月船書林

フィギュアスケートの話題を中心に芸術を語る

笑顔の能力

フィギュア344-1


人間は鷹のように遠くを見る眼は持っていない。しかし、人の眼を見て人の気持ちを想像する眼を持っている。
人間は、犬のように小さな吉を聞く耳を持っていない。しかし、川のせせらぎから心地よさや平和を想像できる耳を持っている。
人間の身体はその身体そのものの中に他者の気持ちを想像したり、思いやる機能(感性)を持っている。
(ルートヴィヒ・アンドレアス・フォイエルバッハ)





先日たまたま見ていたテレビ番組で、織田信成選手が天才子役の女の子とコラボしてスケート演技を披露するという企画があった。

プログラムは織田選手のバンクーバー五輪のフリー演技『チャップリン・メドレー』、宮本さんが振付し直したというパフォーマンスは、男子シングルの演技に女子シングルの華やかなコレオが重ねられ、なかなか巧くアレンジされていて、可愛らしい九歳の女の子の愛くるしい所作とともに、エンターティメントとしてかなり楽しめる内容になっていた。

織田選手の卓抜したやわらかな演技は無論言うまでもない出来だが、天才子役という女の子の演技も、ジャンプ、ステップどれをとってもなかなかハイレベルで、さすがフィギュア大国日本で育成された若手の一人と、若年層の裾野の広さを改めて感じ入る次第だった。

それにしても天才子役ならではということなのかも知れないが、身振り手振り、顔つきどれをとっても九歳らしからぬさすがの完成度で、ベテランの織田選手相手に一歩もひけを足らないパワフルなスケーティングもさることながら、大人顔負けの俳優根性で披露された芝居っ気たっぷりの演技表現は、むしろ織田選手以上に濃密な芸達者ぶりに思われた。

これほどの熱演、愛嬌たっぷりに振り撒かれる笑顔を見ていると、たとえどんなに口さがないジャッジやマスコミ連中でも、表現力がないとは言い難いだろうなとは思うものの、それにしても、音楽とは切り離せない舞踏のような身体芸術の表現というものと、芝居を演じる上での動作や表情というものが何故かフィギュアでは、いつも同次元で論じられ、作り笑顔や外連味のある所作をしなければ一括りに表現力がないと断じてしまうのは、やはり芸術性を評価する視点からすればいかがなものかと、まさきつねなどは首を傾げる。

小芝居や印象的なポーズ、顔や動きを使った具体的な感情表現が不要とは勿論言わないが、演技的なパフォーマンスとは一線を画す純粋な身体表現を、(視覚芸術の領域からのアプローチも含め)抽象的な音楽表現として認識するべきだと思う。
(こうしたパフォーマンス・アートを論じるとき、避けて通れぬ演劇性の否定、物語や背景の否定という問題についてはまた後日、機会があったら語りたいと思う。まさきつねが実は最も、浅田選手の演技に感じる芸術的意義は、フィギュア競技をパフォーマンス・アートの領域に近づけたその業績の部分なのだ。)

浅田選手を長らく悩ませたのが、何かといえば表現力が足りないという通り一遍のこき下ろしだったが、これほど何ひとつ根拠もなく、いわゆる印象操作の決まり文句としてメディアで垂れ流しされ続けたネガキャンもあるまい。

確かに、天才子役のパフォーマンスに比較すると、浅田選手の演技には、大仰な動作やしなを作る振付、誇張した表情や取ってつけたような派手な笑顔といった、意識的なアクションは少ない。
そもそも彼女は女優ではなく、アスリートなのだから、スケートの練習以上に、芝居演習に割く時間などあるはずがない。

むしろ浅田選手は、過剰なポーズで音楽を寸断させないように、ひとつひとつの動きを流れるように結びつけており、大抵の場合、笑顔も演技メソッドで培われたものではなく、内面からにじみ出る自然な感情表現で、ジャッジングにおもねる類いの作られた表情ではない。

キャンデロロが十五歳頃の浅田選手の演技を解説しながら、「真央はもう少し笑えばいいのに」と注文を付けていたが、彼女はおそらく昔も今も、演技的パフォーマンスの一部として故意に笑顔を作るのは苦手で、音楽や自分の演技に触発されてわき起こる感情が伴わなければ、笑顔のみならず喜怒哀楽の感情表現を、所作や顔の表情に投影することが難しいのではないかという気がする。

思うに、彼女は昔も今も、内面はごく普通の(スケートが大好きな)少女で、それもごく普通にどこにでもいる、はにかみ屋だったり甘えん坊だったりする女の子と変わらないのだから、スケーティングの練習とは別に、子役たちのように役作りのための演技力をことさらに磨いて、笑いたくない時に笑い、泣く必要がない時に泣くなんて芸当を強いられる方が、本来違和感があることなのだろう。

ましてやまさきつねの感覚からすれば、スポーツとしてはスケーティングの巧拙を評価するべき競技であるのに、満面の笑顔を浮かべていたというだけで、表現力があるなどと芸術的評価が跳ねあがるなんて採点基準の方がよっぽどおかしく、こんな非論理的なジャッジ・アピールがまかり通っているのが、いつまでも採点競技として不可解だと指摘を受ける要因のひとつに思われてならない。

以下(拙ブログへのコメントでも触れられていた)、デイリー・スポーツの記事より抜粋。

※※※※※


「一番首をかしげるのは、キム・ヨナではなくトリプルアクセルを成功させた浅田のフリーの点の低さである。ソトニコアはフリーで両足着氷のミスあったと思うが、ミスとは判定されておらず149・95点の高得点を挙げた。ノーミスのキム・ヨナは144.19点で、銅メダルのカロリーナ・コストナーの142.61を上回ったものの浅田は142.71点にとどまった。

 浅田は試合後、『できるって思ってやって、これが自分がやろうと思っていた構成なのでよかった。今回のフリーは、しっかり自分が4年間やってきたことを、そしてたくさんの方に支えてもらったので、その恩返しもできたのではないかなと思う。五輪という大きな舞台で、自分が目指しているフリーの演技ができた』とコメント。フリーでのパーソナルベストを振り返ったが、ここで、出来栄え点といわれるGOE(Grade of Execution)に注目してほしい。演技審判によって0をベースとし-3から+3の7段階で評価された各要素の出来栄えのことだが、要素ごとにそれぞれ評価の観点(着眼点)が設定されている。

 ソトニコアのGOEが14・11点、キム・ヨナは12・20点、コストナーは10・39点だったのに対し、浅田はわずか6・69点。浅田はトリプルアクセルで回転不足を取られず、0・43点の加点をもらったが、続く2連続3回転ジャンプは二つ目が回転不足の判定。3回転ルッツも踏み切り違反と判定された。さらに、その後のダブルアクセル3回転トゥループも回転不足と判定され、ステップシークエンスなどで加点はあったが、GOEはわずか6・69にとどまったのである。

 なぜ、浅田のGOEが優勝したソトニコアと7・42点、キム・ヨナとは5・51点、コストナーとも3・70点も離れているのか?さらに、演技構成点の合計もソトニコアは74・41点、キム・ヨナ74・50点、コストナーは73・77点に対し、浅田は69・68点にとどまっている。日本国内のみならず、世界中に感動を生んだ浅田の評価が、これほど低いのか。私は今のところ納得のいく説明を目にはしていない。
(フィギュア 4年後の平昌開催ヘ向け公正な採点方法を/3月15日(土)配信 今野良彦)」


※※※※※

今野さんでなくとも、納得のいく説明など一度たりとも聞いたことがないフィギュアの演技構成点ではあるが、長年その恩恵を被ってきた選手の側から、今回はメダルの色が気に入らなかったと異議申し立てが出ているのだから、まったく笑止千万だ。

この騒動もいずれほとぼりが冷めた頃、組織の伏魔殿がなあなあの着地点を探して、何事もない決着に収まるのだろうが、それでも今回、採点方法の在り方をめぐって多少なりともさざ波が立ったのは、表彰台上の醜い争いよりも、浅田選手の歴史的なプログラムが不可解な評価のまま、メダルの圏外に置き捨てられていることに起因するのだろう。


以下は浅田選手の八年の軌跡を綴った画像メモリアル。

彼女の試練の多くは、まさに偏向ジャッジングと不可解な採点システムがもたらした苦悩に起因し、その対応策として、バンクーバー五輪から後の四年間は、選手生命を賭けたジャンプの改造に取り組んだのだ。


フィギュア344-2
フィギュア344-3
フィギュア344-4
フィギュア344-5
フィギュア344-6
フィギュア344-7
フィギュア344-8
フィギュア344-9
フィギュア344-10


先ほどまさきつねは、浅田選手には天才子役ほど、笑顔を故意に作る演技メソッドに長けた力はないだろうと語ったが、かといって彼女に、「笑う」能力が欠けていると言っている訳ではさらさらない。
むしろその逆で、浅田選手は演技パフォーマンスの一環として「笑顔を作る」という意識には乏しいと思うが、いわゆる人間の力として「笑う」という能力には誰よりも秀でているという風に、まさきつねは考えている。

動物行動学者フランス・ドゥ・ヴァールによると、「笑い」は人間が進化の過程で獲得した能力であり、相互のつながりや幸福感をもたらす機能として働き、「あくび」や「泣き」という行動と同様に、周囲との連帯感や仲間意識を生み出す「身体的同調機能」のひとつであるという。
ヴァールは、類人猿の持つ協力行動などの連帯感が人類の道徳心に発達したと考えているらしく、「身体的同調機能」の中にこそ、他者の気持ちに共感したり、他者の気持ちを思いやったりする、人間の身体に埋め込まれた社会性の起源があると、動物行動を宗教学や哲学的な視点で分析している。

「笑う」という行動は、人間のコミュニケーション・ツールとして重要な働きを持つものだが、とはいえ、人間同士の相互関係を円滑に保つために、目に見える表現媒介として「笑いを作る」ということになると、身体的存在としての人間にある「感性の知」という概念からはどこか程遠く、「笑い」が持つ本来ポジティヴなメカニズム、すなわち人間の心身の健康と、共同生活の親和性を保持するという機能とはまるで逆に、人間が社会的関係性を維持するためには「笑う」という行動を起こさねばならぬというストレスを与えられているように思える。

つまり人間がこころから「笑う」という行動は、感性の働きである感情表現と直結しているなら、心身の健康や社会の連帯という幸福感につながるものとなり得るが、「笑顔」を作る、「笑い」を演じるという行為はその作為性が露わになれば、人間関係の緊張や対立を解消するという側面においてはかえって逆効果で、機能としては本末転倒でしかない。

要するに人間の「笑う」能力と、「笑い」を作る能力とは、そもそも似て非なるものだということなのだ。

「表現は、作るもの」と言ったコラムニストをまさきつねは否定したが、同じように「笑顔は、作るもの」ともし誰かが発言したら、それもやはり違うと否定するだろう。

こころから切り離された「笑顔」に、人と人を結びつける、健全でポジティヴな「笑い」の機能が働くとはとても思えないからである。

翻って、演技のメソッドで培われたものではない浅田選手の「笑顔」というものは、いかに彼女の心身の状態に直結して、純粋な感情の発露であるかとまさきつねは考える。
「表現力」「表現力」とさかんに煽るマスコミを尻目に、彼女は決して取って付けたような笑顔をジャッジ・アピールとして浮かべることはなく、音楽や自身の演技内容に誘起されなければ、「笑い」という感情表現を意識的にパフォーマンスに組み込むことはなかった。

ニコルが近年、『アイ・ガット・リズム』や『スマイル』といった楽曲をわざわざ選び、さまざまな苦悩で気持ちの落ち込む浅田選手を昂揚させる作戦をとったのは、それが一番自然に彼女から「笑顔』を引きだすことができるという狙いがあったからだろう。
音楽を解釈した振付で、快活に動く身体に同調して「笑顔」の表情が浮かぶという浅田選手ならではの心身のメカニズムを、ニコルはよく理解しているとまさきつねは思う。

このように考えてくると、演じるという作為性のない浅田選手の「笑顔」というものが、彼女がメディアで大々的に取り上げられた十五歳前後の頃にさかのぼって省察してみると、現在の彼女の知名度の凄さからして、いかに長い年月にわたって、日本の社会全体に大きく作用してきたか推して知るべしという気がする。

浅田選手は常に、人間の感覚・知覚の主体である身体の、欲求し切望する喜怒哀楽の感情に逆らうことなく、「こころ」から生まれ出た「笑顔」で、多くの人々を虜にしてきた訳だが、それは人々が気づいていたか否かはさておき、彼女の笑顔が「他者の気持ちを想像したり、思いやる機能(感性)を持っている」身体的存在、すなわち「浅田真央」という人間そのものに起源を持ち、彼女の「こころ」の顕現として無垢に、人々の「こころ」に届けられてきたからにほかならない。

先日のエントリーでまさきつねは、ラフマニノフの言葉を引用して、芸術は「心より生まれ、ここ心に届かなければならない」とお伝えしたが、「笑顔」もまた、心より生まれ心に届くものでなければ、端から心身の健康や、コミュニティの連帯感といった幸福感をもたらすポジティヴな社会的機能をもち得ないものなのだと思う。

たとえどんなに巧みでも、体裁で整えられ、演技で作られた笑顔や、感情とはぐれた表情などでは、所詮他者の気持ちはつかめず、多くの魂を揺さぶる感動は生まれ得ないのだ。

さて、冒頭の言葉は、「肉体の復権」をゲオルグ・ビューヒナーらドイツの若き文学集団が唱えていた十九世紀前半、この傾向を背景に独自の身体論を構築した哲学者フォイエルバッハの、「感性的身体観」を語った一節である。

「他者の気持ちを想像したり、思いやる機能(感性)を持っている」身体的存在から現出した「笑顔」であればこそ、浅田選手という稀有な天才の優れたスケーティング技術をジャッジやメダルが評価する以前から、多くの人々が十五歳の彼女に夢中になり、彼女の演技からあふれる優しさ、慰め、穏やかさ、温かいこころの温もりというカタルシスを享受したいと願ったのだ。

EX『スマイル』に散りばめられた、彼女の優しくやわらかな笑顔の数々を見るとよく分かる。

軽快なコレオが紡ぐ美しいポジションに重ねられる、きらきらとこぼれるような甘い微笑…笑う能力は、生きる肉体の能力なのだと、他者とともに生きるこころの能力なのだと、つとに思うのである。


フィギュア344-11

フィギュア344-12

フィギュア344-13

フィギュア344-14

フィギュア344-15

フィギュア344-16

フィギュア344-17

フィギュア344-18

フィギュア344-19

フィギュア344-20

フィギュア344-21

フィギュア344-22

フィギュア344-23

フィギュア344-24

フィギュア344-25

フィギュア344-26

フィギュア344-27

フィギュア344-28

フィギュア344-29

フィギュア344-30


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


「先生 お元気ですか
我が家の姉もそろそろ色づいてまいりました」
他家の姉が色づいたとて知ったことか
手紙を受けとった教授は
柿の書き間違いと気づくまで何秒くらいかかったか
    
「次の会にはぜひお越し下さい
枯木も山の賑わいですから」
おっとっと それは老人の謙遜語で
若者が年上のひとを誘う言葉ではない

着飾った夫人たちの集うレストランの一角
ウエーターがうやうやしくデザートの説明
「洋梨のパパロワでございます」
「なに 洋梨のパパア?」

若い娘がだるそうに喋っていた
あたしねぇ ポエムをひとつ作って
彼に贈ったの 虫っていう題
「あたし 蚤かダニになりたいの
そうすれば二十四時間あなたにくっついていられる」
はちゃめちゃな幅の広さよ ポエムとは

言葉の脱臼 骨折 捻挫のさま
いとをかしくて
深夜 ひとり声たてて笑えば
われながら鬼気迫るものあり
ひやりともするのだが そんな時
もう一人の私が耳もとで囁く
「よろしい
お前にはまだ笑う能力が残っている
乏しい能力のひとつとして
いまわのきわまで保つように」
はィ 出来ますれば

山笑う
という日本語もいい
春の微笑を通りすぎ
山よ 新線どよもして
大いに笑え!

気がつけば いつのまにか
我が膝までが笑うようになっていた
(茨木のり子『笑う能力』)


フィギュア344-31


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

にほんブログ村 その他スポーツブログ スケートへ
blogram投票ボタン

スポンサーサイト