月船書林

フィギュアスケートの話題を中心に芸術を語る

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氷の上のメアリー・ポピンズ

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「どうなんだろう!」とマイケルが、半分ひとりごとのように、小声でいいました。
「なにが、どうなんです?」メアリー・ポピンズが、買い物のつつみを整理しながら、いいました。
「もし、あなたといっしょでなかったら、あんなことが起こったかどうかしらと思って。」
(P.L.トラヴァース『帰ってきたメアリー・ポピンズ』)

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浅田選手の新EXが「THE ICE」でお目見えした。

☆浅田真央 / Mao Asada ~ THE ICE 2012☆


今はもう既に終盤に入ったロンドン五輪の開会式でも、落下傘部隊のごとく舞い降りたポピンズ部隊が話題になっていたが、イギリスの中流家庭では馴染みの深い雇われ家庭教師を代表するキャラクターであり、愛すべき夢の住人のひとりである「メリー・ポピンズ」が氷上に現れたということである。

ポピンズはパメラ・リンドン・トラヴァースの原作によると、桜町通り17番地、バンクスさんの一家に東風に乗ってやって来た乳母という設定で、つやつやとした黒い髪をもち、やせていて手や足は大きく小さいキラキラした青い目をして、ちょっと木のオランダ人形に似ているという風貌である。

挿絵を描いたメアリ・シェパードは、やはりイギリス童話の名著である『クマのプーさん』の挿絵を描いたE.H.シェパードの娘で、父親譲りのデッサン力とイギリスらしい品のある世界観は秀逸だ。その絵のイメージからしても、ポピンズの年齢は不詳で、「マッチ売りのバート」という恋人候補がいるけれども、どうしても年の離れたカップルという風にしか見えない。

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口調は辛辣で辛口、決して子供たちを甘やかさず、しつけに厳しく、おまけにショー・ウィンドウに自分の姿を映して見るのが、街を歩く第一の理由にすらなるうぬぼれの強いナルシスト、というのがポピンズの重要なキャラクターで、何でも見通しているような賢さと万能の神通力は、イギリスの誇る名探偵ホームズにも似通ったところがあり、意地悪だが頭がいいというのは英国特有の愛すべき性格設定のひとつなのかも知れない。

だから、どこからどう見ても可愛らしい浅田選手を「ポピンズ」さながらと形容するのはちょっと難しい部分もあるのだが、そこはバートとの恋愛模様同様、「おとぎの国」の魔法がなせる技と考えるのが妥当だろう。

ところで、Mary Popinsは「メリー・ポピンズ」か「メアリー・ポピンズ」か、どちらの呼び方にこだわるかというのは、原作から慣れ親しんだか、それともウォルト・ディズニーが1964年に制作したミュージカル映画により親近感を覚えたかということに由来するようだ。

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映画はジュリー・アンドリュース主演で、ディズニー独特のアニメーション世界に生身の人間たちを紛れ込ませ、現代のようなCGのない時代にありえないような超人的アクションや夢のようなダンスを仮想現実としてフィルムに定着するという奇蹟をやってのけ、アカデミー賞五部門を受賞した秀作。
だが、ディズニー作品ではありがちのことだけれども、原作の持つ毒気がことごとく抜かれ、ポピンズの性格もかなり和らげられて、優しく温かくバンクス家を見守るというスタンスに変えられているあたりが好みの分かれるところだと思う。

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さても浅田選手のEXは、衣装デザインから音楽から、ディズニーの映画をそのまま拝借しているようなので、ポピンズの個性に本来の原作にある文学的な解釈や哲学的思想を読み取るといううがった見方をするよりも、アメリカナイズされた純粋なエンターティメント作品としてその踊りや音楽を楽しむべきなのだろう。

だがそれでもまさきつねとしては、いくつかの側面で、原作のメアリー・ポピンズの持ち味と浅田選手にしか醸し出せない重要な人間性が重なるような気がしたので、今回はそのあたりを中心に論述してみたい。


まず、『メアリー・ポピンズ』という作品について概略だが、オーストラリアからイギリスに移住した作家、パメラ・リンドン・トラバース(1899年~1996年)が書いた、いわゆるエブリディ・マジックと呼ばれるファンタジー・ジャンルに分類される古典児童文学シリーズのひとつである。

シリーズは1934年から1988年にかけて刊行され、ウィキによると一覧は以下の通り。

Mary Poppins (1934) 『メアリー・ホピンズ』『メアリ・ポピンズ』『メリー・ポピンズ』『風にのってきたメアリー・ポピンズ』『空からきたメアリー・ポピンズ』
Mary Poppins Comes Back (1935) 『帰ってきたメアリー・ポピンズ』
Mary Poppins Opens the Door (1943) 『とびらをあけるメアリー・ポピンズ』
Mary Poppins in the Park (1935) 『公園のメアリー・ポピンズ』
Mary Poppins From A–Z (1962) 『メアリー・ポピンズ AからZ』『メアリー・ポピンズ AからZまで』
Mary Poppins in the Kitchen (1975) 『メアリー・ポピンズのお料理教室―おはなしつき料理の本』
Mary Poppins in Cherry Tree Lane (1982) 『さくら通りのメアリー・ポピンズ』
Mary Poppins and the House Next Door (1988) 『メアリー・ポピンズとお隣さん』


トラヴァースに関しては2006年に現代英米児童文学評伝叢書全12巻の一冊として英米文学研究者の森恵子さんが著した『P.L.トラヴァース』が詳しいが、そのあとがきによると30年近く前、森氏が修士論文の題材として『メアリー・ポピンズ』を取り上げたいと申し出た際、指導教授から「あんな子どもだましの、でたらめな作品はない」と一蹴されたと記されている。

アニメや漫画といったサブ・カルチャーさえ大学の研究対象として真面目に取り上げられるようになった今日では、さすがにこうしたけんもほほろな物言いで否定されることはないだろうが、それでも輝ける英米児童文学の金字塔とされる『不思議の国のアリス』や先ほど挙げた『クマのプーさん』や『ピーター・パン』、あるいはフランスの『星の王子さま』といった作品群に比べるといかにも、『メアリー・ポピンズ』を正面から取り上げた評論は少なく、「子どもだましの、でたらめ」と突き放される不思議な謎に満ちた空想世界を分析したり、その魅力を解明したりしようとする文学研究者は決して多くはないようだ。

この理由や諸事情は後でまたまとめて記すとして、「子どもだましの、でたらめ」とある種の人には理解されないポピンズの物語やその不可解きわまる個性から溢れ出る魅力の秘密は、一体何に由来するものか。

そもそも「メアリー・ポピンズ」という人物像は何か、魔女か、はたまた妖精かという興味深い視点から書かれたいくつかの論文があるので、たちまちそれをご紹介しながら、彼女がバンクス家の子供部屋にかけた魔法の秘密に迫ってみよう。

最初に、メアリー・ポピンズを「魔女」と位置付ける捉え方についてだが、それは無論、醜怪な風貌で箒に乗って空を飛んだり、魔術を使ったりするような類いの悪魔的なイメージのものではない。

彼女は確かに、傘を片手に空からやってきた不思議な異次元の人である。
太陽や星と旧知の知り合いであり、古代ギリシャの神々と親しく交際し、カラスや犬といった動物たちと言葉を交わす、まるで創世記の宇宙に昔から関わっているような印象の、神かキリストに近い感覚の神秘的な存在なのだ。
だが一方でその風貌は、少しばかり怒りっぽくてうぬぼれが強く、傍目のおしゃれに気遣う普通の女性と寸分変わりなく、大抵は常識的だが時には理不尽な理由で子どもたちを抑えつけることもある、ごく一般的なナニー(子供の世話係)に過ぎない。

勿論、「魔女」という存在それ自体、一辺倒なイメージで捉えられるものではなく、比較文学者の佐藤宗子氏の論文『「魔女」という見立て…日本における「定着」をめぐって…』によると、物語に出現する「魔女」には大別すれば二つだが、幾種類かの体系分けが可能であり、また児童文学の範疇ではとらえきれない「魔女」の性質もあり、その区分の中において「非日常と日常がもう少しからむ『魔女』たち」として、「メアリー・ポピンズ」や「長くつ下のピッピ」といったキャラクターを挙げている。

そして最も興味深いのは、この論文の中で紹介されている児童文学作家の上野瞭氏による『魔女失格』というメアリー・ポピンズ論で、上野氏は「魔女」というのは「もっとわるいものじゃないのか」という持論を元にメアリー・ポピンズを「うさん臭い魔女」と位置づけておられるのである。

『魔女失格 メアリー・ポピンズ論』

上野氏の論旨は、バンクス家の子どもたちが乳母の後にくっついて歩く「いい子」であることを条件に、魔法を見せるポピンズのやり方は「反則」だというもので、彼の言葉を引用すると「彼女自身が、もうそれだけで、ひとつの学校みたいなものだ。子どもたちすべてを、言いつけどおりに従わそうとする。すごく意地悪の教師なのだ。人間の日常的秩序の維持に献身する魔女。ぼくは、そこに、『うさん臭い』ものを感じるのだ。」という否定的な見方に落着する。

実は、作中の登場人物にしろ作品を読む読者にしろ、メアリー・ポピンズの生み出す世界に抵抗なく心酔する子どもたちに関して、彼らを、現実を肯定し現状を維持することに対してなんら疑問も批判精神も持たない、大人のすることに対してすべて受け身のいわゆる「いい子」に属する優等生と断定する一方で、『メアリー・ポピンズ』をつまらない、面白くないと評する部類の子どもたちがおり、その観点からファンタジー作品としての『メアリー・ポピンズ』の抱える課題やポピンズという人物像の問題点を論じている児童文学の研究者は、上野氏だけではないのである。

児童文学作家の安藤美紀夫氏は、『世界児童文学ノートⅡ』という著書で上野氏の意見を肯定的に紹介し、家政婦という「雇用された魔女の限界」があり、それは「明らかに時代がもたらした限界」であると論じている。

『ゲド戦記』の翻訳者、清水真砂子氏も『「メアリー・ポピンズ」のファンタジーについて』という論文の中で、「ファンタジーとは単なる遊びごとではなく、たとえ直接的でないにしろ、私達の現実の生活の中に隠れている可能性を見つけ出して、それによって現実を変革していくエネルギーとなるもの、そういう何か非常に創造的なもの」という独自のファンタジーに対する見解を述べられた上で、「『メアリー・ポピンズ』の作者にとって、実際に自分のいる世界は、根本的にはもはや何らあらためて検討するには及ばない世界」とトラヴァースの作品について、現実に対する変革精神のないその非創造性を危惧しておられるように思われる。

もっとも清水氏は、上野氏や安藤氏のように、現状維持の厳格さ故に「魔女失格」のポピンズと、ファンタジーの受け身である故に「いい子」の枠をはみ出さないバンクス家の子どもたちという登場人物の構図によって、単純に「つまらない」「おもしろくない」本と言い捨てるのではなく、「これほど自由自在に空想の世界と現実の世界との間を行き来する物語」はないとも論じておられるし、「ポピンズは明らかに超人でありながらも、現実の世界の人間の持っている性質も兼ね備えているということ、つまりひどく日常的な面をもっている」ことに魅力があるとも評しておられるので、決して「メアリー・ポピンズ」というキャラクターに創造性豊かなファンタジーの可能性のすべてを否定しておられるわけではないと受けとめられる。

そもそも上野氏のいうような悪いものであるべき「魔女」という位置づけがメアリー・ポピンズの本来の設定にどこまでそぐうものであるのかどうか、原作者であるトラヴァースの創作意図の中に本質的にあったのかどうか、まさきつねには到底思えない。

有体に言えば、ポピンズの物語世界は上野氏の論じるように本当につまらないのか、読者である子どもたちにとっておもしろくない本と否定されるものなのか。
正直なところ、まさきつねは、この結論に納得したくないのである。


ポピンズに魔女的な超自然的な霊力に結びつく神秘性を与えているもの、それはとりもなおさず、オーストラリア出身の原作者トラヴァース自身が持っている独特の、宇宙を含む自然観と、霊魂や神話や祖先に対するアプローチに機縁するものだと考えられる。

トラヴァースは、スコットランド人の母とアイルランド人の父を持ち、1906年、オーストラリアの北東部クイーンズランドで生まれ、子ども時代を豪州独特の豊かな自然に囲まれて過ごしたという。家の近くには、紺碧の海と珊瑚礁ブレート・バリア・リーフが広がり、振り返ると見渡すばかりのサトウキビ畑という環境で、トラヴァースは浜辺で珊瑚の欠片や貝を拾ったり、サトウキビ畑を密林に見立てて探検したりという幸福な幼少期を過ごしたようだ。

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この写真は、オーストラリアからイギリスにやってきて、作家としてデビューした頃のもの。

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ケルト民族の血をひく両親からの影響がどれほど濃いものかは分からないにせよ、トラヴァースは、妖精物語などのケルトの伝承や、イエーツやジョージ・ラッセルといったケルトの詩人たちとの交際から強い感化を受け、古い「神話の世界」に鮮烈に惹き付けられてゆくことになったらしい。

森恵子氏によると「世界の調和はトラヴァースの生涯のテーマである」ということだが、ケルトの詩人たちもまた、古くから語り伝えられてきた伝承文学の中に拡がる豊かな空想世界を現代と結びつけて、再生しようという試みをしている。トラヴァースの書いた『メアリー・ポピンズ』は、まさに古いものと新しいもの、非日常と日常世界という対立するものたちの調和と共生を、児童文学というジャンルで試みた作品であったということなのだ。

トラヴァースが繰り返し語っているのに「わたしとしては、いっときたりとも、わたしがメアリー・ポピンズを作りだしたなどと思ったことはありません。きっと、メアリー・ポピンズが、わたしを作りだしたのだと思います…」という逆説めいた言葉があるが、確かに「メアリー・ポピンズ」には世界の創生に関わり、生きものや自然のすべてを包み込んで繰り返し物語を編み出してゆくようなエネルギーが充ちている。

トラヴァースのこころの中には早くからポピンズが存在していて、その物語を繰り返し彼女の妹や周囲の人たちに語っていたのであり、それはポピンズのシリーズがどれをとっても実は、「メアリー・ポピンズの来訪」、「メアリー・ポピンズの親類縁者にまつわる騒動」「バンクス家の子どもの一人が反抗的態度を示す」「メアリー・ポピンズが外出する」「メアリー・ポピンズが昔語り(題材はイギリスの諺や伝承、あるいはマザーグースにちなむもの)をする」「メアリー・ポピンズ帰る」という、出来事や登場人物は異なっても大まかな部分で同じ設定のエピソードが積み重なっているという、大筋で似たような構成で成り立っていることからも、うかがい知ることが出来るだろう。

このようなエピソードの繰り返しもまた、いわゆるステロタイプに陥り過ぎていて、前述の上野氏や安藤氏らが言う「つまらない」「おもしろくない」という感想に結びつくのかも知れないが、逆の側面からとらえるとこの繰り返される物語のリズムというのも、実際はポピンズのシリーズを読む上では大変重要になるので、奇想天外な話をイギリスの一般家庭に次々と持ち込むメアリー・ポピンズこそ、神話的世界の人物にほかならず、またその伝承者たり得るのだということが考えられるのだ。

日本イギリス児童文学会の会長を勤めた児童文学者の谷本誠剛氏の論文『魔法ファンタジーと季節の神話』の中では、「現代の作品である『メアリー・ポピンズ』には、キリスト教のイメージはない。むしろポピンズにあるのは、ペローやグリムの昔話に出てくる『賢い女』(ワイズ・ウーマン)のイメージである。いまでは(ワイズ・ウーマン)は一般的には『魔女』と訳される。かつて『賢い女』は、自然界の秘密に通じた呪者としてあがめられた。しかし、唯一神しか認めないキリスト教が広まるなかで、彼女たちは魔女としておとしめられるようになった。ポピンズにはその『賢い女』のイメージがあるのである。(中略)子どもを守る者であり、不思議な力を持つポピンズは、『シンデレラ』の妖精に似ている。シンデレラにかぼちゃの馬車や豪華な衣装を用意する人物は、仙母とか代母と呼ばれる。ポピンズもまた、シンデレラの仙母と同じに、子どもたちにとってあくまで頼りがいのある中年の『賢い女』なのである」という、賢女としての魔女や妖精に擬えて語られている。

まさきつねも、「魔女」とか「妖精」といった存在が上野氏の言うように必ずしも悪さをしなければならないキャラクターというより、知恵を持ち、相手にそれを授ける者としての役割を見なす方がしっくりくるので、この解釈は実に腑に落ちる。

子どもに媚びず、大人におもねらず、彼女の周囲が巻き起こすドタバタを実に手際よく捌いて整理整頓しながら、世界の不思議と神秘を夢のような楽しさで子どもたちに伝え、宇宙の謎を解き明かすヒントを決して大げさではない魔法でほんの少しだけ披露してくれる稀有な存在…メアリー・ポピンズを子どもたちに惹き付けるその魔力は、決して彼女が使う魔法にあるのではなく、それを見事に操って世界全体の調和を図っていく彼女自身の賢さにある。
その証拠に、バンクス家の子どもたちはメアリー・ポピンズの後についてゆき、そのめくるめく夢のような世界を楽しみながらも、将来的に彼女のような魔法を使いたいと願うのではなく、彼女のように賢くなりたいと考える。

『公園のメアリー・ポピンズ』の最後でマイケルとポピンズがかわす会話は、バンクス家の子どもたちが何の思慮もなくただ受け身でポピンズの作り出すファンタジーに溺れ、「いい子」であることに専心していたと上野氏のように解釈するのはあまりにも浅慮と考えられる、深い意味が込められているように思う。

あいかわらず不思議な出来事の起こったハロウィーンの次の朝、あれは夢なのかそうでないのか思い悩む子どもたちと、いつも通りしらばっくれるポピンズとの間でのやりとりである。

「きょう、あなたのお誕生日なんでしょ、メアリー・ポピンズ?」と、マイケルがにやっとしながら聞き、「おめでとう、メアリー・ポピンズ!」とジェインがポピンズの手を叩く。ただよいかけたうれしそうな微笑を途中でやめて「だれがそういってました?」と鼻をならすメアリー・ポピンズに、マイケルは胸中で次のように感じている。

「(本文ママ)マイケルは、よろこびと勇気で、いっぱいでした。もし、メアリー・ポピンズが、ぜったいに、説明ってことをしないっていうんなら、そうだ、ぼくだって、することはないんだ! マイケルは、くびをふって、にっこりしました。
『だれでしょうかね!』マイケルは、きどった声で言いました。メアリー・ポピンズと、そっくりに。
『まあ、失礼な!』メアリー・ポピンズが、マイケルに、とびかかりました。しかし、マイケルは、笑いながらさっとテーブルをはなれて、子ども部屋からとびだすと、階段をかけおりました。ジェインが、すぐあとを、追ってきます。…」

あくまで誤解してはならないのは、トラヴァースが描いたメアリー・ポピンズは有能な乳母であり、超能力者ではあるが、人外的な怪物でも魔法使いでもなく、またバンクス家の家族もごくありふれたどこにでもいるような人たちで、「怠け者のロバートソン・アイ、いつも鼻風邪をひいて子供達を邪険に扱うエレン、時にかんしゃくを起こすバンクスさん、気をくさらせていたずらを起こす子どもたち」など、とても理想的な家庭と呼べる代物ではなく、むしろどこにでもある典型的な問題を抱えた平凡な家族の営みが、丁寧に扱われているのだという点だろう。

エッセイ『ただ結びつけることさえすれば』の中でトラヴァースは昔話について、「創られたものではなく、呼び出されたもの」と語り、「…わたしたちはおそらく、生まれながらにしておとぎ話を知っているのだろう。それは数限りなく繰り返し聞かされてきたおとぎ話の記憶が、祖母やそのまた祖母といった遠い祖先からずっと血の中を流れ続けているからで、わたしたちがはじめておとぎ話を聞いたときに感じる衝撃は、もの珍しさではなく、なつかしさからくるものだ。長い間、知らず知らずのうちに知っていたものが突然思い出されるのだ。…人間は結局、どんな物語であれ自分の物語の主人公になるしかないのだということを、わたしたちが理解するために、おとぎ話は語られねばならない。」と主張している。

つまり、ポピンズのシリーズで語られるひとつひとつのエピソードにはどれも特別な意味がある訳ではなく、そこで誰かが飛躍的な変化を遂げるわけでも特別な成長を見せるわけでもなく、多くはナンセンスな笑いやユーモアや機知に富んだ読み物的な面白さ、時として風刺が盛り込まれた訓戒譚のようなものだが、それらが前にも述べたようにリズムよく畳み込まれた先に、物語の行間や背後から透けて見えてくるものが重要となってくる。

この世にあるあらゆるものが、出会い、別れる瞬間、ポピンズの積み重ねられた物語はすべて、その瞬きのような時間が繰り返し描かれているので、そしてその根底には、人びとが決して忘れてはいけない宝石のような時間をいかに思い出し、そしていつまでも忘れないすべを身に付けるかという、日常生活においてごく当たり前のようで実はとても難しいことを幾度となく読者に伝えたいという、トラヴァースの意図が隠されているのである。

たとえば『さくら通りのメアリー・ポピンズ』で描かれる公園番の話は、夏至祭りの不思議な出来事を背景に、それまで孤独で自分自身のことも半ばよく分からなくなっていた男がポピンズとの接触で忘れていたものや実際の自分を再発見する瞬間を秀逸に伝えていて、この作品の真の意義を明確にしていると思う。

公園の中に一堂に会した空の星座や動物たちが祝う夏至祭り。シリーズに登場した鳥のおばさん、コリー夫人やターヴィーさんといった人物たちが次々に場面に現れるうちに、帽子をなくしてしまった公園番は、他の人の帽子をかぶったために「自分の帽子をかぶっていない公園番は、公園番じゃない」と言われてしまう。
常識的な考えにこりかたまっていた公園番は、ポピンズにぶつかり、バンクス家の子どもたちを見、そしていつのまにか信じられないような夏至祭りの奇想天外な世界で、突如失っていた意識を取り戻した人のように気がつくのである。

「子供の頃、このような姿形のことを知っていましたし、ここに居ないもののことも知っていました。…」

知っていたのに忘れたり、つまらないことだと否定したり、嘲笑ったり、自分がいかに多くのものを失っていたかを理解した公園番は、溢れだす涙を両手で隠しながら、改めて自分自身を取り戻し、本来の自分が帰るべき場所を思い出すのである。

メアリー・ポピンズという存在を通じて、突如として破られる現実の薄い膜、不可思議なものたちの日常への突然の侵入が、子供部屋のように狭いけれども温かな愛情に溢れた家族という、安らけく世界への認識を新たにさせ、そしてごく普通の常識人としての周囲に対する優しさや労りという行動パターン、あるいは人間が生来持ちあわせているはずの慈しみや思いやりといった感情を呼び覚ますのだ。

それは結局、いずれ失われゆくもの、手放さざるを得ないものへの深い哀惜となって、二度と帰らないメアリー・ポピンズ、子どもたちが大人への扉を開けたが故に永遠に閉ざされてしまった子ども部屋の扉への強い憧憬、懐かしいものたちへの追慕の思いといった感覚を読者にもたらすことになろう。

メアリー・ポピンズの物語は、冒険に胸躍らす子どもが最終的にたどり着きたいと願うような驚異の世界には決して不時着しない。

「わたくしは子どものために書いているのではないというのが、わたくしの堅い信念で、子どものために書くという考えは、てんからわたくしの頭のなかにはないのです。」とトラヴァースは述べているが、彼女は物語の効能として自分自身の再発見、過去の自分との邂逅という、かつて子どもであった者たちが決して忘れてはならない大事なものを再認識し、あるいは見失ってはならない実際の自分と再結合するための瞬間を求めているのである。

自分が何者で、どんな子どもであったか、それを絶えず思い出して決して忘れないということは、メアリー・ポピンズの作品中で、もっとも大事なテーマであることは確かであろう。
ジェインとマイケルをめぐる話にも、同様のことが語られていて、『とびらをあけるメアリー・ポピンズ』の最後にも印象深い場面になっている。

「ジェインとマイケルは、やさしい気もちが胸いっぱいになってきたので、息をこらしました。ふたりのかけた願いは、生きている限り、メアリー・ポピンズを忘れないように、ということでした。どこで、どうして、いつ、なぜ…そんなことは、どうでもいいことでした。ふたりの知る限りでは、こういう質問には、答えは得られないのです。ふたりの上の空をすべってゆく、きらきらした姿は、永遠に、その秘密をあかさないでしょう。けれども、これからの、夏に日々、冬の長い夜毎に、ふたりは、メアリー・ポピンズを思いだして、いわれたことを考えるでしょう。太陽も雨も、ふたりに、彼女のことを思い起こさせるでしょう、鳥も獣も、季節の移り変わりも。メアリー・ポピンズ自身は、飛んでいってしまいました。しかし、残した贈りものの数々は、いついつまでも、失われることはないでしょう。
『けっして忘れない、メアリー・ポピンズ!』ふたりは、空を見上げて、つぶやきました。」

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さて、思いのほかポピンズの作品論が長くなってしまったが、ひるがえって浅田選手の『メアリー・ポピンズ』について。

冒頭にも述べたが、無論浅田選手にはとても、メアリー・ポピンズを彷彿とさせる中年の賢い「魔女」のイメージに重なる部分はない。

浅田選手もそれは重々分かっているから、あえてディズニー映画のポピンズのイメージの方で世界観を固めて、黒いこうもり傘や堅苦しいジャケットといった原作のポピンズをインスパイアするものは避けたのだろう。

しかしそれでも、楽しく夢に溢れていた子どもだった頃を忘れない、いやたとえ、忘れてもきっとまたいつかどこかで思い出して、豊かなこの世界からの贈り物を繰り返し何度も受け取るような、そんな人間への讃歌を浅田選手の演技はメッセージとして伝えている。

メアリー・ポピンズというキャラクターを通じてトラヴァースが世界にかけた魔法の欠片、子ども部屋の狭い空間から飛び出すための物語という秘密の扉をこじ開けて、繰り返しこの世界に再生されてきたファンタジーの欠片は確かに、浅田選手の氷上のダンスの端々に散りばめられて、彼女のスケートを観た誰もに、もはや幼少期にはたとえ二度と帰れないにしても、あのころの純粋な心を取り戻せなくても、決して忘れてはいけない幸福のありかを教えてくれているのだろう。

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最後に蛇足ながら、EXで使用されていた音楽について。

ミュージカル「メリー・ポピンズ」は、ディズニーの映画が先にヒットして、それからブロードウエイの舞台になった。音楽は、ディズニー映画専属チームのようなシャーマン兄弟によるもの。

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映画主演のジュリー・アンドリュース、制作者ウォルト・ディズニー、そして原作者パメラ・リンドン・トラヴァース。トラヴァース自身は映画の出来が甘すぎ、音楽もあっていないとディズニー映画に不満を抱いていたらしい。

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リチャード・シャーマン、ロバート・シャーマンの兄弟とジュリー・アンドリュース。

音源はおそらく映画のサントラだと思うが、歌付きの楽曲を織り交ぜながら映画中の著名なナンバーを網羅して、作品の印象的な場面を思い起こさせるような聴きごたえのある編集がなされている。

各曲の詳しい解説はまたの機会に譲るとして、とりあえずEX演技に沿った音楽の構成は次の通り。

1、『2ペンスを鳩に』Feed the Birds(インストゥルメンタル)
映画本編では、銀行家のバンクス氏がポピンズに子どもたちの社会勉強として、自分の職場である銀行見学を頼まれたというエピソードの序曲のように、普段疎遠な父との外出の日を前に寝付けない子どもたちにポピンズが歌って聞かせる子守歌。
自分の仕事や資本主義的な考え、あるいは英国的な伝統、勤勉、道徳心といったものにしか関心のない父親と、ポピンズの歌の通り、おこずかいで鳩の餌を買おうとする息子マイケルの間に繰り広げられる2ペンスの攻防が、何とも世智辛いながら奥の深い家族や世代間の問題、あるいは社会的な時代背景の問題など、さまざまに興味深いテーマを含んでいた。
晩年のウォルト・ディズニーが週末ごとにシャーマン兄弟をオフィスに呼び、「あの曲をやってくれ」と頼んだという語り草もある。作曲者であるシャーマン兄弟も当時を振り返って「これだけは、原作に忠実に作った。」「映画メリーポピンズで言いたかったことのすべてがここにある。」と語っているという。

2、『お砂糖ひとさじで』A Spoonful of Sugar(インストゥルメンタル)
原作ではバンクス家に来たばかりのポピンズが、嫌がる子供たちにスプーンについだ薬のようなひとさじをなめさせ、それが同じ瓶からついだにもかかわらず、子どもたちそれぞれに違う味のおいしい一口だったという、印象的な場面がある。
映画はこのエピソードにひねりを与え、ちらかった部屋のお掃除を渋る子どもたちに「どんな仕事も楽しくやる方法があるのよ。そのコツを見つければ仕事はゲームになるから!」と教えるポピンズらしい魔法の歌になっている。
どんな苦い薬も、ひとさじの砂糖で簡単に飲めるように、やりたくない仕事も、考え方ひとつで楽しいゲームになる。同じ時間なら、落ち込むよりも楽しく過ごした方が良いに決まっている。魔法というのは本来こんなものという、この作品のメインテーマのような楽曲。

3、『チム・チム・チェリー』Chim Chim Cher-eeアカデミー歌曲賞受賞曲(歌付き)
ある時は大道芸人、ある時は絵描き、ある時は凧を飛ばし、ある時は煙突掃除屋さんと多彩な活躍を見せる、ポピンズの恋人、バートが歌うあまりにも有名なメロディーである。
どこから来てどこへ行くのかわからないポピンズと違い、いつも身近にいて、決して離れたりせず見守ってくれ、きっと頼りになる存在というバートは、それでもポピンズ同様、この世になくてはならない喜びの魔法を周囲にかけるのである。
この曲の歌詞は、イギリスに伝わる「煙突掃除屋と握手をすると幸運が訪れる」という言い伝えによるものらしいが、厳しい汚れ仕事と思われがちな煙突掃除であるからこそ、ロンドンの最も高い屋根の上から最も美しい夜景を見ることが出来、街の隅々に隠れている真実に触れることが出来るという、英国らしいシニカルな逆説に充ちている。

4、『スーパーカリフラジリスティックエクスピアリドーシャス』Supercalifragilisticexpialidocious(インストゥルメンタル)
ロバート・シャーマンによると、「この単語はよくあるでたらめな言葉 (gibberish) である」とのこと。現在でも、早口言葉やパロディの題材、あるいは携帯の早打ちを競う大会など、長大語の演目に使用されるらしい。
バートが描いた不思議な絵の世界で、競馬に勝ったポピンズがリポーターの取材攻勢を受け「この言葉を唱えればすべて解決」と歌う、一種の呪文のような歌詞になっている。作品全体でさまざまな場面の登場人物に繰り返し歌われ、映画の終わり頃で銀行を首になったバンクス氏がこの言葉を思い出し、吹っ切れたように楽しげに去っていくのが、このミュージカル映画のひとつの山場だろう。

5、『お砂糖ひとさじで』A Spoonful of Sugar(インストゥルメンタル)

6、『スーパーカリフラジリスティックエクスピアリドーシャス』Supercalifragilisticexpialidocious(歌付き)

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一さじのお砂糖を一緒に飲めば
お薬だって
簡単に飲める
一さじのお砂糖を一緒に飲めば
お薬だって飲めるよ
駒鳥さんは忙しそうに
飛び回っては
小枝を集めて巣作りに励む
でもその合間も
歌うことは忘れない
そのほうがはかどるって知ってるのよ
一さじのお砂糖を一緒に飲めば
お薬だって
簡単に飲める
一さじのお砂糖を一緒に飲めば
お薬だって飲めるよ
ミツバチさんは蜜を求めて
花から巣へと飛び回る
でも少しも疲れを知らない
だってそうしながら
なめることだってできるから
こうして
探すのよ
楽しい仕事なのよ
一さじのお砂糖を一緒に飲めば
お薬だって
簡単に飲める
一さじのお砂糖を一緒に飲めば
お薬だって飲めるよ

(『お砂糖ひとさじで』)


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