月船書林

フィギュアスケートの話題を中心に芸術を語る

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薔薇二曲




薔薇ノ木ニ
薔薇ノ花サク。
 
ナニゴトノ不思議ナケレド。
 
 

 
薔薇ノ花。
ナニゴトノ不思議ナケレド。
 
照リ極マレバ木ヨリコボルル。
光リコボルル。(北原白秋『薔薇二曲』)


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「坂東玉三郎」を特集したテレビ番組を観た。

彼に関する情報としてはさほど目新しい内容ではなかったが、玉三郎さん自身の素顔が、素直な感情の溢れる表情のまま画面に映され、思慮深い言葉が飾らない声の抑揚のまま、お茶の間に届いて来るのは新鮮な感じがした。

番組でも最初に紹介されていたが、彼の美貌をまず見出したのは三島由紀夫である。
「奇跡の女形」という賛辞はそのまま玉三郎さんの代名詞になったが、「薄羽蜉蝣のような美しさ、何より大事なのは古風な気品ある美貌」と、自ら「心を鷲づかみ」にされた美の招来を讃え、自作の主役に抜擢した経緯は、時代に先駆けて官能美を追求し続けた作家の面目躍如たるものだろう。

玉三郎さんの活躍の場はその後、三島の新作も含めた新旧の歌舞伎だけでなく、ベジャールのバレエや、シェークスピア劇などの演劇、映画、音楽とのコラボレーション、中国昆劇と幅広く裾野を拡げていく。その中で興味深いのは、どんな前衛的なジャンルにおける共演であっても、彼自身の表現は、クラシックな歌舞伎における舞踊の型を大きく逸脱するものではなく、常にどこか「古風な気品」を漂わす身体芸術であったことだろう。

こうした印象の一方で、玉三郎さんの身体表現が「奇跡」たり得た理由は何か。
特集番組の『ザ☆スター』というタイトルどおり、彼が「スター」だからと言ってしまえばそれまでなのだが、ヨーロッパであれ中国であれ、異国の歴史ある伝統文化や演劇に、自らの肉体ひとつで飛び込んで挑んだ仕事の数々は、日本の伝統芸能である女形の舞台表現が世界的な普遍を持つ身体芸術であることを、玉三郎という「薄羽蜉蝣」の透明感を持つ美しさを通じて、充分に示し得たからにほかならない。

至高の美しさは、ことさら一部の文士や専門家向けに、理解が難しく晦渋であったり、特別斬新で実験的であったりしなくとも、その豊潤なイメージの力、「心を鷲づかみ」にする魅力に事欠かない。
誰もが一見して感動するものでありながら、その背後には日々重ねられた努力があり、深慮の跡がある筈のものなのだ。

ベジャールが自ら演出する舞台に立ったときの玉三郎さんを評した「全てが反射的でありながら論理的、全てがが研究しつくされているにもかかわらず、即興的であり、全てが感覚によるものであるのに、身体と精神を緻密に操る技によって作り上げられている。」という言葉は、彼という存在の二面性をよく表していると同時に、身体と精神、細部と全体、繊細さと大胆さというアンヴィバレンツな要素の両義性を語っている。

玉三郎さんの生の言葉では「必要で最小限で最大に見える感じ」と表現されていたが、一つの細胞をつかまえ、それを膨らませて、外へさあっと流していくというように筋道立てて、外部情報など得たものの入力から、それを自分の表現として出力するまでの経緯を話しておられる部分は、彼の理知的かつ論理的な身体表現への取り組みが読み取れた。

彼の決して一般的ではない幼少期の修業時代の話や、養父母である守田勘弥夫妻との深い結びつきについてもそうなのだが、全てにおいて非常に生真面目でストイックな対峙をして、感得したもので積み上げられてきた芸道というものを感じさせる。

市川海老蔵が玉三郎さんについてコメントして「兄さんは人生を捨てている」とあっさり看破して言い切っていたのは、さすが目一杯「この世の春」を謳歌しながら、酸いも甘いも自らの芸の肥やしにしてきた歌舞伎界の御曹司ならではの科白と、人知れず感心した。
家柄という後ろ盾もなく、身体的な弱点を抱え、常に「(兄さんは)失敗が出来ない」という瀬戸際に立たされながら、芸を磨いて舞台に出るという日々を暮らして来た玉三郎さんは、さまざまな面で海老蔵とはまるでコインの表裏のように、相対する生き方をしているのであろう。女形として舞台に立つために人生のあらゆるものを削ぎ落として、演技者としてシンプルかつ純粋であろうとしてきたのが、今の「坂東玉三郎」という存在なのだろう。

(誤解のないよう追記しておくが、海老蔵に関してはその放埓、奔放な生き方がまた別な魅力なので、それを背景にした彼の個性や芸風を否定するものではない。)

ところで番組を観ている最中、ずっと玉三郎さんに浅田選手が被ってたまらなかった。
その一途で禁欲的な生き方についてもそうだが、謙虚で勤勉に、明日は今日よりも良くしていこう、弱点は克服しようという姿勢も、まるで精神的な双子のようである。

ひとつの所作、崩れないポジションの美しさについても、そのあり得ない神秘の結果に対して、玉三郎さんは「浮いている感覚」と口にしていたが、世阿弥が「名人は重心が頭の上にある」と考えていたように、どのように激しい動きをしても乱れない身体の重心が常に宙にあるような浮遊感覚、それが玉三郎さんや浅田選手の演技に見られる独特の軽さ、佇まいのしなやかさに通じているのかも知れない。

浅田選手が自らのジャンプを語った「よいしょって跳びます」という言葉は、一見言葉足らずの天然系のような受け答えだが、重力に囚われない彼女独特の感覚はやはり、「よいしょ」という表現でしか集約され得ないものなのだろう。

茂木健一郎氏が玉三郎さんにインタビューした後の感想として、「感覚における官能と、行為における実践を語る言葉はその感触が異なる。二つの言語世界を、いかに一致させるか。」とご自分のブログに書きとめておられたが、浅田選手の「よいしょ」には、高難度ジャンプに挑むアスリートならではの脳内物質がその口に語らせたに違いない生々しさと若い色気がある。
瑞々しい生命力と言い換えても好い。

「秘すれば花」というが、花が隠している秘密も、玉三郎さんや浅田選手ほどの身体芸術になると、毎瞬毎瞬積み重ねてきた習練の質も量も違う。人生の多くの時間を人前で演じるための準備にささげ、常に変わりゆくことを恐れず、新しいことにチャレンジすることを生き甲斐とする。

生半可ではない鍛錬によって、一瞬のぶれもない緊張感を漂わす演技の凄み、反面、観る者を美の陶酔に導く緩みと柔らかさを備えた表現の優雅さ、この二面性がともに成り立つところに「序破急」を自在に操る「花」の美しさがある。

番組では玉三郎さんを主役にした映画『ナスターシャ』の監督アンジェイ・ワイダの長いインタビューもあったが、「素晴らしい体験、長い人生の中で会えた最も素晴らしいアーティスト」という玉三郎さんへの絶賛は同時に、日本の「幽玄」なるものを体現化した芸術への賛辞でもあったと思う。

『ナスターシャ』はドストエフスキーの小説『白痴』を原作とした舞台と映画ともにワイダ監督演出による作品だが、長大な原作の後日談という脚色で、ラゴージンがナスターシャを殺してしまったところにムイシュキンが訪ねてきた場面に、過去の物語をフラッシュバックさせて挿入するという複雑な構成である。

フィギュア108-2

玉三郎さんはムイシュキンと不在の女ナスターシャの二役を演じ、鏡を前にショールを羽織り、イヤリングを付けると、ひ弱な男性から一瞬に幻の女性に変身するという魔術的な手法で、ナスターシャを登場させている。芝居という虚構の世界ならではの演出だが、ワイダ監督曰く、ふたつの性を行き来してその複雑な人間性を演じ分けることの出来る「坂東玉三郎」という稀有な役者なしでは決して表現し得なかった世界観だろう。

浅田選手に関しては、彼女は勿論、自分の演技の中で男性に変化したりすることはなく、普段も純粋に美しい女性なのだが、その気骨や強靭なアスリート魂については男性に勝るとも劣らない意味で、「漢」の字で表現されることがままある。

トリノワールドのFS『鐘』のフィニッシュの後、彼女が見せたガッツポーズは、大和撫子の勇ましくも雄雄しい矜持を垣間見せた瞬間だった。

彼らの演技に溢れる気品は、まさにこの矜持がもたらす表現することへの誇りであるし、その相通じる透明感は、トランスジェンダーの「妖精」のような存在としての卓抜さだ。

彼らの魅力の不思議さ、その秘密については、しかし、不思議でも何でもないのだと思う。
それはいわば、薔薇の木に薔薇の花が咲くような当たり前の秘密で、彼らはともに、誰をしても魅了されることは致し方のない神様の約束のような、美の誘惑としての存在だということなのである。


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まさきつね様
玉三郎さんと真央さん…なるほどと思いながら、読ませていただきました。歌舞伎で観た玉三郎さん、ちょうど花魁の役でしたが、舞台の空気が一変して、音がなくなり、玉三郎さんの存在だけが浮き立つような感じがしました。「辺りを払う」という表現はこのことを言うのかと初めて分かった瞬間でした。語彙がなくて「オーラ」としか言えないのですが、まさに、「オーラ」が出ている感じです。
絶え間ない努力を普段の表情からは見せない姿。様々な分野とのコラボレーション。世界を広げつつ、自分を深めていく生き方。
真央さんもこの道を進んでいってくれるといいですね。
…あっ自分も精進しなくては…。
2010/8/15(日) 午後 0:00 [ miho_ann ]

miho_annさま
いつもコメントありがとうございます。
美しく清々しい生き方は、演じる舞台の上に表出しますね。「辺りを払う」まさに邪気を掃うオーラが出るのでしょうね。
「自分も精進」とはまさきつねも本当に耳に痛いです(笑)。でも心がけたいことですね。
2010/8/15(日) 午後 0:27 [ まさきつね ]

こんにちは。
私はジョニーウイア選手の演技を観るといつも玉三郎兄さん(!)の舞踊を連想します。私だけか(笑)・・どちらかというと腰高で、フィギュアにとっても歌舞伎舞踊にとっても不利な体型かもしれないのですが、高い美意識と独自性を持ち、強い意志で自分を貫いている感じがします。真央さんと玉三郎さんに共通点を見出したことは今までなかったですが。でも、いつの日かジョニーウイア選手の振付かプロデュースした真央さんを観てみたい、という希望を密かに持っているので、玉三郎さんに通じるところがもしかしたらあるのかも・・・・。こういう話は楽しいなあ。
何かもう、うんざりするような話題ばかりあちこちで目にして、フィギュアから目を背けたくなる日々だったので、ちょっとほっこりしました。ありがとうございます!
2010/8/15(日) 午後 6:10 [ yurara ]

yuraraさま
コメントうれしいです。
ウィアー選手の美意識は確かに玉三郎さんに共通する部分がありますね。ロシアンテイストではありますし、薔薇三曲といったところでしょうか。
彼にしか表現し得ない世界観は、今の理解出来ないルールやジャッジの中でも際立っていましたね。順位を気にせず、選手の個性を純粋に楽しみたいですね。
フィギュアファンの気持ちも最近は妙に荒れてしまって、浅田選手のジャンプのように、フィギュア界そのものが原点回帰して欲しいと思います。もっと楽しく、選手の美しい演技について語り合いたいですね。
2010/8/15(日) 午後 6:43 [ まさきつね ]

まさきつね様、ステキな記事を有難うございます。
玉三郎さんも真央さんも共に「美の伝道者」という共通点がありますね。玉三郎さんは役者の前に演出家として舞台全体の調和とその「美」の表現を考えておられるように思っていました。最高の演出家が最高の役者(ご自身)に最上の演技をさせる、と。真央さんも冷静なアスリートとして、至高の演技を追求されています。その理想のために二人共貪欲にあらゆるものを吸収しようと努力を重ねる。そしていざ演技(舞踏)になると、まるで天女が舞うように無我の境地でただひたすらに舞う・・・。私の勝手な想像ですが。
「美しいもの」をただ美しいと評価して欲しいです。人に感動を与えるものを素晴らしいと褒め称えて欲しいです。とても容易い事でしょうに。
2010/8/16(月) 午後 7:43 [ ゆき ]

ゆきさま
コメントありがとうございます。
仰るとおり、「とても容易い」筈のことがとても難しいことにされてしまった、今のフィギュア界のこの奇妙なねじれは何なのでしょう。
観衆はプロトコルなど見なくても、感動すればスタオベします。なのにジャッジの付ける点数値はいつも、美しいものは美しくない、正しいものは正しくない、感動した人間は愚かだと嘲笑っているかのようです。
美しさも正しさも、確かにこの世の中に、たったひとつきりではありません。それでも他人から押し付けられた意見に従うよりは、まさきつねは自分の感性を信じます。他人が勝手なルールで選んだ一位の演技など、まさきつねには何の価値もないのです。
2010/8/17(火) 午前 1:05 [ まさきつね ]

まさきつねさまこんばんは。
私はつい先日、玉三郎さんの本を読んだばかりで、感じるところが多かったです。玉三郎さんも圧倒的な人気と、能力がありながら歌舞伎の世界では冷遇され続け、表現も邪道として国内では不当に低い評価しか与えられなかったんですよね。一番美しく充実した時期には決して歌舞伎座で花形を取ることは許されなかった。欧米の公演で非常に高い評価を得ていたにもかかわらず。本当に理不尽な世界ですね。玉三郎さんも決してあきらめず、超人的な努力で現在の花形女形の地位に上り詰めたという事、初めて知りました。
出来れば真央さんにはそんな苦しみを味わって欲しくはありません。私はただただ応援するだけです。見た人が感動することはだれも止めることは出来ません。オリンピックのとき街角で涙ぐみながら応援している人たちの映像を見て、真央さんが感激してくれたそうです。どんなことがあっても応援しますよ。
2010/8/18(水) 午後 11:50 [ meiling ]

meilingさま
コメントありがとうございます。
そうなのです。エントリーの中ではあまり大きく書きませんでしたが、家柄だの格式だのと煩い歌舞伎界では、玉三郎さんは長い間、異端でした。
まさきつねは学生の頃、片岡孝夫(現仁左衛門)さんとの共演を楽しみに安い学生チケットで足しげく通いましたが、正月歌舞伎などにはなかなか出演出来ず、ファンはやきもきしていたのを覚えています。
浅田選手や玉三郎さんのように、美しいものは常に妬みの対象になるのかも知れません。美輪さんもそうお考えのようでしたね。ですがきっと、妬みに負けない強さも持っておられるから、その価値はなおさら素晴らしいのでしょうね。
2010/8/19(木) 午前 0:41 [ まさきつね ]

寝る前に覗いてみたら、早速コメントありがとうございます。
にわか知識で大変失礼しました。花形は新人のほうでしたね。正しくは立女形でした。歌舞伎は一度も観た事なかったのですが、気になって阿古屋のDVD買ってみました。休みの日のゆっくり観てみようと思ってます。
2010/8/19(木) 午前 1:28 [ meiling ]

meilingさま
meilingさまがお読みになったのは中川右介さんの著書でしょうか。
まさきつねは歌右衛門に関する著述については少し違和感があって、玉三郎さんは歌右衛門のシンパや無理解な劇評家には叩かれましたが、歌右衛門には深く傾倒していて、歌右衛門自身も玉三郎さんを認めていたと思います。
孤高の女帝は、若い玉三郎さんを枠に嵌めずどこかで解放させていたと、まさきつねには感じられました。いずれにしても、若い頃から大役をつとめ、今も立女形として舞台の中心にいる玉三郎さんに、時代が追いついたということでしょうね。
2010/8/19(木) 午前 2:00 [ まさきつね ]

まさきつねさま
こんにちは。久しぶりにお邪魔します。ねねまるです。大好きな玉三郎さんの話題についまたむくむくと顔を出させていただきました。
私が歌舞伎を観るようになったのはここ数年のことでまだまだ素人ファンなのですが、勘三郎さんの襲名披露公演で観た『鷺娘』が未だに忘れられないのです。なんというか、素晴らし過ぎて。
場の空気を支配するとはあのようなことをいうのでしょうか?自分の体だけではなくて、純白の着物の襞すべて、雪代わりの紙吹雪までも玉三郎さんに従っているような、そんな不思議な感覚に捕われたことを今でも鮮明に思い出します。そこにいたのはまさしく人ではなく鷺の化身でした。
たびたび妖精に例えられる浅田選手との共通点の一つかもしれませんね。
2010/8/21(土) 午後 3:22 [ nen*81*ora ]

ねねまるさま
ご訪問うれしいです。
玉三郎さんの『鷺娘』はまさに代表作ですね。本物の鷺以上に鷺らしく、本物の女性以上に女性らしい…魂を映しとる演技という芸術なのでしょうね。
妖精は人の心に棲むといいます。玉三郎さんも浅田選手も、生身の彼らに関係なく、人の心に借り暮らしをする妖精なのでしょうね。
2010/8/21(土) 午後 6:13 [ まさきつね ]
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