月船書林

フィギュアスケートの話題を中心に芸術を語る

滅び得ぬアウラ


前のエントリーに続き、懐かしい動画を挙げておく。2003年長野市のビッグハットで行われた全日本の動画である。

☆Mao ASADA - 2003 Japanese Nationals SP☆
☆Mao ASADA - 2003 Japanese Nationals LP☆

この時の優勝は前チャンピオンの村主選手を抜いて安藤選手である。三位に荒川選手、続いて恩田選手、太田選手、浅田舞選手、中野選手、八位に浅田選手が入っている。

浅田選手のSPプログラムは『マイ・ガール2』で六位に付け最終グループに入ったが、FSプログラムでチャイコフスキーの『ワルツ・スケルツォ ハ長調Op. 34』を滑り、ジャンプの完成度と迫力に欠け、昨季よりひとつ順位を落とし八位という結果に終わった。

こうした動画を観ると、磨かれた技術力や成熟した表現力というものだけが、フィギュアの演技を評価する基準なのかと改めて疑念を抱く。確かに、歳を重ね、絶え間ない努力を続ければ、技術も表現も洗練されて非の打ちどころがないスタイルへ完成されていくだろう。だが、十二歳十三歳という年齢にはその年齢なりの表現というものがあり、魅力というものがある。それは十五歳以上の選手には目標として目指せないものであるし、決して自然に表出し得ないものだ。

浅田選手に表現力がないとは、一体いつ誰が彼女に押し付けた苦言なのか分からないが、この動画の中の浅田選手は、映画やドラマなら大人の俳優ではない子役にしか表し得ないだろう、愛くるしさやいじらしさを垣間見せて、尚且つ技術力の方では、シニアの選手に勝るとも劣らないポジションの美しさ、基礎の確かなスケーティングテクニックを披露している。

幼いが故に胸がしめ付けられるようなあどけない魅力、スリリングな醍醐味、そしてそれに対しアンビヴァレンツな技の精巧さが入り交じり、おそらくこの年齢の彼女にしか持ち得なかった無邪気な天使の滑りを、既にどこかに王者の風格さえオーラとして漂わせながら顕現せしめたのである。


ところでこの「オーラ」という言葉について、語意は「神秘的な光」とか物体が放出する特別なエネルギーや霊気といったものだが、伝統的な芸術論の中では語源でもある、息や空気を意味する「アウラaura」というギリシャ語に置き換えられて語られることが多い。

そしてそれは大抵、「アウラの喪失」を鍵として紹介される、ベンヤミンの『複製技術時代の芸術作品』を主とした映像概論を巡って論議される。ベンヤミン論のきわめて粗雑な外郭だけ述べさせてもらえば、近代における大衆芸術の宿命として、絶えずコピーされ続け、より多くの人々へ安価に享受され続けることによって、本来唯一無二の存在として礼拝されるべき芸術の神秘性はあっけなく剥ぎ取られていき、宗教的な特権性であったアウラは失われていく。
複製芸術時代の到来を指し示す写真や映像などの視覚芸術はその最たるもので、繰り返し再現される視覚体験は、平凡でありふれた感得をもってしか大衆に受容されず、結果としてアウラの凋落を引き起こしたということなのである。

息や空気を表すギリシャ語は、広義で空気の動きである微風、または朝の爽気などを意味した。ラテン語詩人においては、薫りや木霊、午の光、空などの自然現象をも表すようになり、比喩の人格への転用から、人間から発せられる香気もしくは光輝といった雰囲気を指すようになったという。宗教芸術における光冠、光背といった表現はそれを視覚化したものだ。ベンヤミンは、根源的に自然現象に賦与されてきたアウラという特質を、卓出した芸術作品を前にした人間が抱く畏敬の念を解釈する語として用いた。

「いま」「ここに」しかない芸術作品特有の一回性、鑑賞者が手で触れ得ぬ距離がベンヤミンの文脈にあるアウラの本質ということだが、近代の視覚芸術では、芸術作品のオリジナル性が際限なく複製されることによって、アウラの「聖性」が限りなく破壊されていったと彼は考え、「世界史において初めて、機械的な複製は芸術作品を儀式への寄生的な依存から解き放った」と書いたのである。

このベンヤミンのアウラ概念論に対し、今日までさまざまな再読解や反論が行われている。
テオドール・アドルノは著書『美学理論』の中で、ベンヤミンの所説に触れ、彼が芸術作品に内在する弁証法ないしは自律性を置き去りにしていることを批判した。
アドルノは大衆芸術に対し、ベンヤミンが考えるほどの可能性を見出し得なかった訳で、また逆にベンヤミン自身も初期の写真がアウラを持つことを認識していたので、問題はさらに複雑化する。

すなわちアドルノの弁によると、アウラを感応させる自律的な芸術作品と、大量生産される大衆文化は共に、資本主義の自由の下に傷つけられ「引き裂かれた半身」であり、とはいえ、このふたつを早急に合成出来るものでもないので、彼は『美学概論』の冒頭に「芸術に関することで自明なことは、もはやなにひとつない」と記したのであろう。

いささか小難しい話が続いて恐縮だが、正直な話まさきつねもこの二人を含め周囲の哲学者や思想家をめぐって、何も理解している訳ではない。
不完全な解釈のまま、系譜や対立をなぞっているだけなので、論旨がおぼつかなく不安ではあるのだが、とりあえず示しておきたかったのは、今や過去の堆積物となり果てた彼らの著作物の中から絶えず掘り起こされる化石のような「アウラ」という言に、多くの人が惹き付けられる不思議である。

イデオロギーの不在な現代において、芸術の本質も不確かになっていく中、ベンヤミンやアドルノらに息づく批判精神、互いの相反するもの、矛盾、衝突それ自体を分析の対象としながら、同じところを行きつ戻りつしながら論点へアプローチする彼らの断章のような考察が、現在においてもなお、プリマヴェーラの吐息のようにあるいは春の風のように、人々の哲学的黙想の上に吹きつける。

「引き裂かれた半身」はもはや元はどんな一体であったのかも分からぬくらい、散り散りになって空を舞っているが、芸術から失われた筈のアウラは、大衆の静謐の彼方に、芸術からの冒険の中から、もしくは過去の断片へのノスタルジアを伴う思想家らの思索的逡巡からもよみがえり続けているのである。


フィギュア75-2

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

―移り気のアウラのこころを
覚りもやらで―憐れや汝(な)れが色に(ホラティウス)


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

こんばんは。
今回のまさきつね様のお話は非常に難しい内容で、私の理解の及ぶところではありません。ちょっと別の観点から感想を。
私には「芸術」という言葉はあまりに抽象的で扱いが難しいのですが、「美」ということであればまだ多少掴み所もあるかと思います。

ご紹介してくださいました真央選手の13歳の演技を「美しさ」から見るとどうなるでしょう。若干13歳にして既に可憐で美しい演技をしていると感じます。それは丁度、花を見て美しい、可愛い子を見て可愛いと思う感覚に近く、理屈や説明を要しないと思います。

しかし、このSPのサーキュラーステップと、18歳の時に演じた「月の光」のサーキュラーステップを比べたらどうなるでしょう。後者の方が遥かに美しいと私は思います。
なぜなら、後者からは単にエレガントで美しいと思うだけではなく、ここから青春の燃え立つような充実や、身に染み渡る人生のはかなさの愁いなど、それは単なる感覚ではなく、知性と経験に裏打ちされた情緒を汲み取ります。少なくとも私はこのように感受しました。

続く。
2010/5/29(土) 午前 2:08 [ 桔梗 ]

逆に言えば、18歳の真央選手の演技には、人をしてそのように思わせるだけの精神性、知性、経験が「月の光」のステップに秘められているからと思います。ただステップの技術が進歩したからそうなるというものではないでしょう。真央選手が感覚だけでなく、理性的に音楽や振りつけを深く捉えているのを見ます。

しかし、一般論として13歳には13歳でしか成し得ない魅力や美しさがあるというのも真実でしょう。いや、むしろ13歳だからこそ純粋に一途な演技が出来、分別臭い大人の演技より感動的で美しいということもあるかもしれません。美の優劣に大人も子供もあるか?という考え方も立派に存在します。
しかし、それらを踏まえつつも、やはり私は大人の演技の美しさをより優れていると考えてしまいます。
水墨画を美しいとは思わなかった子供が、成長してからその美しさを感受するように、真央選手の演技の美しさも「成長」「進化」していくのだと思います。将来、23歳の演技がとても楽しみです。
私見ですが、芸術における「美しさ」とは、その内側に「厳しさ」を秘めたものだと思います。
長文、失礼しました。
2010/5/29(土) 午前 2:09 [ 桔梗 ]

桔梗さま
コメントありがとうございます。
仰るとおり、今の浅田選手の演技の美しさは、十三歳の彼女の演技とは比べるべくもない秀逸さを持っていると思います。同じ選手のものでありながら、まったく別の次元、別世界に属する芸術だと考えた方が良いのでしょうね。
正直なところ、「アウラ」の考察は何とも中途半端で、エントリーの中断を何度も考えたのですが、また別の記事で補足していくことを予定して今回とりあえず掲載したものです。
こんな舌足らずな文章を掲げるのは何とも心苦しかったのですが、芸術作品を省察するにおいて、まさきつねはどうしても「アウラ」の概念を避けて通りたくないと(勝手に)考えています。
最終的にフィギュアの芸術性に繋げる論考になっていけば良いのですが、まだちょっと情けない状況ですが、お見捨てなきようにと願っております。
勿論「アウラ」概念に関係なく、浅田選手の若い演技について考察をお進めいただくことは大歓迎です。参考になるご意見を、皆さまどうかたくさんお聞かせください。
2010/5/29(土) 午前 3:13 [ まさきつね ]
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