ちの落ち込む浅田選手を昂揚させる作戦をとったのは、それが一番自然に彼女から「笑顔』を引きだすことができるという狙いがあったからだろう。
音楽を解釈した振付で、快活に動く身体に同調して「笑顔」の表情が浮かぶという浅田選手ならではの心身のメカニズムを、ニコルはよく理解しているとまさきつねは思う。

このように考えてくると、演じるという作為性のない浅田選手の「笑顔」というものが、彼女がメディアで大々的に取り上げられた十五歳前後の頃にさかのぼって省察してみると、現在の彼女の知名度の凄さからして、いかに長い年月にわたって、日本の社会全体に大きく作用してきたか推して知るべしという気がする。

浅田選手は常に、人間の感覚・知覚の主体である身体の、欲求し切望する喜怒哀楽の感情に逆らうことなく、「こころ」から生まれ出た「笑顔」で、多くの人々を虜にしてきた訳だが、それは人々が気づいていたか否かはさておき、彼女の笑顔が「他者の気持ちを想像したり、思いやる機能(感性)を持っている」身体的存在、すなわち「浅田真央」という人間そのものに起源を持ち、彼女の「こころ」の顕現として無垢に、人々の「こころ」に届けられてきたからにほかならない。

先日のエントリーでまさきつねは、ラフマニノフの言葉を引用して、芸術は「心より生まれ、ここ心に届かなければならない」とお伝えしたが、「笑顔」もまた、心より生まれ心に届くものでなければ、端から心身の健康や、コミュニティの連帯感といった幸福感をもたらすポジティヴな社会的機能をもち得ないものなのだと思う。

たとえどんなに巧みでも、体裁で整えられ、演技で作られた笑顔や、感情とはぐれた表情などでは、所詮他者の気持ちはつかめず、多くの魂を揺さぶる感動は生まれ得ないのだ。

さて、冒頭の言葉は、「肉体の復権」をゲオルグ・ビューヒナーらドイツの若き文学集団が唱えていた十九世紀前半、この傾向を背景に独自の身体論を構築した哲学者フォイエルバッハの、「感性的身体観」を語った一節である。

「他者の気持ちを想像したり、思いやる機能(感性)を持っている」身体的存在から現出した「笑顔」であればこそ、浅田選手という稀有な天才の優れたスケーティング技術をジャッジやメダルが評価する以前から、多くの人々が十五歳の彼女に夢中になり、彼女の演技からあふれる優しさ、慰め、穏やかさ、温かいこころの温もりというカタルシスを享受したいと願ったのだ。

EX『スマイル』に散りばめられた、彼女の優しくやわらかな笑顔の数々を見るとよく分かる。

軽快なコレオが紡ぐ美しいポジションに重ねられる、きらきらとこぼれるような甘い微笑…笑う能力は、生きる肉体の能力なのだと、他者とともに生きるこころの能力なのだと、つとに思うのである。


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「先生 お元気ですか
我が家の姉もそろそろ色づいてまいりました」
他家の姉が色づいたとて知ったことか
手紙を受けとった教授は
柿の書き間違いと気づくまで何秒くらいかかったか
    
「次の会にはぜひお越し下さい
枯木も山の賑わいですから」
おっとっと それは老人の謙遜語で
若者が年上のひとを誘う言葉ではない

着飾った夫人たちの集うレストランの一角
ウエーターがうやうやしくデザートの説明
「洋梨のパパロワでございます」
「なに 洋梨のパパア?」

若い娘がだるそうに喋っていた
あたしねぇ ポエムをひとつ作って
彼に贈ったの 虫っていう題
「あたし 蚤かダニになりたいの
そうすれば二十四時間あなたにくっついていられる」
はちゃめちゃな幅の広さよ ポエムとは

言葉の脱臼 骨折 捻挫のさま
いとをかしくて
深夜 ひとり声たてて笑えば
われながら鬼気迫るものあり
ひやりともするのだが そんな時
もう一人の私が耳もとで囁く
「よろしい
お前にはまだ笑う能力が残っている
乏しい能力のひとつとして
いまわのきわまで保つように」
はィ 出来ますれば

山笑う
という日本語もいい
春の微笑を通りすぎ
山よ 新線どよもして
大いに笑え!

気がつけば いつのまにか
我が膝までが笑うようになっていた
(茨木のり子『笑う能力』)


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ビューティフル

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五輪が終わったので、あちらこちらのスポンサー・サイトから一時的に削除されていた、五輪代表選手たちの姿が復活している。
五輪の間の、選手不在のときのサイトの工夫がなかなか面白くて、それなりに楽しませてもらったりもしたが、やはりせっかくの選手たちの姿が拝める現在の方が華やかで、何となくやっぱりこれだよと堪能できるというものだろう。


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さて、先日からのエントリーで取り上げているギャラガーさんのコラムの件、やはりまさきつねは必要以上に彼の肩を持ちすぎと皆さまに受けとめられているようだが、さもあらん、まさきつねは彼の意見に根本的なところでは皆さま同様、決して同意ではないのだけれど、彼のコラムが五輪のメダルが獲得できなかった原因追究に焦点を当ててくれたという点に関しては、それに一切触れない日本国内のメディア報道よりもよほど真っ当と感じているし、彼の主張に反対であっても、こういう見解がない方がむしろ不自然と考えているからだ。

(またも繰り返しとなるが)要するに、彼は浅田選手や浅田陣営の戦略に柔軟性がなかったという理由で、五輪の敗因を分析している。そして日本のファンの多くは、選手個人の判断ミスや陣営の采配ミスだけに、ギャラガーさんが敗因を帰結していることに激しい反発を覚えているのだと思う。

まさきつねも無論、皆さま同様、ギャラガーさんが主張しているように、浅田選手や浅田陣営がトリプルアクセル頼みのプログラムにこだわり過ぎたということだけが、彼女が五輪のメダルを逃した原因とは考えていない。

皆さまからのコメントでもたくさん意見を寄せていただいたけれども、まさきつねも『つぶやいてみる 其の廿五』というエントリーでも以前述べさせていただいたように、端から不合理で日和見主義な採点システムとルール、助長するばかりの偏向ジャッジ、一方それに対する改正への働きかけや、リスクアセスメントなどの対応策もとらず、自国選手を国際的に売り込むロビー活動もお粗末、その他もろもろ五輪勝利のための準備もサポートも不充分という組織的な失敗など、日本の女子フィギュアがメダルを獲りこぼした大きな要因は、選手自身の負う責任ではなく、そもそも彼らを支援するべき周囲や取り巻く環境といった側面にある。

五輪の試合以前に、リンクに選手を送り出すまでのお膳立てや境遇の悪さつたなさ、後ろ盾からの掩護や助勢の少なさが、表彰台から日本の有力選手たちを遠ざけた大きな契機があると思っている。

ところが今回の五輪の終了後、スケート競技の関係者も有識者も、各マスコミ・メディアもそろって、浅田選手の「自己ベスト」「16位からの一夜の復活」という声価にばかり華々しい焦点を当て、「世界が感動した」というストーリーでお茶を濁して、何故メダルが獲れなかったか、何故浅田選手の採点がメダリストたちに比べて抑えられたのかという、競技としての核心に決して触れようとしない。

SPで失敗したからだの、滑走順が早かったからだの、一見もっともそうな理由を有識者ともあろう方々でさえ、メディアを通じて表向き口にするが、ひとつひとつの演技を細かく分析したり、メダリストたちとのプロトコルを逐一比較したりといった、実際のパフォーマンスや競技内容に詳しく言及して、誰もが腑に落ち、順位や採点にこころから納得するような答えを探求しようとする国内のスポーツ報道も競技関係者も、誰ひとりいないのだ。

競技のスペシャリストであるジャッジの採点は絶対だと、審判の判定に対するさまざまな異論や検証に対して、その一切を「素人は首を突っ込むな」と言わんばかりに封印し排除しようとする動きはバンクーバー五輪のころから顕著だったが、それにこのたび真っ向から異議を唱えたのが、フィギュア競技に全く縁も所縁もないひとだったというのも、随分皮肉な話だ。

以下、すでに皆さまご存知と思うが、元プロサッカー選手、セルジオ越後さんのコラムから引用。


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『セルジオ越後コラム/日本人はなぜフィギュアの採点を議論しないのか』(2014年02月24日)

「…日本は、ハイライト番組と応援番組が主で、コメントは本音よりも建前だ。采配ミスや判定ミスがあったことは、思っていても口に出さない。Jリーグや日本代表のニュースで、きわどいオフサイドシーンに触れられることがあるだろうか。臭いものに蓋、触らぬ神に祟りなし、という言葉がある国民性からか、どうもそういう話題は奥に押し込めてしまうよね。議論をして相手に意見を言うと、その相手のことを嫌いなのかと思われてしまう。これじゃあ議論にならないよね。

もう一つ、日本のスポーツ報道は、そのスポーツそのものよりも周辺のドラマ性ばかりに注目する。延々とサイドストーリーが語られる箱根駅伝もそう。浅田真央の快演で感動を呼んだソチ五輪のフィギュアスケートにしても、プレー分析やライバルとの採点の付き方の比較といった、競技そのものについての言及はほとんどなく、とにかく感動ストーリーだけが拡散される。なぜもっと議論しないのか。
 
日本人はやはり元来争いごとが嫌いなのだろうか。本音100%のブラジル人のトークがすべてではないけど、日本ももう少し競技そのものを論じる土壌が広がれば、文化として根付いていくと思うのだけど、それが根付くのとブラジルのスタジアムが完成するのとどっちが早いだろうね。」


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リコメでも書いたのだが、マスコミだけでなく、競技結果の責任追及から逃れたいと考えている組織の伏魔殿からすれば、浅田選手の奇跡的な一夜での劇的な復活、エイトトリプルという歴史的な意義を持つこの上なく感動的な演技は、まさにメダル獲りこぼしの大失態から国民の目を逸らさせるに充分なトピックだったに違いない。

さらに、メダルのあるなしに関わらず国民的ヒロインとして根強い浅田真央人気、その存在にあふれる山あり谷ありの人生の機微に充ちた豊穣な物語性、ほかの誰も凌ぐことのできない非凡な魅力に充ちたスター性が、今回彼女が作った新しいトリプルアクセル伝説に、五輪の台乗り以上の鮮烈なインパクトを与え、もはや順位も採点も議論の争点から払拭してしまうほどの話題性をもたらしてしまったのが、面目丸つぶれのお偉方にしてみれば、とにもかくにも勿怪の幸いだったという気がするのである。

ギャラガーさんのコラムは、前にも言ったように合理主義の欧米では当然出てくる見解だと思うのだけれども、浅田陣営の柔軟性の欠落にのみ焦点を当てて、五輪に対する戦略ミスを批判したので、日本のファンから反射的に厳しい反発を受けてしまった。
だがそれでも、メダル獲りの失敗を議論の俎上に載せてくれたという側面において、まさきつねは彼のコラムの意義を評価したかったのだ。

まさきつねがエントリー『宿命』で、「まさきつねには、きわめて冷徹だが非常に理知的な分析のように思える。少なくとも文章の中に、キム選手を絡めた私利的な世論誘導といったものは感じられない。むしろ、金メダルに値する才能のある選手として浅田選手を位置づけた上で、それ故にこそなぜ彼女にメダルがもたらされなかったか、原点に立ち返り、スポーツ戦略としての問題を掘り起こそうとしておられるとまさきつねは思う。」と書いたのは、そのためだ。

一部のネット情報が煽る根拠のない「キム絶賛のバイアス云々」という色眼鏡によって、ギャラガーさんのコラムをひとつの意見として認めないばかりか、こういった所感が出てくる背景をも全否定するというのも危険だとまさきつねは思ったが、同時に、「自己ベストで感動をありがとう」「16位から6位入賞の大躍進は素晴らしい」という右も左も同じ皮相的な褒め言葉を並べたマスコミの論調一色で、メダルがふいになった現実がまるで誰も触れてはいけない腫れもののように棚上げされ、帳消しにされ、あげく一般人どころか五輪や競技の関係者までひとり残らず口を拭って、失敗の原因分析や採点の矛盾点から顔を背けているというのは、あまりにも建設的でない話だ。

まさきつねは勿論ギャラガーさんのように、浅田選手や浅田陣営の方針が五輪戦略として、頭から間違っていたとも失敗だったとも思っていないし、ましてや選手個人にのみメダルが獲得できなかった責任があるとは毛の先ほども考えていない。

翻って、実力として世界トップクラスの才能豊かな代表選手を三人も揃えながら、女子の最高順位が六位に終わった日本の、フィギュア大国としての面子丸つぶれの敗因は、スケート連盟始め後ろ盾である組織の側にとって、手のひらを返したようなマスコミの絶賛オンパレードや、とってつけたように薄っぺらい「自己ベスト」や「滑走順が早くて低評価」などという不条理な言葉で閉じてしまう採点分析で、そそくさと議論を切り上げたり、のらりくらりと回避したりしてはならない責任問題ではないかと感じている。

ところが現実は、延々続く感動の物語であらゆる採点への批判を封じ込めて、競技解説者もコメンテーターも誰ひとり本音を言わず建前だけを語り、「臭いものに蓋」と競技への疑問を国民に議論させようとしない有識者やマスコミの姿勢は、バンクーバー五輪のころからまったく変わっておらず、プロトコルがせっかく開示されているのにも関わらず、演技の判定や、判定方法について侃侃諤諤の議論を表立って交わそうとしない。

(誤解のないように申し上げるが)まさきつねは決して、選手への純粋な絶賛や、競技の醍醐味を五輪の舞台で楽しませてくれたことへの感謝の言葉を、(マスコミも含め)誰もが素直に口にしていることが悪いと言っているのではない。

選手の渾身の演技と、それが与えてくれた感動に対して、こころから賞賛する一方で、その順位や採点や判定にもっと厳しい目を向けて、セルジオさんが仰るように、本音の議論を戦わす精神風土の裾野を拡げてゆく必要があるのではないかということだ。

日本には確かに昔から、「言わぬが花」「沈黙は金」」という諺があり、その教えに従えば、浅田選手の演技がせっかくもたらしてくれた真っ新な「感動」を、汚い人間が寄ってたかって作り上げた採点システムや、邪まな人間の思惑が見え隠れするジャッジングについて、やいのやいのと口にすることで穢したくないと、日本人ならば誰しも多少なりとも考える。

ましてや、金と銀とが醜い小競り合いを続けている表彰台を傍目にすれば、もはやメダルの権威も栄誉もないとうんざりしてしまって、浅田選手のエイトトリプルはやはり、別次元の偉業だと溜飲が下がって、それで満足してしまう。

国民性といえばそれまでだが、日本人は即物的な褒賞などより観念的な栄光に心魅かれ、目に見える強さより見えぬこころの強さに、限りない美しさを求める傾向が確かにあるのだ。

争いごとを嫌い、こころに秘するものを尊ぶ、日本ならではの精神的な美徳観念を今さら逆方向に転換しろとは思わないが、とはいっても、世界に誇るべき日本の宝、選手の美しい演技、その芸術性が、どこまで行っても不条理な数字のレッテルを貼られたまま、そして国内のスケート関係者からは誰ひとりいつまでも、結果に異論の声を上げないというのは、何とも口惜しい。

闘い終えて、海外出張から戻ったネピアの鼻セレブ名誉会長が、また無事にサイト復帰している画像を見ていると、まさきつねは日本という国における、美とその強さの在り方について、しみじみ思う。

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この美しいひとが身に纏っている美しい白いウェディング・ドレスが、あの脆く破れやすい鼻紙でできているとはとても思えない。
けれど多くの職人やスタッフによる、ディテールにまでこだわったすべて手作りの丹念な作業が、このはかない美の顕現化を可能にしたのだと考えると、日本では、脆く弱く限りある、はかないいのちがこの世で最も強く、その強さに支えられたものが最も美しく、その美しさを自ら語らないものが最も価値があるのだと、しみじみわかる。

弱さゆえに苦悩するものが最も深いよろこびを知り、強さゆえに多くをみなに分け与えることができるものが最も深いかなしみを理解するのだと、そして最も深いよろこびと最も深いかなしみをこの上なく大きな振り幅で行き来するものが、最も深く美しい人生を歩むひとなのだと、しみじみ思うのである。


弱くはかなくも、強く美しいいのち。


いのちが自ら言葉にして語ることの出来ない、深いよろこびとかなしみを、まさきつねは語りたい。


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苦しみとよろこびを貴方(あなた)は私に下さいました
それは私の中で切ない歌となりました
お穿(は)きと云つて翅(はね)のある小さい靴を今そろへて下さる。
おゝ私は蝶(てふ)になるのですか
さやぎあふ樹々のかげりの中を
歌はしづかにひらめきのぼり
はるかにしげみの方をみかへれば
むなしい繭(まゆ)が白くのこる
(永瀬清子『繭一つ』)


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