月船書林

フィギュアスケートの話題を中心に芸術を語る

白い少女の永遠

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(春山行夫『ALBUM(白い少女)』)


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春山行夫は異色の詩人だ。

近年では、彼の詩作活動そのものよりも、詩誌『詩と詩論』や文芸誌『セルパン』、前衛詩誌『新領土』などの編集に携わり、海外の文芸思潮を紹介したり、モダニズムや前衛詩の詩風を詩壇に定着させたりといった編集家、評論家としての足跡を評価する傾向が強いが、その作品も彼自身が唱えた詩精神やポエジーの純化、あるいは実験精神や乾いた知性が感得される詩が多い。

冒頭に掲げた詩はその中でも有名なものだが、この斬新さ、言葉の意味も失われて、もはや「活字の図案」に過ぎないと揶揄(?)されることもあるが、その揶揄はむしろ褒め言葉のような完成されたフォルムを持つイメージの創造であろう。

「白い体操服を着て運動場に整列した女子生徒」とか、「少女のような白い花の群れ」といった具体的な連想を挙げる例も見たが、そのような目に見える風景でなくとも、もっと純化されたことばから立ちのぼる香気のような、魂のようなものを心象風景として受けとめてもいいかも知れない。

およそ、ロマン主義とモダニズムの詩学的論争は、日本の詩壇においても戦前から、三好達治、萩原朔太郎、西脇順三郎という日本近代詩の中枢的存在の中で行われているが、現代の俯瞰的視点から見れば、枕草子と源氏物語で昔から言われる「をかし」と「あはれ」のような世界観の違い程度にしか感じられない。

詩に精神的深淵を求めようとするロマン主義と、「意味のない詩を書くことによって、ポエジイの純粋は実験される。詩に意味を見ること、それは詩に文学のみを見ることにすぎない」という春山行夫の言葉にあるように、深さを持たないいわゆるフォルマリスムの実験的詩作として、「オブジェ」の詩の世界を展開したモダニズム詩人たち、このどちらも、まさきつねには思索のすべてを持って行かれるイメージの波動に充ちている。
だが、もっともモダニズム運動にとって不幸だったのは、第二次世界大戦をはさみ、戦時下は軍部による思想統制によって沈黙を余儀なくされたこと、そして戦後は戦争協力詩に対する反省を含む思想弾圧への反動から、詩には「批評」が必要という文脈の中で、「意味の希薄な世界」という側面のみがモダニズムの詩論として定着し、その運動の芸術的意味や、ポエジーの思考的模索という主題がことごとく「無意味な形式(鮎川信夫)」や「一種の文学的スタイル(村野四郎)」という批評家の言葉で清算されてしまったことだろう。

確かに、「イメージの審美的パタアンの作成」という言葉で詩作のフォルムという作業が置き換えられてしまったら、それは畢竟、進展性なくルーティンを繰り返す形骸化した詩に貶められてしまう。

春山行夫の詩を古めかしい、詩的感興を受けないと感じる向きがあるのは、こうしたモダニズム批判に即するものだろうが、そのシンプルな実験詩の欠片は、西脇順三郎が『文学青年の世界』で述べたところの「……美のための芸術という考えは宝石に加工することであるにすぎない。また炭をダイヤモンドにするという意味にすぎない。僕の求める文学は炭でもダイヤモンドでもない。だが炭を透明な光線にあてることである。アリストテレスの文学論としては炭の真似をすることがポエジーであると考えるし、美のための文学論者は炭をダイヤモンドにすることを考えている。僕の求める文学は透明な光線をつくることである。文学をつくるということは光線にあたる思考をつくることであると思った。」にある、「透明な光線」にあてられた炭素の塊のひとつだったのだ。

西脇はまた「僕の求める文学の重要な点は思考の内容ではなく、その思考の光沢とか光度である。文学上の価値は宝石そのものではなく宝石の光度であると思う。」とも述べている。

まさきつねは、お行儀よく並べられた「白い少女」ということばの一群に、少女という存在の限りなく潔癖で限りなく一途な、邪念のない精神の透明な「白」のリズミカルな行進を見る。

ここには宝石の輝き以上に純粋な、いくつも並んだ透明な光のつながりがある。


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唐突な連想であることは承知しているが、このまるでミニマリズム絵画のような「白い少女」の詩から、まさきつねは螺旋階段の永久に終わらない奈落へ降りていく少女らの一群、エドワード・バーン=ジョーンズの『黄金の階段』を思い出す。


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画面の舞台は、廃屋のような建物に設えた奥行きというものの感じられない螺旋階段。

天上界を意味する吹き抜けの屋根に白い鳩、地上界を意味する画面下の閉じられた扉、素足で古代ローマ風の白いチュニックを纏って、トランペットやヴィオラ、タンバリンやシンバルといった楽器を手にして階段を下りてくる少女たち…どれもがシンボリックなマテリアルで、「天国へ至る階段」と「楽奏する天使たち」を想起させる。

そして何といっても、ダンテの『神曲』の「黄金の梯子」とうるわしきベアトリーチェへの連想…


土星天から光の梯子がどこまでも、もはや目では望めぬ高みへと昇り、それを渡って今、無数の光たちが(光の天使たちが)降りてくる。次から次へと、それはまるで、きらめく星の滝のよう……。(中略)私はベアトリーチェに導かれ、黄金の梯子に足をかけた。私の足がその第一段にかかるやいなや、全ての重力から解き放たれて、私はただ、白い光が放つ強い磁力のような力だけに引きつけられて上昇した。宇宙全体が微笑む中を、やさしい歌声に包まれて、私は天を翔け昇る。(中略)まっしぐらに光の梯子を舞い昇りながら、私はどこまでも自由だった。ベアトリーチェがそばにいた。彼女は前を向いていた。私は光の中にいた。(中略)私は愛。私は光。
(ダンテ・アリギエリ『神曲』)


しかし、もっとも謎めいているのは少女たちの顔で、無表情と言ってもよいほど心ここにあらずという風情だが、何かに操られているという不自然な動きをしている訳ではない。少女たちの所作は、構図の曲線に添って計算されているのだが、どの少女も一律同じような顔立ちで描かれ、そろって魂が抜けたような感情の無さが、彼女たちの汚れのない清らかさと、装飾的な美しさを際立たせている。

まるで一人の人間のコマ送り画像のような感覚にすら捕らわれるが、画家の理想像と思しき少女の群像が、嘆美な理想郷への到達を感じさせるのも、描写的な狙いなのかも知れない。

曲線を用い、聖的な世界を描くのは、初期ルネサンスのボティチェリやマンテーニャに影響を受けているといわれ、またこの絵画がベルギーの象徴派の画家クノップフに啓示をもたらしたという説もある。

バーン=ジョーンズの神話的世界への接近や、夢想的特質は、彼自身の現実逃避的な性格から来たものという指摘は真っ当なものだろうが、もともと聖職者を目指していた彼にとって、経済活動と物質主義に走り始めた十九世紀末のヨーロッパにおいて、より純度の高い精神世界を求めるのは当然の成り行きであっただとうし、作品が象徴主義や装飾主義といった形而上学的な方向性を持つに到ったのも自然な流れだったのだろう。

そして、描写されたマテリアルだけではなく、もう一つ興味深いのは、バーン=ジョーンズが、画面構成における距離感の排除、すなわち古典絵画において積み重ねられた知識に基づき確立した技法としてのパースペクティブを踏襲せず、平面的な絵画空間を作り出しているという点である。

曲線を描く階段の構想については、ウィリアム・ブレイクの『ヤコブの夢』との関連性が論じられている。

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ブレイクの画面にある、天空へ向かう階段と、上り下りする女性的なイメージの天使の群れに、着想を得るに足る相似性があることは理解できるが、とはいえその相違は画面から受ける印象の違いに明らかだろう。
ブレイクの作品では主題的強さを持つ階段だが、バーン=ジョーンズの作品では、階段はある部分において可視的空間を把握できないほどの奥行しかなく、その円弧も捻りも、おそらく三次元の物体として数学的な解析ができないもので、その存在そのものが画面の構図上、横の直線描写としての働きしかない。

つまり、描法としては、まるでエッシャーの透視図法のような不可思議な絵画空間の上に階段が背景として配置され、そして十八人の女性群像が各々しっかりした量感と、さざ波のように動きを持った衣服の襞を波立たせながら、連なるパターンによってもう一つのカーブを描き、リズミカルな装飾美をもった画面構成を完成させているのである。

この、むしろ華やかな装飾空間を繰り広げる象徴派的な絵画が、何とも底のない奈落への墜落、深さも奥行きもないのに永久に落ち続けているような、宙ぶらりんの感覚を突き付けてくるのは、どこかで破綻した遠近法や、内面的追求から解放され、彼独自のアーキタイプに置き換えられた女性群像がさまざまな方向に投げかける視線といったものによるのだろうか。

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まるで鏡の世界に放り出され、ウサギの穴に永遠に落ち続けるアリスのような、不安定な落下の記憶が呼び覚まされるという点で、まさきつねはバーン=ジョーンズの少女たちと、春山行夫の「白い少女」に共通する純度の高いイメージを見る。それは透明な光線によって、脳髄に焼き付けられた奥行きのない記憶である。

ぺらっと剥がせてしまう世界への拘束と解放、白昼夢のような眩暈にとらわれる瞬間、その抽象性と象徴性(シンボリズム)は、カレンダーの数字の整列にも等しい永遠と無限のスペクタクルだと思う。


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☆Sir Edward Coley Burne-Jones, The Golden Stairs, 1880☆


◇◇◇◇◇

カレンダーつながりで、昨年と今年のネピア・カレンダーの画像を掲載。

《Mao in a World of White》
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《Mao Asada in Wonder Paper Seasons》
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引き続き、かなり古くて申し訳ないが、ネピアのウェットントンのCM画像を、ネピアサイトから鼻セレブの画像も更新されていたので、トイレットンの画像とともに転載。

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ネピア関連は製品の印象から、白いイメージで統一されているので、「白い少女」といえば、やっぱりこれでしょうという流れだけれど、浅田選手はもう少女というより、立派な貴婦人の域に達しているかも知れない。
ネピアの銀座本社に出現した、黒い礼装の浅田選手もまた、白い衣装の鼻セレブ大使とは違った独特の美しさにつつまれている。


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かつて大塚英志は、「近代社会というものが、初潮を迎え使用可能になった女性の身体をしかるべき男に実際に使用されるまで無傷でとっておくために、彼女たちを囲い込もうとしたところ、“誤って”産み出してしまった異物が〈少女〉という存在である。」と述べた。

いかにもキリスト教的な教義を根底に持たない国の、近代的な経済活動を第一として、人間の創造への行動動機も流通する商品価値ではかろうとする、心根の貧しい批評家の言いだしそうな見解だが、こんな身も蓋もない「異形」のものに押し込められてしまっては、堕天使の片翼さえもがれ、自動装置(オートマティック)の歯車さえ抜かれてしまったビスク・ドールが、使い古しのマネキンのようにゴミ箱に打ち捨てられ、自傷行為の果てに苦しんでいる図のようなものしか想像出来なくて、まさきつねとしてはとても辛い。

社会は人間を利用するものではない。男は女を、女は男を利用するものではない。
少女もまた、身勝手な欲望に利用されるものではない。

少女よ。天空の庭に、すっくと立つ一本の木のように、風に美を奏で、雲に音楽を描くものであれ。
少女よ。御身の足裏(あなうら)に、輝かしき天空の梯子の金箔がはり付けよ。

御身の白き悲しみに、永遠の旅人がその杖を置き、御身の白き影に、失われた時がその砂を盛る。

少女よ。その遠くはるけき距離に、小鳥らの声も淋しく響き、薔薇のその香もうるわしきノートを記せ。


まさきつねは詩人ではないが、透明な光を浴びて階段に春のステップを踏む、ミューズのような少女の姿を眼にすると、西脇順三郎の言う脳髄の戦慄を覚える。


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☆Figure Skating/Underwater Montage☆


夏川に木皿しずめて洗いいし少女はすでにわが内に棲む
(寺山修司『我に五月を』)


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灰色の菫は語る-アンドロギュノスの系譜-

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コク・テール作りはみすぼらしい銅銭振りで
あるがギリシャの調合は黄金の音がする。
「灰色の董」といふバーヘ行つてみたまへ。
バコスの血とニムフの新しい涙が混合されて
暗黒の不滅の生命が泡をふき
車輪のやうに大きなヒラメと共に薫る。
(西脇順三郎『菫』)

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浅田真央、引退報道に「それはすごい驚きました」
Sports Watch  2013年04月16日10時00分

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今月13日、フィギュアスケート・浅田真央がソチ冬季五輪シーズンとなる来季をもって現役を退く意向を示し、大きく報道された。世界国別対抗戦のフリー後、マスコミに向け“五輪を集大成に”と語った後、“引退か”と訊き直した記者に対し、「今はそういう気持ち」と答えていた。

すると、15日、日本テレビ「NEWS ZERO」では、同日収録された浅田真央のインタビューを放送。聞き手は、嵐・櫻井翔が務め、彼女の真意を尋ねた。

一連の引退報道に対し、「試合が終わってインタビューの時に、“とりあえず、今までのスケート人生の集大成として、自分の最高の演技ができるように”って言った時に、終わって記者の方が“それって引退ってことですか?”って言われたので、“今はそのつもりで考えています”って言ったんですけど、次の日になって、色んな方から“すごい報道になってるよ”って聞いて知ったんです」と説明した浅田は、「それはすごい驚きました」とも――。

“引退”という2文字がクローズアップされる格好となったが、浅田は「気持ちもそうですし、オリンピックに向けた想いも、そういう思いでやっているので。(それだけソチに向けた思いが強い?)そうですね。はい」と語った。

また、バンクーバー五輪後の3年間について訊かれると、「アッという間でしたね。バンクーバー終わった時は、“あと4年もあるんだな”っていう思いだったんですけど、今こうして1年もなくなった時に、“はやいな”って思いました」という浅田は、不調が続いた昨季を振り返り、「バンクーバーオリンピックが終わってから、ジャンプの修正をはじめて、そこから約2年間、迷いながら“これでいいのかな、大丈夫かな”って思いながら続けてきたんですけど、それが今シーズンに入ってようやく自分の身体に馴染んできたので、ソチに向けてはいい状態で臨める」と意気込んだ。

さらに、櫻井から復調のきっかけについて質問された浅田は、「うーん、今自分がやるべきことはスケートですし、振付の先生と来シーズンのプログラム、すごく明るい曲だったので、スケートってこういう素晴らしさもあるんだなって思いながら、練習もしつつ、跳べた時の喜びも感じるようになって、やっぱり自分はスケートが好きなんだろうなって思いながらやってました」と語った。

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3回転半の重圧と戦った浅田真央の1年 フィギュア国別・女子FS
スポーツナビ 2013年4月14日 12:38

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 フィギュアスケートの世界国別対抗戦2013は13日、東京・国立代々木競技場で最終日を迎えた。女子フリースケーティング(FS)では、ショートプログラム(SP)5位と出遅れた浅田真央(中京大)が、フリー117.97点、合計177.36点と奮わず、5位で今シーズン最後の試合を締めくくった。1位は鈴木明子(邦和スポーツランド)、2位、3位は米国の2人、アシュリー・ワグナーとグレイシー・ゴールドが入った。


今季最後の演技で浅田を襲った疲労感
 両手を広げてお気に入りのプログラム『白鳥の湖』を終えた瞬間、浅田の表情が大きくゆがんだ。2012-13年シーズンの最後の最後に浅田が見せたのは、強い疲労感に襲われて苦しそうな、これまでに見たことのない姿だった。

 調子自体は悪くなかった。直前の6分間練習でもトリプルアクセルを着氷。本番では、冒頭でそのトリプルアクセルが開いてダブルアクセルになってしまったが、それ以降は流れも良く、ジャンプも次々と決めていた。

 ところが後半に入って急変。演技後に浅田が語ったところの「ちょっと今までにないような、体も足も呼吸もすごい苦しい状態」になってしまったという。それでも何とか持ちこたえて大きなミスなく滑りきったが、後半はスピード感が失われ、終盤の見せ場であるステップシークエンスでも疲れが見られた。

 浅田自身、突然襲った疲労の原因は「分からない」と困惑気味。しかし、浅田を指導する佐藤信夫コーチには思い当たる節があった。
「年々、そういうところが出てきているのは間違いないと思う。(今日の演技は)最初は結構良いかなと思って見ていましたが、トリプルアクセルの負担が後から出てきたかなという感じはしています」


佐藤コーチ、3回転半は「とてつもなく大きい」精神的負担

 これまで、浅田は難易度の高いトリプルアクセルに果敢に挑戦してきた。しかし今シーズンの前半はその大技を封印。佐藤コーチと話し合い、練習で跳べないなら試合に入れるのはやめようと決めてのことだった。

 代名詞であるトリプルアクセルを欠いた浅田ではあったが、それでも次々に勝ち続けた。グランプリシリーズ(GP)の中国杯とNHK杯で立て続けに優勝すると、迎えた昨年12月のGPファイナルを4年ぶりに制覇。スケート技術の高さや質の高い演技で、ジャンプに頼らずとも高得点が狙えるようになったからこその優勝だった。
 シーズン後半からはトリプルアクセルを解禁。今季初のアクセル挑戦となった2月の四大陸選手権ではSPでいきなり成功させて優勝した。続く3月の世界選手権でもSP、FSともに3回転半を跳び着氷。3位に入り、3大会ぶりに世界選手権のメダルを獲得した。

 しかしながら、結果を残してもなお、佐藤コーチは浅田の思うままにアクセルを跳ばせるわけにはいかないと考えている。トリプルアクセルや3回転-3回転といった大技をプログラムに組み込むことで被るものも大きいからだ。肉体的な負担ももちろんあるが、佐藤コーチが心配するのは「精神的なプレッシャー」。「とてつもなく大きい」という言葉で表現したその重圧は、ジュニア時代からトリプルアクセルを跳び続ける浅田に想像以上に負荷をかけているのだろう。

 佐藤コーチ曰く、それでも浅田は「何が何でも(トリプルアクセルを)やりたいという強い気持ちを持っている」という。しかし、「私としては、それが許される状況なのかというのはよく判断しながらもっていかないといけない。その点についてはなかなか(浅田と)心を一つにするのは難しかった」と葛藤したことを明かした。浅田と佐藤コーチのこういったやりとりそのものが、トリプルアクセルに挑戦する難しさを表しているのかもしれない。


ソチ五輪へ「スケート人生の中で一番良い演技を」

 トリプルアクセルに取り組む中で収穫もあった。佐藤コーチは「他のものを犠牲にしないでなおかつ(トリプルアクセルに)挑戦できるというところに向かって、手応えを感じつつある」と自信をのぞかせる。2月に開催されるソチ五輪を控えた来季に向けては「エレメンツを今まで以上に質の高いものにしていきたい」と、さらなる技の向上に強い意欲を見せた。

 ソチ五輪にかける強い思いは浅田も同じだ。FSを終えた浅田は、「五輪という最高の大きな舞台で、集大成の演技ができるように頑張りたい。良い色のメダルがほしい」と、最大の力をつぎ込む考えだ。
「最後はスケート人生の中で一番良い演技をしたい」と、ソチ五輪後の現役引退に含みを持たせた発言も残しているが、どちらにせよ、競技人生最高の状態で五輪を迎える覚悟であることには違いない。

「すぐにスタートしなければいけない」とすでに来シーズンを見据える浅田。ソチ五輪のリンクで全開の“真央ちゃんスマイル”が見られるよう、浅田の五輪挑戦を静かに見守りたい。

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引退示唆の記者会見や、その後のテレビのどたばたやインタビューや、浅田選手本人の発言から何から取りまとめて考えてみるに、記者の「引退ですか?」のひとことに何気なく「そうですね」と答えたのが始まりで、あれよあれよという間に大騒動になったという感じだろうか。

改めてふりかえると、本人はあくまでもソチを「集大成」にするとこころに決めていたことのようだが、「集大成」=「最後」なんて解釈は元々成立しない。集大成はあくまでもそれまでのまとめ、編纂という意味で、ソチの演技で一度、自分の区切りにしようと考えるのは、四年ごとに行われる五輪が当面の目標になるスポーツ選手なら誰でも、ごく当たり前の流れだ。

バンクーバー五輪のSP『仮面舞踏会』とFS『鐘』だって、彼女の十代をいろいろな面で象徴し、五輪出場を目指してきた自身のそれまでを「集大成」したものだっただろう。

テレビの櫻井翔くんとのインタビューは、なかなか柔らかい雰囲気の好い内容だったと思うが(やっぱり、真央ちゃん翔くんのこと好きなんだろうニャ)、「引退」発言なるものが「ソチにかけての意気込み」「決意表明」という解釈でまとめ、背水の陣に近いほどの切実な思いで五輪に挑んでいるというアスリートの声なき声が聞こえてきたのは、櫻井キャスターの仕事ぶりが充実していたということだろう。

「ソチ五輪に向けていま必要なものは」という質問に、「休むことです」と浅田選手が答え、翔くんが大うけしていたのは、さすがに笑いすぎだろと突っ込みを入れたくなったが、このあたりは以前に、「怖いものは」と聞かれてライバルの名前やスケートの技を上げずに「お化けです」と答えていた彼女らしい天然さを髣髴とさせて気持ちが和んだ。

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肝心のジャンプについては「今シーズンに入ってようやく自分の身体に馴染んできたので、ソチに向けてはいい状態で臨める」と語っているのが、後のスポーツナビのコラムにある、佐藤コーチの「他のものを犠牲にしないでなおかつ(トリプルアクセルに)挑戦できるというところに向かって、手応えを感じつつある」という発言に照応していて、自分自身も周囲の眼からも巧く矯正が進んで、レベルアップが成功している様子が伝わってくる。

何だかろくに取材も確認もせず、実際は心配しているんだか茶々を入れたいだけなのかよく分からないスポーツ報道など読んでいると、やれ腰痛が不安だの練習中ジャンプで失敗続きだの体重コントロールが難しいだのと、目にした側が気分が滅入るような根拠のない情報や憶測ばかりを何が目的か知らないが、配信しては誤報の文責もとろうとしない記者がうじゃうじゃいて、げっそりだ。

テレビ番組でのバッシングや中傷や苛めなども今さら始まったことではないが、ほとほと大人げないに尽きるコメンテーターも、フィギュアの衣装を二言目には「子どもっぽい」と貶す前に、公衆の面前で発言する場所で帽子ひとつとらないマナー知らずな自分のファッションが果たして大人の礼儀に叶っていると言えるのかどうか、振り返るべきだろう。


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さて、くだらないことにいつまでも腹を立てていても仕方ないので、今回はまた遠回りだけれど、まさきつねの好きな花と詩の話から始めよう。

前の華展の報告記事でも書いたのだが、まさきつねはパンジー(三色菫)が好きで、冬から春にかけては必ず庭にこの花を植える。

もともと色とりどりな種類があって、さまざまな色調が楽しめる花ではあるが、近年はフリルのように花弁が縮れたものもあり、大きさも小ぶりなヴィオラまで入れると多種にわったているのでいろんな楽しみ方ができ、おまけに花期も長いのでガーデニングには文句なしに重宝する植物なのだ。

ところで、(まったくフィギュアに関係なく申し訳ないけれど)冒頭に掲げた西脇順三郎の詩だが、実に解釈の難しい詩である。はっきり言って、分からない。

分からないけど、美しい。

(ちなみに、この前の記事で掲げた三好達治と西脇順三郎の間にはかなりの確執があったとかそうでないとか…。三好達治の詩を「俳句のようにイメージから出発している」と考えていた西脇には、自身の詩作に比べると随分異質に感じられたということだろう。)

美しいものは美しいで済ませておけばいいのだが、下世話な人間はついその美しさの理由を探ってみたくなる。
そこで(無用と分かりつつも)、この詩のあっちこっちをひっくり返し、つつき回してみたくなるのだが、まずはまさきつねの知る範囲で詩の中のことばを拾ってみる。


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最初の「コク・テール作り」だが、これは古代ギリシャ語のクラテール(kratēr、古代ギリシア語: κρατήρ)から来ていて、「クラテール」は古代ギリシャで葡萄酒と水を混ぜ合わせるのに使用した口幅の広い大型の甕のことだという。

ギリシャ詩の翻訳で知られる呉茂一はこれを「酒和え甕」と訳しているそうだが、ワインを水割りで飲むのが一般的だった当時いわゆる饗宴の場では,甕を部屋の中央に据え、その中で水割りされた混酒を別の容器に移して客に注いで回った。
こうした宴会の様子はホメーロスの『オデュッセイア』などにも描かれているが、宴会の参加者たちは饗宴を始める前に、ワインを希釈する配合を決めたり、客に給仕したりする亭主役(「酒の普遍的な支配者」と呼ぶらしい)を決めた。亭主役はクラテールの種類を選び、宴会中は客の酩酊状態を見極めながら、水の配合や出す酒の量を判断し、泥酔客を出さずに饗宴を円滑に仕切るのが務めだったようだ。

次の「銅銭振り」というのは、酒からカクテル・シェーカーの「振る」という動作を連想し、「振る」から「御神籤箱」を連想し、御神籤の「籤」から「銅銭」というように言葉遊び的な駄洒落という分析もあるが、まさきつねは、饗宴の亭主が酒と割る水の配合を決めるというところから、銅銭を投げてことの良し悪しを判断するという発想ではないかと感じた。
「みすぼらしい」はいわゆる酒と水を混ぜる吝嗇臭さに由来するものだろう。

けちったらしく葡萄酒と水を混ぜてはいるが、それがギリシャの豪華な哲学者たち詩人たちの顔ぶれを揃えた饗宴で調合されるということばの流れに、「黄金の音」の響きを聴く。

四行目の「バコスの血とニムフの新しい涙」は、ティモテオス〔前450頃-360頃〕の詩「キュクロープス」の断片からそのまま転載した表現らしい。「バコスの血」はワインのこと、「ニムスの新しい涙」は水である。

この二つが混合されて、「暗黒の不滅の生命が泡を吹」くのだが、これはそのまま「葡萄酒が泡を吹く」という、ギリシャ語では比較的慣用に使われる表現として受け取れば良いのだろう。ワインがなぜ「暗黒」かという疑問はあるが、まさきつねは「黒い葡萄酒」という色彩としての受けとめ方より、のぞきこんだ甕の中にあるワインが漆黒に見えたのではないかという視覚的現象でとらえている。

甕の底で泡立つ葡萄酒は、いかにも混沌の中から甦り、泡のような気を吐く生命の象徴とイメージできる。

そしてもっとも問題なのは「灰色の菫」なるバーと「車輪のように大きなヒラメ」である。

順番が逆になるが「ヒラメ」の方から解説すると、これはどうやらプラトンの『饗宴』の中で語られる喜劇作家アリストパネスの有名な「アンドロギュノスの神話」の中にヒントがあるようだ。

『饗宴』(きょうえん、古希: Συμπόσιον、Symposion、シュンポシオン)は、紀元前418年アテナイの悲劇詩人アガトンが劇の競作コンクールで初優勝した翌日、その祝いに友人を招いた祝賀会を設定とした、プラトンの中期対話篇のひとつで、そのイデア論を代表する著作である。

主催者は無論アガトンで、出席したソクラテスの提案で愛の神エロスを賛美する演説を行うこととなり、パイドロス、エリュクシマコス、アガトン、アリストパネスが演説をする。

以下、抜粋である。

「…つまり、人びとは愛の力というものを、全然と言ってよいほど感じてはいない、というふうにね。(中略)第一に、人間の性別は三種類あって、現今のように男性女性の二種族ではなく、そのうえになお、両性をひとしくそなえた第三の種族がいた。(中略)つまり。昔々、男女両性者(アンドロギュノス)というものが、一つの種族をなしていて、形の点でも、男女両性をひとしくそなえつつ、存在していたというわけですね。(中略)
そして、円い背、円筒状の横腹をそなえ、四本の手、手と同数の足を持ち、また円筒状の首の上には、すっかり似通った二つの顔を持っていた。
(中略)ところで、太古の人間に、かく男性、女性、両性と三種族いたこと、およびそれぞれそのように円い形をしていたこと、この原因はほかでもない――つまり、男性はその初め、太陽の裔(すえ)、女性は大地の裔、男女両性者は、月を分有していたからなのです。
(中略)ところが、彼ら三種族いずれも、その強さ、その力の点で、まことにおそるべきものがあった。倨傲なる志をも持っていた。そこで、神々に謀反をくわだてた。(中略)
そこで、ゼウスの神をはじめ、他の神々は、彼ら人間たちをいかに始末すべきかと、ご相談になった。(中略)そこでゼウスの神は、さんざん考えぬいた挙句、(中略)人間どもを真っ二つに両断された。(中略)
僕たち各人は、いわば平目さながら、一つの全体から二つの半身に両断されたわけで、各人それぞれ、人間の割符のようなものとなるわけですね。ですから、各人は、不断に自分の割符を求めておる。」

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☆Speech of Aristophanes☆

ここに出てくる「平目」が、真っ二つに割かれた両性具有(アンドロギュノス)のたとえであり、西脇の詩に登場する「ヒラメ」の背景となる。

なお、この愉快な哲学談義の饗宴はこの後、ソクラテスの信奉者であるアルキビアデスがしたたか酔っぱらって乱入するという騒ぎになり、ソクラテスへの熱烈な少年愛(paiderastia)の告白と失恋を吐露するというくだりになる。
稀代の美少年アルキビアデスが醜い老人のソクラテスに首ったけになり、しかも袖にされるのだから、こうした倒錯した恋愛に興味津々の人間からすると実に趣き深いエピソードである。

(ちなみに美貌と武勇で誉れ高い軍人だったアルキビアデスは、自らの野心ゆえにアテネを裏切る軍事行動に走り、その余波でソクラテスは若者たちを唆したという濡れ衣を着せられる。断罪されたソクラテスは毒人参入りの飲み物で処刑されるのだから、愛の因果は実に怖ろしい。)

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『アルキビアデスの像』

さて、アルキビアデスの登場場面と、彼の語りの一部もいかに抜粋しておこう。

「するとまもなく中庭で、アルキビアデスの声が聞こえた。彼はひどく酩酊していて、アガトーンはどこにいる、と訊ねたり、アガトーンのところへ連れて行け、と言いつけたりしながら、大声でわめいていた。そのうちに、先ほど声の聞こえた笛吹き女や、その他数人のお供が支えながら、彼を一同のもとに連れてきた。彼は、常春藤(きずた)と菫の、葉も房々と編んだ花輪をいただき、頭には、あまたの綬(リボン)を結え、部屋の入口で立ち止まって言った。『諸君、ご機嫌よう! かくもひどく酩酊した男でも、諸君の仲間に加えてもらえるかね!(中略)』
ところで、ソークラテース、この話も、僕がいつわっているとはおっしゃいますまい。さて、かくも僕は振舞ったわけだったが、この人は、げにも鮮やかに僕を負かしてしまった。つまり、ぼくの若さの美を、軽蔑し、冷笑し、歯牙にもかけぬありさまだったのです。」

この一節から、アルキビアデスが「菫」を編みこんだ花冠を被って酒宴の席に現れたということが分かる。

この派手な闖入者のおかげで、形而上学的な恋愛論だった酒宴は一気に人間の愛憎劇ともいうべき生々しさを増し、後世のロマンティストたちの格好の題材にもなって、「プラトンの酒宴」は艶めいたエロスと知が交錯する場面として伝わることになったのである。

フィギュア317-11
アンゼルム・フォイエルバッハ『プラトンの酒宴』1871-1874年


西脇の「灰色の菫」というバーは、まさにこの、両性具有や少年愛の味付けがされたプラトンの酒宴に構図を借りており、葡萄酒と平目やハーブの入った地中海料理の芳醇な香りがたちこめる空間で、馥郁とした哲学的思索に導かれていく思いがする。

そして詩に散りばめられている「黄金」「灰色」「暗黒」という色の名前に曳かれる色彩的なイメージが、豪奢に過ぎてゆく時間の深さを喚起する。

「灰色の菫」というのはセミナーで語った西脇の言葉からすると、「灰色の菫というのは古典的な言い方でしてね。どういうものか、紫が灰色に見えたのか、ギリシヤでは灰色の菫と言うんですよ。これは、ギリシア語から来たんです。僕としちゃ、おもしろいからつけたんです。日本では、菫が灰色だったらおかしいんです。遠いものが連結されている気がするでしょ」ということらしいが、どうやら西脇の真っ黒な嘘で「ギリシャ人が菫色と灰色を同一視していた」と「思い込んでいた」ことによる誤解だったそうだ。

実際にはギリシャの詩において菫の色は、「黒」とか「青黒」などと形容されていたようだが、ギリシャ語にも色彩の言語学にも疎いまさきつねにはこの辺り、よく分からない。

色に関する真偽は断定できないが、まさきつねは「灰色の菫」という言葉から、クリスティのポワロが口癖にする「灰色の(脳)細胞」を思い出す。
そういえば三色菫のかたちは、なんとなく大脳の断面図に似ている気がするのだがどうだろうか。

灰色の菫の花冠を頭にいただく美貌の酔っ払い男が失恋談義を語り、葡萄酒を水で割る亭主が含み笑いをしながら場を仕切り、海千山千の老ブルー・ボーイが部屋の隅に横たわって若者たちの乱痴気騒ぎを目を細めて眺めている酒場…、何だか現代のゲイ・バーと大して変わらぬ風景のような気もするが、西脇のことばの魔術にかかると、酒宴は不思議なリズムで登場するものたちの輪郭を浮き彫りにしてゆくのだ。

たとえば「銅銭振りであるが」の「あるが」は、異質な改行をされて文頭に置かれ、「コク・テール」と同等の強さで音を響かせる。すると「みすぼらしい」銅銭振りは、「ギリシャ」という言葉と化学反応してたちまち、「黄金」のきらきらしい輝きを纏うのだ。

「灰色の」脳細胞をそなえた知の伝道者たちが集まるバーに、菫の花びらや音楽を辺り一面ばらまきながら酩酊の美少年が登場する。酔った少年はバコスとニムフの血筋を引く、アンドロギュノスの正統な継承者である。
そして泡を吹く葡萄酒と魚料理が振る舞われ、豪奢な酒宴の一夜は過ぎてゆくのだ。…

西脇の難解な詩を分析するつもりはさらさらないのだが、彼がことば遊びを楽しんでいるように詩を読むなら、こんな風にことばを転がしてイメージの遊びを楽しむことも許されるだろう。

西脇は「真の詩人は両性具有である」と言っていたが、彼のことばもぞくぞくするほど官能的に詩人が置き去りにした詩の断片を彩るけれど、彼自身のもつ逸話も同じように悩ましく、そしてなぜかあどけない。

以下、富岡多恵子による、西脇順三郎の不思議な行動をとらえたエピソードである。

「またかなり前のことだったが、偶然に神田でお目にかかって、鳥屋でトリのスキヤキをごちそうになったことがある。広い座敷のようなところにたくさんの食卓があり、ひとびとが鍋をかこんでいた。食卓の間には申し訳のように背のひくいついたてが仕切りについていた。わたしはまわりのざわめきに落着かず、入口からだれかが入ってくるたびに、仕切りのついたてごしにキョトキョトとのぞいていた。あなたは入口からいい男が入ってくるかと思ってキョロキョロしている、と詩人はいわれた。それはあなたが魚だからである、と詩人はいわれた。女は魚である、魚は泳ぎながら産卵する、だからいつもキョロキョロしているのだ、と詩人の声は大きくなった。
とつぜん、わたしは女だからそれがわかる、わたしは女ですよ、といいながら詩人は立ち上った。まわりの食卓のひとびとは、女ですよ、と立ち上った人間が男であったので驚いて眺めた。」

アルキビアデスはソクラテスを「この人は、あたかも自分が愛する者であるかの態度を擬して彼らを欺いてはいるが、そのじつ、彼自身は、愛する者でなく、むしろ愛される少年の役割に身を置いている」とその本性を暴露していたが、西脇自身が白状した正体もなかなかに刺戟的である。

そして彼の詩のように、あどけない。

酒がどれほど入っていたか知らないが、こういう詩人の狂騒は、まさきつねには頭痛がしてくるほどの好物である。

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そしてここからはもうひとり、「菫」つながりで、西脇とは全く違う詩的世界だが、異端の女流詩人をご紹介しよう。

十九世紀末からパリで活躍し、「菫のミューズ」といわれた夭逝の象徴派詩人ルネ・ヴィヴィアン(Renée Vivien)である。

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本名をポーリーヌ・メアリ・ターン(Pauline Mary Tarn)といい、1877年ロンドンの富裕層に生まれた彼女は、妹とともに幼少期をパリの邸宅で過ごし、父の死後、ロンドンに引き上げてからは、抑圧的な母との関係に悩みつつ成人した。
父の遺産の一部を相続すると、パリに移り住んで、専らフランス語による文筆活動に入り、1901年性別不明の名前で処女詩集を刊行している。

1903年からは女性と分かるルネ・ヴィヴィアン(Renée Vivien)の筆名を用いて精力的な文筆活動を開始し、自身の同性愛嗜好を告白して、かつてサッフォーの主宰した乙女の苑に比肩する女流詩人らの文苑建設を夢み、恋人ナタリー・クリフォード・バーネイと行動をともにした。

富と美貌、そして文才に恵まれた彼女は、その詩風やレスボスへの傾倒から「ボードレールの娘」「1900年のサッフォー」とも呼ばれ、象徴派詩人のマドンナとしてその名を馳せたようだ。

しかし恋人であるバーネイは「世紀末からベル・エポックへ」とよばれた時代で最も有名なパリのアメリカ人であり、もっとも有名な美貌の女色家で、そして最もスキャンダラスで不実なパートナーだった。
バーネイの美女狩りは「月光(ムーン・ビーム)」(凄いニャ)と呼ばれ、パリ社交界のスキャンダラスな噂のネタだったが、バーネイはそんなことを意にも介さず、色恋沙汰を繰り返し、ヴィヴィアンを嫉妬で狂わせた。
(この辺りの経緯はジャン・シャロン著作『レスボスの女王』に詳しい。)


バーネイと別れたヴィヴィアンは、ほかの恋人とも愛情と詩作でつながった関係を築き、旅と文筆活動に明け暮れるが、二十代末ころから倦怠と拒食の病に伏せるようになり、東洋趣味で飾った邸宅に引きこもりがちになる。親しい友人が訪れるばかりの日々の中、かねてより念願だったカトリックへの改宗が叶うと、1909年パリの邸宅にて三十二歳の若さで夭折する。

ヴィヴィアンは繊細な感覚の持ち主で、男性の野蛮で粗野な振る舞いを嫌悪していた。
また東洋に憧れ、明治の日本へも来訪した旅行記録があるが、客のマルセル・ティネールの記述によれば、彼女の邸宅は中国の繻子とおぼしき布を張り巡らした部屋には香が焚きしめられ、提灯の明かりのもと、黒檀の家具が置かれ、中国の鐘や日本の書物、それに東洋の仏像や女神像が並んでいたらしい。

彼女は食事の時もシャンパン以外のものを口にせず、喫煙室でソファーに横たわりながら阿片の混じったタバコを吸ったと報告されている。

精神的な偏向と鬱の症が彼女を摂食障害に追いつめ、病的な暮らしぶりが早逝へ至らしめたということのようだ。

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ヴィヴィアンの時代の「菫」はいわゆるラヴェンダー色というのか、まずは紫色をしているだろう。

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ラヴェンダーがレスビアンを象徴する色と広く認識されるようになったのは、1970年代からだと思うが、そのずっと前から薔薇色は同性愛(ピンクトライアングル)、青色が異性愛を表していると考えられ、その両方の色が混じりあってできるラヴェンダー色を両方の性的志向(両刀使い)を表すととらえる傾向があったようだ。

ヴィヴィアンの活躍した十九世紀末に、レスボスの先駆者としてまずその筆頭にあげられた古代の女流詩人サッフォーは、友人でありレスボス島の詩人だったアルカイオスの詩で、「菫のみづらの、きよらかに やさしく微笑(えま)ふサッポオよ」と賛美されており、また彼女の詩の中にも彼女と恋人が菫の花冠を被る描写が残されている。

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「喜びをもって行きなさい、そして私のことを思い出しなさい
私たちがどんなに結ばれていたか知っているでしょう
知らないの、それなら
思い出させてあげましょう
私たちがどんなに美しいことを共にしたか
たくさんの花冠を
バラやすみれやクロッカスで作って
髪の毛を飾り
香り高い花綵をたくさん
愛らしい花で編んで
首のまわりにかけ
たくさんの没薬を
高価な香油を……
なめらかな肌にすりこんで
やわらかい床に横になり
憧れを…………」

先ほどの『饗宴』にも菫の花冠が出てきたが、たとえば「挿頭 (かざし)に編むは白すみれ、編むはやさしい水仙の花。桃金嬢 (ミルテ)に添へて、編むはまたほがらかに笑ふ百合の花。」というように古代詩の中で、恋愛や美しいひとを形容する表現として菫は多く出現する植物なのだ。

そしてこうした事情から、1910年代から50年にかけて、レスボスの愛に生きる女性たちの間で菫の花を贈りあう習慣が見られたらしい。

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勿論、最初に述べたように、菫は色も形もとりどりで、ニオイスミレやサンシキスミレなど種類も豊富な上、後の改良種もたくさんあるので、すべてを一緒くたにして論じてはいけないのかも知れないが、詩というのは元来言葉のイメージを楽しむ世界だし、図像学的な観点から受けとめれば、菫が古くからこの異端の愛のモチーフであったことは間違いないのだ。

翻って、まさきつねは西脇順三郎の「私は女ですよ」ということばの裏に、両性具有からもうひとつ踏み込んだ女性同性愛の香気を感じる。

二つに断ち切られた平目の、あてどなく自分の割符を探して菫の花で飾られたサロンを彷徨う、頽廃の美貌を想像する。

菫、水仙、ミルテ、百合、そして薔薇といった花々が咲きほこるギリシャの野辺から、葡萄酒の酒杯が酌み交わされるバーをめぐり、漁師たちが網を打つエーゲ海の紺碧の入り江まで、詩人のことばに導かれるように,やさしい春の風に吹かれてイメージの欠片を踏んでゆくのだ。

ことばの馥郁たる香りに目覚める灰色の細胞が、詩の効能だと思う。


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ギュスターヴ・モロー『岩の上のサッフォー』1872年頃

***************


さて、今回はこの前のローリー・ニコルプログラム五選に続いて、まさきつねが好きな浅田選手のプログラム、タチアナ・タラソワ篇を挙げておこうと思う…が、実は正直な話、嫌いなプログラムがひとつもないのだ。
どれもが何度繰り返し観ても飽きない、エレメンツもギュウギュウ詰めの振付だと感動する。だからとりあえずの五選だと思っていただきたい。

そして、多分大方のファンが選ぶものとさほど差異はないのではないかと思う。


五位 『ポル・ウナ・カベサ』
作曲:カルロス・ガルデル/パジャドーラ 作曲:フリアン・プラサ
ふぃぎゅあ317-20


四位 『仮面舞踏会』
作曲:アラム・ハチャトゥリアン
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三位 『バラード第1番ト短調』
作曲:フレデリック・ショパン
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二位 『ヴァイオリンと管弦楽のためのファンタジア』映画『ラヴェンダーの咲く庭で』より
作曲:ナイジェル・ヘス
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一位 『前奏曲「鐘」』
作曲:セルゲイ・ラフマニノフ
フィギュア317-24


タチアナコーチのコレオ作品はこれまでのところ、十作しかない。なのでいっそ、十位まで並べても良かったのだが、そうすると無理矢理、全部に順位を付けなくてはならなくなる。

ショパンの『ワルツ第7番 嬰ハ短調作品64-2』はあまりに披露した回数が少ないので外したが、衣装も演技もたまらなく愛くるしくて、凝ったコレオも見飽きなかった。

シュニトケの『タンゴ』は、試合ごとにほとんど毎回別衣装に変えるという贅沢さだったが、裏を返すと、ジャンプの矯正中ということもあり採点が伸び悩み、打開策を探して迷走したあげくの荒技だったのだろう。
(つまり浅田選手の場合、衣装デザイン変更にほとんど手を付けない方が演技内容としては満足しているということなのだろうが、観る側としては、一作に付きせめて二回くらいは衣装変更があるとうれしいかも知れない。)

この『タンゴ』は最後までなかなか納得のいく出来に到達しなかったのかも知れないが、哀愁を帯びたメロディーに詰め込まれたエレメンツは高難度で、あっという間に時が過ぎるくらい、演技を追う側にとっては面白い作品だった。
しかし、やはりジャンプなどの瑕が大きく、その背景を思い出すのもつらい部分があるのでこのたびはこれも泣く泣く外した。

『カプリース』などは、『ポル・ウナ・カベサ』と比べて、初見の衝撃度で落としたが、あの小道具の扇を使った演技も忘れがたい作品である。不思議な印象のコスチュームも個性的でまさきつねは好きだった。

『シェヘラザード』は最後まで外したくなかった珠玉の作品だが、可愛らしくまとまった分、演技の大きさで物足りなさが残り、これも選外へ。

そして今季の『白鳥の湖』なのだが、『シェヘラザード』同様、王道中の王道で、『バラード第1番ト短調』と入れ替えてもとは思ったのだけれど、癖のあるものが好きなまさきつねとしてはやはり、本番の晴舞台に立ったプリマバレリーナのグラン・ヒュッテよりも、練習場でパ・ド・トロワの稽古をしている初々しいバレリーナを垣間見るような作品の方により魅かれるのである。

…と勝手なことを書き連ねているが、勿論ファンそれぞれどの作品に思いがあるか違っていて当然なので、どうかあまりお気にされぬように。


ところで、まさきつねはいつもタチアナコーチのコレオを観るたび、その美しさと強さ、優雅さと高貴さの入り混じった複雑な表現に、ジェンダーを超えた芸術性を感じる。

豪奢な詩を読んだ時と同じような、灰色の細胞を揺さぶる衝撃に全身が共鳴する。

日常を外れた異端の美しさ、孤高の反逆精神、聖的な郷愁と透明なエロティシズム、得体の知れぬ想像の力、そして背徳のポエジーが根底にある。
西脇の弁によれば「真の詩人」だが、真の芸術家もまた「両性具有」だと思う。

『ヴァイオリンと管弦楽のためのファンタジア』の浅田選手は朝露を浴びたニンフだった。彼女の妖精のような透明感は、俗世の人間臭を一切持たなかった。

そしてラフマニノフの『鐘』は、おそらくこの先この作品の芸術性を超えるプログラムは現れないだろうと確信できるほど、すべてを突き抜けた異形性に充ちていた。

年を重ねるごとに、五輪の記録が頭から薄れていくほどに、ただその作品の本質と美の衝撃だけがこころの中で浮き彫りになってゆく。

うるわしきアンドロギュノスの系譜は、真の芸術を創造するもの、真の美と、真のポエジーを伝えるものだけが引き継ぐのである。


フィギュア317-18

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菫たちの慎ましい加護のもとに、
私は物言わぬため息と苦悩を置きましょう。
それは今宵私について離れないもの。
このあまりにも美しい宵に!
(ルネ・ヴィヴィアン『菫への祈り』)

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氷の上のメアリー・ポピンズ

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「どうなんだろう!」とマイケルが、半分ひとりごとのように、小声でいいました。
「なにが、どうなんです?」メアリー・ポピンズが、買い物のつつみを整理しながら、いいました。
「もし、あなたといっしょでなかったら、あんなことが起こったかどうかしらと思って。」
(P.L.トラヴァース『帰ってきたメアリー・ポピンズ』)

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浅田選手の新EXが「THE ICE」でお目見えした。

☆浅田真央 / Mao Asada ~ THE ICE 2012☆


今はもう既に終盤に入ったロンドン五輪の開会式でも、落下傘部隊のごとく舞い降りたポピンズ部隊が話題になっていたが、イギリスの中流家庭では馴染みの深い雇われ家庭教師を代表するキャラクターであり、愛すべき夢の住人のひとりである「メリー・ポピンズ」が氷上に現れたということである。

ポピンズはパメラ・リンドン・トラヴァースの原作によると、桜町通り17番地、バンクスさんの一家に東風に乗ってやって来た乳母という設定で、つやつやとした黒い髪をもち、やせていて手や足は大きく小さいキラキラした青い目をして、ちょっと木のオランダ人形に似ているという風貌である。

挿絵を描いたメアリ・シェパードは、やはりイギリス童話の名著である『クマのプーさん』の挿絵を描いたE.H.シェパードの娘で、父親譲りのデッサン力とイギリスらしい品のある世界観は秀逸だ。その絵のイメージからしても、ポピンズの年齢は不詳で、「マッチ売りのバート」という恋人候補がいるけれども、どうしても年の離れたカップルという風にしか見えない。

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口調は辛辣で辛口、決して子供たちを甘やかさず、しつけに厳しく、おまけにショー・ウィンドウに自分の姿を映して見るのが、街を歩く第一の理由にすらなるうぬぼれの強いナルシスト、というのがポピンズの重要なキャラクターで、何でも見通しているような賢さと万能の神通力は、イギリスの誇る名探偵ホームズにも似通ったところがあり、意地悪だが頭がいいというのは英国特有の愛すべき性格設定のひとつなのかも知れない。

だから、どこからどう見ても可愛らしい浅田選手を「ポピンズ」さながらと形容するのはちょっと難しい部分もあるのだが、そこはバートとの恋愛模様同様、「おとぎの国」の魔法がなせる技と考えるのが妥当だろう。

ところで、Mary Popinsは「メリー・ポピンズ」か「メアリー・ポピンズ」か、どちらの呼び方にこだわるかというのは、原作から慣れ親しんだか、それともウォルト・ディズニーが1964年に制作したミュージカル映画により親近感を覚えたかということに由来するようだ。

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映画はジュリー・アンドリュース主演で、ディズニー独特のアニメーション世界に生身の人間たちを紛れ込ませ、現代のようなCGのない時代にありえないような超人的アクションや夢のようなダンスを仮想現実としてフィルムに定着するという奇蹟をやってのけ、アカデミー賞五部門を受賞した秀作。
だが、ディズニー作品ではありがちのことだけれども、原作の持つ毒気がことごとく抜かれ、ポピンズの性格もかなり和らげられて、優しく温かくバンクス家を見守るというスタンスに変えられているあたりが好みの分かれるところだと思う。

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さても浅田選手のEXは、衣装デザインから音楽から、ディズニーの映画をそのまま拝借しているようなので、ポピンズの個性に本来の原作にある文学的な解釈や哲学的思想を読み取るといううがった見方をするよりも、アメリカナイズされた純粋なエンターティメント作品としてその踊りや音楽を楽しむべきなのだろう。

だがそれでもまさきつねとしては、いくつかの側面で、原作のメアリー・ポピンズの持ち味と浅田選手にしか醸し出せない重要な人間性が重なるような気がしたので、今回はそのあたりを中心に論述してみたい。


まず、『メアリー・ポピンズ』という作品について概略だが、オーストラリアからイギリスに移住した作家、パメラ・リンドン・トラバース(1899年~1996年)が書いた、いわゆるエブリディ・マジックと呼ばれるファンタジー・ジャンルに分類される古典児童文学シリーズのひとつである。

シリーズは1934年から1988年にかけて刊行され、ウィキによると一覧は以下の通り。

Mary Poppins (1934) 『メアリー・ホピンズ』『メアリ・ポピンズ』『メリー・ポピンズ』『風にのってきたメアリー・ポピンズ』『空からきたメアリー・ポピンズ』
Mary Poppins Comes Back (1935) 『帰ってきたメアリー・ポピンズ』
Mary Poppins Opens the Door (1943) 『とびらをあけるメアリー・ポピンズ』
Mary Poppins in the Park (1935) 『公園のメアリー・ポピンズ』
Mary Poppins From A–Z (1962) 『メアリー・ポピンズ AからZ』『メアリー・ポピンズ AからZまで』
Mary Poppins in the Kitchen (1975) 『メアリー・ポピンズのお料理教室―おはなしつき料理の本』
Mary Poppins in Cherry Tree Lane (1982) 『さくら通りのメアリー・ポピンズ』
Mary Poppins and the House Next Door (1988) 『メアリー・ポピンズとお隣さん』


トラヴァースに関しては2006年に現代英米児童文学評伝叢書全12巻の一冊として英米文学研究者の森恵子さんが著した『P.L.トラヴァース』が詳しいが、そのあとがきによると30年近く前、森氏が修士論文の題材として『メアリー・ポピンズ』を取り上げたいと申し出た際、指導教授から「あんな子どもだましの、でたらめな作品はない」と一蹴されたと記されている。

アニメや漫画といったサブ・カルチャーさえ大学の研究対象として真面目に取り上げられるようになった今日では、さすがにこうしたけんもほほろな物言いで否定されることはないだろうが、それでも輝ける英米児童文学の金字塔とされる『不思議の国のアリス』や先ほど挙げた『クマのプーさん』や『ピーター・パン』、あるいはフランスの『星の王子さま』といった作品群に比べるといかにも、『メアリー・ポピンズ』を正面から取り上げた評論は少なく、「子どもだましの、でたらめ」と突き放される不思議な謎に満ちた空想世界を分析したり、その魅力を解明したりしようとする文学研究者は決して多くはないようだ。

この理由や諸事情は後でまたまとめて記すとして、「子どもだましの、でたらめ」とある種の人には理解されないポピンズの物語やその不可解きわまる個性から溢れ出る魅力の秘密は、一体何に由来するものか。

そもそも「メアリー・ポピンズ」という人物像は何か、魔女か、はたまた妖精かという興味深い視点から書かれたいくつかの論文があるので、たちまちそれをご紹介しながら、彼女がバンクス家の子供部屋にかけた魔法の秘密に迫ってみよう。

最初に、メアリー・ポピンズを「魔女」と位置付ける捉え方についてだが、それは無論、醜怪な風貌で箒に乗って空を飛んだり、魔術を使ったりするような類いの悪魔的なイメージのものではない。

彼女は確かに、傘を片手に空からやってきた不思議な異次元の人である。
太陽や星と旧知の知り合いであり、古代ギリシャの神々と親しく交際し、カラスや犬といった動物たちと言葉を交わす、まるで創世記の宇宙に昔から関わっているような印象の、神かキリストに近い感覚の神秘的な存在なのだ。
だが一方でその風貌は、少しばかり怒りっぽくてうぬぼれが強く、傍目のおしゃれに気遣う普通の女性と寸分変わりなく、大抵は常識的だが時には理不尽な理由で子どもたちを抑えつけることもある、ごく一般的なナニー(子供の世話係)に過ぎない。

勿論、「魔女」という存在それ自体、一辺倒なイメージで捉えられるものではなく、比較文学者の佐藤宗子氏の論文『「魔女」という見立て…日本における「定着」をめぐって…』によると、物語に出現する「魔女」には大別すれば二つだが、幾種類かの体系分けが可能であり、また児童文学の範疇ではとらえきれない「魔女」の性質もあり、その区分の中において「非日常と日常がもう少しからむ『魔女』たち」として、「メアリー・ポピンズ」や「長くつ下のピッピ」といったキャラクターを挙げている。

そして最も興味深いのは、この論文の中で紹介されている児童文学作家の上野瞭氏による『魔女失格』というメアリー・ポピンズ論で、上野氏は「魔女」というのは「もっとわるいものじゃないのか」という持論を元にメアリー・ポピンズを「うさん臭い魔女」と位置づけておられるのである。

『魔女失格 メアリー・ポピンズ論』

上野氏の論旨は、バンクス家の子どもたちが乳母の後にくっついて歩く「いい子」であることを条件に、魔法を見せるポピンズのやり方は「反則」だというもので、彼の言葉を引用すると「彼女自身が、もうそれだけで、ひとつの学校みたいなものだ。子どもたちすべてを、言いつけどおりに従わそうとする。すごく意地悪の教師なのだ。人間の日常的秩序の維持に献身する魔女。ぼくは、そこに、『うさん臭い』ものを感じるのだ。」という否定的な見方に落着する。

実は、作中の登場人物にしろ作品を読む読者にしろ、メアリー・ポピンズの生み出す世界に抵抗なく心酔する子どもたちに関して、彼らを、現実を肯定し現状を維持することに対してなんら疑問も批判精神も持たない、大人のすることに対してすべて受け身のいわゆる「いい子」に属する優等生と断定する一方で、『メアリー・ポピンズ』をつまらない、面白くないと評する部類の子どもたちがおり、その観点からファンタジー作品としての『メアリー・ポピンズ』の抱える課題やポピンズという人物像の問題点を論じている児童文学の研究者は、上野氏だけではないのである。

児童文学作家の安藤美紀夫氏は、『世界児童文学ノートⅡ』という著書で上野氏の意見を肯定的に紹介し、家政婦という「雇用された魔女の限界」があり、それは「明らかに時代がもたらした限界」であると論じている。

『ゲド戦記』の翻訳者、清水真砂子氏も『「メアリー・ポピンズ」のファンタジーについて』という論文の中で、「ファンタジーとは単なる遊びごとではなく、たとえ直接的でないにしろ、私達の現実の生活の中に隠れている可能性を見つけ出して、それによって現実を変革していくエネルギーとなるもの、そういう何か非常に創造的なもの」という独自のファンタジーに対する見解を述べられた上で、「『メアリー・ポピンズ』の作者にとって、実際に自分のいる世界は、根本的にはもはや何らあらためて検討するには及ばない世界」とトラヴァースの作品について、現実に対する変革精神のないその非創造性を危惧しておられるように思われる。

もっとも清水氏は、上野氏や安藤氏のように、現状維持の厳格さ故に「魔女失格」のポピンズと、ファンタジーの受け身である故に「いい子」の枠をはみ出さないバンクス家の子どもたちという登場人物の構図によって、単純に「つまらない」「おもしろくない」本と言い捨てるのではなく、「これほど自由自在に空想の世界と現実の世界との間を行き来する物語」はないとも論じておられるし、「ポピンズは明らかに超人でありながらも、現実の世界の人間の持っている性質も兼ね備えているということ、つまりひどく日常的な面をもっている」ことに魅力があるとも評しておられるので、決して「メアリー・ポピンズ」というキャラクターに創造性豊かなファンタジーの可能性のすべてを否定しておられるわけではないと受けとめられる。

そもそも上野氏のいうような悪いものであるべき「魔女」という位置づけがメアリー・ポピンズの本来の設定にどこまでそぐうものであるのかどうか、原作者であるトラヴァースの創作意図の中に本質的にあったのかどうか、まさきつねには到底思えない。

有体に言えば、ポピンズの物語世界は上野氏の論じるように本当につまらないのか、読者である子どもたちにとっておもしろくない本と否定されるものなのか。
正直なところ、まさきつねは、この結論に納得したくないのである。


ポピンズに魔女的な超自然的な霊力に結びつく神秘性を与えているもの、それはとりもなおさず、オーストラリア出身の原作者トラヴァース自身が持っている独特の、宇宙を含む自然観と、霊魂や神話や祖先に対するアプローチに機縁するものだと考えられる。

トラヴァースは、スコットランド人の母とアイルランド人の父を持ち、1906年、オーストラリアの北東部クイーンズランドで生まれ、子ども時代を豪州独特の豊かな自然に囲まれて過ごしたという。家の近くには、紺碧の海と珊瑚礁ブレート・バリア・リーフが広がり、振り返ると見渡すばかりのサトウキビ畑という環境で、トラヴァースは浜辺で珊瑚の欠片や貝を拾ったり、サトウキビ畑を密林に見立てて探検したりという幸福な幼少期を過ごしたようだ。

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この写真は、オーストラリアからイギリスにやってきて、作家としてデビューした頃のもの。

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ケルト民族の血をひく両親からの影響がどれほど濃いものかは分からないにせよ、トラヴァースは、妖精物語などのケルトの伝承や、イエーツやジョージ・ラッセルといったケルトの詩人たちとの交際から強い感化を受け、古い「神話の世界」に鮮烈に惹き付けられてゆくことになったらしい。

森恵子氏によると「世界の調和はトラヴァースの生涯のテーマである」ということだが、ケルトの詩人たちもまた、古くから語り伝えられてきた伝承文学の中に拡がる豊かな空想世界を現代と結びつけて、再生しようという試みをしている。トラヴァースの書いた『メアリー・ポピンズ』は、まさに古いものと新しいもの、非日常と日常世界という対立するものたちの調和と共生を、児童文学というジャンルで試みた作品であったということなのだ。

トラヴァースが繰り返し語っているのに「わたしとしては、いっときたりとも、わたしがメアリー・ポピンズを作りだしたなどと思ったことはありません。きっと、メアリー・ポピンズが、わたしを作りだしたのだと思います…」という逆説めいた言葉があるが、確かに「メアリー・ポピンズ」には世界の創生に関わり、生きものや自然のすべてを包み込んで繰り返し物語を編み出してゆくようなエネルギーが充ちている。

トラヴァースのこころの中には早くからポピンズが存在していて、その物語を繰り返し彼女の妹や周囲の人たちに語っていたのであり、それはポピンズのシリーズがどれをとっても実は、「メアリー・ポピンズの来訪」、「メアリー・ポピンズの親類縁者にまつわる騒動」「バンクス家の子どもの一人が反抗的態度を示す」「メアリー・ポピンズが外出する」「メアリー・ポピンズが昔語り(題材はイギリスの諺や伝承、あるいはマザーグースにちなむもの)をする」「メアリー・ポピンズ帰る」という、出来事や登場人物は異なっても大まかな部分で同じ設定のエピソードが積み重なっているという、大筋で似たような構成で成り立っていることからも、うかがい知ることが出来るだろう。

このようなエピソードの繰り返しもまた、いわゆるステロタイプに陥り過ぎていて、前述の上野氏や安藤氏らが言う「つまらない」「おもしろくない」という感想に結びつくのかも知れないが、逆の側面からとらえるとこの繰り返される物語のリズムというのも、実際はポピンズのシリーズを読む上では大変重要になるので、奇想天外な話をイギリスの一般家庭に次々と持ち込むメアリー・ポピンズこそ、神話的世界の人物にほかならず、またその伝承者たり得るのだということが考えられるのだ。

日本イギリス児童文学会の会長を勤めた児童文学者の谷本誠剛氏の論文『魔法ファンタジーと季節の神話』の中では、「現代の作品である『メアリー・ポピンズ』には、キリスト教のイメージはない。むしろポピンズにあるのは、ペローやグリムの昔話に出てくる『賢い女』(ワイズ・ウーマン)のイメージである。いまでは(ワイズ・ウーマン)は一般的には『魔女』と訳される。かつて『賢い女』は、自然界の秘密に通じた呪者としてあがめられた。しかし、唯一神しか認めないキリスト教が広まるなかで、彼女たちは魔女としておとしめられるようになった。ポピンズにはその『賢い女』のイメージがあるのである。(中略)子どもを守る者であり、不思議な力を持つポピンズは、『シンデレラ』の妖精に似ている。シンデレラにかぼちゃの馬車や豪華な衣装を用意する人物は、仙母とか代母と呼ばれる。ポピンズもまた、シンデレラの仙母と同じに、子どもたちにとってあくまで頼りがいのある中年の『賢い女』なのである」という、賢女としての魔女や妖精に擬えて語られている。

まさきつねも、「魔女」とか「妖精」といった存在が上野氏の言うように必ずしも悪さをしなければならないキャラクターというより、知恵を持ち、相手にそれを授ける者としての役割を見なす方がしっくりくるので、この解釈は実に腑に落ちる。

子どもに媚びず、大人におもねらず、彼女の周囲が巻き起こすドタバタを実に手際よく捌いて整理整頓しながら、世界の不思議と神秘を夢のような楽しさで子どもたちに伝え、宇宙の謎を解き明かすヒントを決して大げさではない魔法でほんの少しだけ披露してくれる稀有な存在…メアリー・ポピンズを子どもたちに惹き付けるその魔力は、決して彼女が使う魔法にあるのではなく、それを見事に操って世界全体の調和を図っていく彼女自身の賢さにある。
その証拠に、バンクス家の子どもたちはメアリー・ポピンズの後についてゆき、そのめくるめく夢のような世界を楽しみながらも、将来的に彼女のような魔法を使いたいと願うのではなく、彼女のように賢くなりたいと考える。

『公園のメアリー・ポピンズ』の最後でマイケルとポピンズがかわす会話は、バンクス家の子どもたちが何の思慮もなくただ受け身でポピンズの作り出すファンタジーに溺れ、「いい子」であることに専心していたと上野氏のように解釈するのはあまりにも浅慮と考えられる、深い意味が込められているように思う。

あいかわらず不思議な出来事の起こったハロウィーンの次の朝、あれは夢なのかそうでないのか思い悩む子どもたちと、いつも通りしらばっくれるポピンズとの間でのやりとりである。

「きょう、あなたのお誕生日なんでしょ、メアリー・ポピンズ?」と、マイケルがにやっとしながら聞き、「おめでとう、メアリー・ポピンズ!」とジェインがポピンズの手を叩く。ただよいかけたうれしそうな微笑を途中でやめて「だれがそういってました?」と鼻をならすメアリー・ポピンズに、マイケルは胸中で次のように感じている。

「(本文ママ)マイケルは、よろこびと勇気で、いっぱいでした。もし、メアリー・ポピンズが、ぜったいに、説明ってことをしないっていうんなら、そうだ、ぼくだって、することはないんだ! マイケルは、くびをふって、にっこりしました。
『だれでしょうかね!』マイケルは、きどった声で言いました。メアリー・ポピンズと、そっくりに。
『まあ、失礼な!』メアリー・ポピンズが、マイケルに、とびかかりました。しかし、マイケルは、笑いながらさっとテーブルをはなれて、子ども部屋からとびだすと、階段をかけおりました。ジェインが、すぐあとを、追ってきます。…」

あくまで誤解してはならないのは、トラヴァースが描いたメアリー・ポピンズは有能な乳母であり、超能力者ではあるが、人外的な怪物でも魔法使いでもなく、またバンクス家の家族もごくありふれたどこにでもいるような人たちで、「怠け者のロバートソン・アイ、いつも鼻風邪をひいて子供達を邪険に扱うエレン、時にかんしゃくを起こすバンクスさん、気をくさらせていたずらを起こす子どもたち」など、とても理想的な家庭と呼べる代物ではなく、むしろどこにでもある典型的な問題を抱えた平凡な家族の営みが、丁寧に扱われているのだという点だろう。

エッセイ『ただ結びつけることさえすれば』の中でトラヴァースは昔話について、「創られたものではなく、呼び出されたもの」と語り、「…わたしたちはおそらく、生まれながらにしておとぎ話を知っているのだろう。それは数限りなく繰り返し聞かされてきたおとぎ話の記憶が、祖母やそのまた祖母といった遠い祖先からずっと血の中を流れ続けているからで、わたしたちがはじめておとぎ話を聞いたときに感じる衝撃は、もの珍しさではなく、なつかしさからくるものだ。長い間、知らず知らずのうちに知っていたものが突然思い出されるのだ。…人間は結局、どんな物語であれ自分の物語の主人公になるしかないのだということを、わたしたちが理解するために、おとぎ話は語られねばならない。」と主張している。

つまり、ポピンズのシリーズで語られるひとつひとつのエピソードにはどれも特別な意味がある訳ではなく、そこで誰かが飛躍的な変化を遂げるわけでも特別な成長を見せるわけでもなく、多くはナンセンスな笑いやユーモアや機知に富んだ読み物的な面白さ、時として風刺が盛り込まれた訓戒譚のようなものだが、それらが前にも述べたようにリズムよく畳み込まれた先に、物語の行間や背後から透けて見えてくるものが重要となってくる。

この世にあるあらゆるものが、出会い、別れる瞬間、ポピンズの積み重ねられた物語はすべて、その瞬きのような時間が繰り返し描かれているので、そしてその根底には、人びとが決して忘れてはいけない宝石のような時間をいかに思い出し、そしていつまでも忘れないすべを身に付けるかという、日常生活においてごく当たり前のようで実はとても難しいことを幾度となく読者に伝えたいという、トラヴァースの意図が隠されているのである。

たとえば『さくら通りのメアリー・ポピンズ』で描かれる公園番の話は、夏至祭りの不思議な出来事を背景に、それまで孤独で自分自身のことも半ばよく分からなくなっていた男がポピンズとの接触で忘れていたものや実際の自分を再発見する瞬間を秀逸に伝えていて、この作品の真の意義を明確にしていると思う。

公園の中に一堂に会した空の星座や動物たちが祝う夏至祭り。シリーズに登場した鳥のおばさん、コリー夫人やターヴィーさんといった人物たちが次々に場面に現れるうちに、帽子をなくしてしまった公園番は、他の人の帽子をかぶったために「自分の帽子をかぶっていない公園番は、公園番じゃない」と言われてしまう。
常識的な考えにこりかたまっていた公園番は、ポピンズにぶつかり、バンクス家の子どもたちを見、そしていつのまにか信じられないような夏至祭りの奇想天外な世界で、突如失っていた意識を取り戻した人のように気がつくのである。

「子供の頃、このような姿形のことを知っていましたし、ここに居ないもののことも知っていました。…」

知っていたのに忘れたり、つまらないことだと否定したり、嘲笑ったり、自分がいかに多くのものを失っていたかを理解した公園番は、溢れだす涙を両手で隠しながら、改めて自分自身を取り戻し、本来の自分が帰るべき場所を思い出すのである。

メアリー・ポピンズという存在を通じて、突如として破られる現実の薄い膜、不可思議なものたちの日常への突然の侵入が、子供部屋のように狭いけれども温かな愛情に溢れた家族という、安らけく世界への認識を新たにさせ、そしてごく普通の常識人としての周囲に対する優しさや労りという行動パターン、あるいは人間が生来持ちあわせているはずの慈しみや思いやりといった感情を呼び覚ますのだ。

それは結局、いずれ失われゆくもの、手放さざるを得ないものへの深い哀惜となって、二度と帰らないメアリー・ポピンズ、子どもたちが大人への扉を開けたが故に永遠に閉ざされてしまった子ども部屋の扉への強い憧憬、懐かしいものたちへの追慕の思いといった感覚を読者にもたらすことになろう。

メアリー・ポピンズの物語は、冒険に胸躍らす子どもが最終的にたどり着きたいと願うような驚異の世界には決して不時着しない。

「わたくしは子どものために書いているのではないというのが、わたくしの堅い信念で、子どものために書くという考えは、てんからわたくしの頭のなかにはないのです。」とトラヴァースは述べているが、彼女は物語の効能として自分自身の再発見、過去の自分との邂逅という、かつて子どもであった者たちが決して忘れてはならない大事なものを再認識し、あるいは見失ってはならない実際の自分と再結合するための瞬間を求めているのである。

自分が何者で、どんな子どもであったか、それを絶えず思い出して決して忘れないということは、メアリー・ポピンズの作品中で、もっとも大事なテーマであることは確かであろう。
ジェインとマイケルをめぐる話にも、同様のことが語られていて、『とびらをあけるメアリー・ポピンズ』の最後にも印象深い場面になっている。

「ジェインとマイケルは、やさしい気もちが胸いっぱいになってきたので、息をこらしました。ふたりのかけた願いは、生きている限り、メアリー・ポピンズを忘れないように、ということでした。どこで、どうして、いつ、なぜ…そんなことは、どうでもいいことでした。ふたりの知る限りでは、こういう質問には、答えは得られないのです。ふたりの上の空をすべってゆく、きらきらした姿は、永遠に、その秘密をあかさないでしょう。けれども、これからの、夏に日々、冬の長い夜毎に、ふたりは、メアリー・ポピンズを思いだして、いわれたことを考えるでしょう。太陽も雨も、ふたりに、彼女のことを思い起こさせるでしょう、鳥も獣も、季節の移り変わりも。メアリー・ポピンズ自身は、飛んでいってしまいました。しかし、残した贈りものの数々は、いついつまでも、失われることはないでしょう。
『けっして忘れない、メアリー・ポピンズ!』ふたりは、空を見上げて、つぶやきました。」

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さて、思いのほかポピンズの作品論が長くなってしまったが、ひるがえって浅田選手の『メアリー・ポピンズ』について。

冒頭にも述べたが、無論浅田選手にはとても、メアリー・ポピンズを彷彿とさせる中年の賢い「魔女」のイメージに重なる部分はない。

浅田選手もそれは重々分かっているから、あえてディズニー映画のポピンズのイメージの方で世界観を固めて、黒いこうもり傘や堅苦しいジャケットといった原作のポピンズをインスパイアするものは避けたのだろう。

しかしそれでも、楽しく夢に溢れていた子どもだった頃を忘れない、いやたとえ、忘れてもきっとまたいつかどこかで思い出して、豊かなこの世界からの贈り物を繰り返し何度も受け取るような、そんな人間への讃歌を浅田選手の演技はメッセージとして伝えている。

メアリー・ポピンズというキャラクターを通じてトラヴァースが世界にかけた魔法の欠片、子ども部屋の狭い空間から飛び出すための物語という秘密の扉をこじ開けて、繰り返しこの世界に再生されてきたファンタジーの欠片は確かに、浅田選手の氷上のダンスの端々に散りばめられて、彼女のスケートを観た誰もに、もはや幼少期にはたとえ二度と帰れないにしても、あのころの純粋な心を取り戻せなくても、決して忘れてはいけない幸福のありかを教えてくれているのだろう。

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最後に蛇足ながら、EXで使用されていた音楽について。

ミュージカル「メリー・ポピンズ」は、ディズニーの映画が先にヒットして、それからブロードウエイの舞台になった。音楽は、ディズニー映画専属チームのようなシャーマン兄弟によるもの。

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映画主演のジュリー・アンドリュース、制作者ウォルト・ディズニー、そして原作者パメラ・リンドン・トラヴァース。トラヴァース自身は映画の出来が甘すぎ、音楽もあっていないとディズニー映画に不満を抱いていたらしい。

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リチャード・シャーマン、ロバート・シャーマンの兄弟とジュリー・アンドリュース。

音源はおそらく映画のサントラだと思うが、歌付きの楽曲を織り交ぜながら映画中の著名なナンバーを網羅して、作品の印象的な場面を思い起こさせるような聴きごたえのある編集がなされている。

各曲の詳しい解説はまたの機会に譲るとして、とりあえずEX演技に沿った音楽の構成は次の通り。

1、『2ペンスを鳩に』Feed the Birds(インストゥルメンタル)
映画本編では、銀行家のバンクス氏がポピンズに子どもたちの社会勉強として、自分の職場である銀行見学を頼まれたというエピソードの序曲のように、普段疎遠な父との外出の日を前に寝付けない子どもたちにポピンズが歌って聞かせる子守歌。
自分の仕事や資本主義的な考え、あるいは英国的な伝統、勤勉、道徳心といったものにしか関心のない父親と、ポピンズの歌の通り、おこずかいで鳩の餌を買おうとする息子マイケルの間に繰り広げられる2ペンスの攻防が、何とも世智辛いながら奥の深い家族や世代間の問題、あるいは社会的な時代背景の問題など、さまざまに興味深いテーマを含んでいた。
晩年のウォルト・ディズニーが週末ごとにシャーマン兄弟をオフィスに呼び、「あの曲をやってくれ」と頼んだという語り草もある。作曲者であるシャーマン兄弟も当時を振り返って「これだけは、原作に忠実に作った。」「映画メリーポピンズで言いたかったことのすべてがここにある。」と語っているという。

2、『お砂糖ひとさじで』A Spoonful of Sugar(インストゥルメンタル)
原作ではバンクス家に来たばかりのポピンズが、嫌がる子供たちにスプーンについだ薬のようなひとさじをなめさせ、それが同じ瓶からついだにもかかわらず、子どもたちそれぞれに違う味のおいしい一口だったという、印象的な場面がある。
映画はこのエピソードにひねりを与え、ちらかった部屋のお掃除を渋る子どもたちに「どんな仕事も楽しくやる方法があるのよ。そのコツを見つければ仕事はゲームになるから!」と教えるポピンズらしい魔法の歌になっている。
どんな苦い薬も、ひとさじの砂糖で簡単に飲めるように、やりたくない仕事も、考え方ひとつで楽しいゲームになる。同じ時間なら、落ち込むよりも楽しく過ごした方が良いに決まっている。魔法というのは本来こんなものという、この作品のメインテーマのような楽曲。

3、『チム・チム・チェリー』Chim Chim Cher-eeアカデミー歌曲賞受賞曲(歌付き)
ある時は大道芸人、ある時は絵描き、ある時は凧を飛ばし、ある時は煙突掃除屋さんと多彩な活躍を見せる、ポピンズの恋人、バートが歌うあまりにも有名なメロディーである。
どこから来てどこへ行くのかわからないポピンズと違い、いつも身近にいて、決して離れたりせず見守ってくれ、きっと頼りになる存在というバートは、それでもポピンズ同様、この世になくてはならない喜びの魔法を周囲にかけるのである。
この曲の歌詞は、イギリスに伝わる「煙突掃除屋と握手をすると幸運が訪れる」という言い伝えによるものらしいが、厳しい汚れ仕事と思われがちな煙突掃除であるからこそ、ロンドンの最も高い屋根の上から最も美しい夜景を見ることが出来、街の隅々に隠れている真実に触れることが出来るという、英国らしいシニカルな逆説に充ちている。

4、『スーパーカリフラジリスティックエクスピアリドーシャス』Supercalifragilisticexpialidocious(インストゥルメンタル)
ロバート・シャーマンによると、「この単語はよくあるでたらめな言葉 (gibberish) である」とのこと。現在でも、早口言葉やパロディの題材、あるいは携帯の早打ちを競う大会など、長大語の演目に使用されるらしい。
バートが描いた不思議な絵の世界で、競馬に勝ったポピンズがリポーターの取材攻勢を受け「この言葉を唱えればすべて解決」と歌う、一種の呪文のような歌詞になっている。作品全体でさまざまな場面の登場人物に繰り返し歌われ、映画の終わり頃で銀行を首になったバンクス氏がこの言葉を思い出し、吹っ切れたように楽しげに去っていくのが、このミュージカル映画のひとつの山場だろう。

5、『お砂糖ひとさじで』A Spoonful of Sugar(インストゥルメンタル)

6、『スーパーカリフラジリスティックエクスピアリドーシャス』Supercalifragilisticexpialidocious(歌付き)

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一さじのお砂糖を一緒に飲めば
お薬だって
簡単に飲める
一さじのお砂糖を一緒に飲めば
お薬だって飲めるよ
駒鳥さんは忙しそうに
飛び回っては
小枝を集めて巣作りに励む
でもその合間も
歌うことは忘れない
そのほうがはかどるって知ってるのよ
一さじのお砂糖を一緒に飲めば
お薬だって
簡単に飲める
一さじのお砂糖を一緒に飲めば
お薬だって飲めるよ
ミツバチさんは蜜を求めて
花から巣へと飛び回る
でも少しも疲れを知らない
だってそうしながら
なめることだってできるから
こうして
探すのよ
楽しい仕事なのよ
一さじのお砂糖を一緒に飲めば
お薬だって
簡単に飲める
一さじのお砂糖を一緒に飲めば
お薬だって飲めるよ

(『お砂糖ひとさじで』)


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記憶と忘却についての一考察―言語の岸辺、夢の岸辺にたどり着くための

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いいか、一年後の同じ日、真夜中のこの同じ時刻、もしおまえがわたしの名前を忘れていたら、おまえはわたしのものになるのだ。
(パスカル・キニャール『舌の先まで出かかった名前』)

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先日、浅田選手の画像を整理していて、これはいつの演技だったかなと首を傾げるものがいくつか出てきた。

だんだん薄れてゆく記憶や忘れてしまう情報については、まさきつねの場合改めて言わなくてもそのほとんどが加齢のせいなのだが(涙)、それにしても人間という生きものほど、この日々失われてゆく思い出に対して執着を抱く生命体はないような気がする。

正直、まさきつねなどはこうしてブログなどを始めてネットライフに足を突っ込んでみても、気になるサイトやブログに関してはその都度気を付けて、お気に入り登録をするものの、うっかりそうしたチェックを忘れようものなら、せっかく興味を持った記事や文章だったのに二度とそのページにお目にかかれないという経験が再三あって、そのたびごとに自分の不甲斐ない現在の記憶力に歯噛みし、頭を抱え、ストレスに身悶えするという繰り返しで、せっかく検索とメモリー能力に秀でるIT環境も上手に使いこなしているとはとても言えず、快適ネットソリューションを満喫しているとは言い難い事態である。

こんなことなら、ネットの情報を読むよりも紙に印刷された本を一冊頼りにしている方がよっぽど良かったなどと、今更のようにアナログなことを呟いているのだが、その本の名前や内容を忘れてしまえば同じこと、まあ時として、以前に買ったことを忘れてもう一冊同じ本を買ってしまったなんて失策も幾度かあるのだから、書籍だろうがブログだろうがいずれにしても忘却という思弁活動のバグを前にしては、為すすべもない話である。

「忘却とは忘れ去ることなり。忘れ得ずして、忘却を誓う心の悲しさよ」とは、その昔、番組が始まる時間になると銭湯の女湯から人が消えるといわしめた、伝説的なドラマの冒頭に流れる有名なナレーションだけれど、自分の過去が部分的であれ完全にであれ、自己の脳裏から消え去ってしまうことが実際、幸か不幸か一概に言えないことだけは事実だろう。

たとえばフランスの小説家アンドレ・モーロアは「忘却失くして幸福はあり得ない」と言ったが、一方で画家のマリー・ローランサンは「死んだ女よりもっと哀れなのは、忘れられた女です」という詩を残しているから、忘却する側とされる側、双方の言い分を鑑みても忘却が幸せに結びつくか否か、おいそれと答えの出る問題でもないような気がする。

とまあ、ここまで読まれて、まさきつねは一体何を言わんとしているんだ、内容が支離滅裂じゃないかと思われる向きもあろう。あまりにくだらないから、もうお読みになるのをお止めになった方々もおられるかもしれない。

お見限りの読者には申し訳ない。
そうでない方々のために、ここで一度、整理しておきたいのだが、まさきつねが今回自分でも四苦八苦しながらでも語りたいのは、記憶と忘却、悲しみと時間、思索と自我という何とも哲学的で小難しい三つの関連したテーマについてなのだ。どこまで語り尽くせるか分からないのだが、とりあえずまさきつねの思念を言葉の続く限り、書き記してみよう。

まずは記憶と忘却について、思考のきっかけになったのは何かというと、この記事の冒頭にも挙げているが、フランスの文学者パスカル・キニャールの『舌の先まで出かかった名前』という書籍で、最初にこちらの内容紹介と文章の一部引用から入ろう。

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この本は、表題作であり全体の屋台骨となる『舌の先まで出かかった名前』と題された寓話のような短編が中央に納められ、その枕詞となるようなエッセイ『アイスランドの寒さ』が巻頭に、寓話を解体するような論文的作品『メドゥーサについての小論』が最後に配されている。ひとつひとつが完結した世界観を持ち、独立していながら、お互いがまるで絡みついた織糸で編み出されたタペストリーのように一枚の図を描き、その図に描写されているのはまさに、「言葉を発する」瞬間と、何らかの障害によって「発すべき言葉」が出てこない状況で、それが繊細に選び抜かれた言葉の考察によって本全体を構成している。

『メドゥーサについての小論』からとりあえず抜粋するが、その第一部に「忘却は記憶喪失ではない。忘却とは過去の塊が戻ってくるのを拒否することだ。忘却は何か脆いものが消え去っていくことと対照されるべきものではない。それは耐えがたいものの埋没に直面しているのだ。記憶にとどめるということは、回帰を願う対象を守るために、削ぎ落とすべき『残余』のすべてを忘れるという操作にほかならない」とある。

つまり、子どもが勉学するときにページの覚えるべき部分を覆って暗記しようとするように、記憶とは忘れ去られるべきものを最初に選別し、次いで記憶の基礎をなす忘却の占拠から遠ざけておきたいものを保持するということに過ぎないとキニャールは言う。
言い換えてみれば、忘却とは、記憶の網がすくい取りたい大事な要素を喪失から遮蔽するため、網に無数に開けられている空間の部分、すなわち穴のようなものだということだ。この点で、忘却は記憶のアンヴィヴァレンツではなく、記憶するという作業の一部であるということなのだろう。

しかして、大切な恋人の名前を記憶するためにその他の不要な人物の名前を忘却するという、(いわば恋人の電話番号のみを残して、以前つきあった人の情報はことごとく携帯電話から削除するといったような)当然のようでもありどこか残酷な操作が、脳内の記憶中枢において行われているということになる。この一連の作用をメタフィジック(隠喩的)に描き出したのが、同著の中央に位置する『舌の先まで出かかった名前』という仕立て屋ジューヌとその妻コルブリューヌが冥界の領主と交わした約束を主調とする短篇(コント)なのである。

訳者の高橋啓氏によると、この部分は無伴奏チェロ組曲の中の「チェロによる子守歌のよう」と比喩されているが、いかにも物憂げに奏でられる物語の主旋律は、後半部の『メドゥーサのための小論』で時に激しく人間の思考回路に揺さぶりをかける論調、言葉による分析と思索による物語の解体とは対照的で、ありふれた人間のどこにでもある日常に響くのどかな田園詩だ。

とりあえず表題作のあらすじをかいつまんで説明すると、仕立て屋夫婦は妻が結婚する前に冥界の領主とした取引に振り回されることになるが、最終的には夫の献身的な努力によって大団円を迎え、ふたりの愛を確かめるという幸せな物語である。

お針子のコルブリューヌは仕立て屋ジューヌとの結婚の条件を適えてもらう代償として、一年後に領主の名前を忘れていたら彼女は領主のものにならなければいけないという約束をした。「そんな簡単なことを」と笑った彼女は九ヶ月が経った時に、領主と交わした契約の一部始終は覚えていても、肝心の名前が思い出せないことに愕然とする。名前を思い出そうとする苦痛で変わり果ててゆく妻に、夫は訳を尋ね、妻のために繰り返し失われた名前を探し当てる旅に出る。…

このような物語のヴァリエーションは、実は古今東西に転がっていて、日本の民話にも『大工と鬼六』という(流れの速い川に橋を架けてもらった鬼の名前を大工が当てて、代償に要求されていた大工の目玉を取られる難から逃れる)お話があるが、これはノルウェーやスウェーデン、フィンランドといった北欧に伝わる教会建立伝説を大正初期に翻訳文学者が日本風に翻案したものらしく、同様の「悪魔(鬼)の名前当て」というモティーフは、グリム童話収録の『ルンペルシュティルツヒェン(Rumpelstilzchen)』やイギリスの昔話『トム・ティット・トット』(さらにこれを翻案したのがファージョンの創作童話『銀のシギ』)など口承文学の典型としてさまざまに残されている。

共通しているのは名前を当てる或いは思い出すという行為を強要するのが、地獄を連想させる悪魔や鬼やゴブリンといった類いで、それが相手の名前を口に出せない恐怖を呷り立て、キニャールの語りを借りれば、『アイスランドの寒さ』でナイフが曲がるほど固まってしまったモカ・アイスのように凍りついた状況、突き刺さらないナイフからするりと身をかわすデザートのように逃れ去る言葉がもたらす絶望を主題に、どこか心許ない人間存在の本質を抉り出してみせる面白さだろう。

そう、あやふやな記憶の恐ろしさ、曖昧な言葉の怖さ、人間の立ち位置は常に不完全なものに構築された世界の見えざる恐怖に侵されていて、必要か否かに関わらず絶え間なく降り注ぐ情報や言葉によってあまりにも多くの事象と常に対峙させられ、発すべき言葉を探すメドゥーサの仮面は時を重ねるごとに厚みを増し、デス・マスクの態をなしてゆく。

キニャールはまた、こうも書いている。
「…少なくとも三つの記憶があると言うべきだ。かつて存在しなかったものについての記憶(幻想)、かつて存在したものについての記憶(真実)、受け止められなかったものについての記憶(現実)。」

これほど多様な表情を見せる記憶を前に、言葉はいつでも不完全であるしかなく、どんな言葉もいつも逃れ去った何かを追い求めるしかなく、舌の先まで出かかった名前は決して口から出ることのない帰り来ぬ言葉で、それはノスタルジーの果ての帰り来ぬ苦痛、すなわち言葉を探し求める言語活動を呼び起こすものなのである。

書くことは失われた声を聞き、謎の言葉を探し当てること、その答えを準備する時間を持つことだと彼は言う。
結局は至福に到る一心不乱、幼い頃の思い出からギリシャ神話、東洋思想と知識を遡る旅を経て、自らが執筆するときの失神状態へ、失調からすべてを取り戻す言語の岸辺へたどり着くことだと彼は繰り返し語り、書くこととはすなわち「産卵すること」、生の根源に遡り、アフロディテの泡のごとき、未来が過去となり、死と生誕が等価となる空間にたどり着くことだと記す。

言葉によって結びつく個人と他者の不確かな関係、脆い人間存在の深淵、絶えず失われてゆく時間と言葉によってぽっかりと口を開ける恐るべき喪失感を、ひたすら埋めるべく没頭するしかない書くという行為。

思い出は忘却の彼方から手をふる記憶の欠片、去っていった恋人の後ろ姿のようなもの、それはいつも指の先で練り直しても本物の顔とはどこか違って見える、あなたのデス・マスクだ。

世界はすべて過ぎゆく。
一切は消えてゆく泡沫、それでも書き残したい、あなたの顔、あなたの姿、紙の先まで出かかった言葉のひとつひとつが、どうかあなたの美しさを裏切らないものであるように。

あなたの愛に寄り添っているものであるように。


さて、今回はとりあえずここまで、悲しみと時間、思索と自我についての考察は、また別の機会にする。
何故なら今夜から四大陸選手権、無粋な思考はもう切り上げたい。

最後に冒頭に記した浅田選手の過去の画像をいくつか。
皆さまはいつの演技だったか、覚えておられるだろうか。

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…以上、ドリーム・オン・アイス2008でのオープニング、ブリトニー・スピアーズの『baby one more time』にあわせて披露した浅田選手のスパイラルとビールマン・スピンの演技。

*****


書く人は光源(イリュミナシオン)を求めている。
(パスカル・キニャール『メドゥーサについての小論』)


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見えない花束

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現在といふ時間を強く意識して未来へ進んでゆく勇敢さ、そのときの人間の生き方の花やかさ、それを尊ぶことこそわが文学の伝統でありました。(丸谷才一)

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浅田選手の書籍発売中止に関する騒動について。

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今さら私見を述べても仕方ない話題ではあるのだが、ひとつの備忘録として記事にしておこうかと思う。裏事情に通じている訳ではないまさきつねがここで、重ねて個人的な憶測を書き連ねるつもりはないのだが、この件の報道に接した一般個人の率直な感想と受けとめていただきたい。

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まず、浅田選手自身のメッセージでは「この本は、私の競技生活を通しての皆さんへのメッセージブックとして1年かけて制作を進めていたものでしたが、本の宣伝、告知について、私の思いと異なるもので進められたところがあり、出版を中止させていただくことになりました。大変申し訳ないですが、ご理解のほどよろしくお願いいたします」という内容で、多くの報道にあった「本人の意にそぐわない宣伝方法」に問題があったということが発端のようだ。

「本人の意にそぐわない」ということだけを取り上げれば、今回の騒動以前にももっと、浅田選手自身の心情を深く傷つけるようなマスメディアの対応や、気の進まない企画は山ほどあっただろうと思う。それが今回に限って、というか今回からこの先ずっとなのか分からないが、決然とした態度で彼女自身の意志を通してゆくという浅田サイドの態勢証明なのだとしたら、それはそれで結構なことなのだろう。

こうした変化のおそらく大きな部分で、これまで浅田選手の支えであった母上との別れが関係しているだろうことは間違いないことだし、彼女が最も大切にしておきたかっただろう母上の追憶や家族への思いに土足で踏み込むようなメディアの販促方法に対して、今まで以上の強い疑念を抱いたとしても、まったく不思議ではない話なのだ。

ともあれ、十万部もの予約が既にあった書籍の発売中止を、浅田サイドは出版社側に要請した。
予約し、期待をしていた筈のファンの多くは無論、いきなりの発売中止を残念に感じながらも浅田選手の心情を理解し、浅田サイドの動きを支持するだろうと思われるが、それでも一方でほかの見方をする向きもあるだろうし、無念さが高じて離反するファンも高飛車だと批判するアンチも確かに存在することだろう。

そもそも、グランプリシリーズのファイナル欠場に関してすら、どういう理屈だかまかりならんと批判するアンチがいる世の中なのだから、人のこころ、人の口などまったく奇奇怪怪でどうすることも出来ぬもので、そんなものに係うことほど馬鹿馬鹿しいことはないのだが、気にかけぬようにしつつも遣り切れない思いに暮れるのがまた、人間の真情というものだろう。

浅田選手はこれまで幾度となく、胸の傷むような体験を積み重ねて、そしてこのたび終にこれまでは出来るだけ回避してきた厳しい決断を下すことで、これからの自分の立ち位置を確かめ、自己の意志を曝け出したのだろうか。

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映画監督の小津安二郎は「どうでもいいことは流行に従い、重大なことは道徳に従い、芸術のことは自分に従う。」という箴言を残している。

まさきつねは今回の騒動報道の一連で、この言葉に通じる浅田選手の気骨、あるいは矜持を感じた。

母上の死に関して、彼女が下してきた決断や行動はすべて人の道に沿っているし、道徳心に反することなく、一切のブレのない的確なものだった。
そして今回の書籍に関しても、勿論「母の死を売り物にしていると思われる」出版社の販促方法が一番、彼女を傷つけ悩ませたのだろうと思うが、もうひとつには、書籍の内容が彼女自身のフィギュア競技に対する率直な信念や思いについて多くのひとに知らしめしたかったという部分で、信頼を失ってしまった出版社の編集任せではどうしても妥協出来ない違和感が生じてしまったという気がするのである。

かつて、出版社の編集者というものは作家と濃密な関係を持ち、作家の才覚を見出し、見極めるだけでなく、作家を途轍もない存在に育て、新しい方向性を持った作品をともに作り上げるという目的意識と矜持に溢れていた。

現代はFAXやメールで原稿やゲラのやり取りをし、お互いに議論を戦わせることも内容を掘り下げることもなく、一冊の本が簡単に仕上がってしまうのが実状らしい。作家の自慰行為というのはさすがに言い過ぎだとは思うが、純文学などという死語にしがみついて、血反吐を吐くような思いで推敲を繰り返し文章を綴るようなタイプは今時流行らず、器用な副業作家や高名なタレントに名を借りた覆面作家などに誌面を埋めてもらっているといった現実が、崩壊しつつある出版界の背後に見え隠れしている。

売らんかなという姿勢、煽情的な宣伝文句や派手な売り込みは最早、出版業界や日本に限らず、どこの業界、どこの国でも当然のように席捲しているが、それに対してとりもなおさずNOを突き付けたのがプロの書き手ではなく、メディアによってさんざんアイドルタレント並みの扱いをされてきたフィギュア選手だったというのも何とも皮肉な話ではある。いや、むしろ物書きを生業としない浅田選手だからこそ、純粋な不信感をぶつけられたのかも知れないが、本来言葉に真実を見出すことが第一の務めであるべき出版業界が、その本質の喪失に疑わしさを追窮されたという点で、やはり今一度、原点に立ち返って己が分際の存在意義と果たすべき役割について、考え直す必要があるということなのだろう。

まさきつねは別に純文学的姿勢にこだわるわけではなく、巷に氾濫しているいわゆるタレント本の類いや、さまざまな業界人がビジネスの一環として手掛ける業界本の存在価値も認めているが、それらがいずれも第三者による研削を過ぎることなくただ、日々のひとりごとや思い付きやつぶやきを、日記やツィッターのごとく垂れ流すような経過で本屋さんに並び、あげく数日先には古本屋に山積みになるような現状には、いささかうんざりするのである。

浅田選手がとりもなおさずここはスポーツ選手らしく、言葉によるメッセージに頼るのでなく、自らの滑りによって「自分の今の気持ちを伝えよう」という方向で自分自身の信念を貫いたのは潔かった。

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近年はスポーツ選手のインタビューを「言い訳」として嫌悪する向きも少なくない。まさきつねはガチで向けられたマイクに対し、慣れない素人同然の彼らからポロリとこぼれ出る本音にいちいち目くじら立てる方がどうかと思うので、懸命に語ってくれる選手たちの貴重な声をどんな形でも否定したくはないが、浅田選手のように一切弱音や裏事情を暴露しないという姿勢もまた、何かと揚げ足を取ろうと待ち構えるような人間たちが多い昨今では致し方ないのかと感じる。

浅田選手は、今はひたすら氷上の自分の演技だけに自らの思いを封じ込めようとしているのだろう。

「芸術のことは自分に従う」という小津監督の言葉は、芸術やスポーツに限らずどんな分野であれ、自分自身の表現を求めて創作活動に打ち込む人間ならば、肝に銘じておくべき指針であろう。そして同時に、その創作活動を陰で支えるプロデューサーや演出家、編集者といった立場にある人間たちもまた、何よりもクリエイターたちの意向を踏みにじるような行為を、どんな事情があったとしてもするべきではないのだ。

書籍というかたちにはならなかったが、今回の騒動は浅田選手の考える「彼女自身」を図らずも浮き彫りにした。きっとその先には、彼女が理想とするフィギュア競技の芸術性が見えているのだろう。

現在を生きる彼女に訪れるだろう「明日」という未来に、両の手で抱えきれないほどの見えない花束を贈りたい。

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かなしみの夜の とある街角をほのかに染めて
花屋には花がいっぱい 賑やかな言葉のように

いいことだ 憂ひつつ花をもとめるのは
その花を頬ゑみつつ人にあたへるのはなほいい

けれどそれにもまして あたふべき花を探さず
多くの心を捨てて花を見てゐるのは最もよい

花屋では私の言葉もとりどりだ 賑やかな花のやうに
夜の街角を曲るとふたたび私の心はひとつだ

かなしみのなかで何でも見える心だけが。
(安西均『花の店』)

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