月船書林

フィギュアスケートの話題を中心に芸術を語る

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春の日の記憶

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シニアデビューとなったシーズンの終わり、浅田選手は中学校卒業と高校入学の時期を迎えた。

以前の記事でも少し触れたことがあるのだが、シニア戦に参加し始めたころから多忙さが増したためとは思うが、浅田選手が学校に通っていなかったとか修学の単位所得の努力をしていないとか、おそらくはほとんどがいわゆるアンチの集まりであろうが、かまびすしい議論を繰り広げているブログやサイトがネット上にいくつか見受けられる。
しかも親や身内でもあるまいし、やれ小学生は小学生らしく中学生は中学生らしく人格形成のための教育が必要とか、やれ将来のためにも常識や知識を身に付けるには学校での勉学が大事とか、いかにも親身に相手を案じた正当な意見であるかのような論理を、ネットの正義であるかのような口調で口々に披瀝している。

何となく読んでしまった側も、そのあまりの欺瞞の頓珍漢ぶりと恩着せがましいお節介ぶりにこちらが気恥ずかしくなり、いたたまれなくなるほど偽善の発想極まりない、二枚舌のオンパレードなのである。

そして浅田選手の卒業、進学に関する話題がニュースに上るたびに、このようなアンチによる叩きが繰り返されるのだから、これもいわゆるアイドル的存在にはつきものの有名税なのかも知れないが、人気者であるが故の宿命も辛すぎるものがあるなと、毎度ため息をつきたくなるのである。

ところで、浅田選手が学校に通わなかったから、彼女の知性や人間性に何らかの問題があるという非論理的な理屈を平気で捏ねている輩にとって、日本の学校教育のシステムやそこで学習する教義内容、あるいは教師や生徒間との人間関係が、かなりの重要度で人間の学習能力や知的頭脳形成、人格形成に関係してくるという、途轍もない期待や幻想が現代においても厳然としてあるということなのだろうか。

そうではあるまい。

日本も含め、世界的な先進国ならどこも軒並み高い数値を示す就学率の裏側に、教育関係者なら誰でも頭を痛めざるを得ない通学率、いわゆる不登校の問題が隠れていることは今日において自明の理だ。

そして不登校という現実に突き当たる要因は実に多義的で、病気や停学などの物理的要因以外にも、いじめ、学業不振や浮きこぼれなどの教育問題や、家庭の貧困、学校価値の絶対的・相対的な低下に伴う魅力減少、その他各人の抱える個人的な問題が引き起こした結果がある訳で、学校に通学することの是非など、とても一括りに語れないことは、容易に察することができるのである。

いささかこちらも理屈っぽい文章を書き連ねるのがうんざりしてきたので、この辺りでやめにするが、結局のところ、通学しようがしまいが、ひとが他人を思いやることができ、他人の辛苦を自分の痛みとして感じ、いたわりの言葉や行動に表現していけるかどうか、そのような人間教育の問題は学校という教育機関だけでなく、社会全体が請け負うべき課題で、その上で、従来の教育システムの枠組みに嵌めることができない、スポーツや芸術といった特殊技能や才能の開花のための道筋も考慮していかねばならないということに尽きるのだと思う。


さて話が変わるが、もうひとつ浅田選手批判に関して、まさきつねが以前から気にかかっているのは、「子供っぽさ」「子供らしさ」という感想についてである。

このシニアデビュー前後、つまり十五歳前後の浅田選手自身に特化して言えば、まさに彼女自身がまだ十代前半の「子供」であり、その演技表現がどんなに「子供っぽい」あるいは「子供らしい」ものであろうと、年齢からすればそれが当然なことなのであり、たとえ賞賛には値しなくても、そもそも批判や非難するべき論点ではないということであろう。

(ただし、ジャンプやスピンといったスケート技術に関しては、とても「子供っぽい」とか「子供らしい」とは論じえないレベルであったことは確かなのだろうけれども。)

とりあえず「子供っぽい」「子供らしい」という形容についてであるが、これは果たして元来、貶し言葉や辛口の酷評という類いのものなのだろうか。

まさきつねがおもしろい事例だと感じたのが、「はるかぜちゃん」というツイッターへの批評で、公表されている個人情報では現在中学一年生の子役タレント春名風花さんなのだそうだが、三歳から携帯電話を与えられ、「ぼく」という一人称でブログを書くようになったということだ。

春名さんの社会的な個人事情が一般の小中学生に比べて、どれほど特殊であるかということは推測の域であるけれども、まさきつねが実際見聞きしているのは、彼女自身のブログやツイッター発言に関して、特に「子供」「女」「ブス」という言葉をキー・ワードに批判や悪口、あるいは誹謗中傷めいた投稿が相次いでいるということで、それに対する春名さんの切り返しが大人顔負けという絶賛を浴びているという報道である。

小中学生の春名さんが「大人顔負け」というよりも、彼女に汚い日本語で罵詈雑言を浴びせる側が小中学生レベルで「子供染みている」ということだろうと思うのだが、このような低次元で「子供らしい」がまるで悪いことの描出であることと扱われ、「大人っぽい」こと、もしくは「分別臭い」ことがむやみやたらに持ち上げられる傾向は、何だかこれも今の現実社会の歪みを体現しているようでもの悲しくなる。

まさきつねが普通に感じるのに、春名さん自身は特に「子供っぽく」も「大人っぽく」もなく、ごく一般にいる年齢相応の「子供」であるに過ぎず、その発言がたまたま、一般の多くの子供が関わることのないブログやツイッターというネット・ツールの中で突出して取り上げられたということなのだろうと思う。

まさきつねが日々接している一般中学生の大多数が、ともすれば実年齢よりも一人前の「大人」の人間として扱われたがるものだし、春名さんのような、何かにつけ大人以上に大人をやり込めようとする正義感あふれる発言や行動に出たがるものだということは、今も昔も変わらぬ成長期の情動だろう。

多くの場合、生意気で猪口才であるのも、いっぱしの口をききたがるのも、ごく普通の子供として当然のことだし、春名さん自身も「芸能人であること以外」は、自分は普通の子供だと自覚されているようなのだが、ネットの大人から「おとなの顔色うかがう可哀想な子ども」と言われるのは嫌だったようで、あくまで「じぶんがじぶんであるためにたたかう」子どもでありたいというのがスタンスのようだ。

まさきつねからすれば、そのどちらも社会的弱者の立場に身を置かざるを得ない「子供」という存在にとって、致し方のない一面だと思うわけで、春名さんの発言を借りれば「ぼくはふつうの子どもだけど、たくさんの、ほんとにたくさんの人に愛されてるんだ」とツイートで表出できるくらい、幸福な日常に平凡に暮らせる子供なら「あきらめと泣き寝入り」をせずに時にそれこそ子供であることを盾にした甘えや弱みも見せつつ、ネット上の大人らしき相手に忌憚なく食ってかかれるのだろう。
そしてその反面、自分には責任のない何かの不幸な出来事で「あきらめと泣き寝入り」という現状を飲み込まなけばならなかった子供たちは、もがき抵抗するすべを持たずにどうしようもなく周囲の大人の顔色を窺わねばならぬ現実に直面させられたことだろうと理解する。

春名さんは「あきらめと泣き寝入りだけは、おとなは子どもに教えてほしくないんです」と切々と訴えるが、本当のところ現実社会で、子どもたちにそれを進んで教えたいという良識ある大人は決して多くない。

だが、どうしようもない現実の壁、おぞましい社会の闇が時として大人も子供も関係なく襲ってくるという運命の理不尽さは、誰もが受けとめるべきこの世の倣いで、そこに「あきらめと泣き寝入り」という現状といかに折り合いをつけるかという生きるための必死の選択が誰しも必要になる。
それが成長という過程で、おとなもしくは年長者という立場にある者が年少の子どもに示唆すべき、最後の道筋ではないのかとまさきつねは思う。

話が大きく逸れてしまったが、まさきつねが述べたかったのは、「子供らしく」いられるというのは、究極のところ、絶対的な子どもの幸せを意味するのであり、春名さんにしても浅田選手にしても、彼らが真実「子供っぽい」「子供らしい」子どもであったとしたなら、それ以上の幸せはない、それこそが多くの人に愛され、見守られてきた幸福な少女時代の証ということなのだと思う。

しかし、春名さんはともかく浅田選手の場合は実際どうなのか、と考えたとき、まさきつねは彼女は多くの折節で、決して「子供っぽく」も「子供らしく」もなかったし、そのような発言も行動もしてこなかったという感想をいだく。

では「大人っぽく」「大人らしく」発言していたか、もしくはあまり好い表現ではないが「おとなの顔色うかがう」態度だったかと言えばそんなことは決してなく、前にも引用したがライターの宇都宮さんが書いていたように、浅田選手の発言や行動、態度はしばしば「純粋で、愛らしくて、まるで赤ちゃんのよう」に感じられて仕方がないものだったという気がする。

「赤ちゃんっぽい」「赤ちゃんらしい」という言語表現にしてしまうと、浅田選手でなくとも大方の人間はおそらく、むしろ小馬鹿にしているのかと腹を立てるだろうが、その無垢さ純真さは、ほかにたとえようがないのだから仕方がない。
山田コーチのように「天使みたいなんですよー」と大らかに言ってしまうのが一番なのかも知れないが、明らかに普通の「子供」とは違う、あけすけで良い意味でずぼらな無邪気さというものがシニアデビュー前後の浅田選手には漂っているのである。

こうした彼女の言動を「(大人の理想の)子供らしい」という意味で、「子供っぽい」と喩えているのなら、幾分わからなくもないが、単純に善悪の分別もつかず思慮の足りない「子供」、大人たちの言いなりになっているだけの「木偶」という揶揄を込めて、アンチの胡散臭い人間たちがネットやメディアで「子供っぽい浅田真央」という風評を垂れ流し、イメージダウンの印象操作を図ったとしか思えない側面があるので、つくづく言葉の力、悪意に充ちた表現による情報コントロールというのは怖ろしいものだと感じる。

いずれにしても、春名さんにしても浅田選手にしても、「大人っぽい」と形容されることが決して手放しの褒め言葉ではないように、「子供っぽい」と評されることもその年代においてはまったく誹りや辱めと受けとめるべきことでも何でもない。

ただ然るべき年齢に成長した際に、その人間的本質において浅田選手のような「子供のごとく」純粋さや無垢さを保ち続けていることは真に稀なことなのであり、それゆえにその演技や立ち居振る舞いから感じる印象を、「子供っぽい」「子供らしい」という誤解の生じやすい形容詞で言い捨ててしまうのがいかに危険かということも、多くの良識ある人間なら肝に据えておくべきことなのだろうと思う。


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このシーズンの最後5月14日に、さいたまスーパー・アリーナで行われたジャパンオープン2006に本田武史選手、高橋選手、安藤選手とともに参加。途中のエキシビションでは、荒川選手が演技するという豪華な顔ぶれだった。
まさに成長期の真っ只中だった浅田選手は、前年『くるみ割り人形』で着用したピンクの衣装の袖に腕を通すことができないくらいの身体的変化があり、舞選手の衣装を借りる羽目になったらしい。

薄い紫のふんわりした衣装はやわらかな天女の衣のようで、浅田選手にも良く似合ったが、まだちょっと背伸びした大人っぽさもあり、そのアンバランスさが楽曲にまったく異なるイメージをもたらした。
大人たちに隠れて遊ぶあどけない人形というより、秘密をささやく妖精的な雰囲気が強くなった気がしたが、これもまたひとつの、幼い少女期との精神的決別の表れだったかも知れない。


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やさしい春風が吹くような穏やかで平和な子供時代を過ごすことは出来た者は、それだけで幸福な人間とまさきつねは思う。
だがいずれ、春の嵐のように烈しい災禍は、多かれ少なかれどんな人間にも訪れるのだ。

そしてそんな苦しみと辛さに胸が押しつぶされそうなとき、理不尽な悲しみや悔しさを噛みしめねばならぬときにも、明るい日射しの降りそそぐ春の一日のような思い出が、一瞬の光のような優しい思いが、幸せと希望のもたらす温かさをあなたのもとに届けてくれるだろう。

それは儚いまぼろしのように、甘い砂糖菓子のように舌先で溶けてゆくつかの間の夢かもしれないが、どうせひとの一生も、春の日に遊ぶ胡蝶の夢と先人は言っていた。

同じ夢ならば、温かな陽だまりのような優しい光に充ちたものの方が好い。

どうせいつか消えてゆく、まぼろしのようなものならば、せめて陽の当たる場所の芝土の温もりのように、いつか思い出した誰かの胸を、ほおっと暖める優しい思い出であって欲しい…

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私は一人の小さな女の子を思ひ出す、
それはリュクサンブール公園の五月の或る日のことだつた。
私は一人で坐つてた。私はパイプを吹かしてた。
すると女の子はじつと私を見つめてた。
大きなマロニエの木陰には桃色の花がふつてゐた、
女の子は音なしく遊びながらじつと私を見つめてた。
女の子は私が言葉をかけてくれればいいがと思つてゐたのだ。
彼女は私が幸福でないと感じたのだ、
でも幼い彼女は私に言葉をかけることは出来なかつたのだ。
榛(はしばみ)の実のやうに円い目をした女の子よ、やさしい心よ、
お前ばかりが私の苦悩を察してくれたのだ、
彼方(むかう)をお向き、どうして今のあんたに理解が出来ませう?
彼方へ行つてお遊びなさい、姉さんが待つてゐます。
ああ誰も治すことも慰めることも出来ないのだ。
小さな女の子よ、何時かあんたにそれが分る日が来るでせう。
その日、遠いやうで近いその日、あんたも今日の私のやうに、
リュクサンブール公園へ、あんたの悲みを考へに来るでせう。
(ギー・シャルル・クロス『リュクサンブール公園で』堀口大學訳)


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