月船書林

フィギュアスケートの話題を中心に芸術を語る

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鏡のイマージュ


少しばかり耳にした話であるが、ランビエール選手が振り付けをした高橋選手の新しいEX『アメリ』は、日本国内ではどうやら賛否両論らしいということ。演技のそこかしこにランビエール選手の面影が顔を出し、二人が重なって見えるのが良し悪しの意見の分かれ目であるらしい。

ともに卓抜した表現力の持ち主であるだけに、面白い化学反応を起こす反面、相殺する部分もあるかも知れぬという懸念はなきにしも非ずだった。だが、スピンに定評のあるランビエール選手に対し、その部分で弱さ物足りなさを見せていた高橋選手という取り合わせだったから、振り付けによって何かしらの示唆を受けるのではないかという期待感も大きかったのだ。そして実際に発表された演技が、以下の動画である。

☆高橋大輔 Daisuke Takahashi  Amelie☆

使用されていたのは映画の中の『アメリのワルツ』である。
この音楽はアメリが自分の寝室にいる場面に流れており、とてもか細く不安そうな旋律だが、ぽろんぽろんと手のひらから転がり落ちるような音の雫が、繊細に揺れ動くアメリの心情を剥き出しにして、夢かうつつか分からない乙女の日常をパリのアパルトマンの一室に焼き付けていく。

☆Le Fabuleux Destin d'Amélie Poulain☆
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日本でも大ヒットした映画ではあるが、一方で生理的に受け付けない、どこが良いのか分からないという向きもあり、いわゆる経済的富裕や社会的成功といったハリウッド的ハッピーエンドを持って至福と解する御仁には、アメリが求めている些細で身近にあるちっぽけな幸福感などおよそ理解の範疇を超えているのだろうと思う。

映画の序盤に語られる「クリーム・ブリュレのお焦げをかりかり割ること」や「包装用のぷちぷちを潰すこと」、「指の骨をぱきぱき鳴らすこと」といったある種の人々には、それのどこがそんなに楽しいのかと言い捨てられてしまうような他愛のない快感が、実はこの映画のテーマであり、家族愛も他人とのコミュニケーションも、恋愛の成就さえ全篇、触れる手のひらの僅かな温もりのような感覚で描かれている。アメリが周りの人々に繰り返す、姑息で愛らしい悪戯の数々も実に無邪気でくだらないのだが、された側の肌身が実感する不幸としてはかなり強烈な復讐だろう(サッカー中継を邪魔されるおじさんなんて、最悪に不運だと思うニャン)。

アメリの恋の行く末はさておいて、高橋選手の演技であるが、彼の談話からすると「自分の苦手な動きがけっこう入ってる」ということからしても、端からランビエールの振り付けが決して高橋選手の長所を生かし、欠点を隠すという類のものではなかったというニュアンスである。
だがランビエールは、自己の得意とするポージングやスタイルをそのまま高橋選手に押し付けようということではなく、自分が理想とする形や世界観を飾らず相手に伝えることで、高橋選手自身が自分に必要だと思う部分を受容して欲しいと考えたのではないだろうか。

アリストテレスの言葉を持ち出すまでもないが、芸術はどんな分野であれ、まずは型の模倣(ミメーシスMimesis)から始まる。真の才能は模倣しながらも、それを凌駕するオリジナリティを自らの内に見出すことだ。スタイルを流用し型を真似たに終わる、いわゆるエピゴーネン(亜流)に過ぎない才能しかないと、よもやランビエール選手が高橋選手を見下していたとはとても思われない。
ランビエールにとっても、高橋選手がコレオの世界観をいかに咀嚼して、高橋選手独自の個性に開花させていくか、そのメタモルフォセスを心待ちにしていることだろう。

ところで、ランビエールの振り付けは何をイメージしたものだったのだろうか。
映画の『アメリ』にこだわる訳ではないが、『アメリのワルツ』が最初に流れるのは、テレビからダイアナ妃の事故のニュースが流れる中、アメリが驚いて落としてしまった香水壜の蓋が起こしたハプニングのシーンである。床に転がった蓋は壁の緩んだ煉瓦に当たる。煉瓦を外してアメリが見つけたのは、彼女の前に部屋の住人だったと思われる男の子の、古い写真やおもちゃの詰まった宝箱だったのだ。

「まるでツタンカーメン王の墓を発見したよう」と喜ぶアメリの表情がたまらなく愛おしい。他人にとってはおよそガラクタに過ぎないだろう幼年時代の遺物にときめくことが出来るのは、無意識にでも自分自身が過去に愛惜を持っている者だけだろう。幼少期がどれほど幸せであったかどうか、たとえ断言出来ずにいたとしても、少なくとも今ある自分に絶望してはいまい。

アメリが今はもう大人になっている男の子に、何とかして宝箱を届けようと苦心するのも、宝箱に再び出会うことで失われた時を取り戻し、今ある自分の幸せを噛み締める相手に、自分の幸福感を重ね合わせようとするためだ。奇跡のようにアメリが掛けた魔法で、宝箱とともに自分の過去に対面した男性は「昔は時間が永遠にあったのに、気がついたら俺ももう五十歳になる。俺を愛してくれている娘がいる。孫が生まれたそうだ。会いに行ってやろう。」と酒場で誰に言うともなく話している。盗み聞きするアメリの心に、人探しの小さな冒険から生まれた、連鎖する情愛の世界が開かれるのである。

『アメリのワルツ』はこの後も、アメリが寝室で、彼女が好きになった青年の落し物であるいわく付きの写真アルバムを眺めながらうたた寝をするシーンに流れる。宝箱にしても写真アルバムにしても、誰かにとって愛着のある「物」というのは、心が痛むほどの時間の経過を感じさせる人生の欠片であり、それ故に持ち主自身の一部であり、またすべてだったりする。アメリは、宝箱や写真アルバムを抱き締めながら、逢いたいと焦がれ、幸福であって欲しいと願う相手の人生を抱き締めているのである。

ここからは想像であるが、高橋選手の演技冒頭に見えるマイムの動きは、何かに隔てられた相手への強い思慕の念を表しているのだろう。隔てるものが距離なのか時間なのか、それともまったく別の障害なのかそれは分からない。いずれにしても、遠く届かぬ思いを胸に、狂おしく相手を求め続ける渇望を恋と呼ぶのか、それともただの執心なのかそれも分からない。
追いかける自分がいつか鏡のように、追っていた筈の相手に重なり、幸福を求めていた筈なのに、渇望は充たされないまま、いつか追い求める行為自体が幸福になり、もはや何を求めていたのかそれすら分からなくなって、恋も、恋をしていた筈の自分も、ただ虚しく、人知れず消えていくのだ。自分が溺れていた夢の中で。

映画『アメリ』のハッピーエンド、作品鑑賞後のさわやかな幸福感を思う人にとって、ランビエールの振り付けの終章は、どこか果敢なく悲劇的過ぎるという感はなかっただろうか。少なくともまさきつねは当初、美しいが切な過ぎるという印象を持った。

アメリは空想豊かだが、愛の何たるかをいまだ知らずにいる未熟さを持った少女で、パパや隣人のデュファイエル老人始め周囲の人々に「ちょっとの幸せ」を運ぶ他愛のない悪戯や会話を重ねながら、心を揺さぶられる新しい感情や視点に目覚めてゆき、ついには唯一の恋を実らせていく。ワルツが流れる場面で垣間見る、アメリの朱赤色した壁紙の寝室に掛けられた絵の数々が、またとても素晴らしい。
ミヒャエル・ゾーヴァというドイツ人画家・絵本作家の描いた作品であるが、マグリットにも通じる写実性と卓越した描写力を持ち、シュールまでいかないユーモアとペーソスに溢れた不思議なシチュエーションで、動物や小人が画面を牛耳るやわらかな発想のテーマをものにしているのである。

☆Michael Sowa☆
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アメリの部屋のベッドサイドにあった豚のテーブルランプも彼自身が作成したということだが、諧謔味に溢れたちょっと滑稽で、でも温かい、静かな温度に充ちた世界観が、ゾーヴァの持ち味ということのようだ。アメリの幼い頃のイマジナリー・フレンドであった「湿疹ワニ」も彼の作品なのだが、映画ではどうやら、傷つきやすい心が逃げ込む空想世界が、『アメリのワルツ』とゾーヴァの絵画世界に象徴されていたと思われる。

誤解されては困るのだが、空想というのは決して、現実逃避による手っ取り早い解決策ではない。また現実的欠落を補填しようといういかさま染みた妄想とも本質的に異なるものだ。
空想はあくまで、心が創造したもうひとつの現実であり、芸術を受けとめる感性においてはひとつの作品として成立する世界なのである。

アメリは、傷つく心、失われる時間、消え去っていくものへの愛惜の思いを抱き締めながら、それでも手のひらに少しだけ消え残る「ちょっとの幸せ」が何よりも大事なものであることを知っていた。
アメリは現実が失望だらけなのを分かっていたが、失望に絶望しない術として、夢を空想すること、「夢見る力」を持っていたからだ。

『アメリ』の映画の中で、ゾーヴァの犬と白い鳥は会話し、豚は自分で勝手にランプを消灯していたが、それを単なる映像マジックとか、子供だましのCGによる産物とかの分析で終わられてはあまりにも貧相過ぎる。あの場面は、ある筈はないがそうあって欲しいと繊細な心が奇跡を望むとき、アメリの「夢見る力」と映画鑑賞者の感性が共鳴して生み出した、現実と背中合わせのイマージュなのである。

話が逸れてしまったが、ランビエールの振り付けは、アメリの寝室でひそやかに交わされているゾーヴァの動物たちの会話や、ささやかな幸福で世界を構築しようとする人々の感性を、鏡の向こうのあり得ない世界として一切合切否定しようとする冷淡な現実主義者に対する、一種のアンチテーゼのように思われる。

現実主義者にとって、鏡の向こうの空想の世界は脆く壊れやすく、恋も幸福も一瞬で消えるうたかたの夢だ。一日の終わりに肩まで浸かるお風呂のお湯の温もりで、そんな僅かなことで幸せを感じるくらい人間は単純な生きものだが、その幸福感もまた、ほんのちょっと孤独を感じたり、誰かに少し意地悪をされたりするだけで、あっという間に消し飛んでしまうものだからだ。

ランビエールの振り付けと高橋選手の演技は、人間が何かを切実に求める美しさとその果敢なさを描き、その裏側でそっとアメリとゾーヴァの、受けとめる感性や「夢見る力」がなければたちまちにして崩れ去ってしまうイマージュの大切さを語っていたように思う。

「大切なものは目に見えない」それほど繊細なもの。ランビエール選手と高橋選手がメンタルを鏡のように重なりあわせた『アメリ』のコレオ。
だがいずれ、フィジカルに高橋選手が自らの個性でランビエール選手を脱していくとき、それでも高橋選手の演技に消え残り、観衆がそこに想像出来る世界こそ、ランビエールが『アメリのワルツ』で表現したかったイマージュへさらに近づくものとなるのだろう。


フィギュア95-4

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すごく詳しい解析(感想と言うより解析ですよね)で、読んでいてう~んとうなってしまいました。
私が「アメリ」を最初に見たのはyoutubeでの動画でした。
確かにランビを思わせる動きが垣間見られる事と「スピンが綺麗になったな」と言うのが第一印象でした。
昨日、PIWで実際に見た時にもその印象はありましたが、橋大輔の持つ彼自身の感性が動画で見た時よりも出始めている様に思えたのは、私の感じ方でしょうか?
私は、このEXがシーズンを通して、橋大輔がどう咀嚼して自分の物にして行くのかが一番興味があります。

主様もきっと楽しみの方が多いのではないかと想像しております。

詳しい説明ありがとうございました。
2010/7/8(木) 午後 4:18 [ mon*kan*p*pa1*7 ]

mon*kan*p*pa1*7さま
コメントありがとうございます。また実際にPIWで鑑賞された印象をお伝えいただき、感謝です。
まだシーズンも本格的に始まっていませんから、これから滑り込んでいくことで、どの選手のEXも変わっていくことと思います。仰るとおり、楽しみが多くてわくわくしています。
ランビエールは残念ながら引退してしまいましたが、幻想的なイマージュを想起させる演技者としては抜きん出ていたと思います。振り付けでもその才覚を発揮して、後進を育てて欲しいものです。亜流や劣化版コピーではなく、コレオの世界観を引き継ぐ才能を見出して欲しいですね。
2010/7/8(木) 午後 5:54 [ まさきつね ]

まさきつね様はじめまして、yuraraと申します。

高橋選手の演技には観る者の想像力をかき立て色々な解釈を思い起こさせる“余白”があるように思います。わずか2分40秒ほどのパフォーマンスなのに、起承転結があり、光と影があり、濃淡があり、短い時間で“人生”を感じさせる稀有なアーティストだと思っています。
元々振付表現には定評がありましたが、大怪我をして試練を乗り越えたことで、作品の世界観をより深く表現できる選手に成長したように思い、これからがとても楽しみです。
そして、クリエイターとしてのランビエールにもとても期待しています。

私は得点を得るためにひたすらシステマティックに振付けられた無駄のないプログラムより、作品としての完成度を追求したアーティスティックで心に響くプログラムをついつい求めてしまいます。それを競技であるフィギュアスケートで観たいと願うのは贅沢なことなのかもしれませんが。その難しい命題に挑戦している選手をこそ応援したい、と思っています。
(まとまりのない文章ですみません・・・)
2010/7/10(土) 午後 4:37 [ yurara ]

yuraraさま
初めまして。ご訪問うれしいです。
そうですね。「余白がある」というのは、芸術にとってとても大事なことですね。鑑賞者にイメージする感性を求めるということですから、仰るとおり、高橋選手の演技にもランビエールのコレオにも、そのキャパシティがありましたね。
高橋選手とランビエールは若い才能をぶつけ合って、いかにも何か新しい風を吹き込もうという意気込みが見えて素晴らしいですね。yuraraさまが応援したくなるお気持ちは良く分かります。SPでも挑戦を見守りたいですね。
2010/7/10(土) 午後 6:39 [ まさきつね ]

こんにちは、まさきつね様。また来てしまいました。
「アメリ」を最初見たときは、「綺麗だけどこれならランビエール選手が滑ってくれたらいいのでは……」などと思ったものですが、その感想も今では少しずつ変わってきています。高橋選手らしさが徐々に色濃くなってきているということなのでしょうか。
映画「アメリ」は見たことがなくて、それでも簡単なあらすじだけは知っていたために、それがプログラムを見たときの印象と違っていることに少々戸惑っていました。「人魚姫」や「ナイチンゲールとバラ」のようなものを勝手に想起してしまい、それが伝え聞く「アメリ」のあらすじとどのような関係があるのかわからなかったのです。
でも、まさきつね様のこの解釈を読んでようやく得心がいきました。本当に素晴らしいですね!ここに出会えて本当によかったと思います。ありがとうございました。
2011/1/18(火) 午後 9:41 [ みちる ]

みちるさま
ご訪問うれしいです。
古い記事ですが、考えてみるとまだ今季の話なのですね。
『アメリ』は佳品というべきプログラムになりましたね。ランビエールも心から喜んでいることでしょうね。
四大陸、ワールドでの披露も今シーズン残りの楽しみと待ちたいものですね。
2011/1/19(水) 午前 2:26 [ まさきつね ]
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