月船書林

フィギュアスケートの話題を中心に芸術を語る

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うつくしき言の葉つくしてよ


ヤフーの「みんなのアンテナ」という欄に「日本語は乱れているのか?」という表題があり、次の知恵袋が紹介されていた。

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1319857453

《質問がこれ。》
「私ゎ」のゎを批判してる人って何なんですか?「ゎ」は今の中高生は誰でも使ってます。それが常識なんです。もしかして時代に取り残されるのが嫌な人間なのでしょうか?
補足
皆さん回答ありがとうございます。今ある回答の中ではobake_sukiさんの回答が真理を言い当ててますね。皆さんが学校の古典で習ってきたように日本語は変化してきてるんです。学校も行ってないんですかね(笑)

《ベストアンサーがこれ。》
私は中3ですが、周りの人はよく使っています(特に女子)
文法的には、やはり間違っていますし、大人の方には受け入れがたいかもしれません。
しかし、質問者さんも言っているとおり、中高生では常識みたいなものですし、言葉は常に変化していくものです。
一種の「文化」でもあると私は考えます。
喜ばしい事ではありませんが、友達同士で使うのであれば、これはこれでいいと思います。

《質問者からのコメントがこれ。》
BA回答者様の言うように「ゎ」は中高生にとって常識のようなものです。その言葉のあやも、くみ取れない人が多くて残念です。まあ私はふつうの高校生ではありませんから使いませんけど。最後に、優等生ぶってる中高生もムカつきましたね。「ゎ」が使われてないホームページなどは皆無なのに。まぁ洒落っ気がないんですかね。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

さて、何をかいわんや…というのが今の心境である。

まさきつねは「ゎ」を今の中高生が使おうが使うまいが、そんなことは正直どうでもいい。かつて、女子中高生に丸文字なるものが流行して、今はギャル文字とかに「変化」したのか見かけなくなったが、そのときだって似たような論争が展開されていた。そのときも、まさきつねはどうでもいいと思った。

他人が使う言葉に、否定も肯定もありはしない。
誰だって自分の言葉を使い、それは誰だって他人と多少なりとも異なって当たり前だ。
その異なる幅が大きいか小さいか、それだけのことではないか。今時の中高生が「は」を使おうが、「わ」や「ゎ」を使おうが、現代人が万葉言葉で「波」なんぞを洒落て使おうが、いちいちそれに突っ込んでいる暇などない。
どうぞお好きに勝手にしてくれという話なのだが、それではなぜ、まさきつねが記事にわざわざ、この話題を持ち込んだのか。

実はまさきつねが語りたいのは、「日本語の乱れ」でも「日本語の変化」でも、「中高生の常識」とやらでもない。
こういった分野の問題視に関しては、いわゆる国語研究者や教育評論家にお任せしたい。
そしてどんな結論が出ようとも、前述のとおり、まさきつねはそれにはあまり関心はない。

なぜなら前述のとおり、他人や世間一般とやらの使う日本語がどんなに乱れようと変わろうと、まさきつねは、まさきつねの日本語を使う。
まさきつねの使う日本語が、まさきつね以外の全ての人間に理解不能、意味不明になったとしても、まさきつねは死ぬまで、まさきつねの日本語を使う。

(中高生が「時代に取り残されるのが嫌な人間なのか」と聞くなら「嫌じゃない」と答えるし、「学校も行ってないんですかね」と言うなら、「大学は卒業しましたが、今は行っていません」と答える。「『ゎ』が使われてないホームページなどは皆無なのに」と言うなら、「まさきつねのホームページで『ゎ』を見たことなど一度もありません」と答える。)

確かにまさきつねは、「わ」だの「ゎ」だの使いはしないし、どう考えても使えない。
だが、まさきつねは文法に適ってないからとか、(中高生の常識はさておき)世間の一般常識とずれているからという理由で、言葉を使う使わないを決めている訳ではないのだ。

まさきつねは自分の「使いたい」日本語を選んでいるだけで、その中に「わ」や「ゎ」や「波」は含まれていない。だから使わない。この点では、中高生が「ゎ」を使いたいから使っているのと変わりはない。
言葉が「自己」のひとつの表出である以上、中高生のそれを否定するつもりは毛頭ない。

だが、知恵袋の質問者は「まあ私はふつうの高校生ではありませんから使いませんけど」と言っている。

ここに、まさきつねは引っかかる。

ベストアンサーの回答者も「私は中3ですが、周りの人はよく使っています(特に女子)」と述べているが、自分も使うとは回答の中で一言も言っていない。
「中高生では常識」で「一種の『文化『でもある」と、テレビに出演するいわゆる文化人コメンテーターみたいなことを言ってはいるが、自分はまるで一般の中高生ではないみたいな上から目線で、全てが自分を除外した他人事のような回答ぶりだ。

要するに、この質問者もベストアンサーの回答者も、まるきり自分は関心のない、使いもしない「ゎ」のことをわざわざ知恵袋に持ち出して、それを批判している(らしい?)「大人の方」だか「優等生ぶってる中高生」の回答者だかを、「言葉のあやも、くみ取れない人」だの「洒落っ気がない」だのあてこすり、果ては「ムカつ」くとなじって、攻撃したいだけなのである。

「ゎ」について質問者はその素晴らしさを熱く語りたい訳でも、基本的に「ゎ」に対する純粋な愛着がある訳ではないのである。


さあ皆さま、何だかうんざり召されたか。


だが、本題は真にここから。

この質問者やベストアンサー回答者は(おそらく中高生だから致し方ない部分はあるにしても)、さも豪そうに高飛車に、はなから自分がまともに見てもいない他者に対してごちゃごちゃ攻撃している中で、完全に「自己」というものを見失っている。
「私」と言っているが、その「私」は、いつかどこかで誰かが言っていた言葉を傀儡のように語っているだけなのである。

言葉について、言葉で語りながら、そこに自分の言葉を使うべき「自己」というものがいないのである。

では「自己」の代わりに、質問や回答やコメントの中に存在しているのは何か、と言えば、中高生の側に立って「ゎ」を何とかして肯定せねばならぬ、もうひとりの自己、いわゆる「第二自己」というものである。
「自己」ではない「第二自己」が、自分のものではない言葉を操り、表向き言葉について論じるふりをしながら、他者を攻撃しているのである。

実に不可思議な現象であろう。

この「第二自己」は本心に「ゎ」を使いたい理由も願望も何ひとつないのに、「ゎ」を何とかして肯定しなくてはならないということで、結果、よそから借りてきた言葉ばかり使う羽目になり、論理にこじつけが多くなってくる。論拠も説得力もない文章ばかりが並んでいる。

痛々しい話だが、別に中高生だけのことではない。
同じようなこと、もっと酷い愚行や事態を引き起こしているのが今の社会の現状である。

皆さま、もうお気づきであろう。
もうずっと、まさきつねがブログやコメントで問題視してきた今の日本、この国の政治も企業もジャーナリズムも常識も、「『私ゎ』のゎを批判してる人って何なんですか?『ゎ』は今の中高生は誰でも使ってます。」という質問者と全く変わらない次元で、自分の言葉でもない言葉を操って、自分が本来好きでも興味もない事柄で、他者を執拗に攻撃し、貶めようと企み続けている。

「ゎ」の定着化などは、日本語の変化でもなんでもない、単に日本語の腐敗と崩壊に過ぎないのだが、中高生の中に生まれた「第二自己」が「中高生の常識」とお題目を唱え続けることで他者を洗脳出来ると、(白を黒と言いくるめられるかのように、)世間一般をなめてかかっている。

「私ゎ」の「ゎ」なんか、ちっとも美しくもなんともないが、「常識」という言葉を振り回せば大衆操作が出来ると、中高生の「第二自己」がネット上の大衆心理を値踏みしているのだ。おまけに「文化」を付ければ完璧に語ったと考えて自己陶酔しているのだろう。一体どこのマスコミから学んだ手法であろう。


「美しい」といえば、そもそも美しい日本語などありはしない。
美しいと思う日本語を残してきた、この国が美しかったのだ。

「観音さま」はかつて、「くゎんのんさま」だった。
「か」を「くゎ」と発音する、美しい心を引き継ぐ日本人がかつていたのだ。
この「ゎ」は夕刻に鳴るお寺の鐘の響きのように美しいと思う。考えもなしに「私ゎ」などと一緒にするな。

もうひとつ、「常識Common Sense」はしばしばメディアによる大衆操作で大きく歪められ、衆愚政治の原因となる危険性もはらむが、哲学者三木清は「人間は民族的な常識の世界に根をおろしながら、これを克服する努力によって、人類的な良識の世界に進むのほかはない。」と、常識に疑懼の念を抱く「良識bon sens」の働きについて語っている。

常識を振りかざす「第二自己」は、言葉も借り物で、自己の知性も判断力も要求されないので生き方として非常に楽だ。
だが、この甘い罠に陥るな。

極論で暴論ではあるが、国土などは最悪の場合、国民の命と引き換えなら、手放したって別にどうってことはないのである。国土とか国境なんていうものは、所詮宇宙からこの星を見れば一瞬に幻と消える妄想故国に過ぎないものなのだから。(国が守るべきは国民の命であって、国土ではない。)
だが、自分の言葉を手放した時、自分の国の文化も自分のルーツも失われ、「自己」はことごとく崩壊する。

くれぐれも狐や狸に化かされることのないように。(あなたの「自己」が自分の頭でお考えになるように。)


他人の言葉は鵜呑みにするな。

自然の語る声を聞け。


拙くても、自分の言葉で語ることを忘れるな。

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今回もフィギュアの話題ではなかったが、一連の報道は裏で全てつながっている。
まさきつねは、そう考えている。
(例えば「ゎ」を「キム選手」、「今の中高生」を「今のジャッジ」、「使って」を「評価して」、「常識」を「ルール」と置き換えて、知恵袋を読み直してみて欲しい。論法が同じであることがお分かりになるだろう。)


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まさきつね様

こんばんは。
あぁ、フィギュアの話題ではなかったのですね(^_^;)
でも最後の注釈を頂くまでもなく、
途中から昨今のフィギュアスケートへの比喩のように感じておりました。

メールにチャットにブログに掲示板、そして最近ではツイッターまで。
今は、お手軽に自分の気持ちを書き表せる時代ではありますが。

「自分の言葉で語る」
ということと、
「思いついたままを語る」
というのは、大きく異なりますよね。

お手軽に慣れすぎたくはありません。
不特定多数の見知らぬ人、
現実世界で会うかどうかもわからない人であっても、
自分自身の血肉の通っている言葉を届けたいです。

(私なんて、こうしてコメントを書くときでも、下書きしているくらいです(^_^;))

そして、欲を言うなら。
同じように、血肉の通った言葉に触れたいと思います。
2010/4/26(月) 午後 8:10 [ もじ ]

もじさま
ご訪問うれしいです。
そうですね。最後の注釈は要らないだろうな、と思いました。
何もかもヴァーチャルなものが溢れている現代ですが、「血肉の通った」言葉を交わして、「血肉の通った」人間関係を作りたいものですね。まさきつねもブログの中でも、そう感じています。
下書きをされるのは立派だと思います。まさきつねも心掛けていますが、言葉で誰かを傷つけないよう、添削推敲することは必要ですね。

フィギュアの演技でも、まがい物ややっつけ仕事でなく「血肉の通った」作品を観たいですね。契約だの会社設立だのマネーの飛び交う話は、もういい加減にして欲しいです。
2010/4/26(月) 午後 9:09 [ まさきつね ]

今回の内容、とても共感いたします。

「自分の言葉で話す」とは、どんな時に必要でしょうか。私見ですが人に言い難いことを言う必要に迫られた時ではないでしょうか。例えば人に欠点をオブラートに包まず率直に指摘する時、上司や目上の人に自分の反対意見を「勇気」を持って言う時だと思います。
精神的困難や重圧を伴う場でこそ「自分の言葉」が試される時だと思います。

麻婆頭腐様、これからも真央選手に「愛しき言つくしてよ 長くとおもはば」

以上、暗人頭腐の主張でした。
※そういえば、大輔選手は杏仁豆腐が好きみたいですね。そして真央選手、大輔選手リクエストの杏仁豆腐に目を輝かせ、美味しそうに食べていました。

待つ恋も別れの恋もつゆ知らず 杏仁豆腐に瞳輝く

お粗末でした。
2010/4/26(月) 午後 11:20 [ 桔梗 ]

桔梗さま
ご訪問うれしいです。
仰るとおり、プレッシャーのある中で自分の言葉で語るのは、大変なことだと思います。浅田選手はしっかりと自分の言葉で、鳩山首相に陳情をしていましたね。(園遊会では「はい」しか応えていませんでしたが、あれはあれで礼節に適っているのです。)
選手たちにはみな、愛しい言葉を尽くしてあげたいものです。宝石のような演技を見せてくれたのですから。
杏仁豆腐の恋は、清らかで喉ごし良さそうですね。でも気づかれぬままスルーされそうな感じもします。
高橋選手にも浅田選手にも、素敵な恋の体験をしてもらいたいですね。
2010/4/27(火) 午前 0:00 [ まさきつね ]

たびたびお邪魔させて頂いております<(_ _)>
「うつくしき言の葉つくしてよ」のタイトルに、木原としえさんを思い出してしまう私(笑) 漫画家志望だったというまさきつね様ならおわかり頂けると思います。実は私めもそうだったんです(恥)

他の方のコメントを拝見してても、結構古い漫画家さん達のお名前が
挙がっていて、嬉しくなってしまいました。やっぱり大人の方達が多いのでしょうか。 いえ、年齢に関係なく、いろんな方のご意見を聞くこともできるので有難いのですが。

パガニーニの手のイラストを見たときはドキッと致しました。勝手な思い込みですが、フィギュアファンは、バレエとマンガが好きな方が多いような気がするので、なんとなく親近感を持ってしまいます。

余談ですが、私は「ら」抜き言葉はもう市民権を持ってしまっていると思ってはいますが、自分自身は永遠に使うことはないと確信しています。自分の中の日本語にはありえませんので。
これからも色んなお話聞かせて下さいね。
2010/4/27(火) 午前 0:21 [ オレンジ ]

こんばんは。「わ」の誤用について、少し考えてみました。
最初に気付いたのは、15年ぐらい前「ルーキーズ」というコミックの中で不良少年がしゃべるとき、せりふとして使われてたものです。作者の意図としては頭の悪いしゃべり方を視覚的に表現しようとなさったのではないかと思います。その後2ちゃんねるなどでも見かけるようになりましたが、初めは文章としての違和感を抱かせることにより、目立とうという意図のようなものがあったと思います。それが何も考えず真似て使う人たちによって定着して言ったのでしょうね。でも主流にはなりえないただのはやり言葉で、注目されなくなれば自然に廃れていくものと思います。擁護する人たちも若気の至りとでも言いましょうか、自意識の肥大化とでも言いましょうか、そんな年頃なのでしょう。
私自身も、時に受け売りや知ったかぶりをして、後で穴があったら入りたいと思うことがあります。自分の言葉で、思慮深く吟味することは大切ですね。
2010/4/27(火) 午前 0:31 [ Meiling ]

オレンジさま
木原としえさんも良いですね。古典的耽美系ですね。
まさきつねは結構、指マニアで、手のデッサンばっかりしていたことがあります。顔を描かなきゃ、漫画にならないんですけどね(笑)。
「ら」抜きもある年齢層以上には、違和感ありますね。言葉には地方色などもありますから、話す人の背景が滲み出ますね。人柄の良さが伺える言葉なら、どんなものでも美しく感じるのですけどね。
2010/4/27(火) 午後 2:04 [ まさきつね ]

Meilingさま
コメントありがとうございます。
「ルーキーズ」が発祥でしたか。合点がいきました。
漫画の視覚効果としては面白いですね。真似て使うのはどうか、ということでしょうね。
まさきつねも数知れず恥をかいてきました。(太宰治もびっくりです。)恥をかいて人間は成長するものなのでしょうね。「ゎ」を使う中高生も分別のある大人になって欲しいものです。
2010/4/27(火) 午後 2:19 [ まさきつね ]

こんにちは。以前のコメントではお返事ありがとうございます。ご指摘もたしかになるほどなあという感じでした(笑)他にもモーツァルトの音楽性(『フルートとハープのための協奏曲』とか)も天才特有の無邪気さや万能感に共通点があるような気がして真央ちゃんに合っているように思っていたのですが、彼女の中ではそういう時期は過ぎたのかもしれないですね。
さてこの「ゎ」などの中高生の言葉遣いの件ですが、言葉遣いはともかく反論の仕方は実に日本人的(和の精神のネガティブ面というか)ですね。例えば、「こういう言葉遣いを私たち(みたいな若い子)がすると小動物っぽくてかわいいでしょ。言葉は使う人によって変わるもの。誰に何といわれようと変える気はない」とか言うならお好きにどうぞという感じですが、「空気読んでるし、みんなやってます!批判するほうがおかしいんだ!」ですからね(笑)まあ、本人達からしてみればコミュニティ内の空気読んで使ってるのに外からみんなやらないよ、おかしいよと言われてなんでよ!という感じなのかもしれませんが。同調圧力のキツさは思いやられますが、結論はまさきつねさんの意見に同意です。
2010/4/27(火) 午後 8:51 [ say*sa*u*081 ]

say*sa*u*081さま
ご訪問うれしいです。
天才には天才が合いますから、モーツァルトとの相性は良いだろうなと思います。まさきつねも何のかんの言ってますが、実際、浅田選手は何かしでかしてくれますから、最終的にはどんな曲でもどう仕上がるか楽しみなのですよ。
「ゎ」の件ですが、仰るとおり、若者の小コミュニティの同調唱和は薄気味悪くて近寄りがたいのですが、先んずる大人たちも褒められたものではない体たらくですからね。(子は親の鏡と言いますし、)内観を心掛けたいと思います。
2010/4/27(火) 午後 10:49 [ まさきつね ]
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