月船書林

フィギュアスケートの話題を中心に芸術を語る

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貴方への出せない手紙―言葉の功罪についての一考察

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先日、記憶と忘却について、拙論を述べさせていただいた。

年老いてゆく自分、衰えゆく記憶に日々戦々恐々としているまさきつねとしては、書くという行為によって「忘却」という残酷な時間が為せる作用に対していかに救いを得るか、生の実感を持ち得るかということについて、お粗末な哲学的思索をめぐらせてみたのだが、如何せん読書による机上論というのはどこか実体がなく、我ながら説得力を欠くものだなという気がする。

言辞を弄しているつもりはないのだが、言葉で真意を伝える難しさを改めて感じた次第である。

ところでこれは全く別の個人的な話なのだが昨年末、ちょっとした飲み会の席でこれから中学校の音楽教師を目指すという若い男性と話を交わす機会があった。
教員試験合格を目標に、数年講師を続けているという彼は、熱弁で自分がいかに今時の中学生を相手に、個性的で目新しい音楽教育を試行錯誤しているか語ってくれたのだが、その若い情熱はまさきつねには羨ましくもあり、賛同すべき側面も多々あるのだけれど、いささか青臭さが鼻について少しばかり疎ましく思われる部分も感じられ、ちょっと何かが空回りしているなという印象が残らざるを得なかった。

まさきつね自身、これから頑張ろうとしている若者にちょっと意地悪な見方かも知れないなという気持ちがしないではなかったが、どうしても寛大に解釈し得なかったのは、彼の情熱がどこか自己中心的で、彼が教育現場で実際に指導するべき中学生の姿がそこに見えず、肝心の生徒をなおざりに独善的な教育論を並べているような感触が、彼の話の輪郭からどうしても拭えなかったのだ。

まさきつねも十数年、教育現場に接触して今時の中学生、高校生を生で相手にしているけれども、優等生劣等生に関わらず、彼らを何らかの側面で指導して次のステップへ階段を上がらせないといけない使命が第一である教育という場面では、まず小賢しい理論というものは全く通用せず、マニュアルは勿論のこと、時には長年培ってきたノウハウや経験というものもとんと役に立たず、とにかく体当たりで相手にぶつかってようやく少しの手ごたえを得るというのが実感なのだ。

中には無論、超絶の理論で実績を積み上げておられる優れた指導者もおられるとは思うが、まさきつねも含め多くの教師が大方の場合、理論と実践のジレンマを抱えて、どうにもならない壁にぶつかったり八方ふさがりで悩んだりを繰り返しているのが実状だろう。

とはいえ、経験値の少ない若い教員が自らの夢を語ったり、独自の理論を思考したりするのが悪いという訳ではない。
夢や希望を持たない教師が生徒に夢や希望を与えることは出来ないのだから、クールで現実に醒めた人間がただ職務を遂行するという義務感だけで生徒に接触しているような事態よりは、頓珍漢でひとりよがりな夢でも自らのヴィジョンを追求しようとするパッションを持った教師の方が、現場を活気づけるということもあるだろうと思う。
だがこうした点を考慮したとしても、若者が井の中の蛙のような狭い視野から頭でっかちに想像して展開する青臭い夢が、時として周囲への配慮を著しく欠くが故にはた迷惑なものになったり、自分へのリスクを顧みない粗雑さを露呈するが故に自分以外の人間をも傷つけたりということは、往々にしてあることなのだ。

詰まるところ、まさきつねが長々と何を言いたいかというと、連日いただいたコメレスでぼそぼそ語っていたことなのではあるが、日経新聞ウェブ版に連載されている小塚選手のコラムについて、どこかこの若い音楽教師と同じ臭いを感じるというか、いささかその若さと危なっかしさに共通した懸念を覚えた次第であり、まわりくどくて申し訳ないのだが小塚選手のコラムの受けとめ方と取り扱い方を如何にしたものかという視点から、ネットに書く文章に関して感じたことをいくつか述べさせてもらいたいと思うのだ。

まず、小塚選手のコラムは以下のURL.で読める。

小塚崇彦「4回転合戦…だから男子フィギュアは面白い」
小塚崇彦「4回転を計3度…未知なる世界へ」


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「フィギュアの世界」と題した日経ウェブ版の人気コラムだからご存知の方は多いだろう。小塚選手の記事は昨年11月4日と先日2月14日に掲載され、いずれも賛否両論、物議を醸す内容だったことは間違いない。

まさきつねはここで、彼の発言の正当性を云々しようとは思わない。肝心なのは小塚選手の意見が正論かどうかの検証ではなく、あくまで現役選手である立場から発した言葉として妥当であったかどうかであり、適正な言語表現や内容であったかどうかが第一に重要視されるべきと考えるからである。

そして彼がこうした論説を語るに至った状況、そのやむにやまれぬ彼を取り巻く環境や経緯こそが、何をおいても焦点とされるべきフィギュア競技界の課題ということなのだろう。

実際、彼がコラムで述べていることの大半はさほど目新しい内容であるとは思わない。
むしろどこかで誰かが既に指摘していたことと変わり映えしないし、先見の明があったいくつかのブログでは言い尽くされてきた見識という感もある。裏返せばそれは誰かの意見を小塚選手がどこかで聞き齧って、そのままなぞっているというのでもなく、誰もが共通に感じることを彼もまた当事者のひとりであるが故に真摯に感じていたということに過ぎないのだろう。

さてもコラムを読む限り、演技やフィギュア表現に対する小塚選手の考え方、ものの価値観、得点や採点に対する彼の不満、それを正直にぶちまけて、批判も辞さないという率直な態度は、彼の正直で生真面目な生き方に即しているし、合理的で分かり易いと同時に彼の文章やインタビューを通じて何はともあれ、一貫性のある意見だなという気はする。

蓋し、どうにも説明の足りない部分や言葉の選び方の粗略な一面は拭えないもので、それはもしかしたらコラムの特性上、日経新聞内部による編集や筆削もあってのことなのかも知れないが、それがあったにせよなかったにせよ、一歩踏み込んだ部分にまで言及するとなるとそこには当然、社会的背景に根差した潜在的リスクが伴う訳で、自分自身の社会的立場やあらゆる周囲への配慮といったものを小塚選手がどこまで認識しているのかという面で、どうしても多くの疑念が湧いてしまう。

ありていに言えば現役のフィギュア選手である彼が、同じ現役選手の名前をストレートに出してジャッジや組織に対するあからさまな抗議や反発と受けとめられかねない言葉を発するという点に関しては、おいそれと誰もが承服できない難しいマイナス要因と、各処からの思わぬ糾弾を受ける危険性を伴っており、現にある特定選手のファンやアンチからは既にそのような反目が起きている節がある。

(つまり小塚選手のコラムによって拡がる好からぬ波紋は、たとえばなりたての教師が赴任してきたばかりの学校に対する不満や悪口をいきなり並べ立てて、GTOもどきの改革の烽火を上げたとしても大概は現場の誰からも受け入れられることなく、疎ましいとスルーされるか、出る杭は打たれるかの反応しかなかったに等しいということなのだ。)

ネット上ではごく些細なことでさえきっかけに、ある選手の行動批判や人格否定やその人間性を非難攻撃するということが当たり前のように行われてしまう。
まさきつねが危惧するのは彼が好かれと思っている行為や主張、たとえば「こういう発言やこういう意見を好意的に思われない方もいるかもしれません。しかし、世界では、自分の意見をきちんと述べないと伝わらないこともあるんです」という前口上であえて非難も覚悟の上で語っていることが決して、彼の思うほど混り気なしには受けとめられず、望むような方向の結果をもたらし得ないという現実である。

小塚選手は九分九厘、他のどの選手に対しても何ら悪意の欠片もその演技に対する不敬の念も持ってはいないだろうし、単純な得点欲しさで組織的なアピールや採点操作をお偉方たちに対して促しているとは思わないのだが、彼が独善的に若い正義感を発揮して、選手代表のように率先して現場の人間がなかなか口にし難いような所見を述べるということは、何ひとつ競技の現状を変えるきっかけにもならないだろうばかりか、結論としては彼だけがあらぬ誤解を受けるばかりでほとんど無意味としか感じられないのである。

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言葉は難しい。とても繊細な取扱説明書が必要なツールなのだ。

若い人の大抵はその複雑さや厄介さに気がつかず、自分の考えや感情を臆せず伝える手段としてその落とし穴を看過しがちなのだが、無意識に使用法を誤り、表現や作法に鈍感になって、言葉が潜在的に持つ術中にはまるとあっという間に足元をすくわれるということになりかねない。

小塚選手は若い選手の中でも利発で、幼い頃からフィギュアスケートの英才教育を受けていたという環境にあるので、何かと余計に見えている部分や周囲から入ってくる情報などもずば抜けて多かろうとは思うが、彼の発言や行動の端々にそれが仇となって彼の足を引っ張っているような部分が見え透いてきて、それが彼の乳母日傘で育ったような人の好さやまたそれゆえの不器用さ折り目正しさに拍車をかけているようで尚更いじましくも切ないのだが、一方であまりにも残念でどうにかならぬものかと悩ましくなるのである。

実のところ、まさきつねはこの小塚選手のコラムについて、前回に引き続き拙ブログの中で何も発信するつもりはなかった。前回のコラム掲載の直後からも彼に対する風当たりの強さは感じてはいたものの、さらに行き過ぎた周囲の発言が火に油を注ぐ結果になるだろうことは目に見えていたからである。

だから何よりも今の時点でまさきつねが憂慮しているのは、彼のコラムを多くのフィギュアブログが取り上げることによって、それがたとえ「よく言ったタカちゃん!」みたいな称賛に充ちた論調であろうと「軽率だったね御曹司?」のような揶揄めいた語気であろうと、あるいはもっと激しい叱咤の文面だったら猶のこと、プロの物書きでもなければ言葉を表現媒体とする立場にもない現役のスケーターをむざむざと、スポーツ競技とはまったく別の土俵で窮地に追い込み、彼を苦しめる結果になるだろうということなのだ。

中でも最もいかがわしいのは(どこまでがブロガーの意図的な奸計かどうか、悪意のあるなしはさておいても)、「よくぞ言ってくれました」と表面上は褒めながら、現役選手が私と同じことを話してるんだから私の意見は正しかったのよと言わんばかりに、ブロガー自身の持説の正当性を証明する手段のように小塚選手のコラムを紹介しているサイトがちらほら見受けられることだろう。

最初にも述べたようにこの際、小塚選手の意見が正論かどうか、あるいは普遍的な価値観のあるものかどうかが重要なのではなく、彼自身が非難の矢面にわざわざ立つようなそんな言葉を表出させたこと自体が一番の問題なので、まさきつねはそのような競技界全体の現況を実に寒心に堪えないと思っている。
だからマスコミ報道も含め、競技界組織の在り方や運営方針にこれまでも幾度となく疑問を投げかけてきたのだが、ブロガーが一個人として権威や当局に対する不信感や批判を根拠をもって発信してゆくことと、当事者のスケーターを巻き込んでさらにその発言を引き合いにしてブログ保身の盾にとるということは明らかに別次元の話で、それこそ選手のためと言いつつ選手自身を袋小路に追い詰めてゆくような、そんなハレーションを望んで記事を書いてきた訳ではないのである。

まさきつねは今季、前シーズンまでとは違うスタンスで、いくつかの場面でも沈黙を保ってきた。
まさきつねだけではなく、これまで深い洞察力に飛んだご意見を述べておられた数名のフィギュア・ブロガーさんたちが長く口を閉ざしておられるが、その事由のひとつとして、このたびの小塚選手のコラムのような、ジャッジや組織への批判ととられかねない意見があらぬ方向から噴出する一種の副作用みたいな事態が起こるのを畏れてのことと慮られる(勿論、これだけが要因という訳ではないだろうけれども)。

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言葉は怖ろしい。

「頑張ってください」「応援しています」という何気ない言葉、さりげない挨拶のような常套句ひとつでも、その裏に隠された棘や狡知や、悪辣な思惑があるとしたら、あるいはこうした目論見などまったくなかったにしても、逆にその無思慮で軽はずみで浅はかな口上が純粋さ故に無意識に誰かを傷つけているとしたら、たとえ個人の慎ましやかなブログに過ぎないとしても、その功罪は決して、気づかなかった悪意はなかったという弁明ごときで赦されるものではないような気がしているのである。

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ひとのこころの湖水
その深浅に
立ちどまり耳澄ます
ということがない

風の音に驚いたり
鳥の声に惚けたり
ひとり耳そばだてる
そんなしぐさからも遠ざかるばかり

小鳥の会話がわかったせいで
古い樹木の難儀を救い
きれいな娘の病気まで直した民話
「聴耳頭巾」を持っていた うからやから

その末裔は我がことのみに無我夢中
舌ばかりほの赤くくるくると空転し
どう言いくるめようか
どう圧倒してやろうか

だが
どうして言葉たり得よう
他のものを じっと
受けとめる力がなければ
(茨木のり子『聴く力』)

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運命の人

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不思議だ、霧の中を歩くのは!
どの茂みも石も孤独だ。
どの木にも他の木は見えない。
みんなひとりぼっちだ。

私の生活がまだ明るかったころ、
私にとって世界は友達に溢れていた。
いま霧がおりると、
だれももう見えない。

ほんとうに、自分をすべてのものから
逆らいようもなく、そっとへだてる
暗さを知らないものは、
賢くないのだ。

不思議だ、霧の中をあるくのは!
人生とは孤独であることだ。
だれも他の人を知らない。
みんなひとりぼっちだ。
(ヘルマン・ヘッセ『霧の中』)

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「挑戦真央らしく」―悔しいけど前を向く 真央、五輪後のシーズンを終えて

http://www.asahi.com/sports/spo/TKY201105170221.html

■体調不良、自分の責任

 フィギュアスケートの浅田真央(中京大)にとって、バンクーバー五輪からの出直しのシーズンが終わった。ジャンプの修正やコーチの交代、生活面での変化。ロシアでの世界選手権を終え、この1年を振り返った。
 連覇を狙った世界選手権では事故最低の6位に終わったが、本人は意外とさばけた表情だった。

「心残りもありますし、悔しい思いもありますし、すべてを出し切れなかったかな、という思いはあります。やはりトリプルアクセル(3回転半)を跳べなかったことが悔しい。公式練習で一度もクリーンに決まらなかった。そのことが一番流れを悪くしてしまったかもしれない。佐藤信夫コーチはショートプログラム(SP)もフリーも『やめるべきだと思うけど、自分で決めなさい』とおっしゃったので、自分は『やります』と言った。先生は最終的に『わかった』と送り出してくれた」

 佐藤コーチは敗因を「パワー不足」と表現した。

「大会前に『やせた』と言われたけど、それだけが理由じゃないし、自分の責任としてしっかり受け止めている。自分の体調面のコントロールがうまくできなかった。力がこもってなかったのは、自分でも感じていた。食べていなかったわけじゃないけど、ストイックになり過ぎていたのかもしれない」

 東日本大震災の影響で、大会日程が3月から1カ月ずれたことも影響した。

「中止になるかもしれないということになって、1週間のオフを取った。そのあとからアクセルがうまく跳べなくなった。2月の四大陸選手権(台北)までは、うまくいっていたんですけどね。他のジャンプは跳べるのに、なぜかアクセルだけが回れなくなったんです」

 オフにジャンプの修正をし、9月から就任した佐藤信夫コーチの指導スタイルにもなじんできた。今までのコーチからは怒られることは少なかったが、大声で怒鳴られてしまう場面も。

「フリップジャンプの説明を先生がしているのに、自分で勝手に滑り出してしまって『まだ話は終わっていない。1人でやるのか?話を聞いているのか?』って。もうなんか頭の中がパニックになるんですよね。怒られちゃいました。佐藤先生の奥さんの久美子先生からは『真央ちゃんは本当おもしろいわ。主人の話を聞かないで滑り出した選手を、初めて見たわよ』と言われるし……」

 それでも、バタバタと過ぎていったシーズンに納得はしている。家族からは「休んでいいんだよ」と言われていたが、試合に出続けることが最高の練習であると信じていた。

「終わったことを経験として、今後はそれをしっかり改善していけばいい」

      ◇

■ソチへの助走 自分の足で

 20歳。大人への階段を一歩一歩上がってゆく。今季の浅田を表現するならば「挑戦」と同時に「自立」という言葉も似合いそうだ。

 中京大では、先輩の小塚崇彦(トヨタ自動車)が練習パートナーだ。学食で昼食をともにすることも多かった。

 普通に定食を食べる小塚の目の前で、浅田がほおばっていたのは自分で握った玄米おにぎりとサラダ。ほんのわずかな体重増減が演技、特にジャンプに表れる。今までは親頼みだった部分も多かったが、一人のアスリートとして着実に成長した。

 そのシーズンを振り返れば、最高位は四大陸選手権の2位。SPとフリーにトリプルアクセルを組み込む演技構成を貫き、調子が悪くても「逃げることなく」臨んだ。そのやり方にも賛否両論があったとしても、今季男子で4回転に挑む選手が急増したように、技術レベルを落とすことがのちのち命取りになることを知っていた。

 一度も表彰台の頂点に立てなかった初のシーズンになったが、収穫は多かったとみていいはずだ。すべては2014年のソチ五輪に向けた助走なのだから。(坂上武司)


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◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


特に目立った内容が書かれている訳ではないが、その分、実に腑に落ちる、浅田選手自身の素直な言葉が並んでいる。殊更、世界選手権の結果について言い訳じみた理由や、他に責任を押し付けるということもなく、記者に尋ねられるまま自己の内省をそのまま声にしたという受け答えだろう。

要はすべてが自然体なのだ。

出来なかったことは出来なかったと素直に反省し、それを糧にレベルアップするための改善点とする。彼女の生き方や選択はいつも実にシンプルだ。どんなリスクがあるとしても、常に全力で立ち向かってゆき、最後はきっと乗り越えられると確信している。
たゆまざる努力が、日々の練習の積み重ねが、彼女の無限の自信を支えているのだ。
そしてこの揺るがない自信、未来につながる確信が彼女の天才たる所以なのだと思うのだが、このリスクに対する無防備さが、天才に対する凡庸なる人間たちにある種の苛立ちというのか、嫉妬の念を湧き起こさせる…アマデウスの天衣無縫さに対して、それを神への不遜と感じるサリエリの羨望のごとき、いわれなき言いがかりのような仕打ちを生み出しているような気がしてならない。

彼女の美しい3Aを執拗に狙う回転不足、判定すること自体が悪いというのではない、だがトップスケーターなら跳んで当たり前の2Aの得点に対し、たとえ若干の不足があろうと、ツーフット気味の着氷の場合があろうと、ほかの女子選手の誰ひとりまともに競技で跳ぶことの叶わないジャンプが、2A以下の価値しかないとばかりの低い得点しか与えられない採点基準が、果たして妥当と言えるものなのだろうか。

勿論、3Aだけが価値のあるジャンプという訳ではない。だからこそ、浅田選手は苦手意識を払拭してすべての種類の三回転をフリー構成に入れるという挑戦を、ジャンプ改造という難儀な取り組みの最中であるにもかかわらず、黙々と続けたのだろう。

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前々のエントリーにいただいたコメントの中で、印象に残った言葉がある。

「浅田選手が3Aを跳ばなくなれば今の醜悪なジャッジ環境が改善するのでしょうか? 浅田選手はルールやジャッジの異様な偏りや矛盾を是正するために選手をやっているのでしょうか?」

答えは勿論、どちらもNOだ。そしてこのコメントを下さった方も、当然否であることをご承知で仰っていることは、まさきつねもよく了承している。

だがそのコメレスにも多少書いたのだが、最初の質問の方は、実は恐ろしい落とし穴がある。
浅田選手が3Aを跳ばなくなれば、ジャッジの態度が変わるという訳ではないことは誰もが予測の範囲で分かっている話だ。
今の頑ななジャッジングは、浅田選手の3Aだけを狙い撃ちにしている訳ではなく、浅田選手のセカンドジャンプや、世界選手権では村上選手、GPSでは鈴木選手やアメリカの選手たちにも厳しかった。だが逆に言えば、浅田選手が3Aを跳び続けてもジャッジの態度は変わらない。
そこでアンチファンの言い草に従えば、浅田選手はルール対応能力がない、現行ルールに適応しようとする柔軟性が欠けるということになるが、これこそルールやジャッジの問題を、選手の個人的な技術向上に対する努力という別次元の課題に混同してしまう、論理のすり替えでしかない。結局、不毛な押し問答だけが繰り返されるということになるのである。

浅田選手に限らず、どんな選手も本来は、純粋にそのスポーツを愛しているから競技を続けている訳で、決して「ルールやジャッジの異様な偏りや矛盾を是正するために選手をやっている」訳ではない。だが時として、組織やジャッジから不可思議なほど特別な恩寵を受ける選手が現れ、あられもないほど偏向なジャッジが矛盾もあからさまに行われるから、その呷りを喰らうほかの選手たちは仕方なくその対応に追われるということになるのだ。

今季、モロゾフの念入りな作戦の元に用意周到なほどリスクマネジメントをして、圧倒的な強さでシーズンを闘ったのが安藤選手だった。世界選手権ではその勢いを活かして、隙のない演技と研ぎ澄まされた技術の美しさで、一年のブランクにもかかわらず目一杯の加点と昨季のPCSをそのまま引き継いだキム選手の得点を退けて、文句なしの優勝に輝いた。

一方で浅田選手が現行ルールに何ひとつ対応していなかったかと言えば、そんなことはない。彼女が一シーズンを懸けて取り組んだジャンプ改造こそ、長い目で見たルール対策のための礎だった筈である。
そしてさらに彼女には、昨季の世界選手権でキム選手を上回り、五輪の雪辱を果たしたという経験がひとつの確信としてあったと思う。
3Aをショート、フリーの両方で決め、ほかのジャンプも昇り調子のまま構成通りに成功出来れば、後のエレメンツも印象を崩さずまとめることが出来るという自信が、ラストチャンスをものにした全日本、そして二位になった四大陸と今季苦心しつつも一段ずつ階段を上がってきた彼女には、世界選手権の勝算として確かにあったと、まさきつねは思っている。

ただし、言うまでもなく東日本大震災と、それによる一か月のブランク、東京からロシアへ舞台を移した代替開催はすべてが誤算だった。
この話をすると、すべての国の選手が同じ条件ではないかと自国贔屓はまるで、負け犬の遠吠えと言わんばかりに忌み嫌う方々がおられるが、そんなことはない。やはり一番ダメージが大きかったのは、日本選手である筈なのである。
自国が戦後以来の未曾有の被災に苦しむ中、自分たちだけがお気楽にスポーツに興じているという逃れられない自責の念と、それをまたさらに煽るかのように陰湿なマスコミの報道、虚しさで何もかもに手が付けられない脱力感と言い知れぬ不安、若い彼らにはあまりに過重なプレッシャー…ストレスを感じるなという方が無理な現況だっただろう。

世界選手権の結果を浅田選手はもはや殊更、言い訳ひとつ口にすることはないが、まさきつねはやはり前にコメレスにも書いたのだけれど、今のようなジャッジとルールの醜悪な環境の下で、彼女に勝利を願うことの虚しさと、その裏腹に、それでも彼女ほど、勝利にふさわしい実力と才能があるだろうかという思いに揺れ動いてしまう。

この『真央らしく』の記事にある「心残りもありますし、悔しい思いもありますし、すべてを出し切れなかったかな、という思いはあります。やはりトリプルアクセル(3回転半)を跳べなかったことが悔しい。」という言葉は、四大陸選手権のフリー演技の後「トリプルアクセルは100点満点。昨日のSPの悔しさを晴らそうと思いました。」と語ったことの反語で、彼女のフィギュアはいかにも健全なアスリート精神に支えられているのだなということをしみじみ感じる。
ファンや家族や周囲の人々が彼女のことを心配して、「休んでいいんだよ」そんなに無理をしなくても、勝っても負けてもあなたを応援しているよといくら告げたところで、彼女はきっとそんな周りの思惑には一切頓着せず、絶対に諦めたりすることなどなく、噛み締めた悔しい思いを晴らそうと一心に前を向いてひたすら邁進を続けるのだろう。

不思議なことに彼女は勝つことにこだわってはいても、勝つために何が必要か、もっと合理的な勝利の仕方はないのかといった、必ず勝つための手段には一切こだわったりしない。
常勝することは彼女の目的にはなり得るかも知れないが(しかし連覇を意識しないあたり、これも怪しいものだが)、必勝のための常套手段を考えようとすることは彼女にはあり得ない。
そもそも競技に絶対的な勝利など元々ある筈がない。理詰めで勝てるスポーツなどないのだ。

彼女は常に負けることを意識しつつ、勝利を目指している。自分の弱さを認識しながら、強くなろうと懸命に努力する。リスクを恐れないのも、それを敢えて避けようとしないのも彼女にとっては、それがスリリングな挑戦であり、ストイックな反抗であるからだ。
結果の見えている挑戦になど意味はない。施しのような勝利も、アスリートに何の喜びももたらしてはくれないだろう。
そんな彼女に、常に望ましい結果が約束されている筈はないのだ。メダルの数や順位を恣意的に左右して国ごとに振り分けたい体制側の思惑からしたら、最も扱いづらく利用し難い選手ということになろう。
それが畢竟、筋書きのある結果と引き換えに、ドラマチックな展開と観衆の胸を打つ衝撃を、いつか運命から約束されているということにつながっていくのだ。

なぜなら彼女の挑戦は、常に常識外れであるがゆえに、時として狂気じみたパッションに駆られることにも躊躇いを持たない。
そして、時として彼女が意図せずとも組織やシステム、そしてルールへの大いなる反逆として、誰もが思いもよらない劇的な結末を用意するように思われて仕方がない。

それが「ミラクル・マオ」といわれる彼女、フィギュアスケートにとって誰よりも、運命の人である彼女しか為し得ない神の奇跡なのである。

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すべてがはじまりのタンゴ

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興味深い記事があったので、それをまずご紹介しよう。


中日新聞「小塚嗣彦の目」2011年5月2日

今回一番うまかったのが安藤選手でした。他の選手に比べて、大きな失敗をしなかったことが勝ちにつながった。全体的にまとめた演技でしたが、彼女はもっと高い能力を持っている。ジャンプ一つ取っても、さらに上のレベルに進める力を秘めている。

浅田選手は今季これまでと同じように、力強さがなかった。この1年、どの先生に習おうかといろいろあったので、時間が足りない部分があった。

佐藤コーチについたのが昨年9月。言われたことはすぐできる選手ですが、器用で跳べてしまうだけに、新しい跳び方からふっと自分がやってきた跳び方に替えてしまうことがある。佐藤コーチも気を使っていた部分がありますが、今度の1年間は佐藤カラーを押し出していくでしょう。時間をかけていけば、昨年まで以上の力を引き出せる。

村上選手はあの中に入ると表現力が必要。スケーティング能力を高めて、技のつなぎをもっと大事にしてほしい。

昨季に比べて大きく進歩した男子に比べて、女子は停滞した感じがある。これからは技をしっかり決めることに加えて、滑りのいいスケーティングをすることが高得点につながる。今回の傾向として、ジャンプやスピンの回転不足を今まで以上に厳しく見ている。ルールに忠実に、丁寧に滑ることが大切になってくる。
(グルノーブル五輪代表、中京大アドバイザー)

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


小塚嗣彦さんの一節に「滑りのいいスケーティングをすることが高得点につながる」とあるのだが、嗣彦さんのようなスケートの偉大な先人が肌身で感じているこうした感想がおそらく、この前のエントリーでまさきつねが問題視した「SS基準方式」なるものを現実的に裏付けする論理的な根拠となっているのではないかと考える。

一般人がたとえば、「滑りのいいスケーティングをすることが高得点」→「スケーティング・スキルが重要」→「SS(スケーティング・スキル)を基準にしてほかの4項目を数値化」といった説明を受ければ、なるほどその通りと合点して、だから「SS基準方式」で今のジャッジは行われているのだから、SSの得点が稼げなかった選手はPCSが低くても仕方ないのだという論理を押し付けられれば納得してしまうのかも知れない。

さらに重ねて、嗣彦さんのようなフィギュア・スケート界の大御所のご意見なのだとか、ジャッジはISUのプロなのだからと念押しされれば、やっぱりPCSは妥当だった、今のジャッジの採点にも納得出来たという結論に達したとしても何の不思議もない。

だが、この嗣彦さんの文章をよく見渡してみれば分かることなのだが、嗣彦さんは確かに、シニアに上がったばかりの村上選手に限定して「表現力が必要。スケーティング能力を高めて、技のつなぎをもっと大事に」と指摘され、さらに「ジャンプやスピンの回転不足を今まで以上に厳しく見ている。ルールに忠実に、丁寧に滑ることが大切」と仰っているが、音楽の解釈やパフォーマンスに関しては、ここで一切触れられていない。
文章内で述べられていることのほとんどは、ジャンプ、スピン、そして丁寧に滑るというスケーティングなどの技術的な部分のお話に限定され、それを向上させ、ルールに沿って質のいい滑りをする重要さを、当然のこととして推奨されているのだが、だからといってそれが機械的に音楽の解釈や振付、演技表現の評価を左右するなどとは一言も述べておられない。

当たり前である。
技術がいくら高くても、曲や楽想の解釈が出来ていない選手はいくらでもいるし、技術がなくてもパフォーマンスの巧い選手も振付が良い場合もあるだろう。(くどいようだがもう一度繰り返し言っておこう。そもそもそれを個別に芸術性を評価しようと設けた5項目なのに、SSに引きずられて他項目が振り分けられると断定してしまっては、名目が有名無実化していることを認めてしまうようなものであるし、元よりISUが定めたルールの中で明文化されてはならない規則だからである。)

さて、ここでもうひとつ、別の記事をご紹介する。
寄せられたコメントでも情報をいただいた、ご存知ソニア・ビアンケッティさんの世界選手権の感想記事の中から、今後の採点に関する彼女らしいご提案の部分である。


ソニア・ビアンケッティ【素晴らしき世界選手権】2011年5月2日
http://www.soniabianchetti.com/writings_wonderful_worlds.html

世界フィギュア スケート選手権は、2011年4月25日から5月1日までの期間、モスクワのメガスポート・パレスの会場で開催されました。今大会は本来、東京で3月末に開催することになっていましたが、日本を襲った悲劇のために予定を変更せざるを得なかったのです。日本の選手と日本の方々に敬意を払った最良の選択であったと思います。歴史上最も大きな自然災害に直面しながら、これに向き合っている人々の勇気と強さ、そして尊厳に充ちた姿勢に対して、私は心からの賞賛を贈りたいと思います。涙に暮れるのではなく、前進する強い意志に感服します。命を失った何千もの人々がいて、このような災害に対して泣き叫ぶこともなく不平不満を言うこともなく、彼らは心をひとつにして一団となって未来に向かって歩を進め始めたのです。まったく素晴らしい。誰もが学ぶべき素晴らしい生きざまを見ることが出来ます。

モスクワでは、日本のスケート選手全員が彼らの練習着の左肩袖に喪章をつけていました。彼らは誰もが、この大いなる悲劇によって被災した人々に勇気を届けるべくスケートをしたいと念じているように見えました。
(中略)

ロシアのクセニア・マカロワはSPでは三位だったのですが、FSでは九位とふるわず、総合では七位に落ちてしまいました。私は彼女のFS順位を知ったとき、それは何かの間違いではないかと思いました。彼女のプログラムは決して完璧ではありませんでしたが(彼女はトリプル・ループで転倒、コンビネーションのジャンプではトリプル・トゥループでunder-rotated されている可能性がありました) 、私は実際、彼女がどうしてそんなに低い評価を受けているのか理解出来ませんでした。詳細な結果を確認したところ、私は彼女の最後のコンビネーション・ジャンプ、3S-2Loが無効と考えられているのに気づきました。これは実に、説明するのが非常に複雑なルールのためなのです。

クセニアはプログラムで、ふたつのトリプル・ループのジャンプを跳んでおり、2 番目で転倒しているのですが、これは自動的にコンビネーション・ジャンプとしてコンピューターが判断していたのです。ルールでは、最大三つまでのコンビネーション・ジャンプ、もしくはシーケンスを有効としているのですが、彼女はその時点で残りひとつだけのコンビネーション・ジャンプが許されており、最後のそれがダブル・アクセルの連続ジャンプだったのです。そこで、最後に彼女が跳んだ3S-2Loは余計なエレメンツとして判断されてしまったという訳です。女子のこのルールを知らなかったか、彼女が覚えていなかったかのどちらかでしょう。もちろん、このエラーによって彼女は得られる筈の多くのポイントを失うことになりました。同様のケースが、大会または選手権で発生したのは初めてのことではありません。現在のルールの上では正当な結果なのですが、これらのルールに意義があるかどうかは再考する必要があるでしょう。スケート選手は自分の頭脳の代わりに、コンピューターを組み込む必要があるのでしょうか? スケート選手たちが、ポジションの組み換え数やスピンの回転数を数えるのに必死で、さらに転倒した後もコンビネーション・ジャンプを残りどれだけ跳べるの記憶しておかなければならないという雑念に取りつかれているというのに、音楽の解釈や心のこもった表現にうちこめるなどと、どれほど期待出来るというのでしょうか? 私は、SPに対する「ロング・プログラム」が、細かい決まりと制限に縛られていないFS「自由なスケートプログラム」に立ち返るべきだと思います。私の意見では、必要な要素の数を最小限にするべきだと思います。そしてスケート選手が演じたい追加の要素を自由に選択出来るようにするべきだと考えています。何人かの人たちはそれでは過去に逆戻りだというかも知れません。そう、変革は常に最適な選択とは限りません。変革とはこれを実現させ、また再び変えていく勇気を持つことが大事なのです。
(後略)

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


この記事ではマカロワ選手のコンボ数違反が例に挙げられているが、織田選手の毎度お馴染みになってしまったザヤック・ルール違反も同様のことが言えるだろう。
織田選手についてはあまりにも同じようなミスを繰り返し、しかも彼自身以外の人間は演技途中でほとんど違反に気がついているという状況だったので、彼の自己責任という見方でほぼ落ち着いてしまっているのだが、実際に演技している人間からすれば、ジャンプの数を数え種類を考え、組み合わせを考えて、さらにジャンプ以外のスピンの回転数やステップやつなぎにまで気を配らなくてはならないとなると、こんなに多くの雑念にこころを捕らわれた状況で気持ちが入り込んだ演技に集中するというのはほとんど不可能に近いのではないかという思いがしないでもない。

織田選手やマカロワ選手の失敗を特別擁護したいというつもりではないのだが、何度もこのようなミスが導かれて、選手たちがその実力にそぐわない順位に甘んじるというのも不幸な話であるし、ビアンケッティさんが仰っているように、ミスをしないことに選手らの注意や神経が払われ過ぎて肝心のパフォーマンスから音楽の一体化や迫真の演技に気力を尽くした感動的な表現が失われてしまっては、本末転倒も甚だしいということになってしまう。

あまりにも細かく規則や制限の決められた中で、FS(フリープログラム)とはよく言ったものだとすら思うのだが、ジャンプだけでなくスピンにしても、足の組み換えや回転数などを考慮すれば結局どの選手も似たり寄ったりの得点稼ぎを目的とした内容にせざるを得ないだろうし、それをしようとしない選手(たとえばジュベール選手? しないのではなく出来ない? ある意味では潔いけど)は結局レベルを取りこぼし、得点が伸びないということになる訳だ。

スケーティング・スキルを重要視しようとする今のジャッジ傾向からすれば当然のことなのかも知れないが、それにしても、ジャンプを跳び過ぎたから全く得点に反映されないとか、回転が少し足りないジャンプは大幅に減点とか、(それが素人感覚と言われればそうなのだろうけれども)演じられているパフォーマンスの美しさに目を奪われている一般観衆の側からすれば、個々の要素の完成度よりも作品全体としての完成度を重要視して欲しい、感動させてくれた内容をもっと評価して欲しいと考えるのは至極当然のことなのではないだろうか。

スキルの高さや技の完成度を評価するのは、SPの演技で(かつてコンパルソリーで評価していたように)見れば充分、フリープログラムはそれよりも、選手たちが長時間滑る中でいかに美しく感動的な作品を作り上げ、楽曲とスケーティングが一体化した世界観を披露してくれるかに採点の重きを置いてほしいというのが、ビアンケッティさんも仰っているような変革のさらに上をゆく変革ということの中身なのではないだろうか。

折も折、先日恒例の新しい今季のルール改正案がISUコミュニケで提出されていたけれども、事細かに分析していけば改善されたように見える部分もあり、そうでないところもあり、あるいは一長一短結果としてはあまり変わらないようにしか思えない傾向も垣間見え、勿論これが決定稿ではないのだが、まったくもってルールの方向性に特に大きな変わり映えはないようだ。

つまりは現実的に今の偏狭的な印象があるISUがそう簡単に、厳密化の一途をたどっている新採点システムの改善を追求して、大幅に変更を加えてゆくとはとても思えないのだけれども、ビアンケッティさんのような専門的な経験者の中からでも、規則や制限にばかり固執して本来のフィギュアスケートの持つ芸術的世界やその意義を失いかけている傾向に警鐘を鳴らす声は上がってきているのだ。
スキルは大切だが、それがパフォーマンスのすべてではないのだということを、ファンの側からも声を出して、体制の側に疑念を突き付けてゆくことが重要なのだ。

何故ならば組織は玄人や専門家の集まりで、一般観衆は素人、所詮フィギュアの細かい技術や理念までは考えが及ぶまいと言ったところで、実際に選手のパフォーマンスを鑑賞し、その演技に感動するのは、特殊な知識に固められた頭脳ではなく、ごく普通のひとが共通して持っている感性と演技手の思いを受けとめるこころだからなのである。
選手らのひたむきな努力と楽曲に込めた気持ちを理解し得るのは、誰もが持っている無垢なこころ、選手の気持ちをまっすぐに受けとめる何にも染まっていないこころしかないのだ。

スキルを重要視するジャッジ、そしてさらに厳正、厳密化して選手の演技スタイルを決められた型に嵌めていこうと言わんばかりのルールだが、その結果、観衆の演技印象とどんどん乖離してゆくばかりの採点結果というのが、果たして多くのひとの感性を掴み、新しいファンを獲得していくといったフィギュア競技の明るい未来につながっていくと本当に組織のお偉方は考えているのかどうか。
このまま方向転換するつもりもなく、あいかわらず順位と得点をルールの表向き正当な運用によって操作しつつ、納得のいかない競技結果でファンを失望させることを繰り返すのかどうか。

先は全く読めないのだけれども、少なくとも自分が一番観たいものの本質が分かっており、それは決して得点や順位の高い選手のパフォーマンスなどではなく、美しく芸術性に富み、魂に語りかけてくるような選手の気持ちのこもった表現なのだと多くのフィギュア・ファンは気づき始めている。
だから今大会のマカロワ選手の案件などを受けてロシアなどの内部からも、ルールのやみくもな厳正化から一歩後ずさって、選手たちにもっとそれぞれ個性的で充実した表現が可能な環境となるよう、改正の方向転換を促すような流れが出てくることを念じてやまないのである。

ところで味もそっけもないルールに関する論議もこのくらいでいい加減に切り上げて、最後にロシアの世界選手権、浅田選手のSP演技をネット内からありったけ、集めるだけ集めた画像で振り返ってみたい。

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フィギュア248-17

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フィギュア248-17

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MAOタンゴ13 (2)

MAOタンゴ13

MAOタンゴ13 (2)

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紅潮した頬、昨季の『鐘』を思わせるような、厳しく自分を奮い立たせる激しい表情も時折覗いている。筋力が落ちて痩せた身体はどんなに気力を集めても臍下丹田に精気がみなぎらず、回転や跳躍といった苛烈な運動に入れば遠心力に引っ張られて、いつも通りのバランスや軸心を保つことが難しかったのだろう。
それでも必死に上半身を安定させて、スピードを加速していく下半身の動きに外れない綺麗なポジションを持続させようという、彼女らしい苦心の跡が見えている。

実際、いつもの競技写真に比べれば格段に、スピードと躍動感に満ちたポジションや、華麗で迫力のある姿勢は見受けられない。カメラのシャッタースピードでとらえるには困難なほどの秒数しか、彼女らしい動きを保全して印象的に見せつけることが出来なかったものだろう。
結果、音楽に遅れて振付がかみ合わなくなる部分や、物足りなくなるつなぎが全体としての完成度を損ねているのだろうと思うが、それでも彼女にしか演じきれないだろうアトラクティブで哀感に充ちたステップ、これまでのタチアナ振付を踏襲した目を惹き付けて離さない魅力のある超絶な足の動き、それ以上に饒舌な語り口で情感を溢れ出させた上半身の所作は、この『タンゴ』に感興の眼を繰り返し没入させるに充分な醍醐味を感じさせてくれるものだった。

嗣彦さんの記事にも書かれていたが、確かに処々力強さが足りず、痛々しいまでの身体の細さがその印象をさらに深めていたと思うが、一度舞台に上がった身体表現者として精一杯の頑張りを見せ、とにかく繊細な心の動きをひとつひとつの振付に込め、決して陰鬱な倦怠感に堕ちることなく最後まで滑り切ったその気概は、多くのひとの胸に迫るパフォーマンスに現れていたと感じる。

浅田選手は終わっている? 終わらせたい邪まな考えのある方々が、どこかにおられるのだろう。

今季の最初から妙に村上選手ら若手を持ち上げて、浅田選手のどこまでもストイックでリスクを恐れない(が故に、シーズン序盤はジャンプが決まらないことから作品としての評価までが低迷するまったく最悪のシナリオに陥っていたのだが、)その気丈な姿勢に、半ば日本のマスコミも競技関係者も若干持て余し気味といった風潮が蔓延し、「この試合が本当にラスト・チャンス」「一発勝負ですけど、頑張ろうかな」といった彼女の発言を事あるごとに持ち出しては煽る報道や、このフレーズをネタに記事を書き連ねる尻馬ライターたちが横行する中で、浅田選手をもはや賞味期限切れの近いコンテンツであるがごとく容赦なく叩き、粗雑に扱う輩が、五輪をひとつのピークとして頂点に達したと思う彼女人気の影の部分のようにさらに激しく蠢き始めていた。

震災直後、彼女が発した言葉をどんな意図があって編集して「世界選手権が延期されても、中止されても、今まで通り練習していこうと思う」という部分のみを掲載し、「被災地思いやる安藤=浅田は『練習していく』—世界フィギュア」というわざわざ誤解を誘導するような見出しをくっつけるのか、もはや悪意というよりも一種の犯罪に近い報道姿勢だと呆れ果てたのだが、スポーツ競技に準じている人間なら誰もがこのまま練習をすることに自問自答していた頃に、その気力を根こそぎ奪うような残酷な選手叩きが平気で行われ、心ある人間なら誰もが胸を痛めるだろう陰湿な苛めのような仕打ちが、浅田選手の周辺ではこれ以前でも折につけ茶飯事にあったのである。

まさきつねはこれまでそのいちいちを記事にして取り上げたことはないが、今季の始まる直前、最も目に余った出来事が、キム陣営のオーサー解任をめぐる騒動の中で浅田選手の名前がまるでコーチ横取りの首謀者のように上げられたことだったが、その際も結局、浅田選手を擁護しその潔白を公的に釈明する公人も競技関係者もいなければ、経緯をきちんと報道するようなマスコミもなかったのだから、今さらに考えてもいったいこの国の病理はどこまで深いのか、日本の至宝というべき選手の才能を何を以てみすみす蕩尽してしまうつもりなのか、普通の感覚ではとても考えの及ばない話ばかりである。

何はともあれ、四大陸選手権で一度は上昇傾向が見えた浅田選手の状態も、ジャンプの改善傾向も、この国を襲った未曾有の災害と、懲りる気配のないメディア報道、そして(これは杞憂であることを願いたいのだが)最も彼女を精神的に支えるべきファンの動向にすら足並みの乱れが見え始めたように感じてしまった昨今の信奉者事情、何より採点の信頼性をめぐって離反し始めた日本のフィギュア・ファンたちといったさまざまな競技環境を背景に、全日本以前の状態に逆戻りしてしまった感があり、最終的に決して万々歳とは言えない締めくくりを迎えてしまった。
だが、それでもここがすべての終わりという訳ではまったくないし、むしろこの逆境をバネにして再三再四、復活劇を見せてくれるのがミラクル・マオの奇跡たる所以だろう。

世界選手権では、佐藤コーチの中では回避させるのが定石であっただろうSPの3Aも、偏屈なコーラーによって手痛いDGを食らう羽目にはなったが、五輪シーズン同様逃げることなく挑戦し、多くの報道では軒並み失敗とレッテルを貼られたが、まずはしっかり着氷することに成功して、後のジャンプも転倒やパンクすることなく、とにかく気持ちの途切れない演技につなげてみせた。
彼女のジャンプ改造と回転不足の解消に関しては、確かにまだ来季にも続く課題のひとつだ。しかし、決して乗り越えられない目標ではない。

今季、シーズンに入る直前、彼女は「昨季を経験して分かったことは、最後は絶対できる、大丈夫っていうこと。」と語っていた。
この自己への絶対的な信頼と、リスクの危機管理に対して無邪気なまでに無頓着な姿勢、アスリートとして脇目をふらずどこまでも頑強に自己の選択に忠実であることが、畢竟彼女に誰もが惹きつけられ、(時としてこれも一種の判官びいきかと思えるほど、)絶えず降りかかる不遇や苦節に対して、のべつ前向きなその天真爛漫な明るさにファンが好感を抱く理由なのだ。さらにまた、難局をものとせず常にドラマチックな再起を果たす、ミラクル・マオのそのデモーニッシュな潜在力の本質なのであろう。

タチアナコーチの『シュニトケのタンゴ』は今季、その完成形を成就することなく終わってしまった。
しかしどれほど未完であっても、その芸術性の片鱗はあの超絶のステップと、逆風にも堕落せぬ高貴な魂が紡ぐ身体表現、過ぎ去る時間の輪郭を脳裏に焼き付けてゆく彼女ならではの余韻に充ちた美しさ、これらの端々に閃いているのである。

だから何も終わってなどいない。
浅田選手自身もこの今季最後のSP、このタンゴから、また明日へ続く道のりが始まるのだと確信した筈だ。
すべては、今季の闘いで悔しさを噛み締めた少女が廃墟と崩れ果てた栄光の跡から、自らの理想に向かって一段一段の進化と蘇生を確かめながら昇ってゆく、その道程の途中にしか過ぎないのである。


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なすべきでない演技

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先刻まではいた。今はいない。
ひとの一生はただそれだけだと思う。
ここにいた。もうここにはいない。
死とはもうここにはいないということである。
あなたが誰だったか、わたしたちは
思いだそうともせず、あなたのことを
いつか忘れてゆくだろう。ほんとうだ。
悲しみは、忘れることができる。
あなたが誰だったにせよ、あなたが
生きたのは、ぎこちない人生だった。
わたしたちと同じだ。どう笑えばいいか、
どう怒ればいいか、あなたはわからなかった。
胸を突く不確かさ、あいまいさのほかに、
いったい確実なものなど、あるのだろうか?
いつのときもあなたを苦しめていたのは、
何かが欠けているという意識だった。
わたしたちが社会とよんでいるものが、
もし、価値の存在しない深淵にすぎないなら、
みずから慎むくらいしか、わたしたちはできない。
わたしたちは、何をすべきか、でなく
何をなすべきでないか、考えるべきだ。
冷たい焼酎を手に、ビル・エヴァンスの
「Conversations With Myself」を聴いている。
秋、静かな夜が過ぎてゆく。あなたは、
ここにいた。もうここにはいない。
(長田弘『こんな静かな夜』)

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すでにあちこちのブログで紹介されているので、お読みになっている方ばかりだと思うが、記録のためにも残しておきたい『真央らしく』の記事の連載である。

「挑戦 真央らしく」―思い切り演技 励みになれば

http://www.asahi.com/sports/column/TKY201104220337.html


テレビの画面を通して見た未曽有の被害。思わず、言葉を失った。

「地震があった時はちょうど愛知の家にいた。『揺れたな』と思ったけど、そのあとにテレビで次々と被害の映像が流れて……。正直言ってこんな時期に、世界選手権に行ってもいいのかなと思ってる」

複雑な胸のうち。だが、日本連盟が派遣を決めたとなれば、行かざるを得ない。行くからには――。

「今、私にできることは、このシーズン、今までやってきたことを思い出しながら、試合で思い切って滑ることだけ。被害にあわれた方の中にも、応援して下さっている方がたくさんいらっしゃる。被害で苦しんでいる方はそれどころではないと思うけど、一生懸命演技する自分を見て少しでも励みになればいいと思う。それしかできない」

昨季の世界女王という看板は「忘れたつもり」で挑むという。ジャンプの修正に手間取り、出遅れ感があった今季、震災による1カ月の延期はどう出るか。

「2月の四大陸選手権(台北)の後は、3月に予定されていた東京の世界選手権に向けて自分を追い込んできました。だから、東京大会が中止になった時点で佐藤信夫先生から『まず休みなさい』と言われた。体も心も追い込んできたから、やはり一度リフレッシュしないと良い状態は維持できない。震災の直後から1週間練習を休んだ。(モスクワでの代替開催が決まり)1カ月先の大会へ向けて気持ちを切り替えることができた」

同じ佐藤コーチの指導を受ける小塚崇彦(トヨタ自動車)との練習が多かった。男子のスピード感やジャンプの力強さを肌で感じながら、取り組んできた。

「1日4時間の氷上練習で、ショートプログラム(SP)、フリーを1日1回は通し(曲をすべて流して演技すること)で滑り込んできました。震災の影響で練習は一時中止となったけど、それ以降は毎日やるべきことをコンスタントにやってきた。四大陸選手権で見つかった課題。佐藤コーチから言われているんですけど、『もっと元気よくスピード感を出してプログラムを滑りなさい』ということに気をつけてきた」

モスクワは第二の本拠とも言える地。昨季まで2季続けて習ったタチアナ・タラソワ氏も待っている。

「ロシアには悪いイメージはない。今季のSPを振り付けてくれたタチアナ先生がいらっしゃるので、衣装の手直しをやってもらうかもしれない。世界選手権が一度は中止になったと思った分、気持ちは少し落ち込んだけど、1週間休んで、練習をしっかり積むことはできた。今は前向きにとらえて試合に向かえる。気持ちはベストで臨めます」
(坂上武司)


◆「大人への第一歩」 母・匡子(きょうこ)さん

今季は真央にとって、昨季の五輪を経験して「大人」のスケーターになる第一歩のシーズンになっているような気がします。

今までいろんな先生に指導を受けて、良いところを吸収させてもらった。どの先生からも真央はかわいがってもらって、今でもアドバイスを頂くことはある。

シーズン前、真央はジャンプを一から見直したいと望んで、小さい頃に学んだことのある長久保裕先生のレッスンを受けた。私は「真央が今、何をやりたいか」を大切にしています。

9月から佐藤信夫先生にメーンコーチをお願いしました。今後の真央のことを考えると、もう日本の先生で真央を預けられるのは佐藤先生しか思い浮かばなかった。真央も佐藤先生の指導を受けたがっていた。

もちろんいくら有名な先生であっても、お互いを理解するのに3、4年かかることは理解しています。実績のある佐藤先生のもとで、真央は2014年ソチ五輪を目指すつもりです。

フィギュア243-4

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いよいよ始まる2011年世界選手権。もう男子のSPは終了しているのだから今更何をと仰る方も多いだろう。そしてそのSPの結果、大方の予想にたがわず、チャン選手がぶっちぎりの得点を叩き出した。日本の選手はみなベストを尽くし最終グループに入り、表彰台を狙える位置についている。

全米選手権から元々波乱づくめのアメリカ勢や、今季どうしても演技が安定しなかったジュベール選手、欧州選手権で何とか調子が戻ってきたように見えたベルネル選手といったあたりは台乗りに一歩出遅れた感はあるが、まだ上位に食い込んでくる可能性は残っているだろう。

FSも集中して、誰もが悔いのない演技を最後まで見せて欲しい。


さて、浅田選手の『真央らしく』の記事について。
このたびの震災について、アスリートとしての偽りのない感想と気持ちが述べられていると思う。誰もがあの映像を前にして、その悲惨さ途方もない酷さにかえって現実味を失い、あまりにも実感のない悲しみと絶望感に触れて呆然自失となったのだ。身体を動かすことが本分のスポーツ選手たちが、被災者たちの気持ちの一番間近に寄り添い、その慰めと励ましになろうと尽くすなら、やはり自分たちのベストパフォーマンスを極めるしかないということも当然のことなのである。

代替地となったくれたロシアは勿論のこと、世界が日本と日本の選手のために今、為し得る限りの最上の舞台を用意してくれたのだから、それに全力で応えるしかないという選手の言葉の端に滲み出る想いが伝わってくる。

「わたしたちは、何をすべきか、でなく
何をなすべきでないか、考えるべきだ。」

長田さんの言葉は逆説のように胸をえぐる。「死」とは、ここにいたものが、今、ここにいなくなるということ。津波は今までここにあったものを、すべてどこかへ持ち去ってしまった。だが、いつか、いずれ誰もが、ここから消え去ってしまう果敢ない存在であろう。果敢ないものが、果敢ない命を鎮魂するためには、生きるべき、ではなく、死ぬべきではないことを考えねばならぬのだ。
日本の選手たちにもまた、何を演じるべきか、ではなく、何を演じるべきでないかを考えて欲しい。

それが今、あなたたちの為し得るベストパフォーマンスだと思う。


ところで今回、記事にやや唐突に添えられている浅田選手のお母さまの言葉は、今季シーズン前にごたごたしていたコーチ問題に対して、シーズン内にきちんとしたけじめをつけて、これまでお世話になったコーチすべてに礼を尽くしたいという親御さんなりのご配慮なのだろう。

長久保コーチ、佐藤コーチの名前をしっかり挙げて、教授をお願いした理由と経緯を説明なさっているのは、悪意あるメディアがさんざん流してきた憶測や捏造だらけの記事に対して、身内関係者としてどんなにか心を痛めていておられたか察するに余りある一節である。

さらに最後に、今季からたちまちの成果を期待するのでなく、あくまでもソチ五輪を目標にして長いスタンスで浅田選手の競技生活を考えておられるご様子が垣間見えるのも、非常に賢明なご判断と要望だろう。
決して声高に語られてはいないが、子どもの選手生活を無理に縮めるような、身体を酷使して得る栄光や、実体がない名目だけの栄誉など望まれてはいない、子どもの希望に沿った充実した時間を少しでも長く過ごさせてやりたいという親心に溢れた言葉だと感じる。

五輪で銀メダル、世界女王のわが子にまだ「第一歩」なのだという表現も実に微笑ましいが、親にとって子どもは幾つになっても子どもで、どこまでも成長し続けて欲しい、無限の可能性を見出し続けて欲しい存在でもあるのだろう。
そしてきっと浅田選手は、彼女を愛情をもって見守り続けている親御さんや舞選手を始め、多くの関係者やファンの願いに違うことなく、その心情を裏切らないこたえをこのたびのワールドでも必ず見つけだすことだろう。

人間の品性とは、何をするかではなく、何をしないかということなのだ。「ノーミス」が口癖のあなたなら、きっとこたえにふさわしい演技に辿り着くことだろう。


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岸辺で、いつか

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まずは、このたびの震災でエントリーに上げるのを延期していた連載記事である。
日経新聞のWEB版にも掲載されているので、すでにご覧になっている方が多いと思う。

            ※            ※

駆ける魂
フィギュア史を彩る教え子たち コーチ・佐藤信夫(上)2011/3/14

平日昼下がりのスケートリンクは、大人のレッスンクラス。佐藤信夫(69)が80代の女性の手をとると、みるみる滑りがなめらかになった。助言する真剣な姿は、試合で小塚崇彦や浅田真央を見る時と同じ。

■飾らない誠実な人柄
佐藤の歩みは、戦後フィギュア史と同調する。
仕事の丁寧さを感じさせる。「彼女は50代から始めてね。このリンク(新横浜スケートセンター)は暖かいでしょ。うっすら解けてね、いい氷になる。氷がいいと技術も上がる。施設の進歩も、今の日本フィギュアを支えてるんですよ」。飾らない、誠実な人柄がそのまま表れた口調で話す。
佐藤がフィギュアに出会って今年で60年目。昨年、日本人2人目の世界フィギュアの殿堂入りを果たした。その歩みは、戦後日本フィギュア史と同調する。選手として全日本選手権10連覇、1960年スコーバレー五輪14位、64年インスブルック五輪8位入賞、65年世界選手権4位入賞。日本初の3回転ジャンパーでもある。

■世界の浅田も指導
66年に引退後、就職した。だが、札幌五輪開催を6年後に控え、日本代表コーチに推される。68年グルノーブル五輪では後に妻になる久美子、小塚の父、嗣彦を教えた。「生徒を次々引き受けるうちに抜き差しならなくなり、会社の自己評価シートも書けず、こうなりました」。会社を辞め、コーチ業に専念する。
性格同様、「嘘がなく、現実的な取り組み方をする」(娘で、94年世界選手権金メダルの有香)手法は、着実に選手を生み出し続けた。松村充、小川勝、さらに夫妻でクラスを持つようになり、有香と小塚崇彦をゼロから育てた。
2人を頼りにやって来たのは村主章枝、中野友加里、安藤美姫、荒川静香。そして「あれだけ頼まれたら(断れない)」と今季から見るのが世界女王の浅田。フィギュア史を彩る選手ばかりだ。

■絶えざる自己否定で進化
コーチ道に秘策はない。強いて言えば、絶えざる自己否定か。「指導者は一貫性がないといけないといわれるけど、僕は自分のしてきたことを否定していいと思っている」。例えば、スケートを走らせるため、かつては姿勢をピシッとすることが求められた。だが、トーラー・クランストン(76年インス ブルック五輪男子銅メダル)の登場以降、体幹部を曲げて踊ってみせる滑りが、良しとされるようになった。
昨日の主流が明日の傍流になることの連続。「もう自分の時代は終わりかなって思ったりもするけど。幸い、選手時代から(海外選手の)模倣で始まっているから、新しいものを取り入れることに抵抗はない」

■「意外に大ざっぱ」
それでも今は想像外のことが次々に起こる。フィギュアブームといえる近年は、外野の声がとみにかまびすしい。コーチと別につく振付師、人気選手を担当するエージェント、期待をかける親。「特に98年長野五輪以降、指導が難しくなった」とため息も出る。
それでも信夫はあまり深刻そうに見えない。「意外に大ざっぱなの。抜けてるというか、重箱の隅はつつかない。だから続くんだと思う」と久美子。6歳から83歳までの生徒を相手に、今も毎日、朝から夜まで氷の上に立つ(敬称略)

            ※            ※

駆ける魂
欧米との差を痛感 フィギュアコーチ・佐藤信夫(中) 2011/3/15

終戦から7年後の大阪。まだ娯楽が少なかったがゆえ、梅田や難波のスケートリンクは大人気で、靴を借りるのに2時間待ちは当たり前だった。戦前スケートをしていた佐藤信夫(69)の母は指導にかり出され、10歳の信夫少年もついていった。
「スケートを楽しいって思ったことはない」。山越え、谷越えの繰り返しで今がある。

■小学6年の夏、本格的に始める
「子供だから遊びは好き。スケートもその1つだった」。1953年、小学6年の夏に本格的に始めた。土足では氷が汚れると思っていたのか、リンク周辺に入るのに、観客も選手も専用の木製サンダルに履き替えていたような時代だ。
57年、15歳の時に、初めて全日本選手権を制した。フリーで、日本人として初めて2回転ルッツを跳んでの大逆転優勝だった。当時は6時間の練習が基本。うち4~5時間は、得点割合が高かった、氷上に図形を描く規定(コンパルソリー、今は廃止)の練習にかけるため、一般滑走時間外の早朝に滑った。
昔の整氷は水をまくだけ。氷が厚くならないように何回もまかないので、削れた氷が雪のように積もる。「一般客が滑る外周部分だけが摩擦でとけて氷がきれいなので、みんなでそこの取り合いになった」。

■「外国の人に勝てるなんて思えない」
初めての国際大会、60年スコーバレー五輪の公式練習でも同じ要領で8の字を描いていたら「えらい怒鳴られた。邪魔だって」。米国には整氷機があり、どこでも氷がきれいなことを知る。
海外では見るもの、聞くもの、新しいことばかりだった。圧倒的な欧米との差に、「外国の人に勝てるなんて、百パーセント思えなかった」。この初の五輪でバタンと転び、アゴが氷につく寸前の写真が新聞を飾ったのには「困った」。

■コーチとして力不足を指摘
だが関大卒業後、初めてコンディショニング法を学んでから力が伸び、65年世界選手権で4位、翌年5位と結果を出した。それでも、24歳で引退。引き留められたが「フィギュアは見た目以上にハードだし、家族に(金銭的、精神的な)負担もかかる。シングルの選手は23、24歳がピークだと思う」と未練はなかった。
すぐコーチになり、トップ選手担当となるが、自分もまだ頭より体の方が動く年ごろ。「こうやればいいんだって、自分で跳んで見せて、堂々と していました」。今思えば、指導とはとても言えない。72年札幌五輪に向け、日本スケート連盟がコーチ指導のために呼んだスイス人指導者からは「私だったら君を田舎で子ども相手のコーチにする」と、力不足を指摘された。

■理論的に指導、消化に時間
「このターンはこう」「フリーレッグ(着氷しない足)はこう」と、欧州流の指導は理論的な正確さを選手に求めた。それまでの佐藤は米国流。 スケーティングの流れや美しさを重視するやり方だったから、「頭の中がグチャグチャになっちゃった」。消化して、自分のものにするまでに数年かかった。
「スケートを楽しいって思ったことは一度もない。とにかく頑張るしかないって思っていた。これが今の人流に言う、“楽しんだ”ことになるんですかね?」
山越え、谷越えの繰り返しで、今がある。関大リンクには功労者として高橋大輔、織田信成と並び、佐藤信夫、久美子夫妻の写真が大きく飾られている。(敬称略)

            ※            ※

賭ける魂
「滑る技術」徹底的に フィギュアコーチ・佐藤信夫(下)2011/3/16
佐藤信夫の指導は、高いスケーティング技術が身につくことで知られる。なぜ、スケートは滑るのか?
「すべてはそこから始まる。その原点から1つのルートで(技まで)つながらなければ、どこかで技術が間違っているのでしょう」

■優れたスケーティング技術の見本
現在米国代表選手をコーチとして教える娘の有香と、手を引くような小さいころから指導を始めた小塚崇彦。佐藤が手ほどきした2人は、国際スケート連盟の講習会でも、優れたスケーティング技術の見本として取り上げられるほどだ。
途中から指導を仰ぎにきた選手にも、その技術をおろそかにはさせない。浅田真央もしかり。「世界女王に2度もなった人に変なこと言うと問題が起きるから、頭の中で整理して、どこから料理しようかとは考えますよ」。やっぱり、指導は原点のスケーティング技術からだった。
欲張らず、自分のすべきことをするのが佐藤流。

■とにかく観察
もちろん、すぐに変化は出ないし、うまくいかない時期もある。その点、妻の久美子も有香も、佐藤の最大のすごさにあげる「辛抱強さ」がものをいう。
とにかく観察し続ける。「私がカッカするようなときもクール。大したもんだって思う。逆に、何でこんな(明白な)ことが分からないんだって、思うときもあるけど」と久美子。
コーチの中には少しいじるだけで、選手に劇的な変化を起こす人がいる。対照的に、階段を一段目から上らせる佐藤には「確実に上手にするが、時間がかかる。待てない人もいる」という声がある。
だが佐藤は「僕は不器用だから。でも、選手はいつかは壁にぶつかる。その原因を解きほぐすには振りだしに戻らないといけない。だったら振りだしから始めた方が早いねって言うんだ」。
浅田がやってきて半年。浅田にとっても「こうだから、こういうことするんだ」と新発見だらけだったという。佐藤は「でも何だかんだ言っているうちに、いつの間にか滑りが変わってるんだから、やっぱりすごい人ですよ」。

■世界トップクラスを2人も担当
今、新米コーチの有香が佐藤に助言を仰ぎ、佐藤も米デトロイトを拠点にする有香に振付師選びや衣装探し、ブロードウエー人脈を活用したダンスレッスンなどを頼る形ができた。いつしかフィギュア界で“佐藤ファミリー”として知られるようになっている。
浅田と小塚という世界トップクラスを2人も担当すると、気は休まらない。「でも(指導者として)幸せですよね」と久美子。気が早く「14年ソチ五輪でダブルメダルを」と言う人もいる。「そんなことを考えたら、リンクに足が向かないですよ」と佐藤。
「不思議なことに」競技生活、コーチ人生で一度も順位を考えたことがない。「自分が弱いからかな。でも、3割打者でも大打者でしょう。10回試合して3回ニコニコできればって考えている」
では特大の一発を最高の舞台でと振ると、苦笑い。欲張らず、自分のすべきことをするのが、佐藤流だった。(敬称略)

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「欲張らず、自分のすべきことをするのが、佐藤流」
この一節が、今回の震災後の日本人にとっても、これほど大きな示唆となる言葉になるとは、当時取材した記者も思わなかっただろう。

誰もが今、出来ることを出来るだけするということでしか、日本を襲った未曾有の危機を乗り越えることは出来ない。他人の行動を誹ったり、自らの行動をひけらかしたりするのも、誰にも何の益もない。

ただそれぞれが、それぞれの生き方、考え方を自らに改めて問い直しながら、自らの良心の命ずるがままに行動していくしかないのだ。

誰もが問われているのは、ただ己の生だ。

幸か不幸か競技ではないのだから、順位は端から関係ない。始まりもなく、終わりもない。
夢のたどり着く先は誰にも分からないけれど、誰もがニコニコできるような場所で、未来が生まれた故郷でいつかまた、あなたとめぐり会えたら何よりもうれしい。

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さて、話が変わるのだが、だいぶ前にいただいたコメントで気になっていた内容について。

そのコメントでは、一部の浅田選手ファンの中に過剰に安藤選手を叩く語り口が時として見受けられるということについて、その悪意の堪えがたき存在に悲痛な思いで胸を痛められ、多少の憂いと嘆きのこもったご心情が切々と吐露されていた。無論、誤解のないように言っておくが、ファンの行動に一切、選手自身の責任はない。そもそも選手の人間関係や感情がファンの行動に影響を与えているということなど一切ないのだから、ファンが行ったことやその発言が選手自身のイメージや評価に直結するようなことがあるとすれば、それこそ本末転倒の嘆かわしき現況と言わざるを得ない。

先日、拙ブログへ時々お越しいただく夕焼けさまという方のブログにお邪魔したのだが、そちらで奇しくも、いわゆるキムヨナ・マンセーとマヲタと俗に呼ばれるような一部の狂信的ファンについての記事を拝読した。
狂信的なファンに関しては、かつてSAWAKICHIさんといった著名なブロガーさんなども苦言を呈されていたが、どの選手のファンであろうと結局、その論法や言い分にさほど違いがある訳ではなく、その原理主義的な盲信の不合理性があらゆる方面にとって迷惑千万極まることは、紛うことなき事実なのだ。

中でも最も嘆かわしい反応が、ある選手を過激なほど熱狂的に支持するあまりに、ほかの選手に対して過剰なアンチ行動や発言をするというもので、それが例えば、最初に上げた拙ブログのコメントにあったような、浅田選手ファンによるアンチ安藤選手といった、日本人選手のファン同士による対立の構図なのだと思う。

浅田選手がいつ、いかなる時も一位、もしくは優勝でないと我慢ならないという狂信的なファンにおいては、その攻撃対象も安藤選手にとどまらず、浅田選手に対して批判あるいは過小評価発言をしたと思われる場合は、村主選手や荒川さんなどが標的になったり、あるいは若手で浅田選手を凌駕すると予想されるような時は村上選手がやり玉にあげられたりという図式のようだ。

今季、やにわに高まった村上選手に山田コーチまで巻き込んだアンチ村上の風潮とそれに対する村上選手擁護論は、拙ブログにも「村上選手に厳し過ぎる意見では」といったコメントが寄せられるほど、彼女についてのどんな批評どんな感想ひとつを口にしても、さまざまな誤解、曲解を生むような勢いでフィギュア界を二分していた。
村主選手や荒川さんについても、多かれ少なかれ同じような現象が起こっていたと記憶するのだが、否定的であれ肯定的であれ、たとえどのような意見だろうと、個人の主観の入った純粋な感想を言葉に出来ない状況が生まれること自体、息が詰まりそうな閉塞感を感じてしまう。

ところで、こうした狂信的ファンによる弊害にはどうにも眉を顰めざるを得ないというのも正直な話だが、無論、浅田選手ファンだけがほかの選手に対するアンチ行動をするという訳ではないことも事実だ。
浅田選手ファンがいれば、その一方でアンチ浅田選手も存在する訳で、こうした人間がする行動も発言の論法もまったく狂信的な浅田選手ファンと同じで、彼らがほかの選手を誹謗中傷するのと同様の手法によって、浅田選手を讒言するのである。

まさきつねがいささか胸を痛めたのが、安藤選手が2007-2008シーズン、世界選手権で棄権するくらい不調と苦悩に苛まれていた頃、安藤選手以外の中野選手や鈴木選手らに囲まれた浅田選手の写真に「安藤選手がいないとこんなに和やかです」といったコメントを恥知らずにも貼り付ける輩がいたのだが、今季GPFが行われた中国でのバンケットパーティ写真には同じ手口で、(出場していないのだからいなくて当然なのだが)「真央がいないとこんなに和やか」と安藤選手、鈴木選手の笑顔に添えてコメントを書き込んでいた人間がいたことである。

アンチ人間のスレッドやコメントには、誰それがいないと和やかだとか、友達がいないくらい人格に欠陥があるとか、昨今の教育現場にいくらでも転がっている、いじめ問題に共通しそうな論法や言葉尻が羅列されまくりである。表情や話し方、立ち居振る舞いにも人格的欠損の顕れであるかのような難癖をつけるばかりか、衣装や化粧、どんなわずかな隙にもあら探しの目を向け、CMやバラエティは勿論、特集やインタビューなど露出したメディアにはことごとく非難や反発の集中砲火を浴びせるくらい、茶飯事に行われるのである。
ネットの匿名性を良いことにして、選手の人格や常識について勝手気ままに誹謗し、挙句に無知や無教養、さらには自閉症だの発達障害だのと知能や精神的な不全をちらつかせた名誉棄損としか思えないような罵詈雑言を並べ立ててしまう。選手に個人的な恨みがある訳でも、確執がある訳でもない、(あるのならいっそ合理的なのだが)何ひとつ納得の出来る理屈も背景もなく、中傷発言をする人間の多くは選手個人とは縁も所縁もない精神病質者としか言いようのない部類の人種である。

ここまで書いてきて、いささか物悲しくなってきたのだが、まさきつねは決してファンの贔屓、依怙贔屓をすべて否定しているのではない。むしろ、すべての選手を同じように好きで同じように応援しているというのは、さすがにそりゃあ嘘だろうと突っ込みたくもなるし、まさきつね自身もそんな優等生的発言をしようなどとは思わない。だが、自分の好き嫌いを基準にして、贔屓選手の対抗相手を理由もなく批判したり、根拠もなく貶めたりする必要性も感じないし、そんなことで自己満足が得られると盲信する幼児性も持ち合わせていない。

しかし実際のところ、不毛なアンチ同士の言い争い、貶し合いに何らかのカタルシスを得ている人間がいるのだとしたら、あるいはそうした状況を演出して楽しんでいる「荒らし」と呼ばれる人間もいるのだとしたら、それもまたネット社会におけるひとつの現実であることに間違いないのだろう。

当初の佐藤コーチの記事紹介という本分からすると、何とも泥にまみれた内容になってきて申し訳ないのだが、これもすべて浅田選手というひとりのスター選手をめぐってネット社会の中で渦巻いている、現代が抱える負の側面であることに相違ないのだ。

アンチの卑屈で狭量なものの見方、異常で陰湿な加虐的発言、嫉妬と羨望の念に充ちた執拗な言いがかり、事実無根かどうかに関係なく口汚く罵る悪口毒舌の数々といった、とても健全とは思えない精神構造による行為ではあるが、たとえ良識的とは言えないものであっても、そこにはファンの狂信性とは真逆の視点や発想が必ず含まれ、根底に潜む病理性という部分では結びつく。
どんな素晴らしい人間や才能に対しても、信奉者や熱狂者しか存在しないという図式はあり得ないのだから、アンチとファンはその行動原理やパターン、あるいは数量において均衡を保っているという訳だ。
帳尻合わせと言ってはいかにも短絡的で乱暴だが、見様によっては、矛盾に充ちて残酷な人間社会の一面を顕在化しているし、浅田選手や浅田選手のフリークたるひとたちは、この不条理性や苛酷な実相を認識しつつ、克服せねばならぬというハンデを与えられてしまったということなのだろう。

それにしても結局は、匿名性というネット社会の闇にまぎれて、自らの未熟さ、無知、不勉強、思い違いを誰からも指摘、叱責されることなく、何ら道義的責任や罪悪感を負うこともなく、現実の自分とは違う自分を演じている人間の仕出かす、悪趣味で卑劣な非人道的言動であることは明確なのだ。こうした因業は現実にいくらでも転がっている、社会全体が抱えるべき負債だ。

そこで、このエントリーの最初に掲げた佐藤コーチの「欲張らず、自分のすべきことをするのが、佐藤流」という言葉にもう一度立ち返りたい。
匿名で行うネットの書き込みも、募金も、たとえ名前を隠してはいても名前のない人間の行動ではなく、名前と責任を持った人間の行為であるからこそ意味を持つのだ。

他者を誹るものでも、他者にひけらかすものでもなく、自分の名前に誇りを持つ者の誇りを持った行為として「自分のすべきことをする」行為として、行われるべきことなのだ。
自分のしたことはいずれ、自分のもとに立ち返ってくる。押し寄せる未来の波は、引き寄せた過去の人間の仕業である。
穏やかで優しい、光の煌めくさざなみが、未来のこどもたちの足元に静かに打ち寄せていることを夢見たい。そのとき、誰もがニコニコと笑いながら今と同じように騒がしい未来の岸辺で、いつかあなたとめぐり会いたい。

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