月船書林

フィギュアスケートの話題を中心に芸術を語る

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復活するプリマヴェーラ

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三美神(グラツィア)が楽しげに集い
美神(ベルタ)は髪を花冠で飾る
好色な西風(ゼフィロス)は花の女神(フローラ)の後を追い
緑なす草は花咲き乱れる
陽気な春の女神(プリマヴェーラ)も欠けてはいない
彼女は金髪と縮れ毛をそよ風になびかせ
無数の花々で小さな花冠を結ぶ
(アンジェロ・ポリツィアーノ『馬上槍試合』)

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四月は復活祭である。

日本の春には欠かせない桜の季節は終わってしまったが、陽はぽかぽかと温かく、西風も心地よい頃だ。
古い話になるが、「復活」についての記事をアップするには好機と考える。

遅ればせながら、2015年に浅田選手が一年の休養を経て、競技生活に現役続行の意志を表明した際の所感について、今更の感はあるけれども覚書として記しておこうと思う。

2015年シーズンの復帰戦は10月3日に行われたジャパンオープンで、浅田選手は141.70点という自己ベストである142.71点に迫る得点で女子選手一位となり、まずは華々しい復活を観衆に印象づけた。

冒頭のトリプルアクセルも着氷、その後のジャンプでは、三回転の3F-3Loコンビネーションで二つ目のループが二回転になり、ザヤックルールから後半の3F-2Lo-2Loが入れられず、二回転ループを一回転にして3F-1Loにせざるを得なかったという瑕疵はあったものの、指の先まで『蝶々夫人』の情感にあふれる振付、優美な体形を保ったスピンとまるで雲の上を飛んでいるような柔らかなステップでブランクのかけらも感じさせない演技を披露して、北米、欧州チームを退け日本チームを優勝へ導いている。

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「ただいまです。復帰初戦ということで緊張もありましたが、男子から始まり、良い演技をしてくれたので、私も足を引っ張らずにやっていこうと思いました。初戦にしてはたぶん今までで一番良いジャパンオープンの出来だったと思います。

(滑り終わったあとに胸に手を当てていたが)無事に終われたこと、昨シーズンの世界選手権のレベルで最後まで滑れたことがうれしくてほっとして、自分にありがとうという気持ちでした。(1年間の休養は)私にとってここに戻ってくるまでのすごく大切なパワーチャージの時間だったと思います。私が休養している間にたくさんの若い選手が頑張っていた。女子も男子もレベルが上がっているので、不安はありましたが、みんなと一緒に戦えることが分かったので、良い試合になったと思います。」

試合直後の浅田選手のコメントに、長かった休養からの緊張と不安が払拭された彼女の正直な気持ちが満ちていたと思う。

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※※※※※

そして誰もがご存知の話で恐縮だが、続くグランプリシリーズに参戦し、十年前シニアGPデビューをした懐かしの中国杯のリンクでの再出発、そして結果は優勝というこの上ない戦績をもっての復帰。

この時の試合でも、ジャッジの判定内容に関しては、山ほど言いたいことがあった。そして、いくつかのエレメンツのミスや完成度については、浅田選手自身が納得できていなかっただろうと思う。

だが、美しく力強いポージングからにじみ出る女王の風格、表現とはもはや呼べないほどの、音楽と一体化した滑りの美学、氷の上のモーションとは思えないほどの、軽やかに解き放たれた身体が創る優雅な世界…すべてがこれまで見たこともない異次元のフィギュアスケートで、まさきつねは、これはもうスケートと呼ぶのがふさわしいのか、それともまったく未知の新しい身体芸術なのか、当時ただただ溜息をついた。

ところで、浅田選手が試合に復帰するという宣言をした後、その復活が劇的なものになるだろうことを、まさきつねが予感ではなく、確信したのは、あの大勢の観客で埋め尽くされたさいたまスーパーアリーナ、ジャパンオープンでの演技や、553日のブランクをものともしないトリプルアクセルを目にした瞬間ではなかった。

2015年シーズンが始まるひと月ほど前、九月に発表されたストナ製薬の新CMでの、ワイヤーアクションを駆使した浅田選手の快演が、復帰戦にはまだ間があるといささか油断していたまさきつねの眼界を、容赦なく不意打ちした。

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【浅田真央(mao asada)「風邪VSストナ」~ 1コマ0.25秒表示 1181コマの真実!【MAD】】


無論、CMの元ネタは映画の『ブラック・スワン』だろうが、ストーリー的には正義(薬)と悪(風邪)の対比というごく王道なテーマに絞り、ビジュアル風景としては無駄な説明を省いた幻想的な世界観で、その中に浅田選手の圧巻のアクションシーンをこれでもかと見せつけるシンプルな演出が実に小気味よく、数秒の映像にもかかわらず、まるで映画を鑑賞したような充足感と鮮烈なインパクトに襲われる。

常に真っ直ぐで潔く美しい白鳥は、努力家で真摯だった浅田選手のイメージにぴったりだが、同時に艶めいて妖しく不吉な黒鳥を、これもまた不思議に違和感なく演じ切っている。

真逆のキャラクターを、どちらも幻想的なイメージをいささかも壊すことなく不思議な存在感で描くことができるのも、もはや演出とか意匠の域を超えた「浅田真央」という媒体から滲み出るオーラのなせる業だろうが、それにしても(たかがCMと言ってしまうのは勿論失礼千万であることは重々承知ではあるのだけれども)、映像作品としての格調の高さ、ファンタジックな美しさは、彼女の躍動する身体表現あってこそ成立した世界観であろう。

破壊と創造、闇と光、残酷さと情愛というアンビヴァレンツな相克を演じ分けて、そのどちらにも一方を選び難い魅力を与えるまでに進化していた浅田選手のパフォーマンスに、改めて脱帽しつつ、まさきつねは彼女の復活への手応えを感じ、その競技人生の第二章が希望に満ちたものであることを願ったのである。

しかし周知のことをここに書き連ねるのもつらいのではあるが、復帰の2015年シーズンは、グランプリシリーズ中国杯での優勝を最後に、表彰台の頂点から遠ざかることが多くなり、無論その背景に年齢や長年の競技生活からくる心身の疲労が重なっていることは想像に難くないのだが、2015年2016年二つのシーズンに渡って、ソチ五輪のシーズンを超える国際的な試合結果を残すことができなかった。

浅田選手の三度目の五輪競技参戦を目指しての現役復活は、決して彼女やファンが望んだような最良の結果とは言えないものに終わった。

とはいえ、二つのシーズンで発表された競技用とエキシビションのナンバーはどれ一つとっても、円熟したアスリートにしか表現し得ないプログラムの密度で、巷で言われる「ぼろぼろ」な演技などでも、単純に試合結果が伝えるようなお粗末な内容などでもなく、馥郁たる香りが立つかのような美しいエレメンツに充ち、あいかわらず果敢に挑戦し続ける高難度のジャンプが散りばめられていたのである。


※※※※※

閑話休題。

何はともあれ、世は春である。

四月十六日は復活祭。
命の再生と誕生を祝う日だ。

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冒頭にあげたポリツィアーノの詩は、ボッティチェリが『プリマヴェーラ(春)』を描く際に構想を得たとされる詩篇『馬上槍試合』の一節であるが、この詩篇はまた、ボッティチェリにこの絵画の制作を依頼したメディチ家の、ロレンツォ豪華王の弟ジュリアーノと、シモネッタ・ヴェスプッチとの悲恋が元になっている。

シモネッタ・ヴェスプッチは、フィレンツェ随一の美女と讃えられ、フィレンツェの実業家マルコ・ヴェスプッチと15歳で結婚した。
ジュリアーノは騎士がその愛をかけて戦う女性(イナモラータ)に彼女を選び、ボッティチェリが女神の偶像として描いたシモネッタの肖像を旗印にして、メディチ家主宰の馬上槍試合(ジョストラ)に出場した。
試合ではジュリアーノが優勝し、彼女の愛を得たが、その一年後に、シモネッタは肺結核で夭折し、ジュリアーノも二年後には暗殺されている。

ボッティチェリの『プリマヴェーラ(春)』は、一見キューピッドや三美神が舞い踊る「結婚を祝う絵画」とか「神々の庭園に宿る永遠の春」と一般的に解釈されているのだが、このようなメディチ家にまつわる悲恋譚の経緯から、その裏には「死」のテーマが隠され、その象徴として多く例に上がるのが、絵の右端にいる蒼ざめた風貌の「西風(ゼフィロス)」と左端に立つ冥界への案内人「メルクリウス」である。

ゼフィロスは花の精クロリスを捕らえ、冷たい息を吹きかけているが、墓場から蘇ったようなゼフィロスの表情を見ていると、これから芽吹こうとする植物たちをまるで再び、暗い地の底へ呼び戻そうとしているようにしか見えない。

そしてメリクリウスに至っては、美しい女神たちの様子には全く無関心に背を向けて、画面の外側に向いて立ち、画面の中心から外れた方向へ観る者の関心をいざなう。

そもそも『プリマヴェーラ(春)』に描かれる登場人物のほとんどが、ヴィーナスにまつわる「愛」や「エロス」に由来するのに対し、天界と地上そして冥界を行き来する伝令であり、商業にも関係を持つ神とされるメリクリウスだけが異端児で、およそ愛の物語として完結するはずの絵画のテーマに、一石を投じているのである。

ボッティチェリがなぜわざわざ、愛の歓喜や生命の誕生を祝う「春」の中に、不吉で忌まわしい冥界にまつわるキャラクターを描き、統一感のない寓意を画面に散りばめたか。
ミステリアスな真相は学説も侃々諤々、このように、冥界や死のにおいを纏わりつかせたキーパーソンのお陰で、『プリマヴェーラ(春)』は多くの謎を持つ絵画の一つと考えられ、描かれたルネサンス期当時の社会背景の多くもおぼろであるがゆえに、謎解きの諸説が定まらず、真実はいまだに藪の中である。

まさきつねが考えるに、天上界において愛とエロスをつかさどるヴィーナスが侍る庭では、永遠の春が約束されているが、ボッティチェリがメディチ家のためにこの絵画を描いた意図には、単なる神々の楽園礼賛だけでなく、地上の人間へ行き渡る天上界の恩恵すなわち神々から授かる愛を主題とすることが重要なのであり、それゆえに、厳正なる神の審判や冥界からの使者しいてはカタストロフィさえも受け入れねばならぬ、悩ましい生身の存在つまり地上の住人につながる、ゼフィロスやメリクリウスを画面の両端に入れたのではないかということである。

天上から放たれた光は地上に届いて、初めてヴィーナスの恋のエネルギーは、肉体の愛と新しい生命の誕生を人間界にもたらし、万物は神々の至福に満たされて精神の愛を知り、春の訪れを信じるからこそ、死や災厄そして悲しみや絶望に閉ざされた冬も耐え忍ぶことができるのである。

さて、脱線話もいい加減切り上げねばならぬので、結論だけ申し上げると、ボッティチェリは「生」には「死」、「創造」には「破壊」そして「再生」という相克の二重構造で主題を描いたのだろうということだ。

桜の開花に一喜一憂する日本、「盛者必衰」の東洋的自然観ではごく当たり前の考え方ではあるが、恋が生まれ命が育まれる春も、時が満ちれば老いが訪れ冬が深まると、定めなき身は死の眠りにつく。だが再び春が戻るとき、命は再生し、花はまた新しい芽をつけて、世界はまた新しい愛に溢れる。

プリマヴェーラの足元に花々は咲き乱れ、復活した命に世界は愛の喜びに震えるのである。

再生する命、復活するものたちがもたらす奇跡。

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皇帝プルシェンコがテレビ番組で浅田選手へのビデオレターを送り、その中で「真央もまだ若いから、振付師としてもすごい才能を発揮するかも知れない。フィギュアは演じる競技だから、女優や歌手だってあり得る」と語っていたが、競技のみならずエンターテイメントとしてのフィギュアの本質を見抜いているプルシェンコならではの提案と納得する。

勿論、浅田選手が演じる力の持ち味は、いわゆる通俗的なドラマやバラエティでの俳優業では輝くまい。

あくまでも彼女の持つ身体能力を十二分に生かして、そのオーラがそのまま憑依したような、たとえばストナのCMで披露されたような、この世のものとは思われないファンタジックなキャスティングがショービジネスの中でなされたとしたら、まさに「浅田真央」のはまり役となりうるだろうと想像するのである。

たちまちは無論、本領発揮できるアイスショーで、しっとりと艶やかな演技からコミカルで楽しいキャラクターまで、自由奔放に演じていただければなと思うが、ひとつ前の記事でも述べたように、ダンスやミュージカルを始めとするさまざまなパフォーマンスに挑戦するもよし、CGやデジタルの技術を駆使した映像表現を試みるもよし、プルシェンコが言うように、「浅田真央」という稀代のスーパースターにとって、この世界は縦横無尽に駆け回るには狭すぎるほど、多くの可能性に満ちているとまさきつねの妄想もとめどなく膨らむのである。

そう、この世の春は永遠というわけにはいかないが、冬が去ればまた、春が何度でも繰り返し訪れるように、復活も再生も生涯一度きりというわけでもない。

今日は失意の底にあっても戻るべき希望は再び戻り、よみがえるべき思いは必ずよみがえる。

繰り返し夢見るのは、明日は、光なきものにも光あれ。
光あるものにも光あれ。

愛は愛を求めるものに。
光は光を願うもののもとに、幾度も復活する春のごとく訪れることを。


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【Ⅰ】
明日は未だ愛さなかつた人達をしても愛を知らしめよ、愛したものも明日は愛せよ。
新しい春、歌の春、春は再生の世界。
春は恋人が結び、小鳥も結ぶ。
森は結婚の雨に髪を解く。
明日は恋なきものに恋あれ、明日は恋あるものにも恋あれ。
【Ⅱ】
明日は恋人を結ぶ女は樹の影にミルトゥスの小枝でみどりの家を織る。
明日は歌ふ森へ祭りの音楽を導く。
ディオーネの女神が尊い法を読む。
明日は恋なきものに恋あれ、明日は恋あるものにも恋あれ。
【Ⅲ】
明日は最初の精気が結ばれた日であらう。
明日は天の血と泡のふく海の球から、青天のコーラスと二足の馬との中に、結婚の雨の下に、海から生れ出るディオーネを産んだ。
明日は恋なきものに恋あれ、明日は恋あるものにも恋あれ。
【Ⅳ】
女神は紫の季節を花の宝石で彩る。
浮き上がる蕾を西風の呼吸で暖い総(フサ)に繁らすためにあほる。
夜の微風がすぎるとき残してゆく光の露の濡れた滴りを播きちらす。
明日は恋なきものに恋あれ、明日は恋あるものにも恋あれ。
【Ⅴ】
輝く涙は重たき滴りにふるへる。
落ちかける雫は小さい球になり、その墜落を支へる。
晴朗な夜に星が滴らした湿りは処女の蕾を夜明けに濡れた衣から解く。
明日は恋なきものに恋あれ、明日は恋あるものにも恋あれ。
【Ⅵ】
見よ。
花びらの紅は清浄なはにかみを生んだ。
そして薔薇の火焔は暖い群りから流れ出る。
女神自身は乙女の蕾から衣を脱がせよと命じた。
薔薇の裸の花嫁となるために。
明日は恋なきものに恋あれ、明日は恋あるものにも恋あれ。
【Ⅶ】
キユプリスのヴィーナスの血、恋の接吻、宝石、火焔、太陽の紫の輝き、とでつくられた花嫁は、明日は燃える衣の下にかくされた紅の光りを濡れた森のしげみから恥じずに解く。
明日は恋なきものに恋あれ、明日は恋あるものにも恋あれ。

(作者不詳/西脇順三郎・訳『ヴィーナス祭の前晩』)


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遠い踵はタンゴのリズム

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…この映画は、一躍マレーネ・ディートリッヒを有名にしました。
それと同時に、「この監督は誰ですか?」「スタンバーグ」「ん、これイケるな」。
ハリウッドが二人を呼んだんですね。

で、アメリカから呼ばれた。ちょうどディートリッヒがドイツにいた頃は、最もドイツがモダン文化の時代だったから、非常に粋だったんですね。
それがアメリカに来たら、ハリウッドの女優がみんなびっくりしたんですね。
マレーネ・ディートリッヒ、あのハンドバック、あのハイヒール、あのコート、すごいねぇ、言って。

で、マレーネ・ディートリッヒの部屋に行ったんですね、みんなが。
そうすると大きな壁、部屋の壁が全部鏡なんですね。
びっくりしたんですね。モダン・スタイル。

『嘆きの天使』ではローラで、なんとも性の悪いくすぶった女役だったディートリッヒが、アメリカに来た時には、『モロッコ』ですね。いっぺんに有名になったんですね、『モロッコ』で。
(淀川長治『世界クラシック名画撰集/嘆きの天使』)

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「わたしがハイヒールを脱がせていたら このシルエットは出せなかった。彼女はすべて把握していたからね。
風の向き、からだにぴったり沿うドレス、全部、頭に入っていた。顔に当たる光も」
(ウィリー・リッゾ)

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☆Marlene Dietrich sings Lili Marleen in German☆

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「100万ドルの脚線美」と讃えられたマレーネ・ディートリッヒ。実際にその脚にいくらの保険が掛けられていたのかは定かではないが、この美しく限りなくエレガントな脚は、彼女の美意識そのものとひとは言う。

このほっそりとした美しさを保つために、痩せる薬のダイエットやミルク風呂のメンテナンスを施していたというさまざまな憶測が絶えなかったが、彼女自身は、それは全部、嘘で「私のすべてはフラッシュに焼き尽くされたわ」と苛立ち、映画の勝手なイメージをみんなが追っただけよと嘆く。

まさに「嘆きの天使」だが、カメラのフラッシュがどんなに焚かれても、暴ききれなかった彼女の秘密を心から愛した人は数多い。

月のように細く描かれた眉、毛皮と宝石で飾られた夜のドレス、紫煙の向こうの微笑み、ヘミングウェイが愛おしんだ頬のくぼみ、ケーリー・グラントがうらやむ背広の着こなし、兵士姿の『リリー・マルレーン』、コクトーが讃えたローレライの歌声、『ジャスト・ア・ジゴロ』のボウイを撫でる七十四歳のスクリーン・ショット…

齢を重ねてもいつまでもゴージャスなディートリッヒを見ていると、永遠がここにあると思う。

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さて、本題に入りたいのだが、まずは「ハイヒール」、まさきつねがこの話題を取り上げたかったのは、ここ数年、浅田選手がテレビ出演する際に何度か目にした靴のヒールの高さが気になったからで、彼女自身が「スケート靴をはくより難しい(そんなことは絶対ないと思うけどニャ)」と言っているが、この女性ならではのファッション・アイテムについては前々からいろいろ語りたかったのだ。

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浅田選手が報道で最初のハイヒール姿を披露したのは、エアウィーヴの記者会見で履いていたこれだったかなと思いだすのだけれど、RANDAの2011年春のカラーバリエーションから、スエードの編み込みサンダルで、何とヒールは12㎝もあったらしい。
華奢なコードストラップを編み込んで、いかにも若い女の子好みの優しい色合いが良く似合っていた。


ディートリッヒやモンローなど銀幕のスターに欠かせないお洒落だったこの特別な靴は、NHK番組『美の壺』でも「銀幕を彩るマスターピース」とそのポイントを抑えられていた。

その歴史についてはウィキにもあるが、今の原型となるハイヒールが発明された1600年代の話が一般的には面白く、下水設備の整っていないパリでゴミや汚物(糞尿)だらけだった路上を、見目うるわしいご婦人方が服の裾が汚れるのを嫌がって爪先立ちで歩くために、汚物を踏む面積が少ない踵の添えを靴底に取り付けたのが始まりということだ。
お洒落好きで知られる太陽王ルイ十四世は、背も高く見え、当時の男性たちのセックスアピールでもあったふくらはぎの脚線美も競うことができるハイヒールを好み、また、締まったふくらはぎをより強調するために半ズボン(キュロット)を正装として、男女問わず舞踏会にはハイヒールを履かせたらしい。

ルイ十四世の靴はその名も「ルイヒール」と呼ばれたそうだが、ベルサイユ王朝の終焉とともに半ズボンを履かないサンキュロット派が台頭し、男性美を誇示する時代から機能性重視の風潮に移り変わるとともに、ファッション性を追求するのは主に女性になり、二十世紀に入って裾を引きずるドレスから解放されたデザインが生まれ、1920年代から女性の足元が露わになるスカート丈が主流になると、ようやくハイヒールが女性のものとして認識されるようになったそうだ。

(実は、日本は世界でもいち早く汚物(特に糞尿)の衛生管理に長けていた国で、江戸時代には汲み取り式の糞尿を、大名や商家の屋敷、あるいは長屋から農家が肥料として買い取るという仕組みが出来上がっていた。
ヨーロッパでは川へ垂れ流したり、道端に放っておいたりが当たり前で、時には窓から道路に向かって汚物を捨てるということもあったらしいから、それに比べると随分几帳面で、リサイクル精神の発達した江戸人の感覚がうかがえる。

ヴェルサイユ宮殿ですら、用を足すのは美しい庭園の草むらや花壇の陰だったそうだから、そう考えると優雅な王子さまお姫さまのお伽噺もかなり違ったものに思えてくるから不思議だ。ちなみに、用を足しに席を立つときは「薔薇の花を摘みに…」が合言葉だったらしい。

今でこそヨーロッパの町並みは美しく趣きがあるだけで、16-17世紀のようなどこかから臭気が漂ってくるということはないが、それでも犬を連れたご婦人方の感覚は祖先の習慣の故か、まだ麻痺している部分があるようで、パリの通りを「オー・シャンゼリゼaux Champs-Élysées」と歌いながら歩いていたら、あちこちで薔薇の花のごとき、犬の落し物が独特の香気を放っている。

やはり西欧では男女とも、ハイヒールを履くのが正解かなと思ってしまう。)

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閑話休題。前述の『美の壺』では、映画が切り取ったハイヒールの歴史を紹介していたが、それによると、第二次世界大戦の戦時下ではヒールに用いる銅が不足し、かわりに力仕事も出来るように空洞部分を埋めた安定感のあるデザインで、軽くて柔軟性や耐久性に富んだコルクを原料にしたウェッジヒールが生まれたという。

その後、高層ビルの立ち並ぶ1950年代のモダンな街並みに、さっそうと歩くスチールのピンヒールが出現し、セクシーで格好良い生き方に憧れる女性たちが活躍する時代になったのだ。

映画ではウェッジヒールは『戦火のかなた』、ピンヒールはモンローの『お熱いのがお好き』などに登場しているが、それぞれの時代を美しくたくましく生き抜いた女性の象徴にも感じられた。

とはいえ、ヨーロッパの石畳を靴音高く響かせて闊歩して行く女性は確かに魅力的だが、『美の壺』では取り上げられてはいない(多分この先も絶対、NHKが取り上げることはないだろう)映画作品にも、こうした女性の裏と表、愛と憎しみ、華やかな世界の影にある苦悩を、ハイヒールに片寄せて描いたものがある。

まさきつねが好きな、スペインの異色監督ペドロ・アルモドバルの円熟し始めた中期の作品で、メロドラマにスリリングなサスペンス要素を盛り込み、ビビッドな色彩の映像で、アルマーニを着こなす母とシャネルをまとう娘の心理的な葛藤を描いてみせた、その邦題も『ハイヒール(原題Tacones lejanos遠い踵)』である。

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☆Piensa en mi ~ Luz Casal☆

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『ハイヒール』のあらすじやその内容については、以下のチラシ等の解説を参照していただこう。

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アルモドバルが愛してやまないふたりの女優、マリサ・パレデス(Marisa Paredes)とビクトリア・アブリル(Victoria Abril)がその演技力と存在感を正面からぶつけ合い、胸を引き裂くような愛の絶望を挿入歌にしたスペインのメロメロな歌謡曲『PIENSA EN MI(私のことを思って)』に乗せて浮き上がらせてみせる。

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生番組でニュース原稿を読む途中、「私が彼を殺しました」と告白する娘の地獄の底から響くような低い声、娘の逮捕を知りながらステージに立ち、「あなたがつらい時は私を思って、泣きたい時は私を想って…」といつもと変わらぬ母の歌う声、そして留置場のラジオでその歌を聴き、涙に暮れる娘、そして娘の身代わりになることを決意して、自らの指紋を付けるべく証拠の銃を握りしめる母の顔…

映画の途中、幼いころの娘レベーカが、母親の帰りを待ちわびて、遠くから聞こえてくるハイヒールの靴音に耳をそばたてる場面がある。その愛を独占したいのに、母は娘の気持ちも知ってか知らずか、大勢の男と浮名を流し、娘は母親が仕事から帰ってきても、またすぐに出て行ってしまう不安にいつも怯えて、大人になってもその悲しみと孤独から逃れられずに、罪を重ねてしまうのである。

母親であるよりも女であることを選んでしまう、女性の業の深さを「ハイヒール」が、そして母親に見捨てられる子どもの絶望を、女にそう行動させた男性の身勝手さとともに、殺人に使われた「ピストル」が象徴しているとまさきつねは感じた。

ナーバスな娘のエキセントリックな行動は、時に辛く重く、奔放な母親の自分勝手すぎる生き方もうんざりしてしまう部分がなきにしもあらずだが、これもまた人間の本性であり、事件そのものよりも、すれ違う愛と交差する憎しみが哀れな人間のドラマにほかならないことも、アルモドバルは悟っているのだ。

「遠い踵」という原題の奥底に秘められた、複雑な人間関係と葛藤に悩むこころが、不安定な細いヒールで支えられている靴の緊張感に結びつく。そして、ハイヒールを履いた官能的な脚の曲線が、興奮と歓喜に充ちている一方で悲哀と孤独が付きものの人生、その本質を端的に表しているのである。

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ところで、一般的には外反母趾だの、肩こりや腰痛、椎間板ヘルニアだのと、さまざまな疾病の要因になり、重心の不安定さから捻挫や転倒といった怪我を伴うアクシデントにつながると考えられているハイヒールではあるが、確かに身体の構造が脆弱で、姿勢が悪い人間にはなかなかうまく履きこなせない難物なのだけれど、実はそういった欠点ばかりとはいえない側面も持っているという。

ルイ十四世が考えていたような、背を高くして頭身の均衡を整えるという外見的な利点もその一つだが、身体の軸がしっかりしていて、肩甲骨から首の線が美しく伸びている姿勢を保てる上半身の強さ、さらに骨盤に上半身がぶれなく乗っかって、両足が地面をきっちりとらえているような堅牢な下半身を持っていれば、ハイヒールは充分、身体の動きを美しく生かす道具として機能するそうだ。

『美の壺』では、その究極のシルエットを生み出すものとして、魅惑的なアルゼンチンタンゴの動きに生かされるハイヒールの役割を紹介していた。

2009年の世界選手権で優勝した日本人の女性ダンサーは、番組の中で、「ハイヒールを履くと腰の位置も高くなるし、体も前傾になって、タンゴ的に言うと抱擁がとてもしやすくなるんです。それに加えて、女性のフォームがすごくきれいになって、上品になって、そして男性が手をとってリードしたくなる、手を携えたくなるような、そんな華奢さがあると思います」と語っている。

アルゼンチンタンゴでは軸足ではない方の脚を「飾り足」と呼び、この使い方ひとつでダンスに豊かな情感が生まれ、その妖艶な動かし方や魅力的な映り方が、高い踵によってつくられる脚の曲線に支えられていることを解説していた。

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男女が抱擁して踊るダンスにも欠かせないアイテムであるハイヒール。
元々、柔らかで女性的なラインを強調する靴なのだから、流れるようにしなやかな動きをそれとなく助ける誘導性があっても不思議ではない。

身体の構造が歪みなくできていて、姿勢も正しく、バランスが崩れていなければ、華奢なヒールに重心をあずけても、危なげのない歩行やタンゴのなまめかしい姿形のフォルムを保ち続けることができるということなのだろう。

結局、ハイヒールの似合う女性になりたいのなら、女優やダンサーあるいはアスリートなど特別な存在じゃなくても、常日頃から均衡を保った美しい仕草、指先や爪先にまで緊張感のある姿勢、そして瑞々しく張りのある健全な身体といった、ごく些細で当然のことだが難しい、日常のふるまいや生き方に気を配らなくてはいけないのかも知れない。

コメントでも『シュニトケのタンゴ』の美しさを讃える文面をいただいたが、まさきつねも浅田選手とタンゴの相性の良さを感じている。

『シュニトケのタンゴ』しかり、『ポル・ウナ・カベサ』しかりだが、無論、氷上の踊りである点は酌量しても、あの細やかな足さばき、ステップのしなやかな動き、音楽のリズムをとらえる感性は、地上でハイヒールを美しく履きこなす身体能力とダンサー的な技量が根底にあって発揮し得るものだろう。


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どこぞのテレビタレントが要らぬ心配をしている「子どもっぽい」云々も払拭してしまう、爽やかな色気と妖艶な仕草が振付の端々からこぼれ出て、しかも上品で愛らしい。

それこそ「男性が手をとってリードしたくなる、手を携えたくなるような、そんな華奢さ」に充ちた、浅田選手ならではの優雅なタンゴが完成されているのだ。来季のEXはぜひともタチアナのコレオで、ピアソラでもハウゼでも好いから、哀愁に溢れたタンゴのリズムを背景にして踊ってくれないかなとひそかに期待している次第である。


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…これはタチアナ先生が躍る『ポル・ウナ・カベサ』。


最後に浅田選手のテレビ出演画像と報道画像から。
ハイヒールを履いていてもいなくても、姿勢がきれいで、身仕舞が美しいよね…

〇2012年5月11日『「ザ・アイス2012」の記者会見』

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このヒールの高さはさすがにどーなんだと思ったファッション。小柄な高橋選手じゃなくても、さすがに周囲の人間がかなり低く見える。小塚選手でさえ浅田選手を見上げている感じだが、この細いヒールにフェチシズムを覚える人間もいるから、ホモ・サピエンスの深層心理は奥が深い。
カットソーとスカートはジルスチュアート。「砂糖菓子のような儚い色使いがフェミニンなデザインスカート!!淡く甘い色の持つロマンティックな雰囲気」というブランド説明がちょっとくすぐったい。


〇2012年5月27日放送『おしゃれイズム』

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真央:緊張してるのもそうなんですけど、普段あんまりヒールを履かないので。
上田:でも、ヒールより動きづらいもの毎日履いてるじゃん。ヒールの方が歩きづらい?スケート靴の方がいい?
真央:はい。普段運動靴とスケート靴しか履かないぐらいなので。グキッといきそうで。


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これもワンピースはジルスチュアート。番組途中で持ち物紹介していたバッグはジューシークチュール。
(どれも年齢相応の女の子が好みそうなブランドやお洒落小物だニャ)


〇2012年5月29日放送『ZIP!』『スッキリ!!』

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(…こんなに仲良くいっしょにブラックカレーパンを食べたり、話をしたりしていて、その相手に平気で毒を吐けるのだから、人間というのはつくづくその本性が判らない。
だが逆に考えると、このときの放送を覚えているファンには、尚更、引退報道の時の手のひら返しのような発言が許せなかったのかも知れないニャ)


〇2012年11月25日『サンデースポーツ』NHK杯バンケット後の出演

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ドレスはBCBGMAXAZRIA(ビーシービージーマックスアズリア)。
肩が出るデザインなので、それをさりげなく黒のシフォンショールで隠しているのも、TPOをちゃんとわきまえた慎ましさで好ましい。


〇スターズオンアイスから 2013 SOI Group Number 『Take My Hand』

浅田真央、村上佳菜子、高橋大輔の日本選手たちとジョアニー・ロシェット、ジェフリー・バトル、カート・ブラウニングらカナダ人組によるグループナンバー。曲はMONKEY MAJIKのBlaise plant『Take My Hand』。テレビの曲目解説を掲載しておく。
「実はこの曲を作ったMONKEY MAJIKのBlaise plantなんですが、カナダの出身です。そしてMONKEY MAJIKとしては、これまで仙台を拠点に活動を続けていますが、実はまもなく三月で二年が経とうとしていますあの東日本大震災で、自ら被災しています。
今も被災地で復興に向けた活動を続けている、このBlaise plantなんですが、今回はこのスターズ・オン・アイスの舞台。
日本人とカナダ人のグループナンバーが、ひとつになるという込められた思いが氷上でつづられています。」
「振付を担当したジェフリー・バトルは、Take My Hand、まさに自分たちの手をさしのべる、そんな思いをリンクいっぱいに使って表現したい、そう話していました。
ひとりじゃない。いつもさしのべる、その手を持つ人たちがいる」

☆2013 SOI Group Number "Take My Hand"☆

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可愛いジルスチュアート系も良いが、こんな大人びたラメきらきらの衣装も悪くない。
ぜひ、こんな雰囲気の衣装で、タンゴのエキシビションをもう一度観たいものである。


…締めの言葉にちょっと粋な名言をひとつ。

ハイヒールは、額にキスをされていた女性が発明したものです。
High heels were invented by a woman who had been kissed on the forehead.
(クリストファー・モーリー)


モーリーはアメリカのミステリー作家。女の子なら誰でも経験があるのだけれど、ちょっと背伸びしたい女心を、よく分かってるのかなという気がする。
浅田選手も小塚選手や高橋選手ら、お兄さんのような男子選手たちの中にいて、子ども扱いされたくない気持ちがわいてくるのだろうか。

いつまでも可愛い真央ちゃんでいて欲しいという気持ちを、どうしても昔からのファンの側は持ってしまうのだけれど、ハイヒールを履きこなすくらい、美しく成長する姿はそれはそれでうれしいものだ。

でも、遠くから聞こえてくるハイヒールの靴音に、いつまでも母を忍ぶ少女の気持ちはまたそれで切ない。

「あなたがつらい時は私を思って、泣きたい時は私を想って…」


夢でもし逢えるのなら、母も娘もしびれるようなタンゴのリズムの中で、甘い抱擁の幸せな時を過ごして欲しいと思う。


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(おまけに甘いチョコレートのハイヒールだニャ)


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闇から甦るもの

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幽霊に憑かれるには 部屋でなくてもよい
家でなくてもよい
頭のなかには現実の場所よりも
はるかに多くの回廊がある

そとの幽霊に真夜中に出会うほうが
はるかに安全だ
あの冷たい客に
うちがわで向かい合うよりも

石に追われて
僧院を駆け抜けるほうが はるかに安全だ
淋しい場所で 武器もなく
自己と出会うよりは

隠れている背後の自己のほうが
もっと驚かす
わたしたちの部屋にひそむ暗殺者などは
すこしも怖くない

からだはピストルを携えて
ドアを閉める
だがもっとすぐれた幽霊か
なにかを見逃すのだ
(エミリー・ディキンスン『詩抄118』)

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ジョニー・デップ主演の映画『ダーク・シャドウ』を観た。

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監督:ティム・バートン
脚本:セス・グレアム=スミス
原案:ジョン・オーガスト、セス・グレアム=スミス
原作・オリジナル脚本:ダン・カーティス
製作:ティム・バートン、グレアム・キング、クリスティ・デンブロウスキー、ジョニー・デップ、デヴィッド・ケネディ、リチャード・D・ザナック
製作総指揮:ナイジェル・ゴストゥロウ、クリス・レベンゾン
出演者:ジョニー・デップ、エヴァ・グリーン、ミシェル・ファイファー、ヘレナ・ボナム=カーター、トーマス・マクドネル、クロエ・グレース・モレッツ、ジョニー・リー・ミラー、ベラ・ヒースコート、ガリー・マクグラス、ジャッキー・アール・ヘイリー
音楽:ダニー・エルフマン
撮影:ブリュノ・デルボネル
編集:クリス・レベンゾン

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もう鉄板というべきティム・バートン監督とのタッグだから、大きな外れはないだろうと軽い気持ちで観たのだが、この作品その昔テレビドラマがやっていたシリーズがオリジナルということで、少し肩の力が抜けた作りがかえって脇役まで登場人物のキャラクターを丁寧に引き立て、はちゃめちゃなコメディーやどぎついスプラッターに終わらず程よくゴシック的なホラーテイストに充ちたストーリーが、「愛って何?」みたいなシリアスなテーマをどことなく生真面目に追求しているあたり、大きく突き抜けた傑作感はないものの、無難にまとまった完成度の高い愛すべき佳作という雰囲気である。

少し前にオリジナル作品の主演を務めていた俳優ジョナサン・フリッドの逝去を伝えるニュースが流れていたが、バートンはこうした往年の俳優や作品、また、このテレビシリーズが愛されていた70年代へのひとつのオマージュとして、個人的な思い入れたっぷりに映画化したようだ。
以下、報道記事より。


【ジョニデ映画「ダーク・シャドウ」 オリジナルTVシリーズの主演俳優が死去】(2012年4月20日)

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ジョニー・デップとティム・バートン監督が8度目のタッグを組んだ「ダーク・シャドウ」(5月19日公開)で、デップ&バートンのプロモーション来日が発表されたばかりだが、この作品のオリジナルとなったTVシリーズ「Dark Shadows(原題)」の主演ジョナサン・フリッドが亡くなっていたことがわかった。87歳だった。
ワシントン・ポスト紙によるとフリッドは13日に逝去。死因は病気ではなく老衰によるものだという。フリッドはTVシリーズ「Dark Shadows」のバーナバス・コリンズ役(映画「ダーク・シャドウ」ではデップが演じている)で人気となったカナダ出身の俳優で、「Dark Shadows」に出演するまでは舞台俳優として活動していた。
当時「Dark Shadows」の視聴者数は約2,000万。後にカルト的な人気シリーズとなる。デップも同作品の映画化にあたり「子供の時はTVにかじりついて『Dark Shadows』を観ていたんだ。吸血鬼のバーバナス・コリンズに夢中だったよ」と、大ファンぶりを披露していた。
フリッドは1971年に番組が終了してからは、再び舞台を中心に活動を続け、「Dark Shadows」のコンベンションなどにも出席していたという。また、今回の映画「ダーク・シャドウ」にもカメオ出演しており、話題となっていた。
心よりご冥福をお祈りします。


【ジョニー・デップが盟友バートン監督と『ダーク・シャドウ』ジャパンプレミアに登場!】(2012年 5月 15日)

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[ムビコレNEWS] ジョニー・デップが新作『ダーク・シャドウ』を引っさげ5月12日に来日。同日夜に六本木ヒルズで開かれたジャパンプレミアに盟友ティム・バートン監督と共に登場した。
昨年11月に『ツーリスト』のキャンペーンで来日して以来、1年2ヵ月ぶり9度目の来日となるデップは「いつも東京に来ると、みんな温かく歓迎してくれるので本当に嬉しい」と挨拶。

本作のもととなったテレビシリーズの大ファンだったそうで「子どもの頃から(主人公の)バーナバス・コリンズというヴァンパイアに憧れていて、マネをしたりしていました」と明かすと、「いつかはヴァンパイア役を演じてみたいという夢を一番好きな映画監督のティム・バートンと一緒に叶えることができ、本当に嬉しい」と話した。

一方、バートン監督は、本作でデップと8度目のタッグとなったことについて「8回、一緒に仕事をしてきましたが、毎回、ジョニーはまったく違う役を演じているので、違う人と一緒に仕事をしたような気分になります」とコメント。

ファンからの「この作品を通して伝えたいことは?」という質問には、「家族とは奇妙なもの。人生とは奇妙なもの、だからこそ、愛すべきものなんだということを伝えたかった」と答えていた。

一方、デップは「現代に甦らせて会ってみたい人は?」という質問に、ちょっと思案したあとで「ヴィンセント・ヴァン・ゴッホなんかを甦らせたいですね」と回答。最後は、劇中でバーバナスがやっている決めポーズをバートン監督と共に披露し集まったファンを喜ばせていた。

また、この日はゲストとして大東駿介、平原綾香、LiLico、国生さゆり・甲田英司夫妻、Wコロンのねづっち、マンガ家の内田春菊親子らもレッドカーペットを歩いたほか、イベント終了後に、一旦、舞台挨拶に向かったデップとバートン監督が、再度、レッドカーペットに戻り、残っていたファンにサインをする場面も見られた。

『ダーク・シャドウ』は5月19日より丸の内ルーブルほかにて全国公開される。


【ティム・バートン監督、『ダーク・シャドウ』には個人的な思い出がたっぷり】(2012年5月16日》
 [シネマトゥデイ映画ニュース] ジョニー・デップ主演映画『ダーク・シャドウ』の特別インタビュー映像が公開され、ティム・バートン監督が本作について「個人的な思い出を反映させている」と明かしている。舞台になっている1972年当時のヒット曲が多く用いられていることを含め、当時ティーンエイジャーだったバートン監督の思い入れがたっぷりの作品に仕上がっている。

☆映画『ダーク・シャドウ』特別映像PART1☆

☆映画『ダーク・シャドウ』特別映像PART2☆


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 その独特のセンスから「彼自体が一つのジャンルだ」とまで絶賛されているティム・バートン監督にとって、本作は最も映画化を望んでいた作品の一つ。バーナバス・コリンズという主人公が「気乗りしない吸血鬼」であることに引かれていたといい、そういったバーナバスのキャラクターを生かしたエピソードは本作の見どころになっている。
 また、舞台となっている1972年はヒッピー、ロック・カルチャーなどが渾然一体となっていた時代。当時ティーンエイジャーだったバートン監督は「特に懐かしいのが当時の音楽だ」と振り返っており、T・レックスやカーペンターズをBGMに起用。とりわけ、ロック界の大御所であるアリス・クーパーがカメオ出演していることが話題になっており、今回の映像ではそのシーンの一部を観ることもできるのだ。
 ジョニデが1972年を「最も美的感覚がおかしかった時代だ」と評せば、『バットマン リターンズ』でもバートン監督とタッグを組んでいるミシェル・ファイファーはキャスティングの際に求められたことを「奇妙であること」と冗談交じりに明かす。強烈な個性がぶつかり合う本作の撮影をバートン監督はいつも以上に楽しんでいたらしく、現場では常に笑いが絶えなかったほどだという。
 毒々しいビジュアルイメージがカルト的なファンを生み出した一方で、近年の『アリス・イン・ワンダーランド』などのエンターテインメント大作ではより多くの観客層にアピールするような作品づくりを行っていたバートン監督。個人的な思い出が盛り込まれたという本作は、かつてのファンには懐かしいバートン監督らしさが前面に出た作品だ。(編集部・福田麗)

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映画のストーリー自体はさほどぶっ飛んだ展開もなく、ラストも想像の範囲を超えない一応のハッピー・エンディングで、良くも悪くも想定内でこじんまりとまとめられた感があるが、脚本の巧さか登場人物たちの台詞や性格設定が丁寧に描きこまれて、それぞれの人間性の愛すべき部分と嫌な欠点のような部分が誰に肩入れすることもなく、平等に作り込まれているのに好感が持てる。

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【ストーリー】
リバプールから当時イギリスの植民地だった新大陸メイン州に渡り、代々続く水産業で財をなし、家名を冠した新しい町コリンズポートを開拓したコリンズ一家。
物語の主人公は、地方の名士として地位を確立し、コリンウッドと呼ばれる巨大な屋敷を建造して、町一番の大富豪となったコリンズ家の何不自由ない跡取りだったバーナバス(ジョニー・デップ)である。
手を付けたメイド、アンジェリーク(エヴァ・グリーン)が黒魔術を駆使する魔女だったのが彼の運のつきで、愛しい恋人ジョゼット(ベラ・ヒースコート)は操られて崖から身投げさせられ、彼自身は呪いでヴァンパイアに変えられたあげく、棺に閉じ込められて生き埋めにされてしまう。
200年後、工事現場の掘り起しで土の下から甦った彼の前には、すっかり変わってしまった町の風景と落ちぶれ果てたコリンウッドの屋敷、そしてかろうじて、ほそぼそと家名を継承してきた末裔たち、家長のエリザベス(ミシェル・ファイファー)とその弟のロジャー(ジョニー・リー・ミラー)、エリザベスの娘キャロリン(クロエ・グレース・モレッソ)にロジャーの息子デヴィッド(ガリー・マクグラス)の四人が居並ぶ。さらに僅かな使用人たちと、子どもたちのカウンセリングをするジュリア・ホフマン博士(ヘレナ・ボナム=カーター)、複雑な事情を抱えてコリンウッドにやってきた家庭教師のヴィクトリア(ベラ・ヒースコート二役)。
バーナバスは父の教えである「唯一の財産は家族」という言葉を胸に、父の遺した隠し財宝でコリンズ家の再建に乗り出すが、彼の前に立ちふさがるのは200年の間コリンズ家にとって代わって、姿を変えながら町の名士として君臨してきたアンジェリークで、彼女はジョゼットそっくりのヴィクトリアとバーナバスの恋路を、またしても妨害しようと企み、ついにヴァンパイアと魔女の対立は互いが死力を尽くす全面闘争の局面へ向かう…。

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ところでさまざまなレビューを読むと、デップを初めバートンらしい奇妙奇天烈なキャラクターの描き方を評価する向きは多かったものの、作品としてはアクションにもコメディーにも、またホラーとしても中途半端で今ひとつ乗り切れなかったという否定的な感想が見受けられた。

まさきつねも最初は、ヴァンパイア一族による『アダムス・ファミリー』的なホーム・ドラマのノリかなと思っていたのだが、コリンズ家の面々はそれぞれ自分の抱える問題に精一杯で一致団結の「家族」という様相ではない。年頃の娘キャロリンはあからさまに反抗的な態度をありありと見せるし(ただし、これが彼女の最後のオチで効いてくるのだが)、盗癖と女癖が治らないロジャーは息子デヴィッドを置いて家を出ていく羽目になる。現代的な家族崩壊の一番の犠牲は幼いデヴィッドだが、彼を救うのが古典的なゴシック・ホラーのモチーフである母親の幽霊というのも、ちょっとほろりとする。

その中でコリンズ家再建に関して最後までぶれないのは家長のエリザベスで、娘を酷い目にあわせた魔女とも銃を持って対峙する格好好さや、屋敷がすべて燃え落ちても財産には未練ひとつ見せず「これまでと同じ。生き延びてゆくだけよ」と呟く潔さなど、「家」を守る真の貴族性とは何かを顕現していたのはバーナバスよりも彼女だったのだろう。


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バーナバスについてはその肩透かしを喰わされた感のあるキャラクター像を、過去のバートン作品からステップ的に『1:「チャーリー」ほど奇抜でない世界感で2:「ビートルジュース」ほど弾けない主人公が3:「スウィーニー」ほどの残虐なことも4:「スリーピー・ホロウ」ほどのアクションもなしに活躍するコメディ』と説明したレビューがあったのだが、いわゆるハチャメチャな大人げなさや残酷さを抑え気味にして、「進んでなったのではなく巻き込まれたのだ」的などこか惨めなヴァンパイアが、バートンの当初からのねらいである「気乗りのしない吸血鬼」だったようだ。

実際、デップ演じるバーナバスという大富豪の嫡男は人間的には最低のろくでなしで、蝶よ花よで育てられた人間にありがちな自己中心的な考えと貴族的なスノッブに充ちている。家の栄華を誇るためなら、職人や召使たちが喜んで四肢や命を差し出して当然という身勝手な思考回路が、世間知らずの困ったお坊ちゃんの気位の高さと醜聞を恥とするいけ好かない態度の隅々に現れている。

身分の低い人間は自分にかしずくのが当たり前で、アンジェリークの反旗に対しても「メイドのくせに愛を望むなんて」という無理解のなさだ。
気に入ったメイドに軽い気持ちで手を出して、飼い犬に噛みつかれてから「なぜ自分だけがこんな目に」と嘆くバーナバスは、要するに自業自得でヴァンパイアに堕落させられてしまっただけなのである。

バーナバスが生き埋めにされたのが、アメリカがイギリスを相手取った独立戦争真っ只中の1776年というのも象徴的で、世界が貴族的なもの王政支配的なものを脱却し、自由と個人主義の時代へ舵を取ろうとしている最中に、身分や女性性といった拘束から解き放たれたアンジェリークが、オルレアンのジャンヌ・ダルクと同じ「魔女」という呼称を持ちつつブルジョワジーの支配階級を闇に追いやり、資本主義社会の新しい権力者として台頭していったという図式なのだ。

アンジェリークがとにかく、女性の細腕(?)でひとり時代の荒波を超えてきたことをしみじみとうかがわせる見事なビッチぶりで、最後までストーカー的な悪役に徹しているのだが、物語の中盤で彼女の誘惑にまたしても負けたバーナバスと、お互いの体を壁や床に叩きつけて部屋を破壊しまくる獰猛なセックス描写を展開するのは、コメディータッチながらどこか憐れで、エロスの過激な側面と愛なき悲哀を滲ませてたまらないものがあった。

すべての闘いに敗れた彼女の今わの際に、粉々に砕け散ってゆく自らの紅いルビーのような心臓をバーナバスに差し出す場面は、ウィリアム・ホガースの『放蕩息子一代記』のサラや『源氏物語』の六条御息所まで、古今東西ひとりの男に献身しつつその愛が空回りして決して報われることがない女性たちに共通する絶望と憂愁が漂い、バーナバスの「かつては愛したこともあった」という言葉が悪女のうら悲しさに追い打ちをかけていた。

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結局バーナバスの女性遍歴は正統派ヒロインであるヴィクトリアとの恋愛至上主義のエンディングへ落ち着いていくのだが、バートンは基本的にこうした正統なカップルの恋愛話を描くことはないがしろで、前半はコリンズ一家の再建をめぐる駆け引きでエリザベスとの絡みの方が多く、中盤は人間に戻るための試みとして医学的な輸血を行うホフマン博士との対話が重要視されているきらいがあり、こうした女性たちとの洒落たやりとりが、1972年に甦ったレトロな吸血鬼の気障で傲慢で鼻持ちならない厭味ったらしさを、どこか愛くるしく憎めないコミカルな優男の気品ある物腰の印象へ変えてしまう。デップの個性や演技の巧さもあるのだろうが、「気乗りのしない吸血鬼」の血にも愛にも飢えた枯渇感が、どうにもやるせなく女性の母性本能をくすぐり、胸キュンさせているのかも知れない。

70年代を代表するラブ・ストーリー『ある愛の詩』にある「愛とは決して後悔しないこと(Love means never having to say you're sorry.)」という名台詞が、執拗にバーナバスを求めるアンジェリークに対するアンチ・テーゼ(「愛したことを後悔させてあげるわ」みたいな)であったようにまさきつねは考えているのだが、200年経ってもあいかわらず女性の誘惑にふらふらと負けてしまうバーナバスもまた、どんなに後悔してもやっぱり愛を求めてしまう懲りない愚か者なのだろう。

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それにしてもバーナバスはなぜアンジェリークの要求を、頑ななまでに「愛ではない」と拒み続けたのか。

バーナバスはその貴族的な本能から、アンジェリークの自分に対する異常な執着は「愛」ではなく、「所有したい」という欲望に過ぎないことを見通している。
アンジェリークは彼女が持ち得なかった身分、財産、社会的地位など、バーナバスが何の努力もせず手にしているものの数々が羨ましかった。羨望と妬ましさがバーナバスを自分の思いのままにしたいというよこしまな欲望に駆り立て、彼の両親や恋人を始め彼が愛しているものすべてをとりあげて、孤独へ追いやるという冷酷な仕打ちをさせたのだということを見抜いている。

アンジェリークの「独占欲」は、「自己愛」と表裏一体なのだ。

バーナバスを支配したい、思い通りに操りたいという欲望は、相手を愛しているというからではなく、単なる自己可愛さに過ぎないということなのである。

思うに不特定多数に目が移るのは男性本能による行動である。一方で、誰かや家族を守りたいという願望は母性本能のなせるわざだ。
どちらも種を残すという生物学的な合理性に基づいているのだが、人間的な行為としては矛盾が生じてしまう。

人間の場合、身体的な男女差は成育時に如実に出るが、遺伝子学的には男女とも、男性本能も女性本能もどちらも同じように持ち合わせている。ホルモンなどのバランスによって表出する個体差が違うというだけのことだ。
つまり、「独占欲」や「支配欲」も、「浮気」も「嫉妬」も、すべて生物の本能からすればごく自然な感情であり、おしなべて動物学的にも認知されている衝動であり行為だということになる。

しかして、人間がほかの動物に比べて極めて興味深い相違があるのは、経験と理性に基づいた選択と苦悩をするという点であろう。
人間は過去から学び、状況に応じて判断し、その結果、本能とは別の次元の感情に揺さぶられて悩み苦しむ。
人間は思考する生き物であり、「考える葦」である限り、理性と感情、浮気と嫉妬のようなアンビヴァレンツな葛藤や内部矛盾に一生振り回されてゆくものと考えられるのだ。

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以上を踏まえてつまるところ、バーナバスあるいはヴァンパイアの魅力とは何かをふりかえってみると、200年(正確には196年らしいが)の長きを土の中で過ごす間に、どうしようもない貴族のお坊ちゃんだったバーナバスは自らの孤独と暗い闇にひたすら向き合い、他者の行動を理解し、世の中の動静を把握する度量の深さや精神的な成熟度を身につけた。
自己中心的な我儘ぶりやヴァンパイア的な粗暴なふるまいは三つ子の魂百までだから、直らないのも致し方ないところだろうが(まあご愛嬌の範囲ということで)、積年の苦悩と葛藤は彼に愛の本質とは何かを気づかせ、どんな苦境や試練においても、どんなことをしてでもただ生き延びてゆくことの重要さを教えた。

異端者であり、永遠の命が与えられたが故に長年の懊悩を押し付けられる吸血鬼というマイノリティとしての自己存在を咀嚼しなければならないバーナバスの、人間以上に人間的な不安や苦痛、絶望が、彼を脆くもしぶとく、小憎らしくも愛すべきキャラクターに昇華しているのだろう。

不思議な化学反応ではあるが、孤独と闇がひとを成長させ、光の中でみなの共感を得て長く愛され、時代を超えて生き延びてゆくものへ進化させる。

永遠に生き続けるものの唯一の幸福は、愛による支配ではなく、愛による同化だ。

あなたも自分と同じ、苦しみと悩みを抱えて生きている。悲しみを分かちあい、心情を受けとめあうことが、異なる部分と矛盾だらけのものたちが共生するための一歩なのである。


さて、今回はまったくフィギュアスケートネタではないのだが、それぞれ異なるもの同士がこの世で共生するために必要なこと、コミュニケーションや理解という点については、どんなジャンルに関係なく大事な課題だろう。

『ダーク・シャドウ』は正直な話、ヒッピーのラブ&ピースとベトナム戦争、融和と破壊、サイケとクラシックといった整然としたものと奇妙奇天烈なものとがごっちゃになったカオスのような70年代、「愛は後悔しない」「愛は死なない」「愛はすべて」というメッセージで乗り越えてきた時代へのある程度の理解と洞察、あるいは懐古趣味がないと、なかなか内容的な深さや面白さがつかみきれない作品だ。

すなわち、とても老若男女万人受けするコメディーでもラブ・ロマンスでもないのだが、生きるって大変よねと日常のちょっとした煩わしさや人間関係の難しさに思い悩んでいるひとには、それでも必死で生きてゆくこと、生き延びてゆくことだけが尊いのだと改めて気づかせてくれる、少し観念的な感慨をもたらす映画だったと思う。


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「結局のところ、倦怠よりは苦悩のほうがまし、静かな池より大洋の嵐のほうがましというものだ」
(バイロン卿『ヴァンパイア奇譚 真紅の呪縛』)


おまけで真央ちゃんのハロウィーン画像。

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もうひとつの国

*20

暗転の中、幕が上がったとき、礼拝堂でパブリック・スクールの全員が歌うのが聞こえる。

 われは汝に誓う
 わが祖国よ  
 すべてのこの世のことどもの上に
 何一つ欠けるもののない わが愛の奉仕
 何も訊ねることのない愛
 何も試すことのない愛
 聖卓の上にまします
 最も尊い 素晴らしいもの
 決して怯むことのない愛
 犠牲をはらう愛
 勇気を持って 最後の犠牲ならしめる愛

賛美歌が終わると、ガスコイン寮の第四学級の図書室に明かりがつく。
そこは整然とした、しかし古めかしい部屋で、机に椅子、一対の肘掛け椅子があり、本が棚にのっている。
窓の下に腰掛け。深紅色の煉瓦で作られたゴシック風のアーチの仕切りがある。
ベネットは窓辺にいて、双眼鏡で何かを見つめている。
彼は細身の、しかし美しい少年で17歳。グレーのフランネルの上下を着て、寮のネクタイをしめている。
似たような格好をした同級生の少年が二人入ってくるが、彼は見向きもしない。
その二人とは、小柄で浅黒くやせ型、誰もがスクラムハーフだと考える感じのジャドと、背が高く色白のデブニッシュである。
(ジュリアン・ミッチェル『ANOTHER COUNTRY』)

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「The Ice」の情報が少しずつ流れてきた。

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動画はテレビ放映を待たねばならないだろうと思うが、とりあえず気になった浅田選手のEXについて、備忘録のような記事だがエントリーしておこうと思う。

浅田選手のEXは二つ用意されていると以前から情報が洩れ聞こえていたが、最初に披露されたのがニコルの振付でリベラという児童合唱団の歌う『I vow to thee, my country』、もうひとつがタチアナコーチのジャズ調に編曲されたショパン『ワルツOp64-2』だった。

タチアナコーチのプログラムや、今回話題になった小塚選手とのペアやバトル選手との『アラジン』の再演についての内容は、動画や情報がもう少し入ってきてからにするとして、とりあえずこのエントリーではリベラと『I vow to thee, my country』に関して、とりとめのない内容だがお話ししたいと思う。

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まず『I vow to thee, my country』であるが、平原綾香さんの『ジュピター』が日本では知られているから、リベラの日本発売アルバムの中でもどうやら『誓い~ジュピター~』という邦題で発表されているようだが、英国では誰でも『I vow to thee, my country(我は汝に誓う、我が祖国よ)』という名で通っているいわゆるイギリス国教会の聖歌である。
ダイアナ妃の婚礼及び葬儀の時にも用いられているから、日本人でも平原さんの歌声よりはるか以前から耳にしている筈の、イギリスの愛国歌なのだ。

詳しい話はウィキに解説されているのでかいつまんで掲載しておくが、歌詞は第一次世界大戦直後の1918年にイギリスの外交官セシル・スプリング=ライス(Cecil Spring-Rice/1859-1918)の詩『Last Poem』から採られ、この大戦で300万人近い死傷者を出した祖国の尊い犠牲者たちへの追悼の意識が強く表れた内容になっている。ライスは戦前に完成していた歌詞を戦中に急遽書き直し、大戦当時アメリカのワシントンで大使として着任して、ヨーロッパ戦線へのアメリカの参戦を推進していた自らの特命を愛国主義の滲む歌の中に反映させたものだろう。

無論こうした愛国精神の過剰な発露については賛否両論があり、イギリス国内でもさまざまに論じられているから、歌詞の初めの誇張された愛国心の印象と後から歌われる理想の神の国という、平和を求めつつ戦いに身を投じる人間たちの二律背反する精神性、あるいは苦悩を念頭に置いて聴いた方が好い聖歌なのだと思う。
とはいえ、リベラの透明感に充ちた歌声は、ひたすら献身と犠牲精神の美しさ、国境もヒエラルキーもない誰もが穏やかで優しさに富んだ世界の愛を届けているから、未曽有の災害に襲われた国、日本への哀悼として浅田選手のEXに選曲されたのだろう。

リベラについては公式サイト(→こちら)もあり、ウィキの解説もあるのでそちらをご参照いただければよいが、日本ではすでにウィーン少年合唱団にも匹敵するほど多くのファン(「リベラー」と称されるらしい。詳しくは知らないのだが…)がいらっしゃると聞くので、ここ数年では映画『氷壁』『誰も守ってくれない』やテレビドラマ『マドンナ・ヴェルデ』といった作品の主題歌や挿入歌として日本では馴染みが深いということだけお伝えしておこう。

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☆Libera - I vow to thee my country☆


さて、ようやくここからこの記事の本旨なのだが、イギリスでは第二の国歌のような『I vow to thee, my country(我は汝に誓う、我が祖国よ)』、この曲がダイアナ妃の婚礼などよりもまさきつねには印象に残っていたのが、1984年公開の映画『アナザー・カントリー』だった。

腐女子にはもはやバイブルに近い、日本ではBLの古典的名作の金字塔として扱われている向きもある映画だが、いわゆる「同性愛映画」のジャンルに入れてしまうには違和感が残り、本来はジュリアン・ミッチェル原作の戯曲であり、舞台上演もされている社会性の強い異色作なのである。
まさきつねはこの映画の日本公開前、母が購読していたファッション雑誌『MODE et MODE』にいち早く掲載されていた映画情報とモノクロの写真に一瞬にして心奪われ、その内容と主人公を演じるルパート・エヴェレットのこの世のものならぬ美貌に驚愕したものだった。

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ANOTHER COUNTRY di Marek Kanievska (1984)


実際、エヴェレットの美少年(美青年か?)ぶりは、外国人であることを考慮してもちょっとその当時の美形の基準からは大きく外れていて、すらりと長身で伏目がちの眼と濡れたような唇、愁いを帯びた表情は凄みがあり過ぎて、ブランド品の広告ポスターによくいた金髪碧眼で人好きのする爽やかなハンサム青年とは一線を画すものだった。その神掛かった美しさは今でも、どちらかというと少年愛的に中性的な美を嗜好する日本の腐女子には、おいそれと受け入れ難い部分があるのではないかと思う。

モノクロ写真のもうひとりはエヴェレット演じるガイ・ベネットの同性の恋人ではなく、気の合う友人で共産主義者のトミー・ジャドで、映画で演じたのはつい最近、『英国王のスピーチ』で注目を浴びたコリン・ファースである。ファースは『アナザー・カントリー』の舞台版ではガイ役も演じていたが、エヴェレットに比べるとまさに正統派の英国産好青年というイメージだった。
『アナザー・カントリー』から堰を切ったように、この後E.M.フォースターの『モーリス』や『眺めのいい部屋』『ひと月の夏』といった英国美青年が次々に出演するイギリス映画が封切られ、当時の腐女子を中心に英国美青年ブームが沸き起こったが、その中でもエヴェレットの美貌は群を抜いていたし、現実的に自身のセクシャリティをカミングアウトしたという点でも、彼は異色だったかも知れない。

前置きが長くなり過ぎたが、『アナザー・カントリー』は確かに同性愛嗜好を持った主人公が自らの嗜好と軽率な行動によって破滅する物語ではあるが、テーマとしては恋愛に絡む心理劇でもロマンティックなラブ・ストーリーでもなく、1930年代のどこか息苦しいイギリスの階層社会を背景に、自由を求めつつ学生寮の代表生となる野望に溺れ、結局は自らの性癖の異端性ゆえに失敗してエリートのレールを脱落してゆくその権力抗争に明け暮れるベネットの人生経路に象徴させた、政治的風刺劇の色合いが濃いものである。

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最終的にイギリス社会を見限って共産圏にコミットしてスパイとなった主人公には、現実的なモデルがいたというのも映画のストーリーに硬質の印象を与えているが、実際、映画でこそベネットと彼の恋する相手ハーコートのデート場面が(実に腐女子心をくすぐる)清潔感ある美しさで描かれているけれども、舞台版ではハーコートは台詞の中でしか登場せず、物語の大半はベネットと、『資本論』を読み耽る頭脳明晰で思想的な芯のある友人のジャド、次期寮長の座を固めるためにジャドを幹事(監督生)としてとり込みたい利己主義者のメンディス、ベネットを敵対視する教条主義者のファウラーといった同じ学生寮の中での政治的対立と友情を深める人間関係がほとんどである。

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全体的にジェントルな青年たちのジェントルな台詞が飛び交う中で、執拗で陰険な権力争いが行われているのだが、そのクライマックスに敗者ベネットにはパブリックスクールの伝統的な体罰である鞭打ちが行われる。近代的精神が浸透している資本主義的階級社会の象徴であった筈の紳士的な学校に、原始的な綻びが見えた瞬間であり、暴力的な解決法でしか決着をつけられない人間的な自己崩壊を露呈した結末なのだ。

鞭打ちを受けた後ベネットは、それまで気骨のある友人として一目置いていたジャドに向かって、「君も考え方はファウラーたちと同じなんだよ。平等や友愛を説く君も、恋愛の問題になると人間を差別してしまうんだ」と激しい言葉を投げつける。
子どものようなベネットの八つ当たりのようにも思える発言だが、実は一見聡明そうなジャドの抱えていた内面的矛盾を殊の外突いた内容で、平等を目指しつつ支配的特権階級に属しているという青年のアイデンティティに関する構造的な皮肉を顕わにしているのである。

そしてベネットは(腐女子が狂喜乱舞するような)“I will never love women.”という言葉をまるで捨て台詞のように口にするのだが、もののはずみで飛び出したのではなく、この後彼は本気で異性愛もイギリス社会での大成もすべて棄ててしまったのだから、国への背信行為に至ったベネットの覚悟はよほど筋金入りで腹の据わったものだったということのようだ。

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映画ではもうひとつハイライトに、緑の芝生に白いセーターのクリケット・ファッションが映える学生たちのクリケット・プレイを見せてくれるが、ここでもセーターを着崩したエヴェレットの垢抜けた美しさが見どころで、さらに彼が審判になり、意中のハーコートに有利なジャッジをしてほかの生徒から顰蹙を買う場面は、道徳的には複雑だが恋心の為せる業としては共感する部分である。
こんな可愛らしい策謀でハーコートの気を引いたベネットが、双眼鏡で愛しい相手を見ながら“sniffing the wind …like a dappled deer …”と呟き、それをまた呆れ気味に見ているジャドの様子も、恋愛をする者しない者の対比が出ていて面白かったが、エヴェレットはのちにジュリア・ロバーツと共演したコメディ映画『ベスト・フレンズ・ウェディング(My Best Friends Wedding)』でこの台詞を転用し、携帯電話でロバーツにささやいていたのだけれど、さりげない好意の示し方として粋なアドリブという感じがあった。

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このクリケットはまさに悪しきイギリス特権階級のシンボルで、「資本的陰謀の基礎」たるものとしてジャドは「楽しすぎるから嫌い」とアイロニカルな発言で参加しようとしないが、ロシアに亡命したベネットにとっては郷愁の対象であり、映画の終わりは年老いた彼の“I miss cricket.”で幕が閉じられるのである。
英国を裏切ったスパイとしての悪名を轟かせた人生の中で、ベネットが最もノスタルジアを感じる場所や象徴が、彼の人生を狂わせたパブリックスクールであり、そこで興じたクリケットであるというのも、実にシニカルでもの悲しい帰結だと思う。

英国とは違うもう一つの国、作品のタイトルである『アナザー・カントリー(another country)』は映画の中に幾度か挿入される『I vow to thee, my country』の二番とされる後半部分の歌詞から採られたということで、確かに祖国を裏切ったスパイはほかの国に忠誠を誓うしかないだろうが、とはいえ映画の冒頭で「反逆も忠義も相対的なものだ。何への反逆、何への忠義かが問題さ」と取材記者に語っている老いたベネットの脳裏にはすでに、共産主義への絶対的信頼も崩壊の足音が近づいているソビエト連邦への忠義心もさほど残されていない様相はある。

*8


ベネットに「絶対的正義だよ」と共産主義への感化をしたジャドは、22歳でスペイン内乱に志願して死亡(実際のモデルと考えられているジョン・コーンフォードと、エズモンド・ロミリーの二人もスペイン戦線に入っており、コーンフォードは21歳で死亡)しており、彼の理想とした階層のない平等で平和な社会は共産圏においても実現しなかった。
そしてジャドの死後も、資本主義国も共産主義国も散々見てきたベネットにとっては、主義思想や社会の構造システムなどすべてに懐疑的にならざるを得ない現実と向き合ってきた余生のような年月の中で、こころからの愛と真実を捧げるに足る「もう一つの国」があったのかどうかは分からないが、あるとすれば軍隊も王もいない、誰もが自由に解放された神の祝福する国しかないということは直観的に理解していたのではないかという気はする。

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☆Another Country (1984) Boat Scene with Rupert Everett and Cary Elwes☆


ただ少しだけ、腐女子的に感傷的な解釈が許されるとしたら、ベネットが愛と真実を捧げていたのはどこかの国や主義というよりも、相手がほかの女性と結婚したにも関わらず、そのふたりの子どもの名付け親になるなど、どうやら生涯関係を持ち続けていたらしいハーコート、学生時代に唯一真剣に愛し、自らの最も汚れのない無垢な魂の象徴となる純愛の相手、彼と過ごしたパブリックスクールのひと時こそが異国に暮らすベネットが一番戻りたかった場所なのだろうと思うのである。

結局のところ、この世に絶対という真理はなく、また正義も存在しない。時は流れ、人のこころは移り変わり、またすべてがいつか塵あくたとなって消え去る運命にあるからである。道徳も法も主義も相対的なもの、時代が変われば何が正しくて何が間違っているかなど、誰にも分からない。
だがいつの世も、ただひとつ真実があるとしたら、自分がただひたすらに信じたもののために献身したそのまごころ、受難にも耐えうるほどの雑じり気のない一途な思い、揺らぐことののない愛しかないのだろうと、「I vow to thee, my country」を斉唱するリベラの声と浅田選手のスケートを味わいつつ、あらためて感じ入った次第である。

*6


祖国よ 我は誓う
比類なき完全なる愛を捧げん
疑いなき愛
試練をも乗り越えん
祭壇に奉られし最高の愛
揺らぐことなき愛
多くの犠牲により贖われん
もう一つの祖国がある
古より聞き覚えし祖国が
その国を愛する者にとっては最愛の
その国を知る者にとっては最も偉大な
その国には軍隊もなければ王もいない
忠実なる心こそが砦となり
受難をその誇りとする
一人一人の心に
静かに満ちる輝き
すべてが平和な穏やかな国よ

I vow to thee, my country,
all earthly things above,
Entire and whole and perfect,
the service of my love;
The love that asks no question,
the love that stands the test,
That lays upon the altar
the dearest and the best;
The love that never falters,
the love that pays the price,
The love that makes undaunted
the final sacrifice.
And there's another country,
I've heard of long ago,
Most dear to them that love her,
most great to them that know;
We may not count her armies,
we may not see her King;
Her fortress is a faithful heart,
her pride is suffering;
And soul by soul and silently
her shining bounds increase,
And her ways are ways of gentleness,
and all her paths are peace.

☆I Vow To Thee My Country - Libera☆

     ※

個人的人間関係は、今日では軽蔑されている。ブルジョワ的な贅沢であり、すでに過去になった幸福な時代の遺物だと見られて、そんなものは捨ててしまえ、それよりも何か政治的な運動とか主義に身を捧げろとせっつかれる。私は、この主義というのが嫌いで、国家を裏切るか友を裏切るかと迫られたときには、国家を裏切る勇気をもちたいと思う。
(E.M.フォースター『私の信条』)


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☆Another Country (1984) Original Trailer with French Subtitles☆



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風の谷、氷の上の姫君

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カリオストロの今朝は、雨上がりの素敵な日です。
あなたのいるところは、空のご機嫌いかがかしら?
私は、いつものようにカールと一緒に、湖を見下ろす丘に来ています。
雨の残りがのするこういう日は、なぜかあなたのことを考えてしまいます。
私の代わりに、空が涙を流してくれたからでしょう…
館も、昔のとおりに修復され、おぼつかなげですけれど、大公女としての使命を果たしています。
伯爵が倒れてから、カリオストロも変わりました。
私は、カリオストロの血を継ぐ者として、一生懸命に義務を果たそうと努力しました。
何よりうれしいことに、国の人々も私を支え、盛り立ててくれます。
でも、…私は知っています。
カリオストロの国は、これまでに比べてずっと貧しくなってしまったことを。
けれど、カリオストロがいつまでも闇の中にいて良い筈はありません。
私はきっと、このカリオストロを、世界一素晴らしい国にしてみせます。
あなたがしてくださったご恩は、いつまでもこの国の心に残してみせます。
丘の下の道から、幸せそうな笑い声がしてきました。
「こんにちわ!よいお天気ですね!」
「ええ、ありがとう。坊やのお誕生日?では何かお祝いを!
ああ、このお花を!手折るのは可哀想ね。鉢に植えて届けさせましょう。ええ、さようなら!坊やによろしく!」
私は、皆の優しい笑顔を見るのが大好きです。
あなたも、そうおっしゃいましたよね?
人々が優しく暮らしていけることを、心から望みます。
まだ、上手く政治を見ることはできないけれど、きっとやりとげます。
ウフフ、あなたのことを、永遠に忘れないように、ローマ公園の中に、立派な銅像を立てようかしら?
あのカリオストロの城を、あなたの記念館にしてしまおうかしら?
そんなこと必要ありませんよね。
あなたにはいつでも会えるもの。
お願いすれば、必ず来てくださると約束してくれましたもの。
さみしくないと言えば、ウソになります。
あなたがいてくださったらと思ったことは数え切れません。
でも、私はあなたを知ったことを誇りに思います。
そして…愛したことも……
あなたのことを考えるだけで、どんなに勇気づけられ、心楽しくなったことか、あなたが大公になってくださるなら、私はいつまでも待ちます。本当に…
いいえ、いつでもいい。また会いに来てください。
それだけ、ただ、それだけをお願いします。
おじさま…
あなたに永遠の愛を込めて
クラリス・ド・カリオストロ
(カリオストロの城大辞典付録『クラリスからの手紙』)

☆クラリスからの手紙 恋心 島本須美☆

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楽しい話題をお伝えしよう。
もうあちこちのブログでも紹介記事が挙がっている、小塚選手と浅田選手のペアプログラムである。

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※※11


小塚選手の希望で『ルパン三世』ということだが、小塚選手のような一見真面目で堅物という育ちの良い優等生には、ルパン三世のようなどこかアウトローなアンチ・ヒーローに憧れがあるのだろうか。日本が誇る義賊キャラクターであればこそ、チャリティー色の強いアイス・ショーにふさわしいという考えもあったかも知れない。

ルパン三世の声優だった山田康雄さんは「ルパンの魅力は義賊ではないところ」という理想像をお持ちだったようだが、最も義賊意識が強い『カリオストロの城』ではおちゃらけたアドリブをせずクリント・イーストウッドのアフレコのような抑えた声での演技をするようにという宮崎監督の言いつけに従い、コミカルな側面を控えめに演出したようだ。
まさきつねもモンキー・パンチさんの原作が好きなので、どちらかと言えば義賊的なルパン三世のキャラクターには違和感を覚えるが、宮崎監督の世界観が創り出した映画としての『カリオストロの城』の出来からすれば、こういうルパン三世も許容範囲だろう。

さて、『カリオストロの城』という作品だが、ルパン三世ファンにも宮崎アニメファンからも人気の高いアニメであることからも、さまざまに憶測される話の後日談や続編を希望する声も多いようなのだが、残念ながら宮崎監督による続編は企画されることはなかった。だが宮崎監督が直接関わらない後日談はいくつか公式に発表されており、そのひとつが冒頭に挙げた『ルパン三世 カリオストロの城大辞典』という書籍の付録だったソノシートに吹き込まれていたクラリスの声優、島本須美さんによる『クラリスからの手紙』である。

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ルパンに「おじさんは地球の裏側からだってすぐ飛んで来てやるからな」と告げられたクラリスがその後も愛する「おじさま」に寄せる誠実な想いがうかがえる内容だが、一方で公国を立て直すという使命感にとらわれたお姫さまの、どこか悲痛な叫びが滲んでいるような気もしないではない。
いっそお城を飛び出して、お姫さまの地位など放り出してしまった方が、一人の女性としては幸せなのだろうと思うし、続編を手掛けなかった宮崎監督も内心は映画のラストとクラリスのその後について忸怩たる思いを抱えていたようなのだが、ルパン三世というシリーズのもつファンタジー的な色調とクラリスという女性像の現実性の間のジレンマで、結局ストーリーの同一化を断念されたということのようだ。

もうひとつ、宮崎監督の関わらない後日談で、実際にふたりが再会を果たしたエピソードが次にご紹介する音声ドラマ『クラリスとの再会』の脚本である。1982年の『ルパン・トーク・ルパン』というサントラに収録されており、クラリスファンに対する山田康雄さんのサービス企画のような色合いが強い気がする。

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(不二子の依頼で、ルパンは雑誌のインタビューを受けることになる)
インタビューアー「ルパンさんの人生にとって、印象に残っている女性は思い出に残る女性とは誰ですか?」
ルパン「うーん、新しい仕事をするたびに毎回ってぐらい気になる女性に出会うからねー」
(ルパン、次から次へと女の名前を出す)
インタビューアー「ちょちょちょと、待ってください。
カリオストロ公国の、クラリス王女はどう思ってますか?」
ルパン「ムフフ、よーく調べたなー、弱っちゃたなー、いや、彼女はちょっと特別なんだよな。」
インタビューアー「どういうことです。」
ルパン「いや、まだオレが若造のころな、つまりドロボウ稼業も売り出し中だったころ、そこの国に忍び込んでゴート札を盗もうとしたんだ。
ところがドジやって警察のやつに撃たれちまったんだ。
当時は未熟だったからな。
そのオレを助けてくれたのが、まだ赤いリボンが似合う少女時代の彼女だったんだよ。
いやー、やさしかった…あっ、でっ、次の質問はなんだい?」
(インタビューが続くが、ルパンのヌード写真をとる話になり、結局ルパンはホテルを出ようとする)
(以下、ルパンの一人語り)
ロビーは人待ち顔の人や、チェックインする人でごった返している。
おれはグローブの近くを横切ろうとした。
するとおれを呼び止める声がした。
おれは振り返って見た。
そしたらどうだ!いやーまあー驚いたねー!ソファーには清楚で美しい女の人がいた。クラリスだ。
「きっと、きっとおじさまにまた会えると思っていましたわ。」
(BGM:炎のたからもの開始)
そばには昔大公家に仕えていた元園丁の老人がなつかしそうに微笑んでいる。
クラリスの周りには、プロレスラーみてえなボディーガードが取り囲んでやがる
まさか、こんなところで……
すぐには言葉なんか出てこなかった。
老人の足元には旅行用のトランクがある。
クラリスはカリオストロ公国の観光開発について、日本の企業に協力を要請するたびに、お忍びでやってきていた。
これから帰るところだという。
おれは、カールは元気かい、と聞いた。
「ええ、人間で言えばもうおじいさんだけど、風邪も引かないのよ。」
クラリスはうれしそうにこたえてくれた。
彼女は、王女としての誇りと気品を身につけていた。
(セリフはなくなり、「炎のたからもの」だけが最後まで流れる)
老人が空港に行く時間だと告げた。オレはもう少し話したかった。
しかし、小さいとはいえ、向こうは一国の王女。
こちとら、しがないドロボウ。
衆人環視の中で親しげにするってわけにはいかない。彼女に迷惑がかかる。
オレは…クラリスに手短かに別れの言葉を言った。
夜になり、オレは次元と五右衛門の待つ居酒屋に向かった。
オレはその晩なかなか寝付けなかった。
クラリスを載せたジャンボは今頃どのヘン飛んでんだろうなーんて考えちゃってさ。
今日のことは、一生忘れられないだろうな。
オーッと、オレにしちゃおセンチになりすぎちゃったようだよな。
ほんじゃまー、お休みー…

ルパン三世☆クラリスとの再会 山田康雄☆

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


結局のところ、ルパンというキャラクターには元来、クラリスという清純きわまる少女の人生を背負いきれるだけのキャパシティも人間性もない。宮崎監督は「無間地獄」という表現をされているが、年がら年中銭形警部に追いかけられて、どこまでいってもしがない泥棒稼業と不特定多数の女性とのアバンチュールで束の間の快楽を得て、こころの憂さを晴らしている中年男、それがルパン三世の本質であり、義賊でも何でもないアンモラリティこそが彼の魅力なのだ。

宮崎監督は映画のパンフレットで「この映画で、ルパンはひとりの少女のために全力で闘います。けれども、ひとりの少女の重ささえ背負いきれないダメな自分を知っています。心だけ盗って、そのくせ未練は山ほどかかえこんで、しかしそれを皮肉なひょうきんにかくして去っていく。去っていかざるを得ない男―――それがルパン三世です。」と語られているが、相手に深く関わらない故に限りなく優しくできる男のダンディズムと、その裏腹に潜む狡さをよく理解しておられたということなのだろう。

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ところで、ハードボイルドを気取りつつ結局は裏街道を歩いてゆくしかないルパンの方は、どこまでも孤独で致し方ないにしても、たとえルパンと一緒にならずとも、公国に留まらせず、自由に自分の人生を選択してゆくクラリスを描きたいという気持ちは「たとえば、お姫さまの地位なんか放り出してしまえ、じゃ放り出す、というような会話もいるかなと思ったんですけど」という宮崎監督の言葉に滲んでいるが、清純だが物静かでおとなしいクラリスというキャラクター設定の中ではやはり、公国の民や義務を投げ出して、新しい人生を築いてゆくアクティブな強さや勇気に結び付けてゆくには無理があったらしい。

こうしてルパンとクラリスの物語はひとまず終幕するのだが、国を捨て、異性にも頼らずに独立自尊の精神で自己を再生してゆくお姫さまの物語は、その後も宮崎監督を魅了し続けたようで、それがいつかギリシャ神話に出てくるパイアケス人の国のナウシカ王女のエピソードに結びついて、風の谷を駆け巡る少女「ナウシカ」の物語に結実したということだ。

自分の愛する国のために、自らを犠牲にして働き、君臨し統治することに人生を捧げるお姫さまも女王も、それはそれで誇り高く、誰にも恥じることのない高潔な生き方だと思う。端から誰でも出来ることではない…選ばれし人間のみの為し得る務めであり、その職務を全うすることこそが彼らのプライドであろうからだ。
だが時として、姫君や女王であること以上に人間である自分を大切にして、自分が本当にやりたかったことに専心し、挑戦し、決して後悔しない冒険に飛び込んでゆくこと、青春に生きることが誰しも許されるべきなのだとまさきつねは思う。

決して堅実なやり方でもなければ、時には良識的でもなく謹直でもなく、周囲からの非難や批判も覚悟せねばならぬこともあるかも知れない。だが、それでもいい。生きることは、時として破天荒で無鉄砲で、時として型を破って奔放に、それがたとえ誰ひとり思いもよらない結末になったとしても、誰ひとり目指すことの出来なかった終着点を驚きとともに引き寄せることなのだ。

カリオストロのクラリスにはなかなかに難しいことだったようだけれども、浅田選手にはぜひ、クラリスが辿り着けなかった最高の結末を、冒険心に充ちた挑戦を新しいシーズンにも目指して欲しい。

玉座に縛り付けられて、中身が空っぽになってしまったお姫さまや女王の憂いや悲しみは、あなたにふさわしくない。
時に義賊を気取る間抜けな中年男にもこころを通わせながら、奇跡のような魔法のような幸せを皆にもたらしてくれる、氷の上の誰にも見えない妖精の国のお姫さまでいて欲しい。

※※19 (2)


ついでと言っては何だが最後にちょっとお遊びで、小塚選手とのツーショットやショーでのペア写真など(その他もろもろ…)をご紹介しておこう。どんなルパンとクラリスになるか、皆さまのご想像のきっかけになると嬉しい。

※※19

※※15

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※※20

※※※37

※※12

※※14

※※18

*☆*:;;;:*☆*:;;;:*☆*:;;;:*☆*


正直な話、小塚選手にくたびれた中年男が演じきれるとはとても思えないので、むしろ宮崎監督の思惑通り、イーストウッド並みにかっこよく決めて貰って、浅田選手…もといクラリスをお城の外へまんまと連れ出すくらいのハッピーエンディングで、宮崎監督も為し得なかった後日談を描いて欲しいとまさきつねは思うのだけど、皆さまは如何に。

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しあわせをたずねて
わたしはゆきたい
いばらの道も 凍てつく夜も
二人で渡ってゆきたい

旅人の寒い心を
誰が抱いてあげるの
誰が夢をかなえてくれる

炎と燃えさかる
わたしのこの愛
あなたにだけは わかってほしい
きずなでわたしを包んで

荒野をさすらうあなたを
眠らせてあげたいの
流れ星はあなたのことね

炎と燃えさかる
わたしのこの愛
あなたにだけは わかってほしい
謎めく霧も晴れてゆく
(カリオストロの城主題曲『炎のたからもの』)


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