月船書林

フィギュアスケートの話題を中心に芸術を語る

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夏の訃報 其の弐 あるいは蓮華のいのち

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今日は池坊の花の稽古で、伝花のひとつの蓮一種を生けた。

蓮(学名:Nelumbo nucifera)は、インド原産のハス科多年性水生植物で、古名は「はちす」といい、花托の形状を蜂の巣に見立てたというのが通説だそうだ。蓮の花を指して「蓮華」(れんげ)といい、仏教とともに伝来し古くから使われた名称とされ、池坊では仏縁にちなみ、さらに泥の中で咲く清浄な花として特別な扱いをされる伝花である。
ちなみに池坊の伝花は数多いのだが、蓮は生花初伝「七種伝」に伝わるもので、芭蕉・蓮・水仙・万年青・椿(―輪生)・牡丹・牽牛花のひとつである。

開き葉と開花を「現在」、蕾と巻き葉と半開きの撞木葉を「未来」、開き葉の朽ち葉と蓮肉を「過去」として、過去・現在・未来の調和のある姿を一瓶に整えるのが伝統的な基本の生け方で、応用としてほかの草花を混ぜて池の自然な風情を表現する現代的な生け方がある。(次の画像はまさきつねの生けたものではなく、池坊の手本からの転写。)

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まさきつねはごく一般的な日本の民家に、すでに伝統的な床の間どころか襖や畳さえも見られなくなっている時代、仏教的な儀式性の強い伝花を始め、あくまでも床の間に生ける花としての華道というものが、昔のように嫁入り道具と揶揄されるような結婚前の女性の嗜みとして、いわゆるお稽古事として重要視されることは最早ないだろうと思っている。
だがそれでも、理論化された花の出生を大事にしつつ、花の咲く背景をも取り込む伝統的な様式に則った生け花を入れることで、禅宗の教えに通じるような悟り(無のこころ)に至るという芸道としての筋道は、単に文化の継承、発展ということだけでなく、今の若い人たちの精神修養の機会を与えるものとしてこの上ない古典技能のひとつだろう。

だが実際、今の世で蓮の花などをさまざまな形状の葉を取り揃え、さらに花や蕾や蓮の実など決まり事の数だけ、伝書どおりに生けようと思ったら、池坊などの華道専門の花屋さんでさえ仕入れにままならず、蓮畑一枚分の花や葉を収穫して一瓶分ごとに小売りで売りさばいてどんなに安く値を付けてもらったとしても、正月花くらいの金額は覚悟せねばなるまい。(せち辛い話題で申し訳ない。)

まあ、昨今流行りのフラワーアレンジの教室では、使用する花や小物の種類が多いのでお稽古用と言えど、もとより生け花など比べものにならぬくらい予算がかかるとは思うから、さほどびっくりするようなことではないのかも知れないが、それでもこの暑い盛りの時分では、せいぜい一日か二日しか持たぬ蓮の生け花を床の間で家人が鑑賞するだけと考えれば、学習用とはいえちと勇気の要る散財ではあるのだ。
(お盆などの仏事を利用して仏壇近くの床の間にでも生けて、大勢の来客の目にでも触れるのなら、正月花くらいの価値はあるのかも知れないが…それにしても、さっきからどうにもさもしい話になって重ね重ね恥ずかしい。)

少し視点を変えて、このたび挿した蓮の花についてだが、さすがに花屋さんが渾身込めて仕入れた花材だけあって、花や蕾の見栄えも美しく、葉もどれも朝露を含んで張りがあり、いかにも今朝、蓮畑から刈り取られたばかりという新鮮さだった。確かにこんな瑞々しい花を水盤に生けると、体の芯に一本、直ぐい筋が通りぬけてゆくような心地の好さが全身に広がってゆく。

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花を生けるということは、ただ畑や庭から摘み取ってきた花で殺風景な他所の空間を飾りつけるということだけではないのだ。花の過去現在未来育ってきた時間、その種が根付き生まれ育ってきた場所の空間ごと、二次元三次元に渡って思いを馳せながら、それを全く別の場所で再構築する芸術活動なのだ。
あまりにも果敢なく、いっ時の時間制限のある造形表現ではあるけれども、表現された作品以上に生けるという行為そのものが芸術であるという点では、きわめて現代的なアートの表現技法であることに違いないのである。

まさきつねは形の崩れた生花を水盤から抜いた後、葉や蓮肉をドライフラワーにして、また別の機会に自由花や押し花の材料にして用いる。花の花弁は一枚ずつばらして、料理の前菜を盛り付けるのにでも使おう。花のいのちが役目を全うするまで、その隠れた美しさを探し続ける。

     ※

さて、前置きが長くなったが、本題は一昨日入ってきたもう一つの訃報である。
以前から、まさきつねのブログでも何度かご紹介してきた「真央さんのほうが人間として華があると感じた。」という発言をコラムの中で書かれていた小松左京さんが八十歳で逝去されたというニュースである。

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訃報:小松左京さん80歳 「日本沈没」など執筆

 SF作家の草分けで、「日本沈没」など都市文明を風刺した作品や未来学の提唱、万国博覧会のプロデュースなど幅広く活躍した作家、小松左京(こまつ・さきょう、本名・小松実=こまつ・みのる)さんが26日、肺炎のため大阪府箕面市の病院で死去した。80歳。葬儀は親族のみで営んだ。お別れの会などは未定。
 1931年1月、大阪市生まれ。京都大学文学部イタリア文学科卒。在学中、高橋和巳(故人)らと同人誌に参加。卒業後、経済誌の記者や時局漫才の放送台本作家などを経て、61年「SFマガジン」の第1回コンテストで、「地には平和を」が入賞しデビュー。64年に長編小説「日本アパッチ族」で、大阪・砲兵工廠(こうしょう)跡から鉄を盗む話を通して戦後日本の貧しかった日常や社会的な問題を庶民性を盛り込みながら描き、注目された。
 以来、一貫して「人類と文明」をテーマに作品を書き続け、73年の「日本沈没」で日本推理作家協会賞、85年に「首都消失」で日本SF大賞を受賞した。特に地殻変動により日本列島が海に沈む「日本沈没」は、当時の公害問題や石油危機などの社会不安を反映し映画やドラマにもなった。95年の阪神大震災に際しては被害実態をもとに「小松左京の大震災’95」を毎日新聞に連載した。
 また、人脈を生かし、70年の日本万国博覧会(大阪万博)や90年の「国際花と緑の博覧会」をプロデュースするなどした。2000年に斬新なSF小説などを対象にした「小松左京賞」を設立した。ここ数年、体力が落ち長く座るのも困難になっていた。今月8日に発熱し入院、26日に急変したという。
(毎日新聞 2011年7月28日 19時14分)

◇◇◇◇◇◇◇


例の浅田選手に関する発言を含むコラムは『週刊東洋経済』の最終ページ「長老の智慧」に掲載されたものである。もっと早い時期にご紹介したかったのだが、時期を外してしまい、そうこうしているうちにこのたびの訃報を聞くことになった。


長老の智慧 小松左京
その1 SF小説で描き続けた科学の発達と人類への影響 - 10/04/07 | 08:10


 僕がSF(サイエンス・フィクション)小説を書くようになった理由の一つは、科学が面白かったからです。地球物理学や生命科学、宇宙論など、幅広い分野で新しい発見が次から次に出てくる。それらを学び、小説として描くことは、とても楽しかった。

 しかし、使い方によっては、科学はものすごく恐ろしいものも生み出してしまうということも、戦争を通じてわかっていました。原子爆弾を体験しているのは、人類始まって以来、日本人だけ。それも2発もです。水爆でも第五福竜丸事件で日本人船員が被曝し亡くなっています。

 空想の産物だと思っていた原爆も、現実のものになるのです。科学の発達が人類文明にもたらした意味は何か、僕はSFを通じてそのことをずっと考えてきました。

 科学小説を書くのは厄介なことでもあります。小説『日本沈没』で、日本列島が沈むにはどれくらいのエネルギーがいるか、日本列島の重さを計算するために高価な電卓を買いました。理論的裏付けとした「海洋底拡大説」は、発表されて間もない最先端の地球物理学理論でした。

 『復活の日』では、まだ一般的ではなかったウイルスについて勉強し、インフルエンザを悪用するバイオテロの恐ろしさと、冷戦時代の国家間の自動防衛システムの愚かしさを描きました。

 コンピュータの発達も、1980年代のマイコンの登場時代には「情報デモクラシー」と喜んでいました。が、その後の集積回路のすさまじい発達スピードは、人類社会のコミュニケーションシステムを大きく変えました。そして人類の思考パターン、言語機能、人間関係などで、今まで経験したことのない影響を、すべての世代に与えつつあります。

 これからのSFが考えるべきことは、科学が人間をコントロールするようになったらどうなるか、ということです。今、ロボットは「ICチップ」という形でごく自然に私たちの生活に入っています。それらをコントロールしているのは人間です。ロボットに生命はありません。

 しかし今後は、生命はないが知性はあるという機械ができるのではないかと考えています。小説『虚無回廊』で、AE(人工実存)という、人間の意識を移したコンピュータを登場させましたが、そういうもののことです。こうした機械が人間をコントロールするようになったらどうなるか、そのとき人類はどうしたらいいのか、これはSFで大まじめに考えるべきことと思っています。

     ◇

その2 文学と科学を一体化し新しい科学のイメージを開く - 10/04/14 | 08:10


 僕は還暦を迎えたパーティの席で、「これからは文学原論を究めるために作家に専念する」とあいさつしました。それまで引き受けていた博覧会のプロデューサーや諸々の委員、社長業などからすべて自由になると決めたのです。

 実はその40年前、プロの作家としてデビューする前の同人誌で、「文学の科学を確立しなければならない」と宣言していました。小説家の高橋和巳らと一緒に作った同人誌です。当時から文学の本質を定義づける必要があると思っていたのです。

 しかし40年間作家をやってきても「文学とは何か」を定義づけるまでに至っていませんでした。

 先日のバンクーバー五輪のフィギュアスケートでは、浅田真央さんがキム・ヨナさんに負けました。僕にはその理由がよくわからなかった。真央さんのほうが人間として華があると感じた。「華」というあいまいなものに対してフィギュアスケートはきちんと評価する基準を持っているものと思っていましたが、文学の定義づけと同様、現実にはなかなか難しいようです。
「文学とは何か」と追究していく中で気がついたことは、「物語性」です。ストーリーはヒストリー(歴史)と同じ語源で、「調べる」「尋ねる」という意味がありますが、「うそ」「作り話」という意味もあります。人間は言葉を使い始めたときから、「物語」を作り続けてきたのではないでしょうか。それが口承文学として語り継がれ、神話や説話、歴史になってきたのではないでしょうか。その頃の「物語」は、あらゆるイメージの総体として「哲学」と言ってもよかったかもしれません。それがある時期から「科学」と「文学」に分かれてきたのです。

 僕がSFに惹かれたのは、そうした「文学」と「科学」を、もう一度、「哲学」に一体化できるかもしれない、という気がしたからです。

 科学の世界には「虚数」という概念があります。英語で言うと「イマジナリーナンバー」です。そうです。科学の世界でも「イメージ」することは大切なのです。文学も科学も共有できる世界があるのです。

 僕はいろいろな先端科学者と交流してきましたが、彼らの多くは実に人間的で、SF作家もビックリするくらいとんでもない発想をします。

 科学者が解明した世界から物語を編み出すと同時に、「美」や「愛」といった、数式では表現できない世界を文章で表現することによって、逆に新しい科学のイメージが広がるかもしれない、と思っています。

     ◇

その3 僕のSFの出発点は戦争反対と核兵器廃絶 - 10/04/21 | 08:10


 僕がSFを書くようになった原点には、戦争、そして核兵器に対する反対の思いがあります。

 第2次世界大戦の終戦のとき、僕は中学3年生でした。近眼でおっちょこちょいで、落語が好きで、戦争中は教師によく殴られていました。

 思い出すのは夜の防空監視です。隣組の役回りで望楼へ上がり、敵機襲来を見張っていなければなりません。寒いし腹は減るし、惨めな気持ちになりますが、灯火管制のため驚くほど星がよく見えました。あの恒星の周りには地球みたいな星があるのではないか、そこが戦争をしていないのだったら、その子は幸せだなと思ったりしていました。

 日本は欧米諸国から見れば、極東の端っこにある小さな国。それなのに、世界を向こうに回して戦争をしてしまった。自分は何でこんな国に生まれてしまったのだろうと、恨んだりもしました。

 当時の学校の授業はひどいものでした。軍事教練はやらされる、勤労動員はされる。しかし感心なことに、私がいた神戸一中は、英語の授業を減らしませんでした。戦後になると、軍国主義的だった教師ほど、手のひらを返すように変貌したので、精神的に少しへたばりました。

 日本は原子爆弾を落とされた唯一の国です。第五福竜丸事件では、水素爆弾にも被曝しています。この事件があった1954年は僕が京都大学を卒業した年。水爆実験の記事は、就職活動中の電車の中で読みました。発作的に笑い出してしまいました。珊瑚礁の島が一つ、全部煙になってしまったという。その威力は広島に落ちた原爆の何百倍。そんなものを作り出すなんて、人類史にとって、お笑いでしかないと思ったのです。

 ようやくカット描きとして就職した経済誌『アトム』では、「原子力の平和利用」が言われ始めた時期でもあり、原子力について調べ、湯川秀樹博士にも取材し、いつの間にか記事も書くようになりました。

 「戦争反対と核兵器廃絶」の思いをどのように表現したらいいのか。いわゆる反戦文学では文明の問題は表現しきれない。そんなときに『SFマガジン』の創刊号に出会い、ロバート・シェクリイやアーサー・C・クラークの作品を読んで、「これだ」と思いました。SFはエンターテインメント性がある一方で、シリアスで巨大な問題を扱うための武器とテクニックになると感じたのです。

 原爆・水爆を生み出した近代科学の発達が人類文明に何をもたらしたのか、その意味を問う、SFにはその役割があると思っています。

     ◇

その4 若い人には飢餓や地震など生々しい歴史を学んでほしい - 10/05/06 | 13:10


 今の日本の若い人には、もっと生々しい歴史を学んでほしいと思っています。

 僕は小・中学生のときに戦争を経験しました。いちばん怖かったのは、食べるものがないという飢餓体験です。終戦になった中学3年生の食べ盛りのころは、1日わずか5勺(90ミリリットル)の外米と、虫食い大豆や虫食いトウモロコシ、ドングリの粉ぐらいしか食べられませんでした。消化の悪い炒り豆を食べては水を飲んだので、しょっちゅう腹を下し、毎日フラフラでした。

 そんな飢餓体験が、僕の処女長編小説『日本アパッチ族』の基になっています。「アパッチ族」と呼ばれるくず鉄泥棒が、鉄を食う「食鉄族」となって、鉄でできている物を片端から食いまくり、日本人の生活を脅かしていくという荒唐無稽なストーリーです。

 執筆当時、極貧生活で、唯一の娯楽だったラジオさえも質に入れなければならなかった妻を喜ばせるために、夢中で書いたものです。

 日本は幸か不幸か地震の多い国です。1995年1月には、阪神大震災で6000人を超える人が亡くなりました。若い人はこうしたつらくとも生々しい歴史から学ぶという訓練を、自ら進んでやってみてほしい。

 阪神大震災のあった早朝、僕は大阪・箕面の自宅で寝ていました。庭の石灯籠ががらがらと倒れ、すぐに跳ね起きた。テレビの映像を見て、多くの公共建造物やインフラが、こんなにももろいのかと愕然とした。現場を見て回り、可能なかぎり検証したいと痛烈に思いました。

 4月から新聞で、宇宙の話の連載をする予定でしたが、急きょ、阪神大震災の企画に切り替え、現場を歩き、多くの人たちの声を聞き、専門家と話し合いました。たいへんつらいことでしたが、必死の思いで1年間の連載を終え、翌年6月に単行本『小松左京の大震災’95』としてまとめました。

 最後に環境問題について触れましょう。自然の姿を虚心かつ精密に見ていくと、決して優勝劣敗や適者生存で生物が残ってきたという証拠はありません。生物種はあるとき大絶滅をするけれども、そのうちのいくつかが途絶えないで、次の世代の多様性を生み出してきました。

 残ったのは、優れているからとか強かったからではなく、ただ運がよかっただけです。

 地球は何回も大変動を繰り返していますが、それでも生命は絶えませんでした。「地球にやさしく」とよく言われますが、地球は決して生物にやさしくはないのです。環境問題には、このような地球上の生命の一つとして人類をとらえる視点を持つことも必要でしょう。


こまつ・さきょう
1931年大阪生まれ。SF作家。京都大学文学部卒業。経済誌記者などを経て、62年にSFプロデビュー。73年発表の『日本沈没』は400万部を超えるベストセラーに。代表作に『復活の日』『果しなき流れの果に』『首都消失』など。大阪万博や花の万博のプロデューサーも務めた。

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ワールドSFコンベンションNIPPON2007に列席する小松左京さん。

◇◇◇◇◇◇◇


小松左京さんもその履歴を一瞥しただけで、そのマルチな才能と物書きだけに留まらない行動範囲の広さ、情報量と知識の多さに驚かされるのだが、今でこそ素直に賞賛の対象となるその度量の深さや、思考の斬新性も、彼が精力的に活躍していた頃にはあまりにも時代の最先端を行き過ぎて、その作品や発言も荒唐無稽な誇大妄想とばかりに揶揄されることも多く、SFというジャンル自体が文学的な価値が評価されるよりも、どちらかと言えば珍奇な目で見られるような時代だった。

テーマの前衛性と先見の明で小松左京さんとちょうど同じようなスタンスにあったのが、文学と漫画というジャンルの違いはあれど、手塚治虫さんではなかったかと思うのだが、この二人はともに別の切り口や方法によって、戦後の思想的な崩壊と一種の虚無感を抱えつつ、自身のアイデンティティーを作品の中で探し続け、原水爆を生み出した近代科学の発達の意義と矛盾をSFという手段によって人類の課題として問い続けたのだった。

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小松左京さんの浅田選手について述べたくだりでは、「華」というものに関連付けて文学の定義づけについて書かれているが、まさきつねは小松左京さんが文学の中に追求されていた「物語性」」がすなわち、「華」=花の中に内在する過去現在未来という時間性に相当するのだろうと考えている。

つまり花というのは、外観的な様式美や理路整然とした意匠の中に真の美しさを秘めているのではなく、現在を挟む過去と未来という時間軸に沿って生まれ、さまざまに変幻し、ついには何もなかったところへ帰結してゆくいのちの不思議、ついには滅びゆくものの祈りのような部分にこそ隠されているのだろう。

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韓国お得意の美容整形のような人工的なものの臭いしか感じないキム選手の演技の中に、小松左京さんの仰っているような「華」など微塵もある筈はなかった。「いつも変わらず」「いつも同じように」完成されて美しいと評されるものの裏側は結局、幼く稚く拙いものが徐々に進化して、成長を遂げ、やがては滅びゆく歓びと悲しみをともに併せ持つ生命感とはまるきり無縁で、そこにはただ体裁良く作り込まれて整えられた様式と型しか残されていないのだ。

池坊の花もまた、継承される芸道としていつしか表現方法が単純化され、形式が理論化される中で生ける型のみに形骸化し、こころのない様式美の相伝に堕落し、家元制度の存続のため教えの切り売りという弊害に陥ってしまう危惧もない訳ではないが、それでも、たとえば蓮の花ひとつを生ける際に誡められる「過去現在未来」の教えや、花の出生を尊ぶべしという基本姿勢に触れる限りまさきつねは、伝統や革新がどうの模倣や創作がどうのといった葛藤はさておき、花のいのちを扱う喜び、その美しさを活かす純粋な楽しさを思わずにいられないのだ。

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小松左京さんは「『華』というあいまいなもの」と表現しておられるが、花の花たるゆえんは、まさにこのあいまいさであり、不確かさであり、明日をも知れぬ命の無常性にこそある。このとらえどころのないもの、悲しいほどに果敢なく、侘しい存在、だからこそなお価値があり美しいものを不条理であるが故に人々は尊ぶ。

この「美」、あるいはこの美に寄せる「愛」について語ることが「文学」に違いないのだが、小松左京さんは現代において、「文学」に「虚数」と整合性のある「科学」を合致させることで、彼なりの「哲学」を開こうとしたのだ。
それが今、近代科学という武器を携えたにも関わらず、あいも変わらず苦悩し続けている人類に対して、拓けく新しい未来を指し示す方法であり、小松左京さんにしか為し得ぬ仕事であると静かなる使命感を覚えておられたのであろう。

SFという斬新な手段でまだ見ぬ新しい世界への扉を開けようとした、その恐れを知らぬ信念の強さと業績に感服するとともに、こころからの哀悼の意を捧げたい。


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波が走ってきて、砂の上にひろがった。
白い泡が、白いレース模様のように、
暗い砂浜に、一瞬、浮かびでて、
ふいに消えた。また、波が走ってきた。
イソシギだろうか、小さな鳥が、
砂の上を走り去る波のあとを、
大急ぎで、懸命に追いかけてゆく。
 
波の遠く、水平線が、にわかに明るくなった。
日がのぼって、すみずみまで
空気が澄んできた。すべての音が、
ふいに、辺りに戻ってきた。
磯で、釣り竿を振る人がいる。
波打ち際をまっすぐ歩いてくる人がいる。
朝の光につつまれて、昨日
死んだ知人が、こちらにむかって歩いてくる。
そして、何も語らず、
わたしをそこに置き去りにして、
わたしの時間を突き抜けて、渚を遠ざかってゆく。
死者は足跡ものこさずに去ってゆく。
どこまでも透きとおってゆく
無の感触だけをのこして。
もう、鳥たちはいない。
潮の匂いがきつくなってきた。
陽が高くなって、砂が乾いてきた。
貝殻をひろうように、身をかがめて言葉をひろえ。
ひとのいちばん大事なものは正しさではない。
(長田弘『渚を遠ざかってゆく人』)


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