月船書林

フィギュアスケートの話題を中心に芸術を語る

美しき反逆者


位置  石原吉郎(『サンチョ・パンサの帰郷』所収1964年)


しずかな肩には
声だけがならぶのでない
声よりも近く
敵がならぶのだ
勇敢な男たちが目指す位置は
その右でも おそらく
そのひだりでもない
無防備の空がついに撓み
正午の弓となる位置で
君は呼吸し
かつ挨拶せよ
君の位置からの それが
最もすぐれた姿勢である


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世界選手権後の記者会見動画を見ながら、この詩をふと思い出した。

ネット上では、またも携帯電話弄りがどうとかレピスト選手との睨み合いがどうとか、キム選手の会見場での行儀の悪さが取り沙汰されている。
些末なことはどうでもいいが、若いうちから常に衆人環視の中にあるというのは、さぞかし辛かろうとは思う。
酷いものになると選手の人格否定にまで及ぶのだから、スポーツ競技のメダルというのは手にするのも善し悪しで、まさに禍福は糾える縄の如しだ。

(違う話を差し挟むが、彼の国のニュースでは、キム選手が世界選手権にエントリーした理由は「ISUが1月末、四大陸大会に欠場したキム・ヨナが世界選手権には出場することを望んだからだ。」と報じた。
四大陸欠場のバーターが今回の出場であることを明かした訳だが、裏事情を何でも報道すればいいというものでもないだろう。キム選手も決して彼の国のメディアから、大切に守られているわけではないということか。)


冒頭の詩だが、無論スケートとも、フィギュア選手とも一切関係はない。
作者の石原吉郎(1915-1977)はシベリア抑留を体験した詩人で、帰国後は、ナイフを懐に忍ばせて街中を彷徨し、生意気な輩を見かけては喧嘩を売っていたという人である。
収容所の囚人たちにもまれて、地獄のような日々を送り、失語症になるほどの思いをしながら生き延びて、数え切れない理不尽と絶望を味わったあげくに、その反動のように反逆と無鉄砲を繰り返した訳である。

暗喩と断定の語法を用い、ロジックの繋がりを拒むような逆説的な文体が、難解さと取っ付き難さの印象を与える詩法になっている。
しかし言葉に関する感性はとりわけ鋭く、今聞くと胸が傷むような示唆に富む文章をエッセーに残している。

「いまは、人間の声はどこへもとどかない時代です。
自分の声はどこへもとどかないのに、ひとの声ばかりきこえる時代です。
日本がもっとも暗黒な時代にあってさえ、ひとすじの声は、厳として一人にとどいたと私は思っています。
いまはどうか。
とどくまえに、はやくも拡散している。
民主主義は、おそらく私たちのことばを無限に拡散して行くだろうと思います。
腐蝕するという過程をさえ、それはまちきれない。」(『失語と沈黙のあいだ』1972年)

二十一世紀の現代、テレビもネットも「言葉」が恐ろしい量で溢れて、ひとときも「言葉」以上に刺激的な、「沈黙」の存在に気づかされることが出来ない。
何も語らず、だが何も語らないがゆえに貴重であった「沈黙」は、石原吉郎の生きた時代よりもさらに冷遇されて、氾濫する「言葉」は端からひとつひとつの存在意義を失い、コミュニケーションは機能不全の方向にひたすら向かっている。

政治家も資本主義者も、マスメディアも、安い言葉を湯水のように垂れ流し、蔓延する情報はもはやどれも、朝のテレビが流す血液型占い程度の信頼性しか持ち得ない。


話が大分流れてしまったが、このところのフィギュアスケートをめぐる報道やコラムで、使われてきた言葉のお粗末さ、いびつさは目を背けたくなるような事態としか言えぬものばかりである。
メディアで量産されている記事も、何が目的か分からないくらい、選手や演技の価値に対するリスペクトをどこかに置き忘れたような、奇妙にねじれた作為性に充ちている。

一体何が狙いで、世論を誘導し、大衆心理を操作しようとするのか。

権力と資本経済力による弾圧か、政治力による統制のようなものを感じるが、ひたすら美しくけなげな選手たちを見ていると、いかがわしいものや俗悪なもので汚すことに忍びなくなる。痛みの感覚にも、罪の意識にも無頓着な人間に、やすやすと触って欲しくない怒りを覚える。

そもそも途轍もないもの、もの凄いものを目にしたら、それを表現する「言葉」など、どこを探してもない。
石原吉郎はこうも言っている。

「ことばを私たちがうばわれるのではなく、私たちがことばから見はなされるのです。」

人間は言葉の主体である自我を、虚無から必死に守ろうとして、「言葉」にしがみつく。
だが、主体が真に虚しいものになり下がったら、「言葉」の方はあっさりと主体を見放してしまうだろう。
その畏ろしさに思い至るニューロンを失ってしまった話し手や書き手が何を語ろうとも、語られた「言葉」は誰にも届かない。風の中に拡散していくだけだろう。


最後にもう一度、冒頭の詩に戻ろう。
おそらくシベリアの収容所での点呼の場面が原風景にある。
並ぶ捕虜たちは同等の立場で同士であり、抱えている心情の重さで敵なのだ。
彼らを強制する立場で、絶対権力の看守たちがいて、看守と捕虜たちの間には、ジラールの「欲望の三角形」に通じる情の力関係が存在する。
正午の休憩を向かえる瞬間に、権力と情のバランスが一瞬崩れ、誰もが無防備な実存として空の下に位置するとき、勇敢なる意志は初めて権力への反逆としての佇まいを持つのだ。

石原吉郎が実体験として、口惜しくも耐え忍ばねばならなかったであろう不合理で理不尽な多くの屈辱、見て見ぬふりで遣り過ごさねばならなかったであろう多くの無念に対して、言葉で果たした体制への抗議が、この詩なのである。


さて、記者会見場に居並んだ女子のフィギュアスケーターたち。

権力や体制による恩恵を受けた者、理不尽な扱いを受けた者どちらもあわせて、まさきつねは彼女たちの勇敢なる意志、声なき反逆の姿勢が、彼女たちの演技に表出したのだと思う。
(ある者はやる気のなさ、抜け殻のような演技で。ある者は勝利への絶対的意志に充ちた、渾身の演技で。)
彼女たちの思いは、会見で語られたどの言葉よりも、彼女たちの声なき身体表現の中に全て込められていた。

彼女たちの身体表現が、詩人にとっての詩にあたるとしたら、彼女たちは語らずともすでに、彼女たちを縛り苦しめている権力への、勇敢なる反逆者なのだ。



「詩に於ける言葉はいわば沈黙を語るためのことば、『沈黙するための』ことばであるといっていい。」(石原吉郎)


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