月船書林

フィギュアスケートの話題を中心に芸術を語る

織田選手の演技

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人生は近くで見ると悲劇だが、
遠くから見れば喜劇である。(チャーリー・チャップリン)

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織田選手にはいつも驚かされる。

数いる日本の選手たちの中でも、見た目も決して派手でなく、彼の家系から鑑みてもむしろ控えめに一歩下がった発言の多い彼ではあるが、なぜかいつも、とんでもなく驚きのニュースに載るのだから、やはり持って生まれた宿命なのかなと首を傾げてしまう。

とりあえずはしかし、エールの気持ちを込めて、冒頭のチャップリンの名言を贈っておこう。ただ、今回のおめでたいニュースは、近くで見ても「喜劇(ハッピーエンド)」の慶事なので、その点は特記する。


私生活のニュースはさておき、本題である。
まずはジャンプを始めとする織田選手の技術力。モロゾフコーチは「マイナスを付けるところがない」と言ったが、まさにオールマイティーだ。重力を感じさせないジャンプの軽やかさ、無理なく伸びやかなスケーティング。
だが、「それで?」と言われると唸ってしまう。
出来すぎなくらい完成されている反面、個性は? 魅力は? と問われると、彼らしさを上手く表現し得る言葉に詰まる。演技の灰汁の無さは、日本史史上最も灰汁の強いキャラクターと思われる彼のご先祖さまに、どこでどう繋がるのか。
(ご先祖さまがばっさり切って棄てたホトトギスを、可哀想にと泣きながら木陰に埋めてやっている織田選手の姿しか思い浮かばない。…言いすぎだニャン。)

演技の灰汁の強さ、臭味と言えば、良くも悪くも高橋選手。自分にないものを全て持っていると、お互い認識している部分はあるのだろうが、高橋選手の長所と織田選手の長所は、合わせ鏡のように真逆の要素をもっているようだ。

体格体型も違い、筋肉の付き方もまるで異なっているのだから、演技やジャンプの持ち味が違うのも当然なのだろう。柔らかい膝を使った着氷の綺麗さ、回転不足によるDGがまずないくらいの完成度、セカンドジャンプのクォリティなどは織田選手のジャンプに良く言われる特徴だが、着氷後に回りすぎて締まりなく見えたり、空中姿勢があまり美しくなかったりという若干の欠点が見え隠れする。

高橋選手の方は空中姿勢の軸が締まって美しく、ジャンプの幅があるのだが、着氷後の流れが途切れたり、セカンドジャンプで極端に質が落ちたりという短所がある。

トータルとして、得意な連続した動きを生かしたコンビネーションジャンプの巧さや、柔軟な膝や関節のために転倒しにくいという特性が、採点上の有利性も含め、織田選手の側にジャンプ優位の印象を与えているようだ。

スピンについては、形のバリエーションも豊富な織田選手に軍配を上げたいところだが、肝心のレベル獲りにうまくいかない部分がある。同様にステップについても、高橋選手に今一歩及ばないのが、二選手のPCSによく現れている。

この差が畢竟、明瞭に示されたのが、五輪シーズンの二人のFSすなわち高橋選手の『道』の道化と、『チャップリン・メドレー』のチャップリンだったのだと思う。

高橋選手の演技については以前の記事で書いたが、情緒に充ちた表現力という点において、彼の力量とオーラは世界的に見てもずば抜けている。取り澄ました貴種ではなく、市井に堕ちながら「見られる」歓びに目覚めたエンターテイナー魂が、彼の演じる道化に、バロック的な陰影と同時にキュートな魅力を与えるのだ。まさに天才としか言いようがない。

織田選手の方はどうかと言えば、彼のチャップリンはあまりにも表層的過ぎた。
そう、有体に言えば、心的に薄っぺらいのだ。

チャップリンはご存知のとおり、「喜劇王」の異名を持つ世界に名立たるコメディアンであるが、コメディアンの道だけを極めた訳ではない。
彼は単純に肩書きを数えただけでも、映画俳優、映画監督、脚本家、映画プロデューサーといくつもの顔を持つ。彼の幼少期の悲惨な体験は勿論、彼の作品のいくつかに反映しているが、社会的弱者(プロレタリア)の立場から資本主義を批判する反骨精神と、反ナチズムやアナーキーな権力への風刺精神は、彼の本質理解に忘れてはならない部分である。
また作品制作に妥協を許さず、完璧主義者の一面も持ち、音楽家としての夢も捨てきれないという理想主義者でもあったという複雑な内面性が、チャップリンの実像なのだ。

織田選手のチャップリンは、おそらく彼がかつて『スーパーマリオブラザーズ』を演じ、『ルースター』をパジャマ姿で演じた、諧謔趣味的な戯画路線の延長線上にあるのだろうと思われる。しかし、彼が模してみせた「小さな放浪者=The Little Tramp」には、だぶだぶズボンとよれよれ背広なる外見的特徴と滑稽動作、若干のヒューマニズムに通じる笑いみたいなものは感じられたが、貧困階層の怒りや放浪者の悲しみという深い精神性は伝わってこなかった。

それはモロゾフコーチのコレオに元々そういったニュアンスの解釈が含まれていなかったのか、それとも演じた織田選手の楽曲解釈が浅薄なところに留まったためか、おそらくはその両方ではなかったかと思う。

しかしそれも、今にしてみても致し方ないと納得せざるを得ないのは、織田選手自身にある気質的特性、良くも悪くも性格によるのだろうと考える。

冒頭にも述べたが、彼自身がこれまでに仕出かして来た何度かの未熟な失敗(責めている訳ではないので「大呆けポカポンタス」と呼ばせていただくが)、そのつど涙を流し、大いに自己反省はするのだが、そこにはなぜか常に、内観がないのだ。自分に対する疑問符がないのだ。
「涙くんさよなら」と言って、後悔し自戒はするのだが、結局「大呆けポカポンタス」の自己を許してしまっているのだ。

ある意味で、彼は彼のご先祖さまを超える大物である。なぜなら、この自己許容性こそが、彼の負けず嫌いの本性であり、全く資質の異なる高橋選手と切磋琢磨しながらトップ・アスリートの座を競い合えて来た要因に他ならないだろうと思うからである。

自分にないものを持つ相手に対して、ミメーシスの誘惑に囚われることなく相手の長所を認め、一方で自己を失わずに、今自分の持てるものを大事にするというのは、言葉で言うほど簡単に出来ることではない。
織田選手は、今の自分の長所を最大限生かしてくれるであろうという観測で、モロゾフコーチに師事し、モロゾフはそれに応えて、四回転の自重を促しながら四回転に頼らぬプログラムに自信を深めさせ、そして五輪対策としてごく記号的にSPで「死の使者」、FSで「喜劇王」というキャラクターを演じさせるという突貫的な戦略をとったのではなかったかと推察する。
もっとも、こうしたモロゾフの目論見が最良の結果をもたらしたか否かについては、皆さまの知るところであろう。

まさきつねは『チャップリン』のプログラムに関しては、上滑りで奥行きのない「喜劇王」の皮相的解釈に対し否定的にならざるを得ないのだが、『死の舞踏』の最後の審判を告げる冷酷な「使者」の方は、(この作品が成功していたかどうかは別にして、)こうした抽象的記号的なキャラクター解釈の方向性を、織田選手の演技表現法としてある程度評価できるのではないかと考えている。

織田選手のジャンプやスピン、ステップといったフィギュア・エレメンツの完成度の高さは文頭に述べた。そして表現力の質として、高橋選手のように、情感でアリーナの空気を巻き込む才覚は持ち合わせていない。だが感情表現の巧拙だけが、表現力の力量を計るモジュールではないのだ。

芸術表現といえばロマンティックでセンティメンタルな傾向を思い浮かべがちだが、むしろ逆に、クールでモダンな機能性や理論性を追求するねらいを、まさきつねは織田選手に思い描く。

すなわち、織田選手のひとつひとつのエレメンツ技能を存分に観衆に味わってもらうために、情動に訴える部分をいっそのこと極力斬り捨てて、抽象的なキャラクター設定に自らを留め、機能的な作用として楽曲を扱うこと、いわばフィギュア表現におけるモダニズムというべき手法を練るということである。

楽曲表現を生かすためのエレメンツではなく、エレメンツを生かすための楽曲として、曲の持つ物語性、キャラクター設定をべたで丸々いただき、新たな解釈や内面的掘り下げは無理に行わない。その代わり徹底して、曲の持つ芸術性やキャラクターの特異性にあったエレメンツの完成度、見栄えの美しさ、正確さに拘るのである。

いびつでとっぴな提案に思われるだろうか。まあ、あくまでも素人の考えるひとつの方向性である。

お分かりにくいようなら、具体的に述べよう。
例えばこの提案に即して、まさきつねが織田選手に推奨するナンバーがドビュッシーの『牧神の午後への前奏曲』である。
こういった曲は、ウィアー選手などが演じるとあまりにも別世界に行ってしまう(汗)危険性があると思うのだが、織田選手の(本質は知らないが)草食男子的風貌が、極端なエロティシズムに走らせず、作品にアルカイックな清潔感をもたらすような気がする。

そしてもうひとつ、モーッアルトの『魔笛』から「鳥刺しパパゲーノ」などもおもしろいのではないだろうか。
織田選手の『セビリアの理髪師』はとても洗練されたナンバーだった。それからすると、パパゲーノは少し色物ではあるが、愛らしく印象的なキャラクターであることはまちがいない。
(このように考えれば、「チャップリン」もメドレーであったから狙いがぼやけた訳で、例えば『モダン・タイムス』の機械化文明のペーソスに焦点を絞ったコレオだったりすれば、また違う評価が出来たかも知れない。)


以上、やや法外な提案と極端な意見に終わってしまった感があるが、皆さまのご感想お聞かせいただきたい。


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初めまして まさきつねさん。スミマセン、えらく長文になってしまい、3通に分けました。お許しください。

なかなかスケートの本質についていじって貰えない織田選手の事をこれだけ詳しく検証して頂いて、何だかうれしくなりました。

私は、ビールマン選手のビールマンスピンをリアルタイムで見ていたオールドファンです。最近ではめっきり美声をお聞きする事のなくなった五十嵐文男さんの現役時代も知っております。まだ子供だったのですが、彼の演技を見てフィギュアスケートのファンになった様に記憶しています。
長くファンを続けていますので、1人のスケーターに入れ込むのではなく、外国も含めてフィギュア全体のファンという感じです。(ま、強いて言えば美姫ちゃんにちびっとだけ肩入れしてますが・・・)
2010/5/1(土) 午前 4:04 [ イナバウアーの白兎 ]

その、子供の頃に見た五十嵐選手のスケートと、織田選手のスケートは、私の中では妙に重なるのです。勿論、小さかったので、五十嵐さんの記憶は確かなものではありません。しかし、織田選手のサラッとした軽さ、スマートさ、そして丁寧さ(失礼ながら、これはむしろ必要でない所で目に付いてしまう・・・いや、そこは勢いだろ!みたいな・・・)は、初めてフィギュアスケートなるものを目にした子供が自然に取り付かれるフィギュアスケートの魅力の基本中の基本の部分を持っている、と私は感じています。

まさきつねさん同様、私も『セビリアの理髪師』は大好きなナンバーでした。でも、1番好きだったのは『FLY ME TO THE MOON』かな? 彼は案外ジャズが似合うんだなぁ・・・ってうれしい発見のあったプログラムでした。きっと織田選手のサラッとした軽さとリンクしたんでしょうね。 クラシックならモーツァルトかシューマン、キャラクターならピンクパンサーが私のお勧めです。
2010/5/1(土) 午前 4:05 [ イナバウアーの白兎 ]

PCSの面でいうと、昨今のフィギュアスケートはロシア式と北米式が完全に分離独立し、勢力を争っているように感じます。前者は芸術を追及し、後者はエンターテイメントを追及し、もはやお互いが譲り合い、協調する事はもう無いでしょう。今季の浅田選手とキム選手の結果がそれを露呈してしまいました。

私は、織田選手は北米式の方が合っている様に見えます。だから新コーチのニュースも好意的に受け止めました。
でもね、織田君!(←あえて君付け)次のオリンピックは“ソチ”なのよ! しかもバンクーバーでロシア勢がことごとく辛酸を舐めさせられた次のオリンピックなのよ!・・・こーいうところがロスのリンクの壁に“何でやねん!”(いや、コンビネーションだったので“そんな訳ないやろ!”に訂正・・・)のツッコミを入れた、筆者の言う「大呆けポカポンタス」たる所以なんでしょうね。ま、憎めないんですけどね・・・
2010/5/1(土) 午前 4:05 [ イナバウアーの白兎 ]

イナバウアーの白兎さま
初めまして。コメントといろいろな情報ありがとうございます。まさきつねは五十嵐さんはさすがにおぼろな記憶ですが、ビールマンには驚いて観ていました。
五十嵐さんの頃は、フィギュアが氷上の社交ダンス的なニュアンスが強かったのかなと思いますが、どうだったでしょうか。丁寧に礼儀正しく滑り、規定どおり正確にエレメンツをこなすというイメージがあります。(今も同じ? そりゃ基本はそうですよね。)
ピンクパンサーはバーケルコーチなら候補に挙がってくるかも知れませんね。しかし仰るとおり、ソチを目指して何でカナダのコーチ?…まあ、直前に鞍替えという手もありますけどねえ…やっぱり、愛すべきポカポンタスですよね。
2010/5/1(土) 午前 9:07 [ まさきつね ]

(続き)
ビールマンといえば、ビットと争ったNHK杯を覚えているのですが、力でねじ伏せるみたいなビットに対し、柔らかく優雅なジャンプを決めていたビールマンの印象があります。
ビットも確かに美しく偉大な選手でしたが、純粋な競技としての質をより高めたのは、ビールマンや伊藤みどりさんだったように思います。
でも今みたいに、あからさまな数尻あわせみたいなことはなかったですから、オールドファンとしてはやはりいろいろ嘆きたくなりますよね。
2010/5/1(土) 午前 9:19 [ まさきつね ]

おおー、織田選手に『牧神の午後への前奏曲』とは思いつきませんでしたが、うん、すごくいいと思います!確かにウィアー選手だと似合いすぎてしまいますもんね。これは是非実現してほしいです!!
2010/5/1(土) 午後 5:36 [ eco ]

ecoさま
コメントありがとうございます。
『牧神の午後』ちょっと斬新で良いでしょう? 全面エロスでなく、古典的に洗練された神話的世界が生まれるような気がするのです。
2010/5/1(土) 午後 6:53 [ まさきつね ]

こんばんは、まさきつね様。

実は、私も、少し前にあるお芝居のチラシを見て、
「これを演じるとしたら、織田選手かなぁ」
とイメージしていたものがありました。

それは、私が子供の頃から愛してやまない
『ピーターパン』です。

織田選手の軽やかで美しいジャンプと、
少年のような風貌と、無色な感じ。
彼なら、イメージに合うような気がしました。
※本文中でご指摘の『自己許容性』も合っていると感じます。

…が、前後しておめでたいニュースが入ったので、
もう一児の父となる人に『永遠の少年』をというのは
かえって失礼かしら…と思い、
じゃあ、10代のピッチピチ(死語ですね…)の男の子に!
なんて考えていました(^_^;)

でもやっぱりあのジャンプは捨て難いんですよねぇ…。

『魔笛』のパパゲーノ!憶えてます!!
音楽の授業でオペラのビデオを観たんですが、
とてもインパクトのある愛らしいキャラクターでした。
2010/5/1(土) 午後 11:48 [ もじ ]

こんばんは、まさきつねさま。
織田選手への考察も面白く、また五十嵐文男さんの名前をご存知の
オールドファンの方のお話も聞けて、とても嬉しかったです。
私も同じぐらいのオールドファンなものですから。

そんな楽しい会話に水を差してしまうようで恐縮なんですが、新聞
ネタでどうにもひっかかることがありまして、聞いて頂けますでしょうか?
4月最後の金曜の読売新聞の夕刊に、森絵都さんという女性作家の方のコラムが載っていました。 長いので次に続きますね。
2010/5/2(日) 午前 0:28 [ オレンジ ]

その記事のタイトルは「ギネス認定 なんでも世界一って…」。
要するに、浅田選手のギネス認定の件なんですが、ただおめでとうと
祝福するには胸がもやつく(原文のままです)話だと。
浅田側から申請したわけではないし、そもそもギネスはいったいいつからなんでもかんでも世界一に認定するようになったのだろうと。
最近のギネスはそういった傾向が顕著で目に余る、真面目にスポーツをしている浅田までそこに巻き込むな、と怒っているような内容なんですね。 勿論ギネスには偉大な記録も多々あることも認めてはいるものの、認定の押し売りをするな、個人の努力をそういったものと
いっしょくたにするなと苦言を呈しているようではあるのですが、最後にこう締めくくっているのです。
「人のいい浅田は笑顔で認定の喜びを語っていたけれど、自らの成果が<世界一ジャンプ力のある豚>などと並び讃えられているのを見たらどう思うのか?もやつきを通り越して胸が痛む。と。
すいません、また続きます。
2010/5/2(日) 午前 0:53 [ オレンジ ]

確かにギネスには、純粋に凄い世界的記録というものと、おちゃらけ
部門とがあるようなのは誰でも知っていることです。
けれどフィギュアスケートにおいては、伊藤みどりや安藤美姫も認定されていますし、今回の浅田選手のそれも、どちらの意味を成すかは
おのずと知れています。彼女は何を否定したいのでしょうか?

私はこの作家の名前は知っているものの、作品は読んだことがありません。もしこの人が純粋な気持ちで怒りを持ったのだとしたら、それはそれで結構なことだが、表現の仕方に疑問を覚えるのです。
今までいろんなブロガーの方々が、自分と違う意見の人のコメントに丁寧に答えているのを見て、ああ、世の中にはいろんな受け取り方を
する人がいるからな、と感心したりしていたのですが、中にはどう
見ても曲解して、妙に攻撃的になったりする人っていますよね。
それでブログを炎上させるような間違った例も見たりしますが、言葉というものをどこまで掘り下げて読み取ればいいのか、少々悩んでしまいます。 長文、申し訳ありませんでした<(_ _)>
2010/5/2(日) 午前 1:16 [ オレンジ ]

織田君のジャンプが高く評価されがちですが,ジャンプの後の膝,足首の吸収はオーみたいですが,ジャンプ前の,さあ跳ぶぞ!!という構えは,肩や腰に力みがあり,プログラム全体の出来栄えからは美しさは感じません。小塚君の方がキレイ!!
同じことが浅田真央さんにも見えます。トリプルアクセル3回認定のギネスは凄いでしょうが,ジャンプの力みの無いのは,他の外国選手・・・ライバル達が魅せてくれます。

織田君のコミカルさは悲しく見えることも多くて,彼の泣き虫キャラからも・・もっと違うプログラムがあっていいのでは?
夫になり,親になることとスケートは関係ないし,信長の子孫ってのも・・・もう卒業して,違う自分を見せて欲しいですなあ~
2010/5/2(日) 午前 9:30 [ ozuozu ]

もじさま
「ピーターパン」確かに遅きに失した感がありますね。ベビー・フェースなので、外見は充分耐えられるとは思いますが、背景を知っていると違和感が…ね。
「チャップリン」もあのナンバー自体は記事に書いたように、あまり重厚感がなかったのですが、さまざまな彼のポカポンタスが付け加わって、SOIの演技をテレビで観た時は(転倒も含めて)何だかいろいろ悩んだろうなあと、しみじみ感じるものがありました。
来季からはもう少し、彼の演技本来の美点を前面に出したナンバーを期待しています。
2010/5/2(日) 午前 11:37 [ まさきつね ]

オレンジさま
コメントありがとうございます。
森絵都さん、本は読んだことありますが、もう少しいろいろ考察をしてから、レスをしますね。
2010/5/2(日) 午前 11:40 [ まさきつね ]

ozuozuさま
コメントありがとうございます。
そうですね。ジャンプの上半身の動きについては、ジャンプの種類や回転数、飛距離などいろんな条件が重なりますから、なかなか動作として自然体の美しさというものとは相容れないことがあるかも知れません。
ですからまさきつねは、本来エレメンツの美しさというのは、選手同士を比較するのではなく、その選手のベスト演技を基準として評価されなくてはいけないのではと思っています。
ジャンプ以外にも、ステップなどでも近年は、上半身の動きに重点をおいて評価する傾向が強いですが、フィギュア競技元来の特徴からすれば、もっと下半身というかフットワークそのものを観るべきではないのかなと考えたりします。
(きめ細かくターンやステップを踏んでいるのに、なかなかレベルが獲れないというのは疑問なのですよ。)
織田選手のコミカル性は、持ち味として決して悪くはないのですが、「イタイ演技」と思われたらマイナスですよね。そのあたりのバランスが難しいのかな。選手の抱える背景についても、演技にそれを感じさせない領域にたどり着くことが大事ということでしょうね。
2010/5/2(日) 午前 11:56 [ まさきつね ]

まさきつね様、素晴らしい洞察ですね。
私はチャップリンに「笑い」よりも「痛烈な皮肉」等をまず強く感じてしまうせいか、「チャンプリンメドレー」についての考察を拝見して膝を打つような思いがしました。
織田選手は繊細で不安定な面が、逆に魅力になっているタイプの選手で、その中でもちょっと異色的に稀有な存在だと思います。
最近、私も一連のハプニングは一種の才能なんじゃないかとさえ考えるようになりました(褒めてます)続きます…
2010/5/2(日) 午後 9:45 [ すずこ ]

上手い例えでなくて申し訳ないのですが、フィギュアファンから見て普通にとても親しみやすいキャラなのに、床から足が数センチ浮いているような奇妙な浮遊感も同時に持ち合わせているというか…
私が浮遊感を感じるアーティストは大抵、浮世離れしたイメージを多かれ少なかれ自覚してそれをベースに役作りをするタイプなんですが、織田くんのは無自覚なのか、違う何かがあるのか、単純にその括りに入れられないんです。
私の感覚がおかしいのかもしれませんが;

チャップリンより死の舞踏の方がいいというのは何となく感じてましたが、技術的にはもちろん、彼独自の滑らかさや華奢さ(体格だけでなく)、繊細さや抑えられた悲しみを昇華させるには、牧神の午後はぴったりですね!あの美しいジャンプも映えそうです。
生で見て、独特の柔らかなジャンプには感動しました。女子でもあんなジャンプを跳ぶ選手は少ないのではないでしょうか。
彼は表現力のポテンシャルはかなりのものを感じさせますので、ぜひいい方向に行ってほしいものです。
こういうエントリー大好きですし、まさきつね様はどの文章も選手への愛情が感じられてほんわかします。
2010/5/2(日) 午後 9:48 [ すずこ ]

すずこさま
コメントありがとうございます。
仰るとおり良くも悪くも「浮世離れ」した部分が、織田選手にはありますね。それを巧く作品の芸術性へ繋げて欲しいと思うのですよ。それこそ彼にしかない個性なのですからね。
高橋選手のマニエリズム、小塚選手の表現主義、そして織田選手のモダニズム…みたいな百花繚乱の個性がぶつかりあう競技が、まさきつねのフィギュアの理想なのです。
2010/5/2(日) 午後 11:18 [ まさきつね ]

オレンジさま
森さんのコラムに関する考察はコメレスではなく、次のエントリーに載せました。
またご感想をお聞かせください。
2010/5/2(日) 午後 11:20 [ まさきつね ]

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