月船書林

フィギュアスケートの話題を中心に芸術を語る

悲しみのメゾン、存在の消えない美しさ 其の弐

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湖のほど近くにありて 片すみに寄る二つの石の
すきまより 泉が 湧き出でてくる

泉の水はささやく

「ああ なんという幸せか
土の下は あんなにもほの暗くて
それが今 わたしの岸辺はみどりうるわしく
空は わたしの水面を鏡としてその姿を映し
鳥たちは わたしの杯を受けて喉をうるおす

あといくたびか 流れも曲がれば
わたしは 谷や 岩や あららぎを漱ぐ川となるだろう」
    
誕生もまもない泉は
先だつ気持ちを抑えきれず、こころは逸る……
(テオフィル・ゴーティエ『泉』)

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ジャン=オーギュスト・ドミニク・アングル『泉』1820-1856年

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前の記事があまりに長くなったので、分割させていただいたが、今回はクリスチャン・ラクロワが手がけた舞台衣装とその舞台について、お話ししたい。

彼がボナリー選手のフィギュア競技衣装をデザインしていたことはすでにお伝えしたが、彼の真骨頂である壮麗なファッションは、オペラやバレエといった舞台衣装でさらに花開き、ついには2006年に開館した、フランス、ムーラン市の国立舞台衣装設置センター(National Centre for Stage Costume、CNCS)の特別顧問として節理の準備段階から関わって、名誉理事長の職まで務めている。

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もともとソルボンヌ等で美術史を学び、エコール・ド・ルーヴルで難関の美術館コンセルヴァターの資格を取得したラクロワなのだから、博物館関連の仕事はお手のものといったところだろう。
ましてや彼自身が情熱を注いでいる服飾デザインそのものだけでなく、テキスタイルやファブリック、あるいはクチュール縫製に関連したレースや刺繍、繊維織物の加工技術など、さまざまな製作工程に強い興味関心をいだいていたということから、衣装作品の保存と修復、技術の伝承や研究、そして一般公開という同センターの設立使命に共感し、任務を引き受けたという経緯のようだ。

ラクロワがデザインした作品で有名なものとして、オペラでは『カルメン』や『ドン・ジョヴァンニ』『フォルチュニオ』、バレエでは『堕ちた天使』や『シェヘラザード』『ジュエルズ』、演劇作品でも『シラノ・ド・ベルジュラック』や『フェードル』『町人貴族』、さらには詩人ミュッセとサンドの恋を描いた映画『年下のひと』など枚挙にいとまがないが、どれも斬新な色の組み合わせと、彼らしく手の込んだディティール、思いもよらない意匠が舞台に別の魅力を付け加えて、その都度話題になっていた。

(浅田選手や安藤選手もプログラムに取り上げていた)演目『シェヘラザード』については、パリ・オペラ座でブランカ・リー振付の作品が、アニエス・ルテステュのドキュメンタリー映像に一部扱われている。本番の舞台は、相手役のジョゼ・マルティネズとともに黒い衣装で踊っており、これも豪華ではあるが、リハーサル場面で着ていた赤い衣装が何とも贅沢な装飾でエキゾチック、独創性で意表を突いている。

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アニエスの美貌は折り紙つきだが、その美しさをさらに引き立て、アジアの寵姫のイメージをこれぞと言わんばかりに印象付ける。頭の上から爪の先までじゃらじゃらと飾り立てて、肝心の踊りは大丈夫なのかと要らぬ心配をしてしまうが、アニエスの優雅な動き、スローでもその妖艶さと硬質な美しさは揺るがず、バレエの官能的なポーズを瞬間に創りあげるのだから、その磨かれたテクニックは確かなものである。

フィギュア競技の衣装で、特に浅田選手が着たタチアナコーチデザインのコスチュームを、ごてごてし過ぎとか、おばさん臭くて古めかしいとか、さんざんその装飾過多を馬鹿にする意見が時折あるが、まさきつねはコスチュームなんだからむしろ、ここぞとばかりに飾り立てたものを観たいと思うのだけれど、なかなか賛同を得られない。

すっきりとシンプルでモダンな衣装、(たとえば小塚選手などはバレエ衣装みたいに派手派手しいものはお好みではないというか、ちょっぴり恥ずかしいみたいでほとんどお召しにならないが、)彼の衣装のような日常着とさほど変わりがないようにみえるくらい、飾り気のないコスチュームがここ最近は主流のようで、まさきつねはちょっと寂しかったりする。

リンクの上はバレエの舞台と同じ、非日常の空間なのだから、いつも背中に薔薇を背負えとは言わないが、テキスタイルと縫製技術の数奇を凝らした意匠のコスチュームで時には観客を楽しませて欲しいと思う。

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さて、もう少し詳しい資料のあるものから、昨年六月先ほど述べた国立舞台衣装装置センターで開催された、クリスチャン・ラクロワの手がけたバレエ衣装の展覧会についてご紹介しておこう。

当時のニュース記事は以下の通り。


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【6月13日 Relaxnews】フランス・ムーランの国立舞台衣装装置センター(National Centre for Stage Costume、CNCS)で6月16日から、クリスチャン・ラクロワ(Christian Lacroix)が手がけたバレエ衣装の展覧会が開催される。

 会場には、昨年10月にパリ・オペラ座で公演された舞台「La Source(泉)」 のためにラクロワが手がけた衣装を展示。日本の生地を使用したチュチュやヴィンテージのサリーを使ったチュニック、スワロフスキー (Swarovski)のクリスタルをあしらったドレスやアクセサリーなど、オリエンタルな魅力溢れるコスチュームが並ぶ。

 さらに、衣装デザインのために集めた資料や写真、コスチュームのデザイン画、何度も作り直した試作品などを公開。クリエーションの舞台裏に触れられるまたとない機会だ。

 展覧会「Christian Lacroix, La Source et le Ballet de l'Opera de Paris」の会期は、6月16日から12月31日まで。(c)Relaxnews/AFPBB News

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記事の中にあるオペラ座で公演された舞台「La Source(泉)」は、、「フランス・バレエ音楽の父」クレマン・フィリベール・レオ・ドリーブ(Clément Philibert Léo Delibes:1836-1891)とオーストリアの作曲家で、バレエ「ドン・キホーテ」(1869年)で有名なレオン・ミンクス(Léon Fedorovich Minkus:1826-1917)の合作による古典的なバレエ作品。
1866年パリのルペルチエ劇場(当時のオペラ座)による初演で、全3幕4場の構成のうち、1幕と3幕2場はドリーブが、2幕と3幕1場はミンクスが作曲を担当した。

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ストーリーはペルシャを舞台にしたお伽話で、泉に毒を混ぜようとした悪人の企みに気づき、それを防いだ狩人ジェミルの恋を泉の精ナイラが手助けするというもの。

おおまかなあらすじは、まず第一幕、オアシスの領主である皇帝カーンのもとへ嫁入りするために、隊商の娘ヌレッダとその兄らコーカサスの一行が砂漠を進んでいる。泉の傍での休憩中、ヌレッダは険しい岩山に咲く花タリスマンを欲しがり、彼女に恋するジェミルは危険を冒してそれを摘んでくる。

第二幕、隊商の到着を待つカーンの壮大な宮殿の庭園。カーンの寵姫たちはヌレッダを快く思っていない。ナイラはジェルミのために、自分がカーンを誘惑し妃になる計画を立て、見事カーンはナイラを選び、ヌレッダを退ける。

第三幕、屈辱と悲嘆に暮れるヌレッダはジェルミを責める。ヌレッダの兄がジェルミを殺そうとし、ナイラは魔法で時を止める。目覚めないヌレッダを助けるために、森と泉の護符でもある魔法の花タリスマンの力を懇願するジェルミ。タリスマンの魔法はしかし、代わりにナイラの命を要求する。ジェルミをひそかに愛していたナイラは自分が死ねば、森の精ザエルやニンフたちや自分の泉を守ってあげられなくなると分かりつつも、ジェルミとヌレッダの恋の成就のために、ヌレッダの胸にタリスマンの花を手向け、永遠の眠りについていく。…

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以下の記述は、基本として公演プログラムの解説に補足したものだが、いつも通り、まさきつねの私見等も交じっているので、多少読みづらいかと思うがご容赦。


音楽 レオ・ドリーブ、レオン・ミンクス 
編曲 マルク=オリヴィエ・デュパン 
振付 ジャン=ギヨーム・バール 
舞台 エリック・リュフ 
衣装 クリスチャン・ラクロワ 
照明 ドミニク・ブリュギエール 
演出 クレマン・エルヴィユー=レジェ、ジャン=ギヨーム・バール 

配役
ナイラ(泉の精)/リュドミラ・パリエロ
ジェミル(狩人)/カール・パケット
ヌレッダ(カーンの婚約者)/イザベル・シアラヴォラ
モツドク(ヌレッダの兄)/ヴァンサン・シャイエ
ザエル(森の妖精)/マチアス・エイマン
ダジェ(カーンの寵姫)/ノルウェン・ダニエル
カーン(皇帝)/クリストフ・デュケンヌ

Etoiles, Premiers Danseurs and Corps de Ballet
パリ国立歌劇場管弦楽団 指揮 コーエン・ケッセルス

詩人、小説家であり優れた評論家でもあったテオフィル・ゴーティエによると、台本を書いたシャルル・ニュイテールはアングルの絵画『泉』にインスピレーションを得て、美女が多いことで知られるコーカサス地方に湧き出る泉を舞台に作品を仕上げたらしい。この記事の冒頭に掲げたゴーティエの詩『泉』もベースにあったという説もあるが、真偽は分からない。

初演は『コッペリア』などで知られるアルチュール・サン=レオンの振付だが、この作品は69回の上演と、1876年に来仏したペルシャ皇帝を歓迎するガルニエ宮のこけら落し公演を最後に、オペラ座のレパートリーから消えていた。

新生の『泉』はニュイテールとサン=レオンによる3幕の台本を、演出担当のレジェとバールが2幕3場のバレエに改編し、振付師のバールが、物語と無関係のディヴェルティスマンと長いパントマイムをカットすることで、3時間以上もあった原作を2時間20分にまとめあげたらしい。
本筋とは無関係の魔女モルガブといった登場人物も外し、音楽も現代の作曲家デュパンが大幅に入れ替え、ドリーブのほかの曲を織り交ぜて、世界観を統一したようだ。

ガルニエ宮の舞台でのプロダクションについては、初演当時の記録がほとんど残っていなかったこの作品に、ドリーブの音楽やわずかなバレエ史にあった記録から興味をいだいたバールが、1997年オペラ座バレエ団芸術監督のブリジット・ルフェーブルに話を持ちかけたのがきっかけらしい。
賛同したルフェーブルがフランス演劇界の権威であるコメディ・フランセーズの有識者たちに声をかけて、ついに衣装、装置、照明など舞台演出に関わる豪華メンバーが勢ぞろいして、国立オペラ座の総力を傾けた復活公演が実現したのだという。


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また脱線するのが分かっていて敢えて語るが、バールはバレエの指導者、振付家としてもかなりの知見者であるが、そのダンス・クラシックに対する哲学や理論は実に独創的でしかも現代的、論旨もぶれがなく主張が一貫していて、バレエのみならず身体表現の芸術に関わる人間には実に興味深いと思う。

以前、ブログにUPしようとしてそのままになっていた2012年青山学院大学文学部フランス語学科主催の彼の講演の覚書から、その趣旨を凝縮してご紹介したい。

◇ジャン=ギヨーム・バール氏講演会◇
「ダンス・クラシックの今:伝統と革新のはざま、逆説に満ちた世界」(通訳付)

日時:2012年5月18日(金)18:00~19:30
場所:青山キャンパス9号館4階940教室
*ジャン=ギヨーム・バール氏は元パリ・オペラ座エトワール。現在は後進の指導に当たるとともに、振付家としても活躍されています。

◇◇◇◇◇

まずダンス・クラシックの定義として、バールがあげるのが、次のような要素である。

① 道具としてダンサーの身体を用いる
② 身体表現によって感情をはこぶ
③ 理性と感情、知性と創造力を結びつける
④ 芸術という光に充ち、絶対を追求するもの
⑤ 文明の叡智を得た表現者によるもの

以上からバールは、自分を取り巻く状況やあらゆることについて考察し、何かを創造する力を得た人間の身体表現をダンス・クラシックと呼ぶ。彼のこの論理に従うと、自らの身体の可能性について知識を持ち、その限界を追求することによって、あらゆる感情をコントロールすることが可能になるという。

そして造形として出現するのが、古代の彫像に由来する均整という調和、絶対という超越を獲得したもので、それがダンス・クラシックの基本となるエポールマン(上半身をひねって作り出す肩から首の位置)に象徴される。
例として上がるのがレオナルド・ダ・ヴィンチの『洗礼者ヨハネ』のポーズ。古代彫刻からルネッサンスの芸術にまで、水平と垂直のラインが生み出す安定と、上体の垂直軸を起点とするひねりの動きからあふれる情感が、作品に機能しているとバールは考える。

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彼は表現者の腕の動きと視線の使い方にも、美を導き出す要素を見出しているが、このあたりはバレエだけでなく、ほかのダンスでもあるいは体操やフィギュア競技にも重要な示唆となるように感じる。指の先まで張り詰めた神経と、目線の配り方を疎かにすると、あらゆる動きは繊細さを失い、いくら正確な動作でも魂のこもらない機械的な冷たさを帯びる。

インドの伝統舞踊にある基本原理とも共通すると彼は考えているようだが、18世紀の半ばにフランスのバレエマスター、ノヴェールが「手が行き着く場所に視線が向かい、視線が行き着く先に精神が宿る」と述べたことにバールは共鳴する。

演じ手の視線の動きが舞台空間の広がりを観客に感じさせるからである。インドではさらに「精神が行き着くところに感動がある。エモーションが湧き上がったところに感情がある」と、ダンスによる感動を生み出すのは、身振りから派生した視線、そして魂の放出だと考える。
バールはこうした教えを踏まえ、ダンス・クラシックにおいて観客に伝えるべきなのは、ダンサーの身振りではなく思考の力であり、ダンスのテクニックはその思考を観客にはこぶ手段に過ぎないとする。

バールの考えの中で特に興味深いのは、現代のバレエがテクニックを重要視するあまりに、よりアクロバティックで体操的な踊りに傾倒するようになり、その結果、ダンサー生命を縮めたり、豊かな感情表現に欠けたり、ポージングのラインの調和を失ってしまったりという弊害が起きているという批判である。

シルヴィ・ギエムの登場が時代を革新させたことに異論はないのだが、彼女の超人的なパフォーマンスによって、観客の関心はダンサーがいかに高く脚を上げるかといった身体的能力に集まるようになり、芸術的な資質を置き忘れるようになったとバームは考えており、優秀なダンサーになるには特殊な身体性や、体操選手並みの超人的なテクニックが必要なのかと疑問を投げかける。

行き過ぎたテクニックの追求や、テクニックを数値化したコンクールは古典芸術の思想に添っているとは言えないし、身体的条件やプロポーションに恵まれないためにキャリアを積むことができない優れた才能が、日の目を見ることなく埋もれていくのは忍びないと彼は、ダンス・クラシックの将来を悲観する。

バールにとって身体表現が観衆のこころを惹きつける大事なポイントは、ダンサーが自らの体の声を聞き、自らの思考や感情をいかに伝えるかであり、テクニックはそのための手段、道具にしか過ぎないということなのだ。

バールは講演の質疑応答の中で、バレエ教育者へのメッセージとして伝えるならと前置きして「舞台でインパクトを受けたのと感動を受けたのはまったく別のことである。動かない瞬間もダンスの一部である。演劇的な面も重要である。言葉にならないものを表現する力を身に付ける。身体を歌わせることを学ぶ必要がある」といったことを、後進に伝えるべきだとしている。

バールは彼自身が、先駆者バランシンの作品によって、身体が歌うことを教えてもらい、身体が歌えることを教えてもらったと、音楽と一体化した豊穣な表現の必要性を訴えるのである。

このバールの考え方は、『泉』の振付や演出にも強く反映しており、音楽やパントマイムの冗長な部分を極力排除し、わかりにくいストーリーを明解にして余分な内容を削ぎ落とし、観客を感動的なフィナーレへ時の流れを忘れる盛り上がりで導いた。

踊りや振付では、ヌレエフ以来ロシアの伝統的な技巧中心のスタイルから外れて、バランシンやロビンズを規範とする、音楽性を大切にした流麗な「Pas」を多用し、いわゆるフランス流の優雅さと気品を本領とする情緒豊かなバレエの理想の顕現に努めた。
これによって、難しいテクニックを盛り込みながらもそれらを水面下に隠した、エレガントで情感あふれる作品を実現したと評されている。

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まさきつねがフィギュアの芸術性を判定したり論じたりするのなら、その際にもっとも参考すべきだと感じたバールの考え方は、「完璧さを求めすぎると踊り手に歯止めをかけてしまう。テクニックの完璧さは表現に制御を与えてしまうものだからだ。完璧さの追求を目的としてはならない。芸術に完璧というものはない。芸術は未完成なものであり、あえて言うなら絶対(absolute)を探求するべきだ」という論旨である。

バールに言わせると、若いうちから練習によって正しい筋肉の使い方を学び、正確さを求め、鍛錬によって絶対を探求するのは重要なことだが、厳密さと正確さを混同してはならないと警鐘を投げかける。

「絶対を探求」すれば自分自身のあるべき姿を見出すことができる。だが厳密に規律を守ろうとすると、表現が失われてしまい、表現すべき美が損なわれると彼は理解しているのだ。
バールは、探求には日々の鍛錬が大事だが、自分の限界を超えて自分の中にあるこころを自由に解放することが、表現において最も重要だと訴えるのである。

回転不足だエッジエラーだと、基準もあいまいなままでマイナス判定を容赦なく繰り返し、一方で特定の選手には不透明な加点を山積みする不可解な採点システムを一向に改める気配のない競技の中で、演技の芸術性がどうとか表現力がこうとかと、ふた言目には芸術鑑賞の主観性を持ち出すジャッジやその追随者たちは、少しはバールの実に先駆的な芸術論を肝に銘じてみればいいと思う。

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第1幕第3部<ナイラの世界>より、ナイラ(ミリアム・ウルド=ブラーム)とジェミル(ジョシュア・オファルト)のパ・ド・ドゥ

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第2幕第1場<カーンの宮殿>より、中央=ヌレッダ(ミュリエル・ジュスペルギー)

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第2幕第2場<犠牲>より、ヌレッダ(ジュスペルギー)とジェミル(オファルト)のパ・ド・ドゥ


閑話休題。

話がバールからダンス・クラシック(バレエ)の芸術論に向かって止まらなくなったが(それはそれで、実に興味深い内容だったろうとは思うのだけど)、本題のラクロワの衣装へ戻ろう。

で、その前に少しだけ『泉』の舞台装置についてお伝えしておくが、幕が上がってシンプルでモダンな舞台美術の中に、観客の目を引く夥しい数の太いロープやビロードの帯が天井から吊り下げられているのだが、これらのロープ紐やタッセルはガルニエ宮のステージで昔から使用されていた年代ものらしく、踊りの振付や演出効果にも一役かうと同時に、その華やかで壮麗な存在感が空間をアラベスクのように煌めかせている。
いかにもフランスらしい、粋な趣向だと思う。

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そしてこれほどすっきりと洗練された舞台だからこそ、スワロフスキーの光り輝くラクロワの華麗な衣装も鮮やかに引き立つのだろう。ストーリ―の内容に忠実ではあるのだが、こういったオリエントな民俗色の濃いデザインは、まさに民族衣装への造詣も深いラクロワの真骨頂である。

スワロフスキーのビーズに加え、羽毛やファー、レースやオーガンジー、刺繍のリボン、アラベスク模様のテキスタイルなど、あらゆる色とテクスチャーを豊富に織り交ぜ、組み合わせたデザインは、もはや画家のコラージュ技法に匹敵する芸術性を持ち、そして優雅さと可憐で軽快な明るさ、温かさを兼ね備えている。

さらにあくまで舞踏衣装としての動きやすさ、人間が動いたときにテクスチャーが見せる表情の美しさも計算され尽くしている。
これはボナリー選手のフィギュア衣装のデザインなどから培った部分もあるだろう。


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☆La Source - Opera National De Paris☆


実際に作られた衣装もさることながら、彼の軽やかな筆致で描かれたデザイン・スケッチも充分にその美しさと気品を伝え、オートクチュールの職人的達人ラクロワ・コレクションの一部を形成する。
『泉』のほか、オペラ『ペール・ギュント』、モリエールの『町人貴族』の衣装など、以下ご紹介するので、どうぞご堪能されたし。


まずは『泉』の衣装とラクロワのスケッチ。

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次は、コメディ・ フランセーズ グラン・パレ 2012年5-6月公演『ペール・ギュント』から衣装を着た俳優陣の写真。

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ペール・ギュントのエルヴェ・ピエールと母オーセのキャサリン・サミー

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花嫁イングリッドのアデリーヌ・デルミーとペール・ギュント

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魔王のセルジュ・バグダサリアンと魔王の娘のフローランス・ヴィアラ

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モロッコの四人の紳士

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ソルヴェイグの家族、彼女の両親と妹ヘルガ

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そしてモリエールの『町人貴族』からラクロワのスケッチ。

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ラクロワのデザイン・スケッチもその衣装に負けず劣らず、ゴージャスなコラージュ技法が駆使され、画家の作品と見紛うばかりとお感じになるのではないだろうか。

豊かな色彩感覚はゴージャスだが、実に軽やかで音楽的でもあるし、詩的でもある。
流れるような筆致は情感にあふれ、フランスらしいエスプリが効いた表現が柔らかなユーモアで画面を包んでいる。
哲学的な知性も感じさせるが、陰に落ちず、弾けたような明るさと遊び心が、光に充ちた生への喜びを伝えるのだ。

そういえば、バールがテオフィル・ゴーティエについて語った上智大学の講演で、ゴーティエは「もし自分がオペラ座のディレクターだったら、作家ではなく画家にバレエの台本を作らせる。」と言っていたというエピソードを紹介していた。
バレエには、文学的、演劇的な要素よりも音楽的な感性が大事とするゴーティエの考え方では、バレエをいかに「目に見える交響曲」としてダンサーが美しい形やPasで舞台を構成するかが重要視されるからだ。

ゴーティエが音楽を見えない絵画、絵画を見える音楽としてとらえ、バレエを音楽と絵画が融合した空間芸術として位置付けていたという、詩にも絵画や音楽にも精通した彼らしい感覚だと思うが、あらゆる芸術に、そもそも境目などないのだろう。

そう考えると、ラクロワのスケッチなどは充分、演劇やバレエの台本に匹敵する饒舌な内容を兼ね備えている気がする。

豊穣な泉のようにあふれる才能というものは、世界を明るくて温かな光で充たし、挑戦するひたむきなこころ、革新に向かう冒険心を育むものだと思う。


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悲しみのメゾン、存在の消えない美しさ 其の壱

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悲しみよ さようなら
悲しみよ こんにちは
お前は天井の筋の上にも書き込まれている
お前は恋人の目の中にも書き込まれている
お前はどんなときも惨めじゃない
どんな貧しい人でも微笑みながら
おまえの名を口にするのだから
悲しみよ こんにちは
愛しいのは体を重ねて確かめる愛
何よりも力強い愛
愛は突然 姿のない亡霊のように
あふれてくる
望みを失った
悲しみよ その美しい顔よ
(ポール・エリュアール『少ししかめつらの』)

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突然だが、久々にモードの話をしよう。


少し前の記事で取り上げたスルヤ・ボナリー選手の懐かしい名前とともに、まさきつねが偏愛するファッソン・デザイナーのことを思い出したからである。

ボナリー選手が競技生活の間中、身に付けていた衣装のほとんどをデザインしていたのがクリスチャン・ラクロワ(Christian Lacroix)である。

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ボナリー選手の衣装も、彼女の黒い滑らかな肌をまるで美しい天鵞絨のように魅せて、色鮮やかでデコラティヴなファッションが常に印象的だったが、ほかのデザイナーの追随を許さない、モード・テクニックと丹念なクチュールの繊細な仕上げがラクロワの真骨頂である。

以下、ファッションプレスからラクロワの略歴をまず紹介しよう。


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クリスチャン ラクロワ(Christian Lacroix)は1951年、フランスの南部アルルに生まれる。南部の文化(ジプシーの伝統・闘牛士)は装飾的なラクロワのスタイルに影響を与える。モ ンペリエ大学卒業。73年美術館の学芸員になるためにパリへ移り住む。そこでソルボンヌ大学、エコール・デュ・ルーブルを卒業。

未来の妻となるフランソワーズの勧めでファッションの道に進む。78年、エルメスに入社し、当初はアクセサリーのデザインを手掛ける。80年、ギ・ポランのアシスタントに就任。81年、ジャン パトゥのオートクチュールのチーフデザイナーに就任。

ジャン パトゥでの活躍が認められて、87年、CFDA(The Council of Fashion Designers of America)の最優秀外国人デザイナー賞を受賞。また同年、86年に発表したカクテルドレスのコレクションが認められ「デ・ドール賞」というオートク チュールの賞を受賞。

クリスチャン ディオールを傘下に抱えたアガッシュ(後にLVMHを買収)を率いるベルナール・アルノーにその才能を惚れ込まれ、出資を受けることになる。これがきっかけとなり、87年、自身の名を冠したブランド「クリス チャン ラクロワ」の設立にいたる。ベルナール・アルノーは「ラクロアのスケッチを見たとき、天才だと思った」と語っている。

87年、ベルナール・アルノーが、イヴ・サンローラン以来となるオートクチュールのメゾンをクリスチャン ラクロワのために開設。同年7月、オートクチュール・コレクションを発表し、「金の指貫き賞(デ・ドール賞)」を受賞。

87年、自身の名を冠にしたブランドでパリ・プレタポルテコレクションを発表。90年、初めての香水「セラヴィ」を発表。 94年に「バザール」、96年に「ジーンズ・ド・クリスチャン ラクロワ」をスタート。 2002年から2005年まで、エミリオ プッチのアーティスティック・ディレクターを務める。

クリスチャン・ラクロアのブランド自体は決して成功しているとは言えない。そのファッションは見るものを魅了し、ベルナール・アルノーも惚れ込んでいるが、ラクロアブランドはその投資に見合った売上を上げていない。

アルノーは「ラクロアを通じてクリスチャン ディオールやシャネルのようなブランドを1から築き上げていくのは難しく、偉大な才能だけではファッションブランドは成功しないことが分かりました。ブランドには伝統が必要なのです。」と語っている。

2005年、LVMHがラクロアを売却し、傘下から外れる。2008年、ミネラルウォーター「エビアン」の限定ボトルをデザインして話題となる。

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ラクロワの会社は1987年の設立以来、22年間1度も利益を出したことがなく、累計赤字の概算は1億5000億ユーロ(197億円)にのぼり、結局2009年に経営破綻して破産宣告を受けている。
要するにファッション・ビジネス家としてはまったくの無能であったということに尽きるのだが、その反面、デザインやファッション・クリエーションに一切の妥協をしなかった彼のデザイナーとしての姿勢は、いっそ潔いものだったと思う。

ゴルチエやガリアーノなど、現在も活躍中で彼同様に奇抜で才気あふれるデザイナーはほかにもいると思うが、ラクロワのオートクチュールはもっとも先駆的にアートの領域に達していた。
彼のプレタポルテもオートクチュール同様、身に付ける人間の強いアイデンティティを要求するが、ファッションが人の生き方に提言を与えるという衝撃は、彼以前のラグジュアリーブランドにはなかったものだったからだ。

民族的な特徴を重んじて、フォークロアの感覚を取り入れたのも彼が初めてで、ダサさやキモさの一歩手前でハイ・ファッションに昇華させたそのセンスの鋭さは、今なおほかのデザイナーに卓越している。

ボナリー選手の衣装を手がけたのもラクロワらしい嗅覚で、彼女の黒く燃え立つ炎のような美しさをきらきらしたクチュール・デザインで惹きたてたいと考えたのだろう。
氷上のランウェイを豪華な衣装でジャンプやスピンをしながら駆け抜けていくボナリー選手は、さながらラクロワが氷の上にばらまいた宝石といった風情だった。

ラクロワがアルベールビル五輪のためにデザインした衣装のスケッチが残っている。

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モンタナに始まるビッグ・ショルダーとマスキュランなスタイルが人気の時代だったからか、闘牛士をイメージした上半身の装飾が目を引くが、一方で下半身にはジャンプなどの動きを考えてか重量感のないシルエットで個性的にまとめているのが、いかにも巧い。派手な色彩であっても、決して下衆にならず、ボナリーの特長も生かしているのが、ラクロワの秀逸なセンスを感じさせるのだ。

ちなみにこの五輪のSP公式練習の間で、ボナリー選手が伊藤みどり選手のすぐ近くでバックフリップを跳び、ISUから注意を受けるというハプニングがあった。

今も昔も問題になる公式練習での妨害行為だが、試合のことで頭も身体もいっぱいになっている選手たち同士、多少のアクシデントは起きても仕方がない状況ということだろう。少なくとも、自国開催でいろいろ舞い上がっていただろう若いボナリー選手が、(絶対やってはいけないことではあるが)とんぼ返りをしてしまったのには、それほど伊藤選手へ直接の悪意や牽制の意味があったとは思えない。

伊藤選手のジャンプにあこがれてフィギュア・スケーターを目指したというボナリー選手の経緯からも、また、当時まだ根強い西洋人至上主義の風潮の中で、お互い人種差別的な採点傾向を嗅ぎ取っていただろう同胞意識からも、単にメダル欲しさだけでやみくもに威嚇行為に走ったとは考えられないからである(…とまさきつねは思うが、見解の相違はそれぞれなので、その旨ご理解されたし)。

なおボナリー選手は、1996-1997年シーズンまでフランス選手権では九連覇と国内では向かうところ敵なしだったけれど、実際の最盛期は1994年のリレハンメル五輪を挟んで、世界選手権で三度の銀メダルを獲得した頃だろう。

1993年のワールドは、誰もがそのバレエ的な演技力で評価するオクサナ・バイウル選手が芸術点で差をつけ、優勝をさらっていった。基礎的なスケーティング・スキルの差、表現力の差といわれればそれはその通りなのだが、それでも、その欠点を補うような力強いダイナミックさ、溌剌と弾むような躍動感はボナリー独特の演技表現だったし、さらに難度が高いジャンプ構成からすると、逆に技術点でバイウル選手にもっと差をつけても良かったのではという印象だった。

1994年のワールドは例の表彰台拒否事件が起こった大会だが、これも見解が分かれるところで、事実当時もジャッジの席字数は接戦だった。
今は概ね、その後の採点傾向の流れからも、金メダルになった佐藤選手の滑らかな滑りに軍配を上げる意見が大多数だろうが、当時開催国が違っていたら違う結果だったかも知れないことは充分考慮できる。つまりこの大会は両者の純粋な実力よりも、両者に吹いていた風向きと運が左右した気がする。

ただ確かにこの年、もうどうあがいても表現力で点数は望めないと思ったのか、ボナリー選手はとにかく三回転ジャンプを詰め込むだけ詰め込んだ構成に勝負をかけ、両足着氷や回転不足、お手つきといった細部のミスに加え、スケーティングの粗さとお座なりなトランジションがかなり目立つ演技になってしまっていた。
彼女の競技者としてのピークは実質過ぎていたのだろうし、リレハンメル五輪のメダリストたちが欠場している中で、今回だけは絶対優勝を逃したくないという焦りもあったかも知れない。

いずれにしてももっとも悔しい結果が、ボナリー選手をさらに孤立無援の状況に追いやる行動へ追いつめたのだから、あまりにもすべてが彼女にとって向かい風になっていたのは、同情に値する点がなきにしもあらずだろう。

そして翌1995年のワールドは、前年の選手権では足の骨折で途中棄権を余儀なくされていた陳露選手が、ショート三位からのフリー演技で、ショート四位のボナリー選手を振り切る形で優勝。
ボナリー選手は、五種類の三回転ジャンプを七回跳びほぼノーミス、しかもそのうち三回転ジャンプのコンビネーションを二回成功させて、驚異の追い上げを見せたのにも関わらず、今一歩及ばずという結果だった。

この頃には課題の表現力にも磨きをかけ、芸術点でも5.7以上が並ぶほど個性的な演技が円熟し始めていたのだが、時代がすでに彼女を見放していたのかも知れない。

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ここで唐突だが、以下、田村明子さんの著書『氷上の光と影 知られざるフィギュアスケート』から、ボナリー選手に関する解説を一部引用しよう。


*****

 元体操選手だったボナリーは、本来エッジを使って跳ぶジャンプの基礎を無視して、フラットなエッジの状態のまま跳ぶ。
 それでもちゃんと3回転空中で回って降りてくる彼女の運動能力に、ジャッジたちは舌を巻いていた。
 試合では成功していないが、4回転サルコウにも挑戦していたほどである。
「私にとって、3回転ジャンプなんて簡単なの」と言い切ったボナリーだが、毎回技術点は高いものの、演技点で著しく下げられた。
 そのボナリーが1994年に世界タイトルを争った相手が、佐藤有香だった。
 フリーでは佐藤が3回転を6回、ノーミスで降りた。
 ボナリーは3回転を7回やり、1度は片手をついたもののコンビネーションジャンプが3回入っていた。
 ジャンプの難易度としてはボナリーの方が上である。
 だが滑りの質は、比べ物にならないほど佐藤のほうが高かった。
 上半身がほとんど揺れずに、水の流れに浮かんで移動していくような佐藤のスケーティングと、膝を曲げたままガリガリと蹴って進んでいくボナリーの滑りは、実に対照的だった。
 それでも判定は接戦だった。
 9人のジャッジが5対4に割れ、佐藤有香が世界チャンピオンになった。
 ボナリーは表彰式で2位の台の上に上がることを拒否し、なだめられてようやく上がったが、首にかけられた銀メダルを泣きながらはずした。
「ほかの人と同じように滑っているつもりなのに、なぜ評価してもらえないのかわからない。 私が黒人だからなのかしら」
 記者会見でそう言ったボナリーは、おそらく本当に自分の滑りの欠点がわかっていなかったのではないだろうか。
 何人ものコーチにつきながらも長続きせず、結局スケートのコーチではない彼女の養母が指導していた。
 これもボナリーが関係者たちから非難された一因だった。
 彼女は世界選手権銀メダルを3回獲得しながらも、ついに世界チャンピオンにはなれなかった。
 その4年後の1998年長野五輪のフリー演技中、ボナリーは後方宙返りをしてみせた。
 ISU競技では禁止されているアクロバット技である。
 アマチュア最後の大会で、彼女がフィギュアスケートでは許されない技を見せつけたのは、象徴的なできごとだった。
 あれほどの運動能力を持ちながら、ボナリーは最後まで、「skater's skater」にはなれなかったのだ。

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田村さんの著書にある通り、フィギュア・ファン誰もが覚えている事件だが、1998年の長野五輪で、バックフリップの禁止技を自らの花道を飾るように披露して、ボナリー選手は競技者としての現役を引退した。

この五輪の一件は賛否両論というよりも、「あくまでも競技会の規定の中で、勝負して欲しかった」というNHKアナウンサーの場内実況が当時も今も大方の意見だろうと思うが、失敗続きのフリー演技の内容からもはや、表彰台はおろかエキシビションへの出場すら望めない自己の順位を得心したボナリー選手にとって、今の自分の精一杯を彼女なりに表現したのが、あのバックフリップだったのだろうという気がする。

彼女にとってもはや一番大事に思われたのは、自分の演技を何の偏見もなく、ただ純粋に賛美してくれる観客やファンであり、その証に彼女は演技の最後を採点をするジャッジに向かってではなく、拍手喝采する観客席に向けて締めくくった。

エキシビションでは許されるが「競技会ではやってはいけない」自分の得意技を、ジャッジにではなく、自分を応援してくれる家族や友人そしてファンや観衆に、最後の檜舞台で見せておきたかったのだろうと痛切に思う。

田村さんの記述では、ボナリー選手の悲運はあくまでも人種差別や偏見からの冷遇によるものではなく、彼女の基礎的なスケーティング・スキルの稚拙さと、彼女の養母らを始め周囲の人間関係での不協和音にあるという論調だが、それはどうしたって、公式の競技関係者が組織的なレイシズムや差別待遇を自ら認めるわけにはいかないだろうから、当然のことだろう。

だが、まさきつねはやはり多少なりともあの当時、ボナリー選手及び日本選手ら、人種的なマイノリティへの蔑視や偏向採点はあったと思う。

ボナリー選手がついに「世界チャンピオン」そして「skater's skater」とやらになれなかったという田村さんの突き放したような物言いこそ、どこか人間の本性に内在する冷酷さ、偏見を捨てきれない歪みを理解していないと思う。

(田村さんには申し訳ないが、さまざまな場所あらゆる場面において差別偏見がないというあたり障りのない意見、ましてや差別とか言う人間の方が差別的だなどという頓珍漢な反証は、まさきつねには「この学校にはいじめなんてありません」とか澄まして言っているどこかの教育関係者や「いじめられた方にも問題がある」などと平気で口にする人間と同等に思える。)

スター選手たちは一見華やかなスポットライトが当たる舞台にいるが、その反面、常に大衆からの悪意や中傷、妬みや当て擦りや冷笑に曝されているのだ。そしてスターといえど、か弱い個人の存在は、常に組織的な機構や権力的な体制に支配され、圧力を受けねばならぬ立場にあるのだ。

その状況は現在のフィギュア競技でも、まったく変わっていない。

テレビ番組「マツコ&有吉の怒り新党」ではボナリー選手の「もう(低い採点には)慣れたし、泣き疲れた」というコメントが紹介されていたが、今の日本の選手たちだってもう何度も、ボナリー選手と同じような忸怩たる思いを抱えてきただろう。

もういい加減、ジャッジは絶対だなどという神話は、教育は聖職だというのと同様、なんでも綺麗事で表層的に済ませておきたい人間たちの幻想にすぎないと誰もが気づいておいた方が好い。

この世の中には、絶対なものもなければ、正しいものばかりでもないのだ。

選手たちはとっくにそんなことに気づいていて、それでもけなげに、努力を惜しまず練習を重ね、応援してくれる人々のために冷たい氷の上に立ち続けている。

ボナリー選手の友人だったキャンデロロが、昔も今も、浅田選手の演技を心底愛する理由も分かるというものだろう。

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…とうとう今回も、ラクロワを離れてまたもやいつのまにかボナリー選手について、長々と語ってしまった。最近のまさきつねは、本題を離れて別の話に頭を突っ込み過ぎてしまう傾向がある(反省だニャ)。
今更ながらだがラクロワに戻って、彼の作品の独特な素晴らしさと、経営破綻後の彼の動向について語っておこう。

まず、ラクロワも参加の作品で皆さまにご紹介しておきたいのが、2003年のエディトリアルで若干古いのだけれど、ロシア出身のスーパー・モデル、ナタリア・ヴォディアノヴァと女性フォトグラファー、アニー・リーボヴィッツによる『不思議の国のアリス』の世界である。

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"Alice In Wonderland"

Photograper:Annie Leibovitz
Model:Natalia Vodianova
Magazine:US Vogue
Date:December 2003
Hair:Julien DY's
Makeup:Gucci Westman
Editor:Grace Coddington

Designers:
Olivier Theyskens
Tom Ford
Marc Jacobs
Karl Lagerfeld
Jean Paul Gaultier
Victor & Rolf
Stephen Jones
Christian Lacroix
John Galiano
Donatella Versace
Nicolas Ghesquiere
And Alexis Roches,Rupert Everett


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『Curious And Curiouser』
オリヴィエ・ティスケンスのドレスを着るアリスとルイス・キャロル演じるオリヴィエ

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『Down The Rabbit Hole』
トム・フォード(イヴ・サン=ローラン)の青いシルクサテンのドレスを着るアリスと白兎演じるトム

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『Drink Me』
ヘルムート・ラングのドレスを着るアリスと額の中の絵になってアリスを見つめるヘルムート

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『Advice From a Caterpillar』
マーク・ジェイコブスのシフォンミニドレスを着るアリスと芋虫を演じるマーク・ジェイコブス

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『Pig and Pepper』
カール・ラガーフェルド(シャネル)のサテンジャケットとスカート、レザーブーツパンツを着るアリスとラガーフェルド

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『The Cheshier Cat』
ジャン・ポール・ゴルチエの青いシルクジャージーのドレスを着るアリスとチェシャ猫演じるゴルチエ

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『Tweedledum and Tweedledee』
ヴィクター&ロルフのコートドレスを着るアリスとトウィードルダム&トウィードルディーを演じるヴィクター&ロルフ

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『The Mad Tea Party』
クリスチャン・ラクロワのドレスを着るアリスと帽子屋演じるステファン・ジョーンズ、三月ウサギ演じるラクロワ

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『Who Stole The Tarts?』
ジョン・ガリアーノのドレスを着るアリスとガリアーノ演じるハートの女王。ハートの王はガリアーノのボーイフレンド

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『The Mock Turtle's Story』
グリフォン演じるドナテラ・ヴェルサーチと、俳優ルパート・エヴェレットが演じる海ガメ

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『Through The Looking Glass』
ニコラ・ゲスキエールのミニドレスを着るアリスとアリスの愛猫ダイナ演じるニコラ・ゲスキエール


どれも、それぞれのデザイナーの個性を巧く生かした、豪華な写真だ。

撮影費用に糸目を付けず、贅の限りを尽くしたという作りだが、それだけでなく、写真家の卓抜したセンスや、モデルになった面々の何ともふてぶてしい強烈な個性に寄るところが大きいと思う。

(ちなみにフォトグラファーのアニ・リーボヴィッツは、このところちょこちょこと、まさきつねがブログに挟んできたザ・ビートルズに関連していて、ジョン・レノンが非業の最期を遂げた日、1980年12月8日の朝に彼の最後の公式写真となった、あの有名なローリング・ストーン誌のジャケットを撮影している。彼女の人生を振り返った映画もあったが、ドキュメンタリーとして生々しさがあり面白い。)

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☆アニー・リーボヴィッツ レンズの向こうの人生☆

この作品の中でも、気ちがい帽子屋(マッド・ハッター)の役を振り分けられたステファン・ジョーンズは天才的な帽子デザイナーで、頭に原作通りプライスカードを載せているのも洒落が効いている。
双子役のヴィクター&ロルフ、チェシャ猫にゴルチエ、女王にガリアーノというのも、これ以上のはまり役はないだろう。
ラガーフェルドは当初、白兎を提案されたそうだが、「私は私だ」と役に付くのを拒否された(さすがカールさま!)というエピソードもさもあらんというところだ。

こうしてみると、何もかもがさすがという話ではあるが、まさにモード界は個性派揃いの曲者ばかりということになるのだろう。しかしその作品も、各々全く違う傾向のデザインでありながら、全体の世界観が決してばらばらにならず、アリスのフォト・ストーリーとして成立している。
つまり各人の才能が、まったく異なる個性と表現をもっていながら、どれもが引けを取らず拮抗しているという証なのだ。

ラクロワのメゾンも憂き目を見たが、彼の才能が枯渇していない限り、何度だって「浮かぶ瀬もあれ」という気がする。

現に家具のデザインだの、シーバス・リーガルとのコラボだの、パリのブティック・ホテルの監修だのとますます活躍の場を広げ、そしてどれもが彼らしい独特の臭みと艶っぽさを充分に感じさせる極上の出来に仕上がっている。

事業で失敗したり、金の遣り繰りがうまくいかなかったり、結局はどこでもある話だ。
だが畢竟、芸術家は自分のクリエイトした作品、自分の才能ひとつが勝負であり、それだけが拠りどころなのだ。

彼のメゾンは倒産したが、彼の名前も作品も業界から決して消えることなく、その個性は健在で、パリの街中、東京、ミラノ、ロンドンとあらゆるファッション・シーンで今も輝きを放ち続けている。


スポーツ競技だって、自分の本業はさておいて、どんなマーケティング・ビジネスに走ろうが、政治に首を突っ込もうが、それは各人の勝手だが、観客は必ずその選手の生きざまも見ている。
その選手がどれほど死に物狂いで、競技に渾身を傾けてきたかそうでないかくらい、わかっている。

その演技の裏に隠された、選手たちの涙に暮れた人生、必死にもがいてきた朴訥な歩みを見透かしているのだ。

ボナリー選手が、「skater's skater」でなかったかそうでないか、彼女が当時闘った選手たちの誰よりも長く、地道で堅実なスケート人生を続けているという事実だけでも分かるというものだろう。

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『CHIVAS 12 Magnum by Christian Lacroix』
ラクロワによるシーバスリーガル、プレミアムボトル

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『SICIS NEXT ART “THEODORA”』
ベネツィアンモザイクブランド、シチスによる家具「NEXT ART(ネクスト・アート)」

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『Le Bellechasse ホテル、ル・ベルシャス』
(8 Rue Bellechasse Paris, France)Eiffel Tower/Musée D'Orsayの近く、34部屋



さて、最後に本文とは全く関連性がないが、読売新聞に浅田選手の独占インタビューが掲載されていたので、転載させていただく。
引退表明の報道から、これまで何となくファンが推察していたことが彼女の言葉になって、ソチへの抱負や心境がつづられている。


*****

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真央、ソチへ気持ち強く…「最高の演技に挑戦」
読売新聞 2013年4月20日11時09分


ソチ五輪が開かれる来季限りで現役を引退する意向を表明したフィギュアスケート女子の浅田真央(22)(中京大)が19日、読売新聞の単独インタビューに応じ、現在の心境と来季への抱負を語った。

――引退表明後に心境の変化はあったか。

「ソチ(五輪)に向けて、やる気も向かっていく気持ちも強くなった。ソチまで(そういう気持ちで)やるということを、皆さんに伝えられて良かった」

――「五輪の舞台で最高の演技をしたい」と語ったが、これまで最高の演技は。

「15歳の時にグランプリ(GP)ファイナルで優勝した時は『完璧だ』と思ったけど、今見返すと、滑りもスピンも完璧とはほど遠い。バンクーバー五輪のショートプログラム(SP)は良かった。滑りは年々向上しているので、最高の演技はまだしたことがない」

――どんな演技ができれば満足できるか。

「今取り組んでいる、トリプルアクセル(3回転半ジャンプ)と3回転―3回転の連続ジャンプを入れたレベルでミスなく滑れたら」

――他の誰も出来ない技に挑み続けている。

「(大技を)入れないで勝っても物足りなく感じたので、挑戦している。スケートは芸術性とスポーツ性、両方が必要で難しい。芸術面のほうがやっていて好きだけど、スポーツ選手として挑戦したい気持ちがあるので、トリプルアクセルをやらないと満足しない」

――ソチ五輪が開かれるロシアの印象は。

「何十回と訪れたので、第二のホームタウンみたい。ロシアでの五輪は、私に任せてという感じ」

――現役最後となる来季のプログラムの構想は。

「今季はSPもフリーも、すごく自分らしかったが、来季は違った感じの曲にしたい。SPはクラシックで、ショパンのような曲になると思う。フリーは、いろいろ探している最中」

――7月下旬のアイスショー「ザ・アイス2013」に出演する。

「新しいエキシビションをお披露目するので、皆さんの反応が楽しみ」
(聞き手・永井順子、若水浩)

***************


誰もが心配することだが、浅田選手は変わったのだろうか。
いや、彼女はこれまでも、これからも、その真っ直ぐな信念とフィギュア競技への情熱は変わらない。

さまざまな人生の紆余曲折の中で、気持ちが折れそうになったり、競技から離れたいと感じたり、誰もが思うような自暴自棄の感情だって時にいだいたこともあっただろう。生身の人間なら、それは当たり前だ。

理不尽な現実社会の仕打ちは、あどけない純粋な真央ちゃんですら、ただあっけらかんとしていられない、単純にこれとは割り切れない結果や選択を次々に突きつけ、幾度となく何故という疑問や、如何したらよいか分からない不審に涙を呑んだことだろう。

マスコミやアンチが無責任に垂れ流すうたい文句が煽るような、「彼女は終わった」とか「天才少女が平凡な選手になった」という情報操作は、彼らのいつもの常套手段とはいえ、真実から常にかけ離れた虚構がまことしやかに一般大衆の認識を誘導するのだから、たまったものではない。

実のところスポーツにも芸術にもさほど興味がない、自分の懐に入る収入の損得勘定が考えの中心でしかない大方の人たちにとって、マスコミの情報など面白おかしければそれでいい、よりドラマチックで悲劇的、不幸話であればあるほど蜜の味というのが、ごく普通のことなのだ。

一般大衆にとって、一握りの天才たちの去就などは日々の話題の消耗品でしかない。
いっとき、口の端にのぼり、次の日は忘れ去っても日々の暮らしに何の影響もないことだからだ。

だが天賦の才に恵まれたものは、何の因果か、自らの背負った運命に生身の人間であるこころが躍らされて、才能が与える幸福以上の失望に日々思い悩まねばならぬ。
自分が受け取る幸福以上に、周囲に人生の醍醐味と勝利の陶酔を分け与える天命を噛みしめねばならぬ。


ボナリー選手も浅田選手も、ジャンルは違うがラクロワもまた、自らの才能によって世を変革してゆく使命があった。
それゆえに彼らは天才と呼ばれたのだ。

彼らがその人生において、どうしようもなく冒したいくつかの過ちも、失敗も、その尊い挫折も決して、彼らの天与の資質を穢すものでもないし、その価値を失わせるものでもない。
美はわずかな瑕で損なわれるものではない。

悲しみと美しさに充ちた存在。
その挑戦の証と聖なる重み。


彼らが残した演技や作品を観ればわかる。


それが彼らの才能の一部であり、そしてすべてだ。


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「カワイイ」の定義

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かなりのご無沙汰で申し訳ない。

人間というのはどこまでも怠惰に慣れるものだとほとほと実感した。
つれづれ日記のような記事なのだから、グダグダと何かしら書いても別にかまわないのがブログというものなのだろうが、書けないとなるとどこまでも書けない。書きたいことが思いつかないのではなく、ただ文章としてまとまらず、結局思っていたこともいつしか頭の中から流れ去って、何処へか消え失せてしまっているだけなのだが、その程度の内容ならば書き留めるには及ばぬという風なことも、先人の物書きも言っていたような気がする。

今回も所詮書き留めるには及ばぬ内容なのかも知れないのだが、何とか文章にまとまりそうなので無沙汰のご挨拶代わりにエントリーしようと思う。

先日、旧知の友人が訪ねて来てくれたので久しぶりに自前ランチとお茶をともにして、雑談に耽った。
友人には三歳前の女子のお子さんがおり、その写真を前にまずはスタジオアリス企画のMaoMao衣装(洋装)の話題から。

友人もやはり紫の『愛の夢』衣装目当てで実物を見に写真館に足を運んだそうだが、それが大き目というか、七五三ならおそらく五歳児以上向けのものだったらしくて、唯一小さ目で用意出来ていたのが『カプリース』の衣装だったらしいのだが、「なんか違う。。。」というイメージだったようで今回は見送りにしたようだ。
確かに写真を見ても、浅田選手の『カプリース』の衣装にデザインは似せてあるものの印象がまったく別物で、わざわざ可愛い我が子に着せてみたいという食指のそそられる雰囲気ではない。ドレスではなく、コスチュームプレイという視点から見ても、ちょっと出来の悪さが苦笑を誘う一品のような気がするので、このたびの友人の選択はまあ妥当というところだろう。

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「可愛い」という概念は実に難しいもので、日本語の「カワイイ」はそのまま言葉として諸外国でも使われているように、日本人の繊細な感覚が選び出す可愛らしさの基準は、美しさや綺麗さ以上に複雑で、並みの国際的判断に当てはまらぬ範疇のものが多いのかも知れない。

よく引き合いに出されるのが『枕草子』の「うつくしきもの」について述べた151段の内容で、「小さくて愛おしいもの」に寄せる清少納言の思いは、まさに「カワイイ」の原点と言えるべきものだろう。
そしてネットで2007年の古い記事だが、「可愛いの定義」と検索すれば出てくる「可愛い論」のひとつを読んでみたので、とりあえず以下にご紹介しよう。

※※※※※※

【女性誌から「かわいい」とは何かを考えてみる】
http://taf5686.269g.net/article/3693885.html

 女性誌の最重要ワードといっても過言ではない「かわいい」。マーケティング的には「とりあえず かわいい要素を付けとけ」みたいな状況。 結果「かわいい」が溢れてしまい、その本質が見えにくくなっているのが現状です。この「kawaii」という言葉は海外からも注目を集めて いるのですが、日本人もいまいちよくわかっていませんし、 女性誌をあほみたいに読んでいる私も説明できません。
 いつか「かわいい」について考えてみたいと思って いたのですが、ちょっと前に本屋で『「かわいい」論 』という本を発見。「枕草子」や「かわいいを構成する要素」から「萌え」までいろんな切り口で「かわいい」を分析していて面白かったのだけど、7章の「メディア(女性誌)の中のかわいい」が特に興味深かったですね。
 せっかくなので、この機会に『「かわいい」論 』に言及しながら、「かわいい」を考えてみようかなと。では、文学的、言語学的、哲学的等のアプローチではなく女性誌的アプローチから考えをまとめてみたいと思います。
■「かわいい」は主観的
 「かわいい」とは主観的なものなので、 一般化することはできないよ、というお話。 当たり前と言ったら当たり前だけど・・・。
・CUTiE(原宿ガール)が描く「かわいい」
  「かわいい」とは男の子という他者の眼差しに応じたものではなく、どこまでも自分が自分に対して抱いている映像でなければならない。当然ながら、そこではセックス記事は排除されている。わたしとは選別された、希少な存在である。わたしが「かわいい」のは、わたしが群れから離れ、特権的な差異の中の住人だからだ。『「かわいい」論 』
 要は「モード、それは私だ」と言ったシャネル、 「朕は国家なり」と言ったルイ14世と似たようなものですね。 「かわいい、それは私だ」というナルシズムである、というのが著者の見解なのでしょう。ナルシズム と言ってしまうのは聞こえが悪いので言い換えると、 「かわいい」観というのは人それぞれで、 「かわいい」とは主観的な評価である、というところかなと。これは正しいと思います。
 原宿ガールについてはこんな説明も。
東京・原宿に集まる若者たち独特のファッション。どこか幼げな服装や足もとのボリューム、奇抜な髪の色など、マンガに描かれる少女たちのイメージ とも通じる美意識に、世界の注目が集まったのは1990年代のこと。マンガには、わかりやすさ、 幼児性、あるいはバッドテイスト、猥雑さが混在している『ファッションの世紀―共振する20世紀のファッションとアート 』

 原宿ガールの多くは個性的なファッションで目立とうという思惑より、「かわいい」と思って あのような服装をしているのですが、その美意識(かわいい)はマンガに通じるものが あるようです。こちらも「かわいい」というのは妄想というか、自分の中にある主観的評価という ことができると思います。
■「かわいい」は日本独自の概念
 「かわいい」と同じような概念に「ガーリー」、 「キュート」、「プリティ」などがありますが、どこが違うのでしょうか。
・JJ(コンサバ系・お姉系)が描くかわいい
「可愛い大人になりたい!」というのが、2004年11月号の特集である。「かわいい」がもはや平仮名でもローマ字でもなく、漢字で記されていることにまず留意しておこう。表紙にはこの特集タイトルを補足するように、 「姉の日VS妹の日 明日挑戦したいフェミニンな スタイル大特集」と註釈されている。 「フェミニン」であることと「可愛い」であることは、こうして同義のものとして併置されている。『「かわいい」論 』

 JJではなくCanCamを取り上げてほしかった・・・。ティーンズ誌では「かわいい」が平仮名やカタカナで記されている場合が多いのですが、赤文字雑誌 (CanCam、JJ、ViVi等)はだいたい漢字で表記されています。これは赤文字雑誌のテーマの1つに「ギャル系のファッションを卒業して、大人っぽい ファッションをすること」というのがあるからでしょうね。
 とりあえず、「可愛い」と「フェミニン」は同義で「可愛い」は「かわいい」を大人っぽくした表現なので、「大人化したかわいい=フェミニン」 言い換えると、「かわいい=子供化したフェミニン」というのがJJの捉え方かな。「子供化したフェミニン」とはファッション用語的にいうと、 「ガーリー」のことではないでしょうか。
ガーリーとは、少女らしい状態や、女性が惹かれるもの全般を俗に言う言葉である。ファッション・アート・ その人自身などを通して表現される。 1990年代中盤のアメリカで発祥した考え方。 「Fashion Blog」

 「ロマンティック」とも言い換えられることが多く、ジェシカ・シンプソンが「ガーリー」の体現者だそうです。
 なんか「かわいい」と「ガーリー」って似ていますね。でも「かわいい」は日本独自の概念とされており、 海外でもそう分析されています。
・海外(ル・フィガロ紙)からみた日本の「かわいい」
幼さや小ささを愛でるキュートでもなければ、ロリータ でもない。この形容詞は単にモノに使われるだけではなく、 考え方、話し方、振る舞いすべてに用いられ、ある意味で最高の誉め言葉だ。いとおしさを起こさせるさまざまな感情のすべてをひっくるめたものが「カワイイ」という表現。『東京・パリ・ニューヨーク ファッション都市論 』

 なるほど。「ガーリー」、「キュート」、「プリティ」になくて「かわいい」にあるもの。それは「いとおしさを起こさせる」という要素ではないでしょうか。 「ガーリー」、「キュート」、「プリティ」はポップで力強いイメージですが、「かわいい」には力強さがなく、むしろ弱々しく儚い感じがします。これがいとおしさを引き起こしているのかもしれません。
 では最後にギャルのいう「かわいい」に話を進めていきます。
■「かわいい」といえばギャル
 「かわいい」とはティーンズ中心の言葉で、ギャルがもっとも的確に「かわいい」というものを捉えていると思います。なんせ雑誌名にもなって いるくらいですし。ではその雑誌を見ていきましょうか。
・Cawaii!!(ギャル)が描く「かわいい」
『Cawaii!!』が読者に伝えたいメッセージはきわめて単純である。いかに「男の子」を惹きつけ、彼にナンパされるか、だ。 「かわいく」あることは、そのために女の子が心がけて おかなければならない必要条件である。『「かわいい」論 』

 要するに「男性を性的に惹きつける魅力」が「かわいい」ということでしょうか。 私が思うに、これは「かわいい」よりも「セクシー(≒エロ)」に近い概念じゃないかなと。ギャルの男性へのアプローチの基本は「男に媚びない」というもので、ギャルはそれを「カッコいい」と しています。つまり「男性を性的に惹きつける魅力(≒エロ)」はギャルにとって「かわいい」ものではなく「カッコいい」ものなのです。
 だからギャルの言う「かわいい」は「エロ」とは もっと別のところにあるような。「エロかわいい」なんて言葉があるけど、これは「エロ+かわいい」で生まれた言葉なので、「エロ」と「かわいい」は別の概念で あったと考えられますし。ではギャルの言う「かわいい」とは何でしょうか。
さて、そのギャルの原理の基盤は、「かわいい」にある。「かわいい」の定義はすでに述べた通り、 「幼稚で弱々しく、姿かたちが美しいもの」である。端的には、赤ん坊や子犬、子猫などがその対象となる。 子供がぬいぐるみをかわいがるように、ギャルたちが「かわいい」を連発するのは、彼女たちが幼児性を抱いているからである。『ギャルの構造 』

 ギャルのいう「かわいい」とは幼稚で弱々しく、 姿かたちが美しいもののことであり、ギャルそのものである、という指摘。そして『ギャルの構造 』では「幼稚で弱々しく、 姿かたちが美しいもの」とは何かについて、さらに突っ込んだ見解を述べいるのですが、それがこちら。
「幼稚で弱々しく、姿かたちが美しい」ものをつき つめていくと、「食べてしまいたいくらい、かわいい」という表現にいきつく。食品は、なんの抵抗もなく自分の中に取り込める。無抵抗で食べられるものこそ、 「かわいい」の権化なのである。もちろんその「かわいい」は、姿かたちが美しいものでなければならない。 『ギャルの構造 』

 言われてみれば、代表的なギャル雑誌のeggは卵でかわいらしい食べ物だし(ハンプティダンプティって かわいいでしょ?)、ピチレモン、ラブベリー、キャンディ(休刊)、メロン(休刊)、オリーブ(休刊)とかもそうです。なぜかティーンズのファッション誌には かわいい(ファンシーな)食品名が多いのですよ。だからこの見解には驚きました。
■まとめ
・自分の中にある主観的な評価である
・いとおしさを引き起こす(弱々しく儚い)
・幼児志向を示唆するテイスト
 今まで出てきたポイントをまとめるとこんなところかな。あと付け加えたいのが、2001年を境にかわいい キャラクターの代表(女性誌頻出)が ハローキティからプーさんに変わった(時代によってかわいいの基準が変わる)点と若い女の子はヤマンバギャルやキモカワなどいろいろな要素を「かわいい」と言える鋭敏な感性を持っている(おそらくその感性は若い女の子しか持っていないと思う)という点。
 それらも考慮にいれて自分なりに定義を考えてみると、
「かわいいとは幼稚で弱々しく、 姿かたちが美しいもので、 若い女性が時代の空気を自分自身の感受性に重ね共感できたもの」
 という感じでしょうか。家にある本からいろいろと引っ張ってきましたが、考えれば考えるほどわからなく なってくる「かわいい」。本当はCanCamの「モテ」と「かわいい」についても触れたかったのですが、これ以上、話が広がると収集がつかなくなるので それは次の機会にでも。では今回はこのへんで。

※※※※※


やはり2007年に書かれたということもあってか、「エロ」に関する記述など多少古い感覚は否めないが、まずまずまとまった論旨だと思う。だが時代はさらに移り変わって、「カワイイ」と評されるものの範疇はさらに拡散し、特に鋭敏な女性の感覚では、近年もっとさまざまなものが可愛らしさの概念に含まれてきたように感じる。

それはあるひとによっては、「女性は(ボキャブラリーの貧困から)何でもかんでもカワイイと言っているだけ」とか「カワイイと言っている自分をカワイイと自己陶酔して(あるいはそう見て欲しいから)言っているだけ」といった手厳しい意見になるようだが、それもあまりに一方的な見方で、中にはそうした女性たちもいるだろうが、多くの女性が押しなべて出鱈目に「カワイイ」を連呼している訳ではないとまさきつねは思う。

この夏、まさきつねはある物品欲しさにネットオークションに手を染め、そのなかなかの奥深さにひそかに感動したりしたのだが、実際に人間の物欲や所有欲をそそる微細な違いは、(無論コンディションの良し悪しや真贋といったデリケートな問題もあるがそうしたレベルの部分はさておいて)最終的には価格の高さ安さではなく、世事の好みに素早く反応していかにファッショナブルであるかに尽きるような気がする。
そして世事の好みというのが、これまたなかなか小憎いところがあって、「カワイイ」も「カッコイイ」も通り一遍ではなく、あらゆる人間の持つ美醜を受容する感覚や、知的情報量のキャパシティの違いに微妙に反応して、いわゆる人それぞれのハビトゥスを巧みに刺戟するものなのだけれど、そうしたラディカルな方向性で資本主義の提唱するグローバルスタンダードに対抗しつつも、一方で(オークションで言えば入札数の多さというような)メジャーな関心を惹きつける辺りが重要ということなのだと思う。

何だか小難しい説明になってしまったが、結局まさきつねは何が言いたいのかというと、「可愛い」という感覚は清少納言の時代なら「小さく愛おしい」、どこか生物学的な母性本能や守護本能を刺激するようなものたちが発散する無抵抗な弱々しさや幼児性への傾倒として、万人に共通して受け入れられるものと定義して構わなかったかもしれないのだが、万人のハビトゥスがこれほどに多様化してしまった現代においては、誰からも愛され誰からも受け入れられるという説明に収着してしまうだけではどうにも不充分で、「カワイイ」という言葉の持つ複雑かつ怪奇な一面をバッサリ切り捨てている側面があることは否めないのである。

先ほどご紹介した『可愛い論』でも終りの方に少し触れられていたけれども、「カワイイ」は「姿かたちが美しいもの」であることも大事だが、同時に「ヤマンバギャルやキモカワなどいろいろな要素を『かわいい』と言える鋭敏な感性を持っている」という点が重要なポイントであることは間違いあるまい。

つまり、姿かたちが愛らしくてあどけなく無防備なものに対しては、野性的な生き物の本能でも大事に守って育ててあげなくてはという衝動に駆られるだろう。
だが近代人の洗練された知性によって育まれたハビトゥスに従えば、外見は姿かたちが不細工で武骨きわまりなく、時にはいかつく戦闘的だったり、毒々しく醜く気持ち悪かったりするようなものに対しても、何か惹き付けられる要素や胸が痛くなるような切なさやときめきのような感情を抱くことも決してありえないことではないのである。

さて、そこで浅田選手の衣装の話に戻るが、タチアナコーチデザインということに敏感に反応しているある種の人たちもおられるのだろうけれど、「変衣装」というレッテルを貼って拒否反応を起こされているネットでの意見をたびたび見るのだが、これこそ「カワイイ」同様、「変」とか「キモイ」とか「絶望的」と決めつけられている部分がある種の魅力であったり特殊性であったり、キッチュで悪趣味でありつつもどこか他にない「あてなる」雰囲気を持っていたりするところなのであり、フリーク的な狂騒を呼び覚ますポイントなのだという気がする。

写真館の子供用に変換されたデザインはさすがにいただけなかったが、「骸骨」と揶揄された『カプリース』衣装のローズピンクと黒の配色などは、まさきつねなどには夜の闇に浮かぶ蛍光ピンクのネオンサインの朧な輝きを思わせて、アングラっぽい知的さと奇想天外で狂おしげなヴァイオリンの響きに縁どられたパガニーニらしい悪魔性と表裏一体のイメージで、これ以外に考えられないほど鮮烈に、脳裏に焼き付いている。

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「おばさん臭い」という意見も聞いた『鐘』や『仮面舞踏会』の衣装やどれもこれも否定的な意見ばかりが目立った『シュニトケのタンゴ』なども、単に「綺麗」とか「華やか」というだけでなく、どこかに奇怪さがあったり、ごてごてと装飾過多だったりした猥雑さが不思議な魅力になっていて、ほかの選手たちのいわゆるスタンダードな衣装と一線を画していたのだと思う。

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敢えて言っておくが別段まさきつねは、「何でもかんでも浅田選手のすることは素晴らしい」といったマヲタ的発想で、彼女の衣装を肯定している訳でも弁護している訳でもないのだ。

まさきつねは「カワイイ」も好きだし「カッコイイ」ものも大好きだ。
そして「カワイイ」や「カッコイイ」が(清少納言の時代ではないが)、現代の「うつくしきもの」の概念に重なってゆくには単純に、可愛いや格好良いでは駄目なのだということもわかっている。

奇異で得体の知れない不可思議さや気味悪さ、時には毒々しさや禍々しさやエロやグロをも内包した底の深い醍醐味、世界を疾走するようなドライブ感、アンチたちがネガキャンに使用するような否定的な言葉の部分さえも呑み込んだ「カワイイ」そして「カッコイイ」世界観、それを今季の浅田選手の演技や衣装にも期待しているのである。


…最後に文句なしに「可愛い」浅田選手の写真をご紹介。
「カワイイ」はまことに奥深い世界であることを実感。

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フィギュア286-3

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少女よ
橋のむこうに
何があるのでしょうね

私も いくつかの橋を
渡ってきました
いつも 心をときめかし
急いで かけて渡りました

あなたがいま渡るのは
あかるい青春の橋
そして あなたも
急いで渡るのでしょうか

むこう岸から聞える
あの呼び声にひかれて
(高田敏子『橋』)          


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異装のヤマトと多様なセクシャリティ

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女の子の可愛いファッションの話に続いて、こういう話題もどうかと思う部分もあるのだが、セクシャルな異装いわゆる女装について話をしたい。

先だって行われたFOIのアイス・ショー、こちらに昨年に続いてまたまた魅力的(?)なヤマト撫子が出現したらしい。そういえば先日のThe Iceでも小塚選手のお仕置き女装が出現していたが、フィギュア界では時ならぬ女装ブームが起こってでもいるのだろうか。
まあ、芸能界ではもう当然のようにどの番組でもオネエ芸能人たちが闊歩して、洒落たコメントを差し挟んでいるから、コミカルで楽しいイベントに女装は欠かせない要素になっているということだろう。

ところで、まさきつねが今回語りたいのは、もう少しジェンダーの問題に踏み込んだ女装なのだが、こうしたセクシュアリティの分野になるとどうしても個々の考え方や主義、そもそもの身体的性別は無論のこと性自認や性志向が関わってくるので、それぞれにいろんな受けとめ方や捉え方があることはご留意願いたい。

日本における女装の歴史に関しては2008年に三橋順子さんが書かれた『女装と日本人』という著作が、文化論としても社会学の面からしても非常に分かり易く面白い。

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三橋順子さんはお察しの通り、戸籍上は男性であり、日本における性別越境(トランスジェンダー)の社会・文化史研究家という肩書で大学教員として活躍をされている、いわゆる女装家である。『女装と日本人』は三橋さんが初めてご自身の研究蓄積を日本の文化通史としてまとめ上げ、その中で女装という視点から日本社会における性別意識の特性を指摘した独自のジェンダー論を展開した画期的な処女作だった。

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日本の古代史に始まり、現代の日本社会における女装コミュニティに至るまで、実に興味深い歴史的背景を裏付けにした日本の性別越境に対する抵抗感のなさや嫌悪感の少なさに着目しつつ、性的マイノリティに不寛容で特別なトランスジェンダー文化を育てることのなかった西洋社会との相違に踏み込んだのが、この著作の最も大きな功績だろう。

結論を言ってしまえば、父系原理のキリスト教的世界観の中にある西洋社会に対し、古来より性別越境の芸能や異性装者に強い嗜好や関心を持ち、双性性に魅力を見出す日本人のメンタリティに、「自分の生き方、自分の『性』のあり様、自分にとっての心地よい身体は、自分で決める」社会、つまり多様な性をお互いに認知し共存する開放的な社会を目指す可能性を求めるということのようだ。

確かにタブーや原罪意識の強い宗教観に沿って、性的マイノリティに対するあからさまな差別やホモフォビアのような暴力・殺人のヘイトクライム(憎悪犯罪)を伴う不寛容な態度を剥き出しにする欧米諸国に比較すると、歌舞伎の女形や宝塚の男装のようなトランスジェンダーの民俗芸能を育む土壌を培ってきた日本という国は、世界の中でも特殊なのだろうと思う。

とはいえ、奇しくも三橋さんも著書の終章で触れておられるが、世界に遍在する女装史の中でトランスジェンダーが果たしてきた役割は、「宗教性」「芸能性」「接客性」「性サービス性(セックスワーク)」「男女の仲介性」の五つでそれらが組み合わさって、多くのオネエタレントがメディア露出するような今日のジェンダー文化にまでつながってきたのだという。
だがそれは逆に考えれば、トランスジェンダーの社会的居場所がその五つに制限されていたということにほかならず、メディアもまたその制度的風習に則って、オネエタレントやニューハーフ芸能人を次々に消費しているだけであり、性別越境に寛容な大衆もあくまでバーチャルな世界の住人であるトランスジェンダーの「特殊性」を認知しているに過ぎず、これが一般のトランスジェンダーいわゆる隣の家の女装マニアや身内の同性愛者となるととたんに、「興味の対象」でも「カリスマ」でもなくなり、その存在自体を黙殺し不可視化するという否定的態度に手のひらを変えてしまうことは明らかだろう。

つまり、一部のトランスジェンダーによる文化がシスジェンダーの大衆に愛好され消費されてきた濃密な伝統が日本にあったからと言って、それが全てのトランスジェンダーそしてシスジェンダーの性的マイノリティにとって生き易い社会環境であるかどうかということは、全く別の次元の話なのだ。

宗教的戒律や法律によって厳格に同性愛を禁じる欧米に比べたら、衆道文化があり異性装にも否定的ではないからということが、すぐに全ての人がそれぞれの個性を尊重し合って、それぞれの求める性のかたちと幸せを追求する社会の実現に結びつけばそれに越したことはないだろうが、残念ながら実社会はそんなに甘くはない。
無論、三橋さんの研究や持論が内容的に優れて貴重なものであることに異論はない。
問題なのはこのような特殊な文化を興味津々で受けとめる側にあり、女装も同性愛も一緒くたにして一般的な大衆とは異なる次元の「非日常」の世界の中で消費し、認知しようとする囲い込みのような受容の仕方にある。そしてそれをもともと意図してか助長しているのが、マスコミによる偏向したジェンダー文化の煽動であり、メディアが作り上げる粗雑でお粗末な性的マイノリティたちのイメージであり、それによって大衆の前から排除され不可視化されてゆく現実の性的マイノリティたちの日常にほかならないのだ。

勿論、テレビや新聞雑誌のような視聴者や読者に迎合することによって成立する大衆メディアの性質上、多くのひとが直視を望まない多様な性の現実や実態をありのまま伝達する番組作りや報道といったものは、そもそも望めるべくもないのだろう。
マスコミの偏向性や歪曲された報道戦略に関しては、ここ近年のフィギュア競技報道を見てきた人間にとっては今更、繰り返すまでもない批判であることはお分かりと思う。

結局、対象がスポーツ競技者であろうと芸能人であろうと、性的マイノリティのタレントだろうと、マスメディアの扱いひとつ表現ひとつが何を基準にし、規範にし、それをどんな思想や考え方に迎合したり喧伝したりしようとしているかによって、いくらでも大衆の側の認識やイメージ操作を行い得るし、その危険性や責任をマスコミは果たしてどれほど自認し、番組作りや出演者の取り扱いに反映してきたか、そしてメディアに追従し再生産に加担する社会の意識の集合体が、そうしたマスコミの態度を洞察し批判し得てきたかについては、甚だ疑問な点がこれまでも、そしてこれからも大いにあるということは確かなのだろう。

正直な話、まさきつねは近年のテレビメディアにおける性的マイノリティタレントの積極的な登用やその活躍ぶりのクローズアップに関しては、彼らのアイデンティティに「きちんと配慮」して「好意的」に扱うことで彼らのようなマイノリティの存在に対する社会的認知につなげているというような陰徳ある側面よりも、彼らのような存在について自由にのびのび発言が許される世界という部分を強調することで、マイノリティに対する許容度がいかに高く、差別や偏見のない報道媒体なのだと印象付けようとしている姑息なマスコミの、プロパガンダのような一面が鼻についていかがわしくてならない。

別にそれだからといって、ゲイ・タレントと同等に扱えという訳ではないがレズビアンという存在のテレビ露出度の低さ、シスジェンダーの同性愛者に対する神経質な扱い、同じように性同一性障害という疾病に対する過剰反応、つまりこうした男性優位の社会原理を脅かすジェンダーたちの存在に対しては、マスコミの多くは冷淡か無反応に近く、彼らの社会的認知度を上げるという積極的な方向性は皆無に等しいということのようだ。

さて、女装の話題がえらく堅苦しい内容になってしまったが、念のため言っておくのだけれどもまさきつねは、女装という一種の異世界的演出に対して面白おかしがる一般的大衆の反応を思慮がないと否定している訳でも、失礼だと憤慨している訳でもないので、その点は誤解なさらぬように。そんな融通の利かない、杓子定規の道徳を振り回す堅物のような意見をお聞かせしたかった訳ではない。

まさきつねがここで語りたかったのは、常に何か美談的な話題を隠れ蓑にしてあざとく自己アピールはするくせに、物事の本質に迫ろうとしない弱体化したジャーナリズムの正体、そしてあいもかわらず、こうしたマスコミによって歪められ、誤った認識が増幅され続けている性的マイノリティやジェンダーの社会的課題についてである。

まさきつねはそもそも、異性装の問題は「男性の男装」「女性の女装」も含め、すべての人々の自由な自己表現、異装と個性という社会的なストラテジーの課題と根っこを同じにするのだと考えている。
話の取り留めがなくなって論の趣旨がぼやけてしまうので今回はほどほどにしておくが、学校現場で言えば不良や問題児の異装にしろ、女性の勝負服にしろ、男性の背広にネクタイにしろ、他者にどう見られるかあるいは見られたいかなど複雑な社会性との妥協や自己演出の技術など、さまざまな要素を孕んだ社会学の課題なのだ。

日本のマスコミの十把一絡げで偏重したオネエタレントたちの扱いは、こうしたナイーヴで繊細な人間のアイデンティティに関わる問題の本質をうやむやにし、かつ一方で「自分の居場所」を探し求める人々の平凡な日常を取り上げ、孤立化させた可能性があるとまさきつねは危惧する。

三橋さんが著作で述べておられるように、日本には(マスコミが煽っているようにここ最近でも何でもなく)昔からごく身近にトランスジェンダーや同性愛者たちが存在し、彼らは近代の精神医学や性科学が言説してきたような「異常」でも何でもなく、この世界には男も女もトランスジェンダーもシスジェンダーも、Xジェンダーも普通にいて、その誰もがほかの誰かと同じように、多様な出自、宗教、職業や生き方、考え方を認められながら、これからもほかの誰かの身近に普通に暮らしてゆくことが、ごく当たり前なのだと誰もが認識するような社会の実現が何よりも大事なのだ。

誰かが自分について、「自分はここにいていいのか」と問いかけなくてはならないような世界ほど、悲しいものはない。
自分は自分のままでここにいることが、誰からも祝福されてあるような世界をイメージしたいものだと思う。


記事の最後に、先日開催されたFOIの楽屋裏写真をご紹介しよう。
まずは集合写真から。ごく普通? な選手たちの変貌ぶりをお楽しみいただきたい。

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男子選手集合。

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もちょっと気取って。

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マンボ踊ります。

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高橋選手もどき?

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高橋選手と小塚選手。

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小塚選手?

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マンボ本気で踊ります。

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みんなでマンボ。

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…。

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こづくん何かふっきれた?

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行くとこまで行っちゃった?

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まだ甘いわよ。

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とことん行くわよ。

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ヤマト撫子見参。

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『道』の熱演。

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ご褒美? のちゅ~。

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…参りました。


この記事の冒頭にも書いたが、素晴らしいヤマト撫子が高橋選手の『道』で彼と共演したらしい。これも古代におけるヤマトタケルの女装の再来? …とすれば田村選手が降臨するのはいわばその名前の持つ宿命のようなものだろう。
しかし、古代のヤマトタケルはクマソタケルを見事討ち果たしたのだが、FOIの舞台では、どうやら高橋選手のみならず、小塚選手、羽生選手もその熱いヴェーゼでノックアウトされた…ということのようだ。

☆Daisuke&Yamakoの道☆


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いてはならないところにいるような
こころのやましさ
それは
いつ
どうして
僕のなかに宿ったのか
色あせた夕焼け雲のように
大都会の夕暮の電車の窓ごしに
僕はただ黙して見る
夕焼けた空
昏れ残る梢
灰色の建物の起伏

美しい影
醜いものの美しい影
(黒田三郎『夕焼け』)


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全然関係ないけどお口直し(ヤマトごめんニャ!)に真央ちゃん。


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普段着の彼女

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今回もファッションの話題であるが、フィギュア競技からさらに離れて、浅田選手の私服ショット写真のご紹介と、女の子のおしゃれについて軽いお話をしよう。

まさきつね自身はさほどおしゃれな訳ではないが、母親の副業が洋裁師だったこともあって物心ついたころから、『MODE et MODE』というファッション雑誌の最後に掲載されていた服のパターン(原型)を終日眺めて過ごすなど、おしゃれに関心だけは持っていた。
ただし、『MODE et MODE』という雑誌の傾向上、その多くがパリやミラノのオートクチュールといった、とんでもなく昭和の日本の日常からかけ離れた世界視野の流行やファッション情報に即していて、今から思うと雑誌に載っていたデザインのほとんどが、いわゆる日本の若い女性がそのまま着こなすとなると当時からすればかなり宇宙服的な感覚だろうというものばっかりだったというのも笑い話ではある。

と言っても、まだその頃には『an・an』や『non-no』も発刊されて間もない時分で、女性ファッションのトレンドが雑誌から発信され、めまぐるしく移り変わるファッション業界の流行を牽引してゆくという現象が生まれ始めたばかりだったから、まだどの雑誌も試行錯誤の途中で、日本発のファッションも萌芽するかしないかという様相だった。
つまりはまだ、日本の流行発信と言っても欧米の『ELLE』や『VOGUE』を真似たり、その中の情報を紹介したりという段階だったから、小学生がパリの最新モードでおしゃれに心酔するのも、その頃の田舎の女子大生が『an・an』や『non-no』で東京ファッションってこんなものかとうつつを抜かすのも、さほど大きな変わりはないレベルではなかったのかという気がする。

ところで「おしゃれの定義」というものを聞かれたら、これほど難しい質問もないだろう。結局ひとにはそれぞれ事情があり、好みがあり、個人の主観によって揺れ動く分野では、なかなかこれと言い切ることが出来ない概念であることは確かなのだ。

テレビのバラエティー番組で、嵐のメンバーやお笑い芸人や俳優たちがそれぞれ選んだ服を着たマネキンになって、おしゃれを自称している女性タレントやモデルたちに評価してもらうというコーナーがあったが、着ている側もどれもさほど変わり映えしない気がする中、選ぶ側の理由も曖昧だったり人それぞれ違っていたりで、最後に残ったいわゆるおしゃれじゃないセンスもそこまで晒し者にされなくてはいけないほど悪くはなかったりするから、実に繊細で難しいものだなあと思う。

一応、毎度のおしゃれ女性タレントたちのコメントを総合してみるに、まずはTPOやファッションテーマを配慮しているかということと、服や小物を自分のものとして着こなしているか(服に「着られて」いないか)ということが大きなポイントのようだ。

たとえば海や川へ行くのに革靴を履くとか、白がテーマなのにベージュを着るとかいった勘違い、あるいは自分とシンクロしていない突飛なデザインや帽子やスカーフといった小物を無理して使うという微妙な選択が、おしゃれ女性たちの鋭い勘に引っかかりあえなく自爆というケースである。
しかしここまで徹底して粗探しをされると、どんなおしゃれをしても何かどこかケチをつけようと思えばつけられるだろうから、よほど世の中のスタイリストたちはピリピリとした感覚でタレントたちの頭から爪の先までチェックしなければならないのだろうなと感心する。
とはいえ、一般の彼氏にそこまで隙がなく着こなされたら逆に、女の子の側の肩が凝って普通に付き合えないだろうと感じたりもするので、おしゃれというのも全く気を配らないのも困るが、あんまり鼻につくような気取ったものもいわゆる気障な印象を与えるのだろうと思う。

まさきつねがもうひとつ、おしゃれを考える上で気になるのは、自分が身につけないものや興味がないものに関して、そうしたものをおしゃれ云々という以前に排除してしまう感覚である。

確かに、現在のまさきつねの母などもそうなのだが車椅子生活などをしている人など、靴でおしゃれが出来ない人間にハイヒールやサボやブーツなどの話を持ちかけても、「自分が履けないからそんなものに目がゆきません」と素っ気ない反応が返ってきても仕方ないのかという場合はある。
おしゃれというのは、個人の身体的コンプレックスに関わる部分に抵触することがままあるので、それに配慮がないとセンスの良し悪し以前に、相手の感情を傷つけることも多くこの辺りも話題にする際には難しい部分だろう。

だが本来おしゃれに関心がある人間にとっては、たとえ自分が身につけられないものや関係のないものであっても、それが興味の対象であることは当然のことなのであり、まさきつねの母などは実際に自分が絶対に着ないだろう夜会服だろうが、男物だろうが、靴や帽子だろうが、バッグやアクセサリーの小物デザインに至るまで、年をとっても雑誌の切り抜きを見ながらこれは良いとかこれは野暮ったいとか、ぶつぶつと感想を洩らしている。

服飾デザインはそもそも大衆文化や娯楽の一環として扱われ、商業ベースに乗った売り込みも盛んなことから、芸術どころかサブ・カルチャーやあるいはサブ・カルチャーでさえない瞬発的な風俗として見なされることの多い分野ではあるのだが、個人の趣味嗜好は無論のことその主義主張さえ直截に反映するという一面からしても、その時代を生きる人間の位相や社会現象を読み取る、最も的確なカルチュラル・スタディーズの研究対象であることは間違いないのだ。

まさきつねは平成に入って、アンダーグラウンド系の音楽シーンや文学畑から台頭してきた日本独特のロリータ・ファッションにもかなり注目していたが、ここ近年になって、さらに幻想的でゆるいレトロ感を前面に出した「森ガール」が出現したときは、日本発信のオートクチュールの在り方を見せつけられた驚きで少なからず感動した。

「森にいそうな女の子」とか「森の番人みたいな可愛い子」というのは何とも抽象的なイメージの表現ではあるが、こうした詩的な言葉の感覚や手作りの自然派という、懐古趣味の文化回帰から新しいポップ・カルチャーが生まれるのだという辺りが、日本の伝統文化的な奥深さや精神的な晦渋性を垣間見せた気がしたのだ。

まさきつねは別にロリータ・ファッションや森ガールを特段推奨する訳ではないのだが、アニメやコミックなどの日本発祥のオタク文化とともにこうした実に日本的な発想から生み出されたファッションブームが世界を席捲してゆくようになった時代性には感慨深いものがある。
高等遊民的なブルジョワ趣味を模擬したようなロリータ・ファッションにしても、自然志向を押し出す森ガールにしても、どこかハイ・カルチャーの選民意識の強い貴族的な知識、教養を揶揄するような側面を感じるが、現代アートが20世紀になって、メディアの発達や複製技術の進化による大量生産が可能になるに従い、ハイ・カルチャーの大衆文化化を邁進したのとは逆に、一過性のブームに終わる印象が強かったファッションが個人の思想性や哲学を反映してハイ・カルチャーを凌駕する社会現象を生むように至った文化的な重要度の高まりが、実にポスト・モダン的な流れで興味深く感じるのだ。

さて、とまれ軽い話をするつもりだったのだが、何やら小難しい方向になってきたのでここら辺りでやめておくけれども、ここ数年日本のファッション・シーンが多様化し、パリやミラノ、ロンドンやNYのオートクチュールやプレタコレクションまで受容しつつも、アジアの中でも特殊な日本的伝統や文化に基づいたデザインや流行を発信していることは確かなのだ。

(断っておくがまさきつねは、よくネット内で誰それのフィギュア衣装はダメだとか、下品だとか、私服がダサイだとかわざわざ言い募って、スポーツ競技以外の部分でも選手のネガキャンを繰り広げる輩のような悪趣味はない。
まさきつねにとって、フィギュア選手に限らず、誰か個人がおしゃれであるとかそうでないとかなど、全く関心の範疇にない。
ファッションはあくまで時代を映し出す鏡であったり、世の中の流れを見る切り口であったりするから面白いので、個人のおしゃれ度がほかの誰かに比べて多少高かろうが低かろうが、それはあくまでそれぞれの生き方の問題だ。
言ってみれば、何を着ていようとそれを身につけた本人が自己に充足して幸せであるならば、他人から見てそれがダサかろうが絶望的であろうが余計なお世話というものだ。ましてや主観的な感想を基準にして、誰かを愚弄して興じるなど、外見がおしゃれかどうか以前に、評する側の内面的な人間性が問われるべき問題だろう。)

悪質なネットユーザー発言への苦言もこの辺にして、浅田選手の画像紹介に移ろう。

とびきりおしゃれとか、垢抜けたセンスとは言えないだろうが、むしろその時々の彼女の年齢相応に自然体のファッション感覚だとまさきつねは思う。
時に背伸びしてみせたり、姉の舞選手に合わせてみたり、マニッシュに決めたり、ゆるふわのお嬢さま風に抑えたり、ごく普通の女の子らしくいろいろな自分を楽しんでいる。突っ込みどころは山ほどあるのかも知れないが、素人感覚のおしゃれだからこそ、日常の彼女の素顔が見えてファンはほっとするのだ。

おしゃれは畢竟、自分自身の顕現でしかない。
気取らない、あどけない、自分に素直で無理をしない、等身大の彼女の今が見えている表現や着こなしならそれでいい、それで充分なのだと思う。

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グレーのウールワンピース

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フォーマルは白いフェイクファーボレロ

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ブルーストライプのシャツ

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オフホワイトの綿パーカー

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フォークロワの刺繍入りチュニックドレス

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黒サテンのフォーマルドレス

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段フリルスカートとドットトップスの春らしいコーディネート

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オリンパスのCMからピンクのローブデコルテワンピース

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ニットのポンチョ風トップスにロングスカーフを二重に巻いて

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赤の薄物ニットに白いスカーフ

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緑の花柄シフォンワンピース

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黒のパーカー

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ガーリーなワンピース

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ロンドンファッション風タータンチェック

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ボーダーのニットトップスでバラエティー番組に出演

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縞のリボンが付いた白いキャスケット

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ヴィヴィアン・タムのワンピースで園遊会

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濃いピンクのパーカー

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黒のチュールレースとパフスリーブのワンピース

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ロシア風ファッションでコサックダンス

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外は寒いのでダウンコート

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防寒は完璧

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パンダファッション

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ラフなカジュアルニット

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ファー付パーカー

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チュニックとドルマンボレロのトップスにハーフデニム

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色鮮やかなシフォンチュニック



1 春
野ゆき山ゆき海辺ゆき
眞ひるの丘べ花を籍き
つぶら瞳の君ゆゑに
うれひは青し空よりも。

2 夏
蔭おほき林をたどり
夢ふかきみ瞳を戀ひ
なやましき眞晝の丘べ
さしぐまる、赤き花にも。

3 秋
君が瞳はつぶらにて
君が心は知りがたし
君をはなれて唯ひとり
月夜の海に石を投ぐ。

4 冬
君は夜な夜な毛絲あむ
銀の編み棒にあむ絲は
かぐろなる絲あかき絲
そのラムプ敷き誰がものぞ。
(佐藤春夫『少年の日』)


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