月船書林

フィギュアスケートの話題を中心に芸術を語る

浅田選手の表現力について思うこと 其の弐 エンターテイメント性と芸術性

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前の記事で素晴らしいコメントを数々いただき、感銘している。
やはり、フィギュアの現状を憂い、変革を求める意見が決して少なくないのだと改めて確信する。

だが一方で、マスメディアは次のような有りさまを、テレビ画面を通じて露呈させる。

其の壱の最後で感受性について書いた。その感受性の欠片もない野村女史が、バラエティ番組で浅田選手の演技を「お遊戯」と言い放った。
いくらこのブログで、ファンの間では分かってるよね、みたいな姿勢で論を進めても、全国ネットの放送媒体で、ビッグ・ネームのコメンテーターが中心になって、ネガティブ・キャンペーンを展開されては手の施しようがない。これが芸術性を理解するということにおいて、限りない無教養と無関心、無分別にセンサーが狂わされてしまっている日本の現実なのだ。



前置きが長くなった。
さて、それでは其の壱で表現の方向性が違うと言った浅田選手の演技とそのほかの選手の演技について、表現性という観点から読み解いていくことにしよう。

いささか紋切り型になるやも知れないが、まさきつねは演技におけるタイプの違いを、とりあえずエンターテイメント性と芸術性に分けて考えている。

其の壱の記事について、fro_bleuさまからいただいたコメントの中で「審査員や観客などにアピールするため『外へ外へ』という表現を目指している」表現と「ストイックに『内へ内へ』と突き進んで、それが結局表に出てくる」表現という観点を示していただいた。けだし、いい得ておられると思う。
そしてこの場合、エンターテイメント性は前者の表現をいい、芸術性は後者の表現をいうことになろう。


エンターテイメントはいろんな解釈があろうと思うが、多くは「楽しみ、娯楽、気晴らし」と捉えられ、そのための余興や催し物、娯楽作品を含むという。接待までバイアスに入るのが妙味だが、フランシス・ベーコンが「楽しませる(to amuse)」という意味合いで使って以後、現代の解釈が定着したらしい。

エンターテイメントは創作家によって表現された実在に対し、楽しみ、感動し、共感を共有するという、いわゆる「万人共感」を主な要素とする。
俗に「万人受け」と言われるが、いかに多くの人間から同種の感情を引き出すかが主な目的となる。

この種の表現性を傾向として強く持っていたのが、キム選手の『007』であり、鈴木選手の『ウエスト・サイド・ストーリー』であり、織田選手の『チャップリン・メドレー』だった。
だが誤解なきように言うが、本来は選手の演技表現に言及する特性ではなく、あくまでもプログラムが持つ特性として考えている。

一方、芸術の方はいかに解釈するか。
ある人は芸術は「果て」への挑戦、すなわち表現の限界への試みだと言った。
すなわち人間の(第六感のような感覚も含め)知覚が認識し得る「果て」を発見し、感受し得る表現を証明することが芸術現象であるという捉え方である。

そこにははなから、目的として大衆への迎合性というものが関係しない。
エンターテイメントの主要素である「万人共感」とはそもそも無縁なのだ。
芸術とは本来、創作家による限りなく孤高で孤独な作業であり、常に「果て」へ向かっていく前衛的な試みだということなのだ。

浅田選手の『鐘』は、芸術としての表現に固執し、「万人共感」を得る方向性をなかなか持ち得なかった。そこで「自由と解放」という万人受けしやすいプロパガンダかスローガンめいた解釈を掲げたが、いかにも後付けである。
タチアナコーチは、人間の根源的な感情の一つである「怒り」を浅田選手によって、美しさと強さというフィギュアの演技表現の二方向で、その「果て」を極めさせようと試みたと思う。
現世に生きる人間の純粋で無垢で、むきだしの「怒り」という感情が、フィギュアの虚構的演技空間の中で、どこまで具現の限界を追求し得るか、考えるだに、ぞくぞくする試みである。

無論まさきつねは、このような哲学的かつ(どうにも競技においては)無意味な思索を、タチアナコーチはともかく、浅田選手自身がしていたと考えているわけではない。

彼女はイノセントにそして優雅に、自分の出来得る限りの技術の「果て」に挑戦し、そしてあくまで十九歳の少女が考えられ得る限りの「怒り」をタチアナコーチの振付の中で精一杯、体現しようと努力しただけだ。…そう、努力したのだ。ひたむきに。ただ無心に。

ファンはその鍛錬の成果がひとつひとつ実って完成していくさまを見た。浅田選手に寄り添って、ひたすら祈るような気持ちで。

あまりにも未完成で、試みの方向性がさっぱり伝わらない最初のお披露目から、どうしてもちぐはぐで、音に乗り切らなかったフランス杯。
さらに無骨に音に引きずられて、要素が噛み合っていかないロシア杯。
そして長い逡巡の果てに、全日本、四大陸と、みるみるプログラムが息を吹き返したかのように楽曲を飲み込んで、彼女の演技の中で「怒り」という感情が一気に膨れ上がり、悶絶し、そして昇華されて解放される瞬間を、彼女とともに共有したのだ。

この全てが五輪までの前哨戦としたら、今季ファンはそれぞれのポイントでまさに充実した、陰影に富む至福の時を得られたと言って良いだろう。
最初のつまづき、失敗、スランプ、そして努力と復活と、まさに極上のエンターテイメントにしかない要素が満載である。

そして最後の五輪の舞台。
ぴょんぴょん弾ける笑いのSPと、どうしようもない悔しさにまみれたFS。
二つに分かれる人生の禍福。

まさきつねは五輪に限らず、本来メダルが獲れる演技というのは、選手たちの身体に宿る、狂気というべき臨界線突破の衝動が発動した時と考えている。
自己の意識のない、いわゆる非自己の状況で3Aを跳び、スピンをし、スパイラルをする。
無心と一言で言うが、実は挑戦する歓び、冒険へ向かう高揚感のみが知覚を支配する刹那は、正気の沙汰ではない、やはり狂気である。

3Aの成功では、まだ観衆は固唾を呑んで見守っていた。
スピンでため息が漏れ、スパイラルシークエンスで高々と掲げられた脚に、地の底から湧き出るようなどよめきと歓声が会場内に走った。
それは、タチアナコーチが浅田選手のために築かせた楽曲の壁を超えて、観衆に浅田選手の演技から迸る情念の声なき叫びが届いた瞬間だった。

浅田選手は自らの演技で、究極の芸術性を表出しながら、その一方で図らずも、自らの人生にあるこれ以上ない悲しみ、歓び、怒りと笑いをファンの前に惜しみなく供し続けたのだ。
一切の意図もなく、計算の欠片もない、それは『浅田真央』というエンターテイメントの劇場である。

不謹慎と言ってくれるな。

彼女の嘆きは辛く、彼女の笑いは甘く、そして彼女の悔しさはほろ苦かったが、その全てが人生を彩って美しく、五輪の演技の最後のほんの僅かな要素の綻びがもたらした悔し涙さえも、美しかった。
それを観衆は享受出来た。

まさに眼福である。


シニカルに状況を把握される御仁は、まさきつねの駄文など一蹴されるだろうか。
だが芸術と違って、エンターテイメントは美しさ、楽しさ、面白さ、強さ、切なさ等々、センサーに触れるこういった表現や感情の数々を、味わってナンボ、心置きなく浸ってこそナンボなのである。(これに浸れなかった御仁の幾人かが、野村女史や石原都知事のような発言をいけしゃあしゃあと口にする。浅田選手の順位結果がさも、五輪に対する自分の興を殺いだと言わんばかりに。)
芸術にも無論、こうした一面はある。だが、エンターテイメントの類は、まさにそれこそがレゾンデートルなのだ。

浅田選手の驚異的な身体能力と努力を惜しまぬ鍛錬によって、完成の度合いを深めた『鐘』の演技は、タチアナプロデュースによる芸術性の追求だった。
観衆は度重なる劇場空間の共有によって、そのプログラムの芸術性に対する認識を徐々に深めていった。演技要素のいくつかの綻び(大きくはジャンプの失敗)が、惜しくもプログラムの完成を世界選手権へ先延ばすこととなりはしたが。

そして真央自身による『浅田真央』という演目は、とりあえず『初めての五輪出場』という幕を閉じ、『歴代最高点への挑戦』あるいは『ソチへ向かって』という予告編を垣間見せた。


この論考はあまりに選手の表現力という観点からは、脱線し過ぎたきらいがあるかも知れない。

だが、そんなことは百も承知だ。


優れた芸術は優れたエンターテイメント足りえる。
(優れたエンターテイメントもまた、優れた芸術足りえるのだが。)
遅ればせながら「万人共感」の視点から述べれば、当初は僅かな人数の共感しか得られなかった作品も、その真価値ゆえに繰り返し観られることが望まれれば、時空を超えた「万人共感」を得ることになるからだ。
逆に言えば、ひととき「万人受け」した作品も畢竟、繰り返し観ることを望まれなければ、時とともに忘れ去られる。



「歴史が真の評価を下すのだ。」(ミハイル・ゴルバチョフ)

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さて、ブレイクして、まさきつねはもう一度『鐘』の演技を観ることにしよう。


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まさきつねさま

まさに仰るとおりであると、私も思います。

女子選手について言えば、私は浅田選手の「鐘」と鈴木明子選手の「ウエストサイド・ストーリー」をこの上なく素晴らしいプログラムだと思っております。浅田選手のプログラムが「芸術が優れたエンターテイメントと成り得たもの」であるのに対し、鈴木選手のそれは(特に全日本選手権の演技は)「優れたエンターテイメントが優れた芸術となりえたもの」だと思っています。いずれも「繰り返し見てみたい」と思わせるプログラムですし、何度見ても鳥肌が立ちます。

おおざっぱなとらえ方かとは思いますが、芸術は、どんなジャンルであれ、すべて「自己表現」です。その人自身が作品、あるいは肉体から強烈に発散されたとき、見るものの心を揺さぶる。

鈴木選手のステップを見て心が揺さぶられるのは、アナウンサーが言っていたような「マリアになりきった」状態だからではなく、そこにはっきりと「鈴木明子」という一人の人間が発散されているからだと私は思っております。
2010/3/21(日) 午前 3:13 [ fro_bleu ]

fro_bleu さま
さっそくのコメントありがとうございます。
まさきつねも鈴木選手のステップワークは、まさに鈴木明子という人間の情念が迸り出た一級の芸術品だと思います。「マリア」を演じながら、人間が苦悩しながらも生きていく歓びをまさに体現したものでした。
鈴木選手についてもきちんとまとめた記事にしたかったのですが、なかなか時間がとれません。(ワールドが始まってしまうニャン。)
またお導きください。
2010/3/21(日) 午後 1:28 [ まさきつね ]

こんにちは!まさきつねさま

別のブログでのコメントを何度か拝見して、理路整然としたご意見と慧眼に感服しておりました。Windと申します。
私、浅田選手の『鐘』は、今までの彼女のプログラムの中で一番芸術性が高いのではないかと思っています。

動画を見た知人に聞いたのですが、小塚選手のお父様が何かの番組で、
「キムヨナ選手と浅田選手の点差は、あれぐらい開いて当たり前」
という発言をしているそうですね。
小塚選手のお父様も選手でいらしたわけで、勿論お父様なりの見解があってしかるべきだとは思うのですが、
日本の、それもスケート関係者からの発言ですから、ちょっとなあ…と。
お父様の発言は小塚選手にはなんの関係もないことなのですが、佐藤コーチ以外にも、お父様にもコーチしてもらい、また家族としていっしょに生活している以上、スケートに関する価値観を同じにしていくのかな、とも思います。
今後小塚選手と(キス&クライの)お父様を、今までとは同じ気持ちで見れないかも…です。
2010/3/21(日) 午後 10:21 [ windy_weather_windy ]

Windさま
ご訪問恐縮です。そして、とてもうれしいです。まさきつねもWindさまのコメントを度々拝見していました。
さて、小塚選手のお父様のことですが、五輪前に、長久保コーチと一緒に小塚選手のお父様が浅田選手のジャンプを見てあげていたとニュースで聞きました。
お父様の発言の真意は無論測りかねますが、まさきつねはジャンプの種類や回転不足の完成度など、現在の浅田選手が抱える矯正課題てんこ盛りの様子を冷静に見て、コーチとしてあえての苦言という風に捉えた方がいいのかな~なんて思いました。
点差なんかない、と目を逸らすより、乗り越える点差はこれだけある、としっかり受けとめた方が浅田選手のモチベーションは上がると信じておられるのでは…とちょっとお父様びいきに考えてみましたが、いかがでしょうか?
2010/3/21(日) 午後 11:10 [ まさきつね ]

こんばんは。
他の記事と合わせて、大変興味深く拝読いたしました。

私が自身の感受性に照らして、高評価だと嬉しいのは、
やはり、自分が心を揺さぶられた演技です。
なぜか、ただ「美しい」だけでは、そうは思えません。

ノーミスで「美しく」演じるのは確かに素晴らしいことです。
客観的には、それは理解できます。
でも、それだけでは、申し訳ないけれど、「揺さぶられない」のです。

あまりに主観的で数値で測れないものではありますが…
私は、浅田選手が
自分の心を「揺さぶる」演技の出来るアスリートに成長してくれたことが
とても嬉しくてなりません。

某・元選手の言葉を借りれば、
「全力を出し切って」いることが伝わってくる、素晴らしい演技でした。

世界選手権で、『鐘』をパーフェクトに滑れるよう、祈るばかりです。

(長文コメント、失礼いたしました)
2010/3/21(日) 午後 11:57 [ もじ ]

もじさま
パロディ話では失礼しました。

美学では、よく美術工芸品と芸術品の違いで「美」を論じます。
つまり、人間が創った物の中でも、美しく完成されていても一部が壊れてしまうと欠陥品(ゴミ)になってしまうものと、たとえどこかが欠けて壊れてしまっても修復するに足る、値打ちの変わらないものの二通りあるということです。
まさきつねは五輪での『鐘』の演技の綻びを、このように捉えています。
2010/3/22(月) 午前 1:28 [ まさきつね ]

まさきつね様
ご返信有難うございます。
こちらこそ、先の記事では、初コメントにも関わらず、
お気遣いいただいて、恐縮でした…(^_^;)


>たとえどこかが欠けて壊れてしまっても修復するに足る、値打ちの変わらないもの

なるほど、まさにその通りですね!
浅田選手がどこまでも高みを求めていることが分るからこそ、
演技の値打ちもまた、変わらないのでしょうね。

昔からそうなのですが、いつでも(特に今季は)、
浅田選手が納得の出来る演技をしてほしい、と願っています。
また、OPのSPの後のような笑顔が観れるといいですね。
(あの時は、仕事中にこっそり観ていたのに、嬉しくて泣きそうになりました。)
2010/3/22(月) 午前 2:00 [ もじ ]

まさきつねさま、ありがとうございます。

なるほど、確かにまさきつねさまの見解の方が真実に近いように思われます。お父様はジャンプを見てあげていたのですね。
本田さんもショートの解説のとき、高橋選手の3-3で体勢を少し崩したとき、回転不足を心配していましたよね。自分がみていた選手に対しては厳しいというか心配なんだろうなあと思いました。それと似たかんじなのかな?
もうすぐ世界選手権なのに、応援する側も気持ちが沈んでいてはダメですよね(^O^)
私はずっとコメントを拝見するたび、まさきつねさまは、しいて字をあてるなら「正木つね」さまなのか「まさキツネ」さまなのか考えていました。
「尻尾が二つになるほど怒っている」との文を拝見し、やっと疑問が氷解しました(^O^)
Wind
2010/3/22(月) 午前 2:12 [ windy_weather_windy ]

もじさま
レス遅くなりました。なかなか次稿がまとまらなかったものですから、ごめんなさい。
これから始まるワールドの演技を楽しみにしましょう。
2010/3/23(火) 午前 2:44 [ まさきつね ]

Windさま
尻尾はもう裂け続けて、今や九尾くらいになっております。
でも、ワールドは初心に帰って、楽しみたいものですね。
2010/3/23(火) 午前 2:46 [ まさきつね ]
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