スポンサーサイト
新しい記事を書く事で広告が消せます。
引き続き、フィギュア衣装のお話。
まずは有名デザイナーによる衣装という話の続きから、その一番の代表はイタリアのコストナー選手だろう。
彼女自身、広告モデルを務めているロベルト・カバリが衣装提供スポンサーであり、スタイルの良さを生かした洗練されたデザインには、定評がある。
同様にデザイナーと繋がりが強いのが、意外(笑?)にも毎度、黒の衣装ばかりの印象があるライザチェク選手で、2006年?2007年シーズンのSPはディオール、FSはジャン・フランコ・フェレ、次シーズンはアレキサンダー・マックイーンと層々たるクチュール系が揃いぶみ、五輪シーズンは前の記事にも書いたがヴェラ・ウォンデザインだった。反面、2008年のロシアデザインの衣装は、飾りが派手過ぎる上、動きにくく、彼のお好みではなかったらしい。
あくまでもスタイリッシュで洗練されたモード系デザインにこだわりがあるのも、いつも自分でアイディアを練った独自のデザインで観衆を楽しませているウィアー選手と一線を画すためだろうか。
衣装だけでなく、演技や考え方などあらゆる面で対極的な二人だが、2007年シーズンに衣装のズボンを忘れたライザチェクが、ウィアーに借りたというエピソードは、フィギュア選手の人間性や人間関係の奥深さを感じさせる。
ウィアー選手だけでなく、衣装のデザインに独自のこだわりを持つ選手は少なくない。
ランビエール選手が荒川さんとの対談で「僕はできる限りすべてを自分でコントロールするようにしています。プログラムは自分の子どものようなものなので、あらゆる細部をコントロールしたいと思います。自分がどのように見えるか、ヘアースタイル、衣装、すべてを検討します。表現からパーソナリティーが感じられることが大切なので。」と語っていたのは、多かれ少なかれどの選手も考えている理想だろう。
ランビエール選手は同じ対談やいくつかのインタビューで、自身のトリノ五輪の時のゼブラ(シマウマ模様)衣装についても語っているが、ヴィヴァルディの『四季』にシマウマをイメージする独特の感性は、俗人の理解を超えた形而上学的な観点でしか理解し得まい。
「曲を聴いていて、いてつく冬にシマウマが迷い込む場面を想像した。シマウマはやがて、オウムの羽で別世界に飛んで行くんだ」(2006.2.16読売新聞)
1997年にクーリック選手が『ラプソディ・イン・ブルー』でお披露目したキリン模様の衣装がアイディアの範として思い浮かぶが、クラシックの『四季』に対し、コンテンポラリーな解釈を与えるランビエールの試みは、いかにも高踏的だ。
黒以外の飾り立てた衣装はとても恥ずかしくて着られないという、ライザチェクの自己規範的な姿勢はランビエールのポリシーにはない。
良くも悪くも、選手たちの変わった衣装で印象付けるというあざとさを指摘する向きもあるが、ランビエールの場合はインパクトが狙いというよりも、彼の哲学的解釈と方向性が根底にあるので、その浮世離れした世界観に苦笑するか、共感するかによって、彼の演技や魅力に対する評価が変わってくるきらいがある。
冷たい氷上で繰り広げられる無機質な闘いに背を向けて、トロピカルな密林を夢見るシマウマは、極彩色の翼を広げて、形而上の空へ飛び立つ。
ランビエール独特の観想が宿ったゼブラの衣装は、コスチュームの閾を越えて、彼の精神の一部に同化していたのだろう。
ところで、そのランビエールが五輪シーズンに滑ったSPの『ウィリアム・テル』とFSの『椿姫』は、どちらも古典的なオペラ衣装に則った演劇的なスタイルの衣装だった。
『タンゴ』を演じた際には「厳格な人物像を表現したいと思ったので、衣装も振り付けもこの人物に一致するように工夫」したというランビエールが、同様の考え方で取り組んだプログラムだったようだ。
同じように舞台衣装という観点から、それを再認識するのが次のナンバー。
☆Yagudin Lanskaya - Pirates of the Caribbean☆
まんまスパロウのヤグディン。お相手が、フィギュアも出来る女優のヴァレリア・ランスカヤさんということで、まさに氷上における映画の再現である。アイスショーならではの趣向ではあるが、キャンデロロの『三銃士』を彷彿とさせる楽しさだ。
(ただし、競技においては「スポーツ競技にふさわしい品位を保ったもので、演劇やオペラ等の舞台衣装とは異なる、演技テーマや音楽にマッチしたコスチューム」という規定があり、あまりに演劇的だったり派手過ぎたりするものや、男子のタイツ、小道具、過度な肌の露出も禁止されているので、規定違反しない中で表現したいテーマを演出するのは、デザインにバランス感覚と工夫が必要と思われる。)
さて、こうしてさまざまな選手のコスチュームを見てきて、まさきつねが思うのは、フィギュア競技における衣装というのは、畢竟、絵画における額縁(フレーム)のような役目を果たすものではないかということである。
平面作品に付けられる額縁は、本来、具体的な機能として作品を汚れや物理的損傷から保護するものだが、一方で観念的な視覚の働きとして、作品を建築の壁面から独立した異空間として鑑賞者に意識させ、同時に室内装飾との調和を図り、建築空間と共存させるという重要な役割を持つ。
フィギュアの衣装もまず、それを身にまとった演技者を、日常的な生活空間から乖離させて、アリーナの凍てつく氷の演技空間に表現者として立たせるひとつのツールである。表現者が描きたい世界観、演じたい曲の主題は、フィギュア選手の中にあるのだが、それを様式として具体化し、選手を氷上に独立した個体として立たせるのが衣装ということである。
そして衣装は当然だが、楽曲との調和を図るものでもあり、氷上空間と選手を共存あるいは共鳴させる役回りを課せられる。
その際にやはり最も気にかかる点は、衣装の色ということになるだろうが、暖色と寒色、膨張色と収縮色、あるいは彩度や明度といった色の特性や、また何色かの組み合わせなど、いくつかのポイントで、デザインの印象や競技に向けての作用が変わってくることになる。
前の記事でも書いたが、浅田選手の衣装の色はさまざまに論議を醸した。
『鐘』の衣装は赤と黒、コントラストの強い組み合わせで、情熱的な「挑戦」の姿勢と不穏な「恐怖」に充ちた世界観を表出していた。それは楽曲の重厚な音調や演技主題にも、浅田選手の精神的なスタンスにも添っていたことは確かだった。
しかし(五輪のジンクスはさておいても、)四年に一度の特別な舞台空間に、どこか反逆的な色相と重苦しい楽曲の壁が違和感を呈していたことは否めない事実だろう。
アリーナの中で、浅田選手の姿が青い衣装を着た他の選手に比べ、小さく見えたという印象も聞いたことがあるが、さもあらんと思う。
だが実際、選手の体が小さく見えるというのは視覚的事実に過ぎず、心的印象は全く異なるという場合も多い。
まさきつねはかつて、バレエの森下洋子さんを始めて舞台で見た時、やはり小さいなと思ったことがある。ところが彼女が踊り始めた途端、広い舞台の方が小さく感じられるほどパワフルに跳び回る姿に圧倒され、その後はプリマ・バレリーナの舞踏表現の凄さに感動するばかりだったという経験をした。
浅田選手らの演技プログラムのトレースを俯瞰図で描いたブログや動画を拝見したことがあるが、ステップや振り付けを含めその運動量の多さにため息をついた。
浅田選手の『鐘』の演技を「リンクの端から端まで滑っているだけに見える」と酷評した解説もあったようだが、逆説的に捉えるとこれはまさに褒め言葉で、少女の小さな肉体が舞踏しながら広いリンクの隅々まで支配しているさまは、氷上を熱い炎が燃え移っていくような鮮烈な印象を与えたのではないかと推察する。
額装された名画がギャラリー空間を制しているように、襟元のドレープや黒手袋などが印象的な衣装に身を包んだ浅田選手は、密度の濃いプログラムと自らの演技表現でアリーナの氷上空間を独壇場とした。
衣装がクチュール系か、演劇的だったか、あるいはランビエールのゼブラのごとき哲学性を持っていたかなどは、浅田選手の演技やコレオの真価値に比べれば実に些細な話だ。だが衣装について語ることが実に楽しく、話題が尽きないのは、額縁(フレーム)が絵画作品の様式美に寄与し、建築空間の発展や演出に深く関わってきたのと同様、フィギュアのコスチュームが選手の演技表現の様式美に強く関連し、選手の躍動する肉体によって氷上の演技空間を楽曲の世界観に巻き込んでいく要素のひとつであるからに他ならない。
『鐘』の赤く燃えるような衣装は確かに、今のフィギュア界に垂れ込める疑念と暗鬱を浄化する焔のごとき力を持ち得ていた。それは無論、選手の類稀なる才能と技術、コレオに込められた主観的精神性の高さに支えられてのことであったに違いないのだが。