月船書林

フィギュアスケートの話題を中心に芸術を語る

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空中庭園の散歩 其の四 野の鳥の夢

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☆FILIPPA GIORDANO HABANERA CARMEN☆

恋は野の鳥のように
飼い馴らそうったってできやしない
呼べど暮らせど
寄ってこないものはどうすることもできやしない

おどしやすかしも効きやしない
向こうが喋ればこっちが知らぬふり
ちがう方に気があって
声にはしないけど無我夢中

恋は根っからの無法者
決まりもなければ定めもない
好かれなくたってこっちが夢中
ぞっこん惚れられたらご用心

小鳥を捕まえたと思っても
羽根があるから飛んでいく
振り向いてくれるまで いつまでも待つけど
待つ気が失せたら すり寄ってくる

あなたの周りをひらひらと
行ったり来たりの繰り返し
捕まえたはずが逃げられて
逃がしたと思ったら手の中に
(『恋は野の鳥』)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


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2005年-2006年シーズンの浅田選手のSPはジョルジュ・ビゼー作曲の歌劇『カルメン』という選曲だった。彼女は2003年-2004年シーズンにもEXで『ハバネラ』を踊っていたし、フィギュアの演目でカルメンは定番中の定番、堂々たるスタンダード・ナンバーである。
2005年シーズンのFSでは『くるみ割り人形』という愛くるしいキャラクターを演じているので、山田コーチはSPでは対照的な魔性の女性とのギャップを狙ったのかも知れない。今季の村上選手のEX『Be Italian』にしても、山田コーチにはまだ幼さの残る選手にあえて色気たっぷりなプログラムを演じさせ、少女のコケティッシュな可愛らしさをアピールするといった、ちょっと外連味の入った意図があるのだろうか。

それにしても、フィギュアでカルメンと言えば誰もがまず、カルガリー五輪のカタリナ・ヴィットを思い浮かべるだろうから、彼女が氷上に披露したまさに大輪の花が咲いたような妖艶な演技、情熱的な女性像と比較したら、浅田選手の演じた『ハバネラ』はまったく別物と言わざるを得まい。
とはいえ、浅田選手のカルメンをいわゆる「おこちゃま」と座視するのは、まさきつねにはやや抵抗を感じるところである。先ほどの村上選手の『Be Italian』についても、タンバリンの演技を「幼稚園のお遊戯」、椅子を引く振付を「学校教室の当番お掃除」と揶揄する声があったが、幼児性は性的刺戟と必ずしも相反するものではなく、むしろそのたどたどしさやあどけなさが、ある種のフェロモンを発散して、不純な方向性を持った性的興奮を掻き立てるという場合もなきにしもあらずだろう。

詰まるところ「子どもが一生懸命背伸びをして、大人の真似をしている(から可愛らしい)」という領域を逸脱して、一種の際物扱いされてしまう危惧があるという点で、まさきつねは基本的にこうした、ジュニアやジュニアを出たばかりの幼い選手のお色気路線には多少首を傾げる。

村上選手の『Be Italian』に関して言えば、彼女がせめてもうあと五年先、二十歳前後の心身とも成熟した女性になって演じたとすれば、そこには作品そのものが持つ世界観と、彼女自身が持っている(らしい?)と青嶋女史がコラムで書いていた「どう言えば人が喜んでくれるか、どうふるまえば愛されるか、それをきちんとわかっている」といういわゆる先天性の魔性気質が化学反応を起こして、好事家好みの扇情的な名プログラムが生まれた可能性もあると思う。
(誤解のないように書き添えるが、まさきつねは村上選手にこの路線を突っ走って欲しいとは思わない。むしろ『マスク・オブ・ゾロ』のような、ちょっと宝塚的な要素のある中性的な演出の方が、日本的な正統派美少女ヒロインという流れからすると無理がないように感じるのだが。)

いささか話が逸れてしまったが、浅田選手のカルメンに話を戻そう。
山田コーチもさすがに「天使みたいな」愛弟子に、子どもを誘惑する生々しい娼婦役までは振れなかったろうと思うが、ビゼーのカルメンもメリメの原作に言及すれば、『Be Italian』の売春婦サラジーナにさほど変わらぬ亭主持ちのあばずれである。だが、オペラでは多少性格づけが異なって、原作に出てくる片目の情夫も省かれ、カルメンは自由奔放で情熱的ではあるが、流浪の民ロマの生命感溢れる女性として、その身持ちの悪さもしたたかさも自立心や矜持といった肯定的な解釈に変換されている。

ビゼーはこのスキャンダラスに展開する物語と個性の強い登場人物たちを、洗練された作曲法とさまざまな国のオペラの特質を交えて、スペインやロマの異国情緒に充ちた風味で巧みに調理した。そして台詞が入ったオペラ・コミックの形式で演劇的要素と音楽の融合を図り、エンターティメントとしての楽しさと楽曲としての芸術性が調和した極上の娯楽作品に完成させた。

『カルメン』の初演は1875年の3月3日パリのオペラ・コミック劇場で行われ、その三か月後6月3日にビゼーが急逝する日まで33回という決して少なからぬ上演回数を記録している。つまり、初演は不評で大成功ではないと伝えられてはいるが、興業的な失敗とは言えないのである。
印象としては、ストーリー的な不道徳性やカルメンを演じた女優セレスティーヌ・ガリ=マリエのロマ的な異形さを強調したあけすけな演技が、オペラ・コミック劇場の優美な社交界的な雰囲気から乖離していたこと、ビゼーの楽才とその巧緻に構成された楽曲の新感覚に無理解だった当時の批評家たちが背徳的な題材に難色を示したことが、多くのひとの作品への的確なアプローチを妨げたかも知れない。だが一方、ニーチェやフルトヴェングラーといった面々が歌劇『カルメン』の正当な評価や個人的な傾倒を示しているあたりが、その後の1875年10月のウィーン上演以降、世界各地で公演を重ねる国際的成功と整合するものだったと思われる。

実際、民俗的な色調や素朴な楽想でありながら、ストイックに推敲を重ねた無駄のない表現、美しい旋律と生き生きとしたリズム、冷徹に計算された構想といったビゼーの才智を尽くした創意が、曲の瞬間にデモーニッシュな味わいを覗かせ、官能的な情感を湧出させていることに相違ないのである。

ところで、『カルメン』については、初演で演じたガリ=マリエにまつわるいくつかのこぼれ話があり、彼女がロマ的な自由気儘な女性の個性を際立たせるためのアリアの工夫を助言し、ビゼーはそれに従って13回『ハバネラ』を書き直したとか、彼女が『カルメン』出演中のカルタ占いの場面で引き当てたカードが死を予告するもので、それに震撼した彼女はその後は舞台をまともに務めるどころではなかったが、実はそのカルタ事件の日にビゼーは自室で急死、その瞬間に立ち会った者は誰もいないのだけれど、ガリ=マリエだけが予感したと当時もっぱらの噂になった(←この話は芥川也寸志の『音楽を愛する人に』所収)とか、何かと話題に上がる女性である。
このエントリーの巻頭に挙げた画像が彼女の肖像画で、彼女のあくの強い演技は、先に述べたように初演の不評にも関わっていたようだが、むしろ当初は淡白な色調だったビゼーの楽曲に鮮烈なアクセントを添え、現在のカルメン像を定着させた才気は注目に値する。同時代のモデル兼画家ベルト・モリゾにも(外見、内面合わせて)どこか相通じるような、男性優位社会の中で羽ばたこうとする性的解放運動を彷彿させる側面がある。

ビゼーが活躍した頃は第二帝政からパリ・コミューンを経て、第三共和制へと移り変わる激動の時代だったが、1871年コミューンから成立したヴェルサイユ臨時政府は最終的に「血の一週間」と呼ばれる戦闘の末、崩壊する。この短命政府は、民衆によって打ち立てられた歴史上初の革命政権だったが、その間、女性参政権の実現、児童夜間労働の禁止と無償の義務教育、宗教と国家の政教分離などの革新的な政策が次々に発案され、これらはコミューン瓦解後も国際的な影響を与えている。

ビゼーは流血事件に発展した臨時政府には生理的嫌悪を抱いていたようだが、コミューンの中に花開いた「自由」をキーワードとする女性のヒロイズムや、その破滅の美学といったものには創作への刺激を得たようだ。彼は彼の作品完成に尽力するガリ=マリエを通じて、男性優位社会の顕現である闘牛士エスカミーリオの愛を受け入れたがために自由に生きる人生を放棄し、カルタ占いで予感した死をホセを挑発することによって自らに引き寄せ、希望の破壊を望む世界の不条理を、カルメンというエキゾチックな女性像に結実したのである。

          ※

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☆真央ちゃん 15歳 2005 GPFinal SP☆


さて、ここでようやくフィギュアの話に立ち返るが、まさきつねが浅田選手の『ハバネラ』を単純に「おこちゃま」カルメンと言い捨て得ないのは、何かと「恋に生き人生に生き」とコピーが銘ぜられるカルメンだがその裏側に、八方ふさがりの人生から解放されることを願う社会的マイノリティーの革命的行動とその顛末が反映されている、つまりパリ・コミューンの理想と破滅の不条理が投影していると感じるとき、男を誘惑するだけが売り物ではないカルメンの世界観を、奇しくもこの浅田選手の滑ることだけに夢中な若過ぎる演技が表現しているような気がしてならないのである。

浅田選手のカルメンは、男をどうすれば誘惑できるか、すなわち「どう言えば人が喜んでくれるか、どうふるまえば愛されるか、それをきちんとわかっている」演技ではない。ポニー・テールをくるりと揺らして満面の笑みを浮かべても、それは相手から何か益を搾り取ろうというような媚態ではなく、小鳥が一緒に遊ぼうと誘っているだけのような無邪気な仕草のひとつでしかない。

だがそれだけに、気儘な自由を満喫する少女の明るさが、カルメンが心の底で願っていた自由というもの、誰にも束縛されず謳歌する恋や人生といったものを溌剌と表現しているようで、それがビゼーの響きの良い音楽ときらきらとつながって、『ハバネラ』の小鳥が歌う深刻な悩みや人生の不条理に苦しむ前の恋そのものを表出しているように思う。
そしてそれは決して「おこちゃま」のおしゃまな表現などではなく、この年齢の少女が類いまれな身体能力によってのみ可能な演技表現で具象化した、等身大の生き生きとした女性像のひとつだったと思うのである。

          ※

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☆мao @sada Nagoya Festival Exhibition/Gala☆

これがエキシビションで演じられた『ハバネラ』の原点になる演技だろう。山田コーチの解説というか愛情たっぷりの喋りも、ひたすら浅田選手の可愛らしさをアピールすることに終始している。

          ※

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フィギュア239-14

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☆Mao Asada 2007 World Championship EX- Habanera☆


2003年シーズンのEXから浅田選手は一貫して、フィリッパ・ジョルダーノが歌う『ハバネラ』を音源としている。フィリッパの独特の発声法(従来のクラシック歌手と違って、オペラのアリアを自然な発声で《所謂「ソプラノの声」でなくカンツォーネのように》歌う方法)による歌声は、鈴が転がるように甘くチャーミングに響くので、骨太なオペラ歌手のアリアよりも浅田選手のキュートな仕草にマッチングしていたと思う。
フィリッパのアリアは同時に、ビゼーの華麗な音楽そのものが持つ、軽薄さと紙一重のポピュラー性をも強調してしまうが、フィギュアのエキシビションのようなショー的要素が大きい場合には逆にバランスが取れて、綺麗なメロディーとナチュラルで涼しいフィリッパの声と、軽やかな浅田選手の演技が三位一体で調和していた。

親しみやすさと可愛らしさ、そしてどこか浮世を離れた脱俗感という点でつながり、それぞれの直球的な美しさと曲線的な優しさが天と地で結ばれた神の祝福にふさわしいコラボレーションのひとつであったかも知れない。

。。。。。。。。。。。。。。。
         

L'amour est un oiseau rebelle
Que nul ne peut apprivoiser,
Et c'est bien en vain qu'on l'appelle,
S'il lui convient de refuser!

Rien n'y fait, menace ou prière,
L'un parle bien, l'autre se tait;
Et c'est l'autre que je préfère,
Il n'a rien dit; mais il me plaît.

L'amour, l'amour...

L'amour est enfant de Bohême,
Il n'a jamais, jamais connu de loi;
Si tu ne m'aimes pas, je t'aime,
Si je t'aime, prends garde à toi!

L'oiseau que tu croyais surprendre
Battit de l'aile et s'envola;
L'amour est loin, tu peux l'attendre,
Tu ne l'attends plus, il set là.

Tout autour de toi, vite, vite,
Il vient, s'en va, puis il revient,
Tu crois le tenir, il t'évite,
Tu crois l'éviter, il te tient!

L'amour, l'amour...

L'amour est enfant de Bohême, etc.


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この頃の素顔はまだ、恋の欠片も知らない乙女かな…


☆おまけ☆恋の夢(Mao Asada)

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


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花屋 says... "表現力って"
村上選手がシャドーフェンシングをし長州未来が魔女の鍋をかき混ぜる、これは指ピストルのキム選手や道化師のマイムの高橋大輔が高評価を得たことと無関係ではないのだろうけど、う~んどうなんでしょ、フィギュアはそっちへ向かうのでしょうか。表現力って演技力ではないでしょう?浅田真央ならば同じスパイラルでも時に禍々しく、時に可憐に、乙女の恥じらいを表すかと思えば、挑発的大胆ポーズにもなる。これが表現力だと思うのだけど。
マイムを一切否定するわけじゃないんです。ただせっかくのプログラムが氷上の小芝居の一シーンで印象づけられるのはどうなんでしょう。キム選手の007だってそれなりに魅力的だった、彼女のジャンプに合ってたけれど、身をくねらせて衣装の裾に手を当てるポーズで何やら品下れるものになってしまった。お色気路線というだけでなく。
これはタイプの違い、好みの違いになってしまうのでしょうが、例えば具象的にジゼルや白鳥になりきろうとする選手、振り付けと、抽象的に哀切、可憐、清純を表現するためにジゼルや白鳥という記号を衣装のようにまとうプログラムがある、と解釈すればいいのでしょうか。
まぁ、小芝居も高橋大輔なら充分魅力的だしお休み処が必要な方には良いのだろうけど、浅田さんにはやって欲しくないなぁと小さく呟きます。
まさきつね様のカルメン解釈、おもしろかったです。男の人生を狂わす運命の女という横並びの区別でなく、歴史の縦軸でとらえた時代の女ということでしょうか。
2011.04.13 11:48 | URL | #sDFifbQE [edit]
まさきつね says... "内面から滲み出るもの"
花屋さま
ご訪問うれしいです。
まさきつねもノービス、ジュニアの頃の浅田選手の振付を見ていて、彼女に小手先だけの小芝居は無用だなと思いました。ひとつひとつ完成されたポジション、流れるような柔らかい体の動きは、取って付けたような演技を何もしなくても、見惚れてしまう美しさです。
かつてボリス・ヴィアンがピアフの歌を皮肉って、「電話帳を歌っても人を泣かせることが出来るだろう」と言いましたが、ピアフの声のように浅田選手の所作も、それ自体に魔法がかかっているような力があります。色気とかムードといった後発的なパフォーマンスの産物ではなく、内面から滲み出る生き方が表出したものでしょうか。おそらく一朝一夕に身に付くものではないでしょうね。
カルメンの解釈、ご興味を持っていただけて良かったです。カルメンは確かにコミューンの産物だったとまさきつねは思っています。同時代の女性像にマノン・レスコーや椿姫もいますが、まさきつねは個人的に、浅田選手には(今季のバラードを発展した形でも良いですから)椿姫をいずれ演じて欲しいなと感じています。
2011.04.13 13:49 | URL | #- [edit]
meiling says... "そうなんです!"
まさきつねさまこんばんは。
「幼さの残る選手にあえて色気たっぷりなプログラムを演じさせ、少女のコケティッシュな可愛らしさをアピールする」一部の人たちに劣情を催させ、一部の人たちに眉をひそめさせる、こんな戦略をなぜとり続けるのかずっと疑問だったんです。カナダでのEXでピンクにリボンの付いた衣装で演技するとき観客を誘惑するような振り付けがありました。観客の男性の嫌悪感をあらわにした表情を見て、真央ちゃんが痛々しく、日本人の大人として恥ずかしい気持ちでいっぱいになりました。下品な振り付けです。いたいけな少女に演じさせるべきではないと思いました。考えすぎなんでしょうか。
2011.04.13 21:01 | URL | #F9U5ob0. [edit]
bonbon says... "カルメンなら"
私はアントニオ・ガデスの映画を思い出しますねえ。
「男を破滅に導く魔性の女」というだけならステロタイプでうんざりするけど「自由」をキイワードに浅田選手のカルメンをふりかえってみたら自分の記憶に新たな彩りが加わったようで何だかうれしいです。
花屋さまのマイムに傾きすぎるのも、というご意見、私も同感です。
ただこれも一種の流行でここからまた新しい表現がうまれてくるかもしれませんね。
(今の採点システムでは難しい?)
関係ないですが私は高橋選手にラスコリニコフを演ってもらうのが夢(妄想)なんです。
ぱっと思い浮かぶ音楽がないので無理かなあ。
最後になってしまいましたが懐かしい、美しい、かわいらしい写真をたくさんありがとうございます。
まさきつねさまの文章とともにほんとうに楽しみです。
2011.04.13 21:31 | URL | #sZnz0lPw [edit]
Canadaから says... "表現力の評価の2つの流れ"
こんにちは、まさきつね様。
自分も花屋様と同じようにマイムや人物を演じるタイプのプロは今ひとつフィギュアスケートの表現力の評価の主流にするのはどうかと思います。滑ってなんぼの競技フィギュアスケートならではの表現力を評価するのなら、顔芸、芝居(なりきり)、マイムが、評価の主流になるべきではないとさえ思っていますが、実際、演技審判員の評価は、この芝居タイプの表現力とスケーティングそのものによる音楽(旋律や楽器)の表現力をジャッジする2つの流れがあるようですね。競技プロは、スケートそのものによる表現こそフィギュアスケートが、フィギュアスケートたる所以だし、仮に演技審判がその音楽自体のバックグラウンドを詳しく知らずとも、コーチや振り付け師のアピールがなくても評価出来るのでは?、いやそういう先入観なしでジャッジして欲しいですね。(多分無理でしょうけど)
正直、選手が演技審判席の前で止まって媚び売っているような表情やポーズをされると自分は、ドン引きしてしまいますが、結局点数付けるのは、ジャッジなので必要悪だけど採点競技である以上それも致し方ないのかなと、最近は目をつぶっています(苦笑)。
2011.04.14 06:05 | URL | #QU3xRRRs [edit]
まさきつね says... "大人が節度を守るべき"
meilingさま
ご訪問うれしいです。
まさきつねが常々思うのは、フィギュアもスポーツ競技である以上、品性を保つべきということですね。EXはショーなので致し方ない部分もあるのでしょうが、同じ主観競技でも、新体操などでジャッジに媚を売る振付など見たことないですね。ジャッジや観衆を味方につける戦略とはいいますが、節度をわきまえて欲しいものです。

特に幼い選手に演じさせる場合は、大人の責任が大きいと思います。少なくとも映倫でR指定を受けそうな内容に関しては、慎重になってもらいたいですね。
2011.04.14 09:14 | URL | #- [edit]
まさきつね says... "妄想は楽しい"
bonbonさま
ご訪問うれしいです。
ガデスはいかにもスペインの情熱と迫力に充ちていましたね。カルメンは自分に正直な、近代的な女性に描かれていました。
ジュニアデビューの頃の浅田選手は本当に可愛らしかったですが、誰もが惹きつけられたのはその可愛らしさ以上に、シニアでも躊躇う難度の高い技に挑戦していく大胆さ、自由さでしたね。この後、演技力だ表現力だと、彼女を縛って笑顔を奪っていったのは、ルールやマスコミといった周囲の側です。あげく、小さい頃の方が生き生きしていただの、彼女らしかっただの勝手なことを言い連ねます。まさきつねは正直、幼い頃の彼女の振付やマイム的な動きに革新的なものは感じないのですが。
高橋選手にラスコーリニコフですか。音楽で思いつくのはチャイコフスキーの『悲愴』くらいかなあ…ああそれこそ、ラフマニノフでもいいかも知れませんね。才能のあるコレオグラファーでないと、なかなか難しいでしょうね。妄想するのは楽しいのですけれどね。
2011.04.14 09:40 | URL | #- [edit]
まさきつね says... "観衆がジャッジに目をつぶっているなんて"
Canadaから さま
ご訪問うれしいです。
滑ってなんぼという視点は本当にこのところ、すっぽり抜け落ちていますよね。まさきつねは今季、鈴木選手のプログラムがあまりにも評価が低かったことにがっかりしましたが、彼女のあの踊りや演技が、氷の上で行われているのだということをジャッジは分かっているのかと憤慨しました。
止まって身悶えたり、苦悶の表情を浮かべたり、お遊戯みたいなマイムを添えたりするのは、氷の上でなくたって出来ますよ。
最近のジャッジは明らかに評価するポイントを見誤っているか、混乱しているとしか思えないですね。どこかでこのかき乱された流れを正す動きがないものか、観衆が目をつぶり続けるのにも限界がありますよね(笑)。
2011.04.14 09:53 | URL | #- [edit]
cha says... "止まって演技派"
私も競技での”止まって演技”反対派です。それはEXやショーでやればいいと思います。

昔の選手は所謂つなぎ要素が少なかったとは言え、スピンも含めてほとんど休まず滑ってましたよね。今年は特に止まって演技派選手が多くてその度にため息が出ます。もちろん楽しいプロもあるのでしょうが、私がジャッジだったらそれに対して加点したくないですね。こういうのは浅田選手には絶対やってもらいたくないです。
その点タチアナさんの振り付けは休む暇ないので、本当の技量が試されますよね。来季も是非SPかFSで振り付けしてもらいたいです。それか全選手タチアナ振り付けにしたら、本当の勝者が見えてるのではないでしょうか。全く話にならないランキング上位選手も出るかもしれませんね。
2011.04.15 11:15 | URL | #- [edit]
すみこ says... "No title"
chaさま
昨日,どなたかのブログでアメリカだったか??の選手が日本の震災へのエールの意味で真央選手の愛の夢のステップを踏んでいる映像がでていてその人のコメントで見た目以上に難しく体力のいるステップだったとのコメントがでていました。真央選手をまねて滑っていたのは男性の方です。まねて滑れる方でさえ滑ってみて初めて分った訳ですからジャッジが分ろうはずがないとも思ってしまいます。なんとかならないでしょうかね。正当な評価は不可能なのでしょうか??
2011.04.15 15:01 | URL | #iNp6OJto [edit]
オレンジ says... "カルメンといえば"
いまだにカタリナ・ヴィットの代名詞になっていますが、どうも私は彼女の表現力というものがあまりにも演技力に偏りすぎていて、元祖顔芸の人だったという印象が強く、ここまでやんなきゃ点数もらえないのかな、これ演劇じゃなくてスケートなんだけどな、なんて疑問を持ちながらテレビを観ていたのを思い出します。
ヴィットさん、ヨナ選手を褒めたたえていましたが、同系列のタイプのスケーターだとずっと思っていました。彼女もジャンプなどは、正直みどりさんの足元にも及ばないところがありましたしねえ。
とはいえ強烈な印象をカルメンで残したため、その後しばらくカルメンを演じる人は出ませんでしたね。私は安藤選手のカルメンの衣装がとても好きで、彼女があのシーズン怪我などで体調不良だったのが残念です。

古い話に戻すと、札幌五輪の時のジャネット・リン選手、彼女は愛くるしい笑顔以外小芝居なんてなにひとつありませんでしたが、音楽と同化し滑ることそれ自体が
楽しくて仕方のないような、いつまでも観ていたいと思わせるスケートだったと今にして思います。技術的なことなどよく知りもしない子供だったのにね。

村上選手、今季のexはちょっといただけないです!正直何度も観たくないです。spやゾロは納得なのになあ。
2011.04.15 16:58 | URL | #FxFTfupE [edit]
まさきつね says... "同じ条件で"
chaさま
コメントうれしいです。
仰るように、音楽を同じにする、コレオを同じにするというような条件で選手が競い合ったら、その完成度や技術の習熟度が見えてくるのかも知れませんね。結局は純粋な意味でフィギュアは、優劣を競い合う競技ではそもそもないのかも知れません。
それでも、繰り返し観たい演技と、一度で満腹な演技、目の肥えた観衆には見透かされますから、真の勝者はやはり分かる者には分かるのでしょうね。
2011.04.16 00:54 | URL | #- [edit]
まさきつね says... "まさきつねも見ました"
すみこさま
chaさまへのコメントですが、横レスです。
お話の模擬演技、まさきつねも拝見しました。片足の続くステップ、全身を使った表現、音楽との融合、真似て滑らなくても充分大変な振付であることは分かる筈ですよ。分からないのは、分かろうとする気がないからですよ。
今のジャッジは見るべきものから顔を背け、帳尻合わせしなくてはいけない回転不足やエッジエラー、タイムディダクションといった重箱の隅には目を凝らしているようです。
正当な評価は出来る筈なんです。出来ないのは正当な評価をする気がないから、ほかに理由があるからと考えた方が良さそうだとまさきつねは思っています。
2011.04.16 01:07 | URL | #- [edit]
まさきつね says... "真価は順位とは別"
オレンジさま
コメントうれしいです。
表現力VS技術力(ジャンプ力)なんて図式も、ヴィットとみどりさんから始まりましたね。あまりにも強調され過ぎて、みどりさんの芸術性を正当に評価する向きは、当時ほとんどなかったですね。
ヴィットとキム選手はいろんな点で共通項があるのでしょう。今回の五輪招致の行く末と、キム選手との対決を煽られているヴィットが実際どのように感じているのか、興味深いところです。
リン選手はまた、かなり古い話ですね。確かに彼女は、何ひとつ計算しているような振付も表情もなく、スケートをする純粋な喜びを全身で伝えていました。順位とは別の真価があることを観衆に改めて確認させたのも、彼女の演技でしたね。
村上選手のEXについては、多くの場合仰るような評価が一般的ですね。お茶の間にいきなり深夜番組的内容が流れたような、いたたまれない気持ちにさせられる雰囲気が否めないのですよね。日本よりもモラルが厳しい欧米の観衆の方が眉を顰めるのではないかと思います。村上選手よりも周囲の責任が大きいでしょうね。
2011.04.16 01:36 | URL | #- [edit]
イーピン says... "青天のヘキレキ、でした。"
最初は日本の女子選手がフランスで優勝したというので、興味本位で「カルメン」を見てみたのです。

・・・驚きました、そして半世紀以上も生きて来たこのオジサンはいっぺんに虜になってしまったのです(笑)
その演技には命の喜びそのもののような躍動感、まるで音楽を奏でているかのような優美さ、迫力、愛らしさ、そして、ほんの少しの禁断の色気さえありました。
要するに、円熟味以外の全ての魅力の塊でした。
特につなぎのポジションは美しく、私にもし彫刻の素養や知識があれば、すぐにでも彫ってみるのになぁ、と思ったほどでした。

'83ヘルシンキのボドレゾーワ(現ビュアノワ、ソトニコワのコーチ)のEX「月光」に強く触発され、長い間のブランクを経て、村主章枝、スルツカヤ、安藤美姫らに満たされながらもくすぶっていた私のフィギュア・スケートへのフラストレーションは、少し違う形でほぼ完全に解消されました。
実はもっと以前に浅田真央を知ったとき、フィギュアがあまり分からなかったせいもあり、単なる「大人のマネが上手い子供」くらいに思っていたのです(笑)
しかし、あのカルメンを見て本当にいっぺんに認識が変わりました。

ロシアのジュニアが注目されていますが、今振り返ってみても、あの頃の真央選手の方が一段明確に素晴らしいですね。
ルールが甘かったとはいえ、3F-3Loやフリーでは3Aをプログラムに入れ、しかもあの容姿と優美さを併せ持っていたのですから。
ちょうどタクタミシェワかオフチャロワ、シェレペンがソトニコワのプログラムを完璧に滑り、+アルファを加えたようなものでしょうか。
ミキティーの容姿と4Sで火が付いた日本のフィギュア熱を、浅田真央のあの演技はさらに一桁大きく膨張させたと思います。
(追記;遠い々将来)私は彼女が引退したら、現役時代の数々の名作をショーとして滑って見せてもらうのが夢なのです。
もちろん、その筆頭は、あの「カルメン」です。
2011.04.16 03:30 | URL | #TGomPju2 [edit]
まさきつね says... "平和と自由と元気の旗印"
イーピンさま
コメントうれしいです。
殿方の正直なご感想ですね。確かに老若男女問わず、ノックアウトにする魅力が浅田選手にはありました。懐かしさと憧れと、人形のように飾っておきたい繊細さと、ぬいぐるみのように抱きしめたい温もり、これらを彼女は同時に兼ね備えていました。カルメンは自由の象徴と解説しましたが、浅田選手はさらにダヴィッドの描く自由の女神のように、オルレアンのジャンヌ・ダルクのように、平和と正義を守る天性の明るさに充ち、勇ましくりりしかったですね。
彼女の引退…はまだ、想像が及びませんが、もうしばらくは日本の誰もが望んでいる平和と自由の象徴、元気の旗印でいて欲しいものですね。
2011.04.16 08:32 | URL | #- [edit]
無花果 says... "スケート≠歌う≠踊る≠演じる"
躍動感溢れる浅田選手のカルメンも、情熱的な安藤選手のカルメンも、現代女性視点の魅力的な女性の演技だと思います。当然のように悪女の媚や背徳感とは無縁でした。
でも、演劇ではなくスケートである事を思えば、劇中の役割に固執する必要は全くありません。ピンクレディーが歌うような「カルメンのイメージ」だけで充分なはず。
マイムはTV向けなのでマスコミが持て囃しますが、ジャッジまでそれに乗っかられると本末転倒ですね。
ただこれも一意見で、スケーティングがいかに魅力的かというのは、機械的には評価できないものです。だからこそ議論が必要なのですが、ジャッジは誰がどういう観点で何点付けたのかさえ公表してくれず、残念です。
2011.04.16 19:48 | URL | #Qi8cNrCA [edit]
まさきつね says... "歌や踊りや演技ではなく"
無花果さま
コメントうれしいです。
そう、どんな表現もどんな解釈も、それぞれの創作者の才能ひとつですから、魅力的でありさえすれば評価されて然るべきなんです。でも今のジャッジは、名前も勿論、評価の基準も明快にしないので、プロトコルを前に合して、誰もが溜息をつくんですよね。
今度の世界選手権、ジャッジはどんな思惑を示すのでしょう。恥を晒すような数字だけは勘弁していただきたいものです。歌や踊りや演技ではなく、スケートを評価するのだという誇りを忘れないで欲しいものですね。
2011.04.17 01:59 | URL | #- [edit]

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