月船書林

フィギュアスケートの話題を中心に芸術を語る

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闇から甦るもの

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幽霊に憑かれるには 部屋でなくてもよい
家でなくてもよい
頭のなかには現実の場所よりも
はるかに多くの回廊がある

そとの幽霊に真夜中に出会うほうが
はるかに安全だ
あの冷たい客に
うちがわで向かい合うよりも

石に追われて
僧院を駆け抜けるほうが はるかに安全だ
淋しい場所で 武器もなく
自己と出会うよりは

隠れている背後の自己のほうが
もっと驚かす
わたしたちの部屋にひそむ暗殺者などは
すこしも怖くない

からだはピストルを携えて
ドアを閉める
だがもっとすぐれた幽霊か
なにかを見逃すのだ
(エミリー・ディキンスン『詩抄118』)

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ジョニー・デップ主演の映画『ダーク・シャドウ』を観た。

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監督:ティム・バートン
脚本:セス・グレアム=スミス
原案:ジョン・オーガスト、セス・グレアム=スミス
原作・オリジナル脚本:ダン・カーティス
製作:ティム・バートン、グレアム・キング、クリスティ・デンブロウスキー、ジョニー・デップ、デヴィッド・ケネディ、リチャード・D・ザナック
製作総指揮:ナイジェル・ゴストゥロウ、クリス・レベンゾン
出演者:ジョニー・デップ、エヴァ・グリーン、ミシェル・ファイファー、ヘレナ・ボナム=カーター、トーマス・マクドネル、クロエ・グレース・モレッツ、ジョニー・リー・ミラー、ベラ・ヒースコート、ガリー・マクグラス、ジャッキー・アール・ヘイリー
音楽:ダニー・エルフマン
撮影:ブリュノ・デルボネル
編集:クリス・レベンゾン

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もう鉄板というべきティム・バートン監督とのタッグだから、大きな外れはないだろうと軽い気持ちで観たのだが、この作品その昔テレビドラマがやっていたシリーズがオリジナルということで、少し肩の力が抜けた作りがかえって脇役まで登場人物のキャラクターを丁寧に引き立て、はちゃめちゃなコメディーやどぎついスプラッターに終わらず程よくゴシック的なホラーテイストに充ちたストーリーが、「愛って何?」みたいなシリアスなテーマをどことなく生真面目に追求しているあたり、大きく突き抜けた傑作感はないものの、無難にまとまった完成度の高い愛すべき佳作という雰囲気である。

少し前にオリジナル作品の主演を務めていた俳優ジョナサン・フリッドの逝去を伝えるニュースが流れていたが、バートンはこうした往年の俳優や作品、また、このテレビシリーズが愛されていた70年代へのひとつのオマージュとして、個人的な思い入れたっぷりに映画化したようだ。
以下、報道記事より。


【ジョニデ映画「ダーク・シャドウ」 オリジナルTVシリーズの主演俳優が死去】(2012年4月20日)

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ジョニー・デップとティム・バートン監督が8度目のタッグを組んだ「ダーク・シャドウ」(5月19日公開)で、デップ&バートンのプロモーション来日が発表されたばかりだが、この作品のオリジナルとなったTVシリーズ「Dark Shadows(原題)」の主演ジョナサン・フリッドが亡くなっていたことがわかった。87歳だった。
ワシントン・ポスト紙によるとフリッドは13日に逝去。死因は病気ではなく老衰によるものだという。フリッドはTVシリーズ「Dark Shadows」のバーナバス・コリンズ役(映画「ダーク・シャドウ」ではデップが演じている)で人気となったカナダ出身の俳優で、「Dark Shadows」に出演するまでは舞台俳優として活動していた。
当時「Dark Shadows」の視聴者数は約2,000万。後にカルト的な人気シリーズとなる。デップも同作品の映画化にあたり「子供の時はTVにかじりついて『Dark Shadows』を観ていたんだ。吸血鬼のバーバナス・コリンズに夢中だったよ」と、大ファンぶりを披露していた。
フリッドは1971年に番組が終了してからは、再び舞台を中心に活動を続け、「Dark Shadows」のコンベンションなどにも出席していたという。また、今回の映画「ダーク・シャドウ」にもカメオ出演しており、話題となっていた。
心よりご冥福をお祈りします。


【ジョニー・デップが盟友バートン監督と『ダーク・シャドウ』ジャパンプレミアに登場!】(2012年 5月 15日)

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[ムビコレNEWS] ジョニー・デップが新作『ダーク・シャドウ』を引っさげ5月12日に来日。同日夜に六本木ヒルズで開かれたジャパンプレミアに盟友ティム・バートン監督と共に登場した。
昨年11月に『ツーリスト』のキャンペーンで来日して以来、1年2ヵ月ぶり9度目の来日となるデップは「いつも東京に来ると、みんな温かく歓迎してくれるので本当に嬉しい」と挨拶。

本作のもととなったテレビシリーズの大ファンだったそうで「子どもの頃から(主人公の)バーナバス・コリンズというヴァンパイアに憧れていて、マネをしたりしていました」と明かすと、「いつかはヴァンパイア役を演じてみたいという夢を一番好きな映画監督のティム・バートンと一緒に叶えることができ、本当に嬉しい」と話した。

一方、バートン監督は、本作でデップと8度目のタッグとなったことについて「8回、一緒に仕事をしてきましたが、毎回、ジョニーはまったく違う役を演じているので、違う人と一緒に仕事をしたような気分になります」とコメント。

ファンからの「この作品を通して伝えたいことは?」という質問には、「家族とは奇妙なもの。人生とは奇妙なもの、だからこそ、愛すべきものなんだということを伝えたかった」と答えていた。

一方、デップは「現代に甦らせて会ってみたい人は?」という質問に、ちょっと思案したあとで「ヴィンセント・ヴァン・ゴッホなんかを甦らせたいですね」と回答。最後は、劇中でバーバナスがやっている決めポーズをバートン監督と共に披露し集まったファンを喜ばせていた。

また、この日はゲストとして大東駿介、平原綾香、LiLico、国生さゆり・甲田英司夫妻、Wコロンのねづっち、マンガ家の内田春菊親子らもレッドカーペットを歩いたほか、イベント終了後に、一旦、舞台挨拶に向かったデップとバートン監督が、再度、レッドカーペットに戻り、残っていたファンにサインをする場面も見られた。

『ダーク・シャドウ』は5月19日より丸の内ルーブルほかにて全国公開される。


【ティム・バートン監督、『ダーク・シャドウ』には個人的な思い出がたっぷり】(2012年5月16日》
 [シネマトゥデイ映画ニュース] ジョニー・デップ主演映画『ダーク・シャドウ』の特別インタビュー映像が公開され、ティム・バートン監督が本作について「個人的な思い出を反映させている」と明かしている。舞台になっている1972年当時のヒット曲が多く用いられていることを含め、当時ティーンエイジャーだったバートン監督の思い入れがたっぷりの作品に仕上がっている。

☆映画『ダーク・シャドウ』特別映像PART1☆

☆映画『ダーク・シャドウ』特別映像PART2☆


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 その独特のセンスから「彼自体が一つのジャンルだ」とまで絶賛されているティム・バートン監督にとって、本作は最も映画化を望んでいた作品の一つ。バーナバス・コリンズという主人公が「気乗りしない吸血鬼」であることに引かれていたといい、そういったバーナバスのキャラクターを生かしたエピソードは本作の見どころになっている。
 また、舞台となっている1972年はヒッピー、ロック・カルチャーなどが渾然一体となっていた時代。当時ティーンエイジャーだったバートン監督は「特に懐かしいのが当時の音楽だ」と振り返っており、T・レックスやカーペンターズをBGMに起用。とりわけ、ロック界の大御所であるアリス・クーパーがカメオ出演していることが話題になっており、今回の映像ではそのシーンの一部を観ることもできるのだ。
 ジョニデが1972年を「最も美的感覚がおかしかった時代だ」と評せば、『バットマン リターンズ』でもバートン監督とタッグを組んでいるミシェル・ファイファーはキャスティングの際に求められたことを「奇妙であること」と冗談交じりに明かす。強烈な個性がぶつかり合う本作の撮影をバートン監督はいつも以上に楽しんでいたらしく、現場では常に笑いが絶えなかったほどだという。
 毒々しいビジュアルイメージがカルト的なファンを生み出した一方で、近年の『アリス・イン・ワンダーランド』などのエンターテインメント大作ではより多くの観客層にアピールするような作品づくりを行っていたバートン監督。個人的な思い出が盛り込まれたという本作は、かつてのファンには懐かしいバートン監督らしさが前面に出た作品だ。(編集部・福田麗)

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映画のストーリー自体はさほどぶっ飛んだ展開もなく、ラストも想像の範囲を超えない一応のハッピー・エンディングで、良くも悪くも想定内でこじんまりとまとめられた感があるが、脚本の巧さか登場人物たちの台詞や性格設定が丁寧に描きこまれて、それぞれの人間性の愛すべき部分と嫌な欠点のような部分が誰に肩入れすることもなく、平等に作り込まれているのに好感が持てる。

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【ストーリー】
リバプールから当時イギリスの植民地だった新大陸メイン州に渡り、代々続く水産業で財をなし、家名を冠した新しい町コリンズポートを開拓したコリンズ一家。
物語の主人公は、地方の名士として地位を確立し、コリンウッドと呼ばれる巨大な屋敷を建造して、町一番の大富豪となったコリンズ家の何不自由ない跡取りだったバーナバス(ジョニー・デップ)である。
手を付けたメイド、アンジェリーク(エヴァ・グリーン)が黒魔術を駆使する魔女だったのが彼の運のつきで、愛しい恋人ジョゼット(ベラ・ヒースコート)は操られて崖から身投げさせられ、彼自身は呪いでヴァンパイアに変えられたあげく、棺に閉じ込められて生き埋めにされてしまう。
200年後、工事現場の掘り起しで土の下から甦った彼の前には、すっかり変わってしまった町の風景と落ちぶれ果てたコリンウッドの屋敷、そしてかろうじて、ほそぼそと家名を継承してきた末裔たち、家長のエリザベス(ミシェル・ファイファー)とその弟のロジャー(ジョニー・リー・ミラー)、エリザベスの娘キャロリン(クロエ・グレース・モレッソ)にロジャーの息子デヴィッド(ガリー・マクグラス)の四人が居並ぶ。さらに僅かな使用人たちと、子どもたちのカウンセリングをするジュリア・ホフマン博士(ヘレナ・ボナム=カーター)、複雑な事情を抱えてコリンウッドにやってきた家庭教師のヴィクトリア(ベラ・ヒースコート二役)。
バーナバスは父の教えである「唯一の財産は家族」という言葉を胸に、父の遺した隠し財宝でコリンズ家の再建に乗り出すが、彼の前に立ちふさがるのは200年の間コリンズ家にとって代わって、姿を変えながら町の名士として君臨してきたアンジェリークで、彼女はジョゼットそっくりのヴィクトリアとバーナバスの恋路を、またしても妨害しようと企み、ついにヴァンパイアと魔女の対立は互いが死力を尽くす全面闘争の局面へ向かう…。

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ところでさまざまなレビューを読むと、デップを初めバートンらしい奇妙奇天烈なキャラクターの描き方を評価する向きは多かったものの、作品としてはアクションにもコメディーにも、またホラーとしても中途半端で今ひとつ乗り切れなかったという否定的な感想が見受けられた。

まさきつねも最初は、ヴァンパイア一族による『アダムス・ファミリー』的なホーム・ドラマのノリかなと思っていたのだが、コリンズ家の面々はそれぞれ自分の抱える問題に精一杯で一致団結の「家族」という様相ではない。年頃の娘キャロリンはあからさまに反抗的な態度をありありと見せるし(ただし、これが彼女の最後のオチで効いてくるのだが)、盗癖と女癖が治らないロジャーは息子デヴィッドを置いて家を出ていく羽目になる。現代的な家族崩壊の一番の犠牲は幼いデヴィッドだが、彼を救うのが古典的なゴシック・ホラーのモチーフである母親の幽霊というのも、ちょっとほろりとする。

その中でコリンズ家再建に関して最後までぶれないのは家長のエリザベスで、娘を酷い目にあわせた魔女とも銃を持って対峙する格好好さや、屋敷がすべて燃え落ちても財産には未練ひとつ見せず「これまでと同じ。生き延びてゆくだけよ」と呟く潔さなど、「家」を守る真の貴族性とは何かを顕現していたのはバーナバスよりも彼女だったのだろう。


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バーナバスについてはその肩透かしを喰わされた感のあるキャラクター像を、過去のバートン作品からステップ的に『1:「チャーリー」ほど奇抜でない世界感で2:「ビートルジュース」ほど弾けない主人公が3:「スウィーニー」ほどの残虐なことも4:「スリーピー・ホロウ」ほどのアクションもなしに活躍するコメディ』と説明したレビューがあったのだが、いわゆるハチャメチャな大人げなさや残酷さを抑え気味にして、「進んでなったのではなく巻き込まれたのだ」的などこか惨めなヴァンパイアが、バートンの当初からのねらいである「気乗りのしない吸血鬼」だったようだ。

実際、デップ演じるバーナバスという大富豪の嫡男は人間的には最低のろくでなしで、蝶よ花よで育てられた人間にありがちな自己中心的な考えと貴族的なスノッブに充ちている。家の栄華を誇るためなら、職人や召使たちが喜んで四肢や命を差し出して当然という身勝手な思考回路が、世間知らずの困ったお坊ちゃんの気位の高さと醜聞を恥とするいけ好かない態度の隅々に現れている。

身分の低い人間は自分にかしずくのが当たり前で、アンジェリークの反旗に対しても「メイドのくせに愛を望むなんて」という無理解のなさだ。
気に入ったメイドに軽い気持ちで手を出して、飼い犬に噛みつかれてから「なぜ自分だけがこんな目に」と嘆くバーナバスは、要するに自業自得でヴァンパイアに堕落させられてしまっただけなのである。

バーナバスが生き埋めにされたのが、アメリカがイギリスを相手取った独立戦争真っ只中の1776年というのも象徴的で、世界が貴族的なもの王政支配的なものを脱却し、自由と個人主義の時代へ舵を取ろうとしている最中に、身分や女性性といった拘束から解き放たれたアンジェリークが、オルレアンのジャンヌ・ダルクと同じ「魔女」という呼称を持ちつつブルジョワジーの支配階級を闇に追いやり、資本主義社会の新しい権力者として台頭していったという図式なのだ。

アンジェリークがとにかく、女性の細腕(?)でひとり時代の荒波を超えてきたことをしみじみとうかがわせる見事なビッチぶりで、最後までストーカー的な悪役に徹しているのだが、物語の中盤で彼女の誘惑にまたしても負けたバーナバスと、お互いの体を壁や床に叩きつけて部屋を破壊しまくる獰猛なセックス描写を展開するのは、コメディータッチながらどこか憐れで、エロスの過激な側面と愛なき悲哀を滲ませてたまらないものがあった。

すべての闘いに敗れた彼女の今わの際に、粉々に砕け散ってゆく自らの紅いルビーのような心臓をバーナバスに差し出す場面は、ウィリアム・ホガースの『放蕩息子一代記』のサラや『源氏物語』の六条御息所まで、古今東西ひとりの男に献身しつつその愛が空回りして決して報われることがない女性たちに共通する絶望と憂愁が漂い、バーナバスの「かつては愛したこともあった」という言葉が悪女のうら悲しさに追い打ちをかけていた。

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結局バーナバスの女性遍歴は正統派ヒロインであるヴィクトリアとの恋愛至上主義のエンディングへ落ち着いていくのだが、バートンは基本的にこうした正統なカップルの恋愛話を描くことはないがしろで、前半はコリンズ一家の再建をめぐる駆け引きでエリザベスとの絡みの方が多く、中盤は人間に戻るための試みとして医学的な輸血を行うホフマン博士との対話が重要視されているきらいがあり、こうした女性たちとの洒落たやりとりが、1972年に甦ったレトロな吸血鬼の気障で傲慢で鼻持ちならない厭味ったらしさを、どこか愛くるしく憎めないコミカルな優男の気品ある物腰の印象へ変えてしまう。デップの個性や演技の巧さもあるのだろうが、「気乗りのしない吸血鬼」の血にも愛にも飢えた枯渇感が、どうにもやるせなく女性の母性本能をくすぐり、胸キュンさせているのかも知れない。

70年代を代表するラブ・ストーリー『ある愛の詩』にある「愛とは決して後悔しないこと(Love means never having to say you're sorry.)」という名台詞が、執拗にバーナバスを求めるアンジェリークに対するアンチ・テーゼ(「愛したことを後悔させてあげるわ」みたいな)であったようにまさきつねは考えているのだが、200年経ってもあいかわらず女性の誘惑にふらふらと負けてしまうバーナバスもまた、どんなに後悔してもやっぱり愛を求めてしまう懲りない愚か者なのだろう。

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それにしてもバーナバスはなぜアンジェリークの要求を、頑ななまでに「愛ではない」と拒み続けたのか。

バーナバスはその貴族的な本能から、アンジェリークの自分に対する異常な執着は「愛」ではなく、「所有したい」という欲望に過ぎないことを見通している。
アンジェリークは彼女が持ち得なかった身分、財産、社会的地位など、バーナバスが何の努力もせず手にしているものの数々が羨ましかった。羨望と妬ましさがバーナバスを自分の思いのままにしたいというよこしまな欲望に駆り立て、彼の両親や恋人を始め彼が愛しているものすべてをとりあげて、孤独へ追いやるという冷酷な仕打ちをさせたのだということを見抜いている。

アンジェリークの「独占欲」は、「自己愛」と表裏一体なのだ。

バーナバスを支配したい、思い通りに操りたいという欲望は、相手を愛しているというからではなく、単なる自己可愛さに過ぎないということなのである。

思うに不特定多数に目が移るのは男性本能による行動である。一方で、誰かや家族を守りたいという願望は母性本能のなせるわざだ。
どちらも種を残すという生物学的な合理性に基づいているのだが、人間的な行為としては矛盾が生じてしまう。

人間の場合、身体的な男女差は成育時に如実に出るが、遺伝子学的には男女とも、男性本能も女性本能もどちらも同じように持ち合わせている。ホルモンなどのバランスによって表出する個体差が違うというだけのことだ。
つまり、「独占欲」や「支配欲」も、「浮気」も「嫉妬」も、すべて生物の本能からすればごく自然な感情であり、おしなべて動物学的にも認知されている衝動であり行為だということになる。

しかして、人間がほかの動物に比べて極めて興味深い相違があるのは、経験と理性に基づいた選択と苦悩をするという点であろう。
人間は過去から学び、状況に応じて判断し、その結果、本能とは別の次元の感情に揺さぶられて悩み苦しむ。
人間は思考する生き物であり、「考える葦」である限り、理性と感情、浮気と嫉妬のようなアンビヴァレンツな葛藤や内部矛盾に一生振り回されてゆくものと考えられるのだ。

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以上を踏まえてつまるところ、バーナバスあるいはヴァンパイアの魅力とは何かをふりかえってみると、200年(正確には196年らしいが)の長きを土の中で過ごす間に、どうしようもない貴族のお坊ちゃんだったバーナバスは自らの孤独と暗い闇にひたすら向き合い、他者の行動を理解し、世の中の動静を把握する度量の深さや精神的な成熟度を身につけた。
自己中心的な我儘ぶりやヴァンパイア的な粗暴なふるまいは三つ子の魂百までだから、直らないのも致し方ないところだろうが(まあご愛嬌の範囲ということで)、積年の苦悩と葛藤は彼に愛の本質とは何かを気づかせ、どんな苦境や試練においても、どんなことをしてでもただ生き延びてゆくことの重要さを教えた。

異端者であり、永遠の命が与えられたが故に長年の懊悩を押し付けられる吸血鬼というマイノリティとしての自己存在を咀嚼しなければならないバーナバスの、人間以上に人間的な不安や苦痛、絶望が、彼を脆くもしぶとく、小憎らしくも愛すべきキャラクターに昇華しているのだろう。

不思議な化学反応ではあるが、孤独と闇がひとを成長させ、光の中でみなの共感を得て長く愛され、時代を超えて生き延びてゆくものへ進化させる。

永遠に生き続けるものの唯一の幸福は、愛による支配ではなく、愛による同化だ。

あなたも自分と同じ、苦しみと悩みを抱えて生きている。悲しみを分かちあい、心情を受けとめあうことが、異なる部分と矛盾だらけのものたちが共生するための一歩なのである。


さて、今回はまったくフィギュアスケートネタではないのだが、それぞれ異なるもの同士がこの世で共生するために必要なこと、コミュニケーションや理解という点については、どんなジャンルに関係なく大事な課題だろう。

『ダーク・シャドウ』は正直な話、ヒッピーのラブ&ピースとベトナム戦争、融和と破壊、サイケとクラシックといった整然としたものと奇妙奇天烈なものとがごっちゃになったカオスのような70年代、「愛は後悔しない」「愛は死なない」「愛はすべて」というメッセージで乗り越えてきた時代へのある程度の理解と洞察、あるいは懐古趣味がないと、なかなか内容的な深さや面白さがつかみきれない作品だ。

すなわち、とても老若男女万人受けするコメディーでもラブ・ロマンスでもないのだが、生きるって大変よねと日常のちょっとした煩わしさや人間関係の難しさに思い悩んでいるひとには、それでも必死で生きてゆくこと、生き延びてゆくことだけが尊いのだと改めて気づかせてくれる、少し観念的な感慨をもたらす映画だったと思う。


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「結局のところ、倦怠よりは苦悩のほうがまし、静かな池より大洋の嵐のほうがましというものだ」
(バイロン卿『ヴァンパイア奇譚 真紅の呪縛』)


おまけで真央ちゃんのハロウィーン画像。

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