月船書林

フィギュアスケートの話題を中心に芸術を語る

空のない世界のドキュメント


読売新聞中部発 幸せの新聞 空を見上げて 123

【真央を撮り続けて…】
スポーツ写真家 中村康一(40)「人とのつながりが、最高の財産です」

 フィギュアスケート大会の一日は、長い。昨年末の全日本選手権では、早朝練習から夜遅い表彰式までシャッターを押し続け、1万3000カットを撮影した。

「選手が気に入る写真を撮りたい」

撮影の視点は、報道カメラマンと少し違う。笑顔やガッツポーズだけではない。追い求めるのは、選手の成長の跡や、確かな技術を切り取った一枚だ。
◎   ◎
中学、高校時代を過ごした名古屋を拠点に活動する。フィギュア好きだった両親の影響で、人気スポーツではなかった時代から会場に足を運んだ。
昨年のバンクーバー五輪で銀メダルに輝いた浅田真央さん(中京大)らが脚光を浴びる以前は、大きな大会でも観客は少なく、写真撮影も自由だった。カメラを持ち込み、撮った写真を選手に贈るのが、熱心なファンの姿だった。
十数年前まで、自身もそんなフィギュアファンの一人だった。転機は1999年に、ふと訪れた。
友人と、のちに五輪メダリストとなったイリーナ・スルツカヤさん(ロシア)のファンサイトを開いた。彼女のスタッフが気に入り、「公式サイトにしないか」と、声をかけてきた。リンクサイドでの撮影が許され、知り合いになったカメラマンを手伝いながら自らも写真を撮り、収入を得るようになった。現在、浅田さんらの公式サイトのカメラマンも務める。
◎   ◎
「この滑り方は本当に難しいんです。ありがとう」
小学生時代の浅田さんから聞いた言葉が、今も忘れられない。高度なテクニックを確実にとらえた写真の価値を、幼いながらも理解してくれたのだ。仕事への自信を深めるとともに、「この子はすごい選手になる」と感じた瞬間だった。

小さな地方大会から大きな国際大会まで、世界中を駆け回る。「すべての選手の戦いを残したい」。レンズを通し、フィギュアスケート王国を支えている。(ライター:宮島出)
(2011年1月23日 読売新聞)

フィギュア216-3
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人間の限界に挑むアスリートを被写体とすることは写真家にとって、最も自らの技能を駆使した挑戦であると同時に、自らの真価をとりわけ鋭く世に問えるジャンルに所属しているといえるかも知れない。

スポーツ写真はアスリートたちの記録や試合の行方を含め、さまざまなスポーツイベントや競技会の公式な実録映像となる訳だが、それ以上に、驚異的に鍛え上げられた肉体と、多くの試練を乗り越えた強靭な精神を併せ持つ選手たちの歴史的な勝負の瞬間や、悲喜こもごもの葛藤や結果を伝えるドキュメントとしての要素が強いのである。すなわちそこには写真家の、単なる戦績やレポートを残すという社会的だがどこか事務的で冷淡な一面よりも、輝ける人間の美しさや生き生きとした命のドラマをテーマとしてとらえる個人的で情熱的な、映像芸術家としての衝動が働いていると考えるべきなのだ。

さらに何よりもスポーツという特殊なジャンルである以上、息をのむようなスピード感、画面をはみ出すかのような迫力といった表現は欠かせまい。
シャッターを切るタイミング、そして何を画面にとらえ何を省略するかというフレーミング、フォーカスやぶれや絞りや露出といった基本的なカメラ技術も、すべてスポーツ的場面の緊張と昂揚感を演出する画面構成と視覚効果を狙って、コントロール操作されるのである。

勿論、今日まで発達し続けているレンズやフィルムを始めとする撮影機材の機械的条件が揃い、こうしたカメラの技術革新だけでなく、デジタルやテクノロジーの進化がもたらした通信システムなど環境の整備が、写真家に新しいことへのチャレンジを促し、スポーツ写真の現場にも風穴を開けて、作品にもめざましい発展を遂げさせていることは認識しておくべきだろう。

実際世界的に見ても、第二次大戦前のスポーツ写真の発達は、新聞や報道雑誌の一般大衆への普及と無関係ではなく、野球やサッカー、ボクシングや格闘技などいろんなジャンルに現れたヒーローたちの活躍を写真画像として紙面に掲載することによって、出版業界は一大メディア産業を確立するに至ったのである。

怖ろしいのは、写真がスポーツ競技の素晴らしさを視覚資料として受け手に直截伝え、ヒーローの活躍が大衆を熱狂させるようになると、政治家など時代の権力者がスポーツイベントを自らのプロパガンダに利用するようになるという側面である。
1936年に開催されたベルリンオリンピックは、ナチス政権下の国威昂揚と国策宣伝に利用されたことで知られているが、中でも映画監督であり女性写真家でもあったレニ・リーフェンシュタールが撮影したベルリンオリンピックの記録映画『オランピア』は、彼女自身の卓抜した映像技術と表現力、芸術感覚は別にして、作品そのもののメッセージの持つ強い思想性とヒトラーへの傾倒が強力に機能しており、またそれ故に今日もその作品評価の賛否分かれる理由となっている。

現在のスポーツ写真家と彼らが活躍するメディアに影響を及ぼし得る政治的な権力者の間にこそ、かつてのリーフェンシュタールとヒトラーのような、映像作家の野心と政治家の思惑が合致した、いかがわしくも親密な関係はないと信じているが、紙面に掲載されている写真のいくつかを見る限り、なぜ敢えてこの場面、このアングル、この写真を選択したのかと首を傾げたくなるような画像に遭遇することも稀ではない。

中村さんが「選手の気に入る写真を撮りたい」と殊更に発言されているのも、選手自身としてはあまり表に出して欲しくないような写真が、「報道」という看板を楯に流布して、彼らの人権やプライドを踏みにじるような行為が平気で行われているという実態によるものだろう。
昨今こそ、肖像権などというパブリシティにおける議論もある一方で、結局は机上の空論で終わってしまっているような部分もあり、とてもプロフェッショナルの写真家が自らの誇りをかけてシャッターを切っているとは思えないようなお粗末な写真がスポーツ記事に添付されて並ぶのも、政治的プロパガンダとまでは問えないにしても、何か意図があるのかと勘繰りたくなるのも致し方あるまい。

このようなプロ意識に欠ける写真家やカメラマンもどきの件はとりあえず脇に置くとして、選手たちが真剣勝負するスポーツイベントの舞台を、同じように自らの誇りをかけた真剣勝負の場としている写真家たちにとって、被写体であるアスリートの身体が生み出す力強い造形美や、競技場の空気から溢れる臨場感、そして歴史的な瞬間をとらえるということが何よりも重要な課題であり、目的であることは間違いない。
磨き抜かれた肉体が運動力学の限界に挑戦し、それを超えた一瞬が優れたドキュメント写真になるということは紛れもない事実だからである。

だが試合が終わり、競技のあらゆるプレッシャーから解放された選手たちがのぞかせる包み隠しのない生の表情もまた、その喜怒哀楽の感情の入り混じる内なるドキュメントとして大事な記録となる筈なのだ。

中村さんはおそらく、競技場のわずかな時間の中でとらえられる選手の顔だけでなく、彼らが抱えている人間関係や置かれている状況といった背後にある人間ドラマも含めて、レンズを通してフォーカスし、シャッターを下ろすことでその世界の一部を切り取りたいと考えておられるのだろう。

良い写真というのは単純に、小手先だけのカメラマンの技術や奇をてらったコンセプト、作られた演出や筋書きや、ましてや「数打ちゃ当たる」というような偶然がもたらすものではない。
人間の内面に入り込み、その奥底の希みに触れるような、人間の本質を抉り出すような温かい血の通ったドキュメントであるからこそ、観る者にうったえかける強さと美しさを持つ奇跡なのである。



☆浅田真央の演技を見守る観客の反応集☆

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