つぶやいてみる 其の廿壱
「日本にささげる詩」
地球がいたみでうめき声を発した
自然の強さに全世界がショックをうけ
あやゆるものを水は深海に流した
しかし何があっても太陽は東から昇る
地震と津波は光には勝てない
われわれの神様が
地球の皆のいのちを保ってくれることを祈る
桜が咲く公園はたくさんあることを
白樺が咲く公園はたくさんあることを
鳥が春の歌を歌えることを
旗が勝利の祝いで挙げられることを祈る
子供たちが大人たちへと願う
友の皆さん 手をつないで
われわれがこの地球において
ひとつの家族になっていることを 忘れないでほしい
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久しぶりにさまざまな雑感を述べさせていただこうと思う。いただいたコメントのレスにも述べた内容と被ることも多いかも知れないが、そのあたりはまさきつねが特に強く思っていることとお考えいただければ幸いである。
まずはこのたびの、東京の代替地ロシアで開かれた世界選手権について。冒頭に掲げたロシアからの日本へ贈られた詩、そして会場の中にいくつも見受けられた日本の被災者へのメッセージが入ったバナー、ロシアの深く温かい真情が感じられる開会式の黙祷やセレモニーなど、本当にどれもが素晴らしい演出だった。また、同じように、エキシビションや閉会式でも行われたパフォーマンスも日本への配慮が行き届き、いかにもプーチンが自ら音頭を取って日本人選手たちにもいろいろと気配りがあったという今回の世界選手権が、政治的にも大きな意味のあるベントであったということを思わせる、細かい工夫の印象深い趣向が其処彼処に現れていた。
無論、前のエントリーでも書いたようにロシアにもさまざまな思惑があり、ソチ五輪に向けてまず最初の礎をここで築いたということは確かなことだ。だがその点を鑑みても、短い期間の間に開催に向けての準備をし、日本と日本の選手に対して精一杯の誠意を示してくれたことには、心から感謝せねばならぬだろう。
ところで、地上波ではあいかわらず、こうしたロシアが用意した多くの日本に向けた演出をご丁寧にもカット、何故かぶつ切りの不思議な編集で流すべきものを流さず、誰もが不要と思うような特集やインタビューやCGにばかり凝った内容でそれを指摘したネットユーザーたちからまたも顰蹙を買っている。
毎度、公共の電波を預かり独占して競技中継を流す放送局として最低のレベルと、あちこちから糾弾されるにも関わらず、どこ吹く風で同じことを繰り返すのだから、もはや確信犯に近いスタンスで行っているととらえた方が良いのかも知れない。
不愉快になるのが嫌な方々はすでに、衛星放送やネットといった別手段で中継を観戦しておられるので、それが賢明というものだろう。
そこでもうあちこちでも取り上げられている、Jスポーツで田村岳斗さんと元ISUジャッジの藤森美恵子さんが、キム選手のEXを解説をした中の一節が以下。
田村「技術はやっぱりしっかりしてるんですけど、今日は元気がない…ですね。曲…、曲はすごい明るい曲なんですけど…」
藤森「伝わってこないですね。この曲でせっかく色んな振りはしてるんですけども。昨日のフリーの『アリラン』も、あの割に哀愁のある曲の表現のところで、ちょっとやっぱり、男性的な滑り方を彼女していたんですよね。それから『ジゼル』もやはりこう、本当にクラシックバレエを知っている方だったら、『ジゼル』のインタープリテ-ション(曲の解釈・音楽との調和)はあまり出したくないっていう雰囲気、それがやはりこうGOE、まあジャンプの…あの効果で、非常に高い点を取っちゃったところがね、ちょっと…、ちょっとかなって思います。やっぱりこうテクニカルをつけるジャッジパネルと、コンポーネンツをつけるジャッジパネルが、分けた方が、より正確な判定できるような気もするんですけど」
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ずばり本音を仰ったと思うところしきりだが、さすがにジャッジ経験者だけのことはある藤森さんの見解で、「テクニカルをつけるジャッジパネルと、コンポーネンツをつけるジャッジパネルが、分けた方が、より正確な判定できる」という点に関してはまさにその通りと思うのだが、これは勿論、緊縮予算の財政下にあるだろうISUの中で人員増は不可能だと思うし、ましてやバレエやダンスといった他ジャンルの方面にジャッジ依頼することはあり得ないだろうし、そもそもジャッジ各人の技術的な向上が判定ミスや(作為的かどうか分からないが)いわゆる押し間違いを回避するためには不可欠なのだが、そうした動きも特に見当たらないし、何かと頭の痛い話ではある。
しかし彼女の口からこうした具体案が出るということは、ISU内部の中でもある程度、過去に議論されたことのある提案なのかも知れないので、TESとPCSパネルの分離というジャッジの改正案が今後どこからか浮上してくる可能性もなきにしもあらずなのだろう。
何にしても、現在のジャッジがあまりにもさまざまな要素を一度に、しかも短時間に判定、採点せねばならぬという過重負担にあることは一目瞭然で、近年に至っては絶対的に疑念の残る、回転不足の程度の吟味とエッジエラーの見極めという大いなる課題が残されている以上、早急に何らかの手を打っていただきたいと思う部分ではあるのだ。
特にPCSのコンポーネンツ5項目に関しては、その各項目の持つ意味と判定基準をさらに厳格にジャッジに示していただきたいというのが、フィギュアの技術力以上に芸術的要素に惹かれて観戦している側の要求としてはどうしてもある訳で、確かに見事なスケーティング・スキルや高難度ジャンプの持つ魅力は理解出来るのだが、演技構成点と言われながらどう見ても、技術力に付いたGOEやスケーティング・スキルの評価にひきずられているとしか思えない、各コンポーネンツの採点が、ジャッジングに対してある種のもどかしさや苛立ちを湧出させているのである。
藤森さんの発言にもあるが、観るべき人間が観れば「(キム選手の)『ジゼル』のインタープリテ-ション(曲の解釈)はあまり出したくないっていう雰囲気」というような、たとえどのように難度の高い技を決める力があるにせよ、一方でどう見たって作品に対する解釈も浅薄で滑り込みもおざなりといった表現技術には、全く別の観点からの採点がなされるべきというのが、大方のフィギュア・ファンが抱く正当なジャッジングだろう。
ところが世の中には不思議なもので、こうした5項目のコンポーネンツをISU側がルールでしっかり提示しているにもかかわらず、演技構成点はSS(スケートの技術)を基準として、後の4項目TR(要素のつなぎ)、PE(演技力・遂行力)、CH(振付・構成)、IN(曲の解釈・音楽との調和)が機械的に評価されているのだという摩訶不思議な考察を、それがさも正しい現行ルールの運用であるかのように方式化しておられる向きがあるのだ。
無論、プロトコルに実際に現れた数値を表やグラフ化していけば、そのような傾向が如実に表れたとしても不思議ではない。むしろ、現在のどう考えても判定ミスや押し間違いが確認されるような判定能力が疑わしいジャッジからすれば、この程度の数値のパターン化、あるいはもっと単純な採点の数式化があっても、それが普通と考えざるを得ないかも知れない。
しかしそれは、あくまでも偶然ということでなければ、ジャッジは端から形骸化した5項目で、スケートの技術のみを採点しているということを図らずも表面化してしまったということに過ぎないではないか。
採点を行っている側としてはむしろ糾弾されるべき、浅はかな採点の裏からくりを公けに暴露されてしまったというだけで、現行のルールやその運用が、決して正当であるとか妥当であるという説明になど端からなり得ない。芸術的な表現を追求して、つなぎや選曲に気を配り繊細な演技をしている選手たちにとっては理不尽きわまりない上に、あまりにも非論理的な話ということなのである。
とはいえまさきつねも決して、SS重視で他項目を振り分けている(気がする)という今の採点傾向の現実を真っ向からありえないものとして全否定して、それに対処するなと言っている訳ではない。
実際、チャン選手やキム選手といったジャッジに優遇される選手がいて、彼らのPCSがその滑りやジャンプのGOE効果で他選手よりも高く付けられているという現象があるのは紛うことなき事実なのだから、そこにいかに切り込むかという考察や視点は陣営としては確かに必要なことなのだ。
だが、「基準方式」なる言い方で格付けをしてしまってこれを公けに、しかも正当化してしまうというのは、ジャッジに対してあまりにも本末転倒なアプローチであるばかりか、(そもそもいったい利権を持たない観衆の側である人間が、何故ジャッジのためにこんなこじつけ説明をなさる必要があるのか妙な話だが、)選手がこれまでこつこつと、つなぎを作り込んだり振付やプログラム構成を変えたりして試合ごとに創意工夫を重ね、滑り込みをして音楽とのさらなる一体化を図って実績を積むという、フィギュア競技ならではの特殊な得点稼ぎの暗黙のルールを根底から覆しているのだ。
一年間、シーズンを費やしてプログラムの楽想を自分の演技としてものとすべく、地道に滑り込みをしなくても、スケーティングのスキルさえあればそこそこのPCSが約束されているというのなら、どんな曲をどんな表現で滑ろうが、それが毎度同じテイストでどんな退屈な内容だろうが、評価が下がることはないのだから、どんな振付の工夫も緻密な努力も不要といっているも同然だ。
多くの生粋なフィギュア・ファンが食傷して離反するのも、全く無理もない話ということだろう。
当初よりお伝えしたかったことが小難しく、さまざまにこんがらかってきた気がするので、もう一度簡略にお話するが、要するに今回のロシアの世界選手権、浅田選手の演技と得点、そして順位がどうしても著しく乖離して見えるのは、勿論、偏狭で独善的なコーラーによるジャンプの回転不足判定とGOEの低さが元凶なのだが、それにもましてPCSが伸び悩んだということに尽きる。
そしてこのPCSが伸び悩んだことを解釈するのに、SSが低かったからということを事由にしようという向きがあり、それをさらに採点は妥当だ、あるいは他選手を批判するのは不当だという結論につなげようとする論理をネットで見かけたのだけれども、それはあまりにも非論理的な詭弁に過ぎないと、まさきつねは思うのだ。
まさきつねも勿論、今大会の浅田選手が本調子でなく、いろいろな点で彼女らしさに欠け、決して勝利を目指した演技でなかったということは分かっている。だがそれにしても、多くのマスコミ報道は無論のこと、ネットで見る自称浅田ファンを名乗るひとの記事の中でも、あまりにも浅田選手の自信を失わせる、まるですべてがルールに対応しようとしない彼女自身の問題であるかのように書き連ねる論証が多過ぎる。
浅田選手のジャンプには確かにまだ多くの課題が残っている。3Aに頼り過ぎるモチベーションもそうだし、大分改善されてきたとはいえルッツやサルコウ、そして連続ジャンプの不確実さも、今の厳正な判定基準の中では常に綱渡り状態だ。しかし、だからこそ彼女は今季を投げ打って改造に踏み切った訳だし、あとはもう3Aばかりにこだわらずすべてのジャンプをクリーンにしていく練習を積み重ねてゆくしかないだろう。
けれど今大会の演技を至極冷静に観る限り、今のジャンプの完成度に引きずられるほど、彼女の演技が持つ芸術性は損なわれてはいなかったし、それどころかほかのどの選手にも真似が出来ないロマンティシズムの極致というべき甘い優雅さ、彼女らしい雲の上を滑っているような陶酔感はしっかりと『愛の夢』の世界を構築していたのだ。
多少、音楽にぶれた感じはあったけれども『シュニトケのタンゴ』の方も、ひとつひとつのポジションに彼女にしか表現し得ない高雅な美しさがあり、何とも不思議な意匠のコスチュームでありながら下品に落ちないのは彼女自身が持つ凛とした気品のある所作で着こなしてこそで、それらが作品全体に哀愁に充ちた世界観を与えていた。
浅田選手はいつも何も語らず、その胸の裡は推し量るしかないのだけれど、こうした彼女の演技に対する肯定的な感想や賞賛を一切伝えることなく、彼女の戦績だけをまるで鬼の首でも取ったようにあげつらって、多くのメディアもそうだが無責任で無知な一般観衆の一部も、まるでもう価値のない特別視するには当たらない凡庸な選手であるかのように書き立てているが、そのような文章の一言一句がどれほど選手の繊細な胸に突き刺さり、彼らを追い詰めていくか、かくなる人間たちは考えたことがあるのだろうか。
さらに自称ファンでさえも成績が振るわなければ、次のステップに昇るための叱咤激励と言わんばかりに選曲や内容だけでなく、しまいには衣装や化粧にまで文句をつけ始め、ここはこう直すべき、ここは他選手に学ぶべきと一億総コーチであるかのごとく五月蠅い談義をそれとばかりに始めるが、昨季のタチアナコーチや『鐘』批判もそうだったけれども、そんなものが彼女のため、あるいはフィギュア競技のために役立ったことが果たして一度でもあっただろうか。
浅田選手にはご存知「おっさいさん」という熱狂的にコアなファンがおられるが、(まさきつねは個人的にはこちらのブログいっぱいに並んだ、熱烈きわまるラブレターのごときメッセージにはさすがに時々ドン引きはするのだけれど、)この方の常に純粋に浅田選手のすべてを是否もなく真っ直ぐに受けとめて、彼女自身の選択、彼女の進む方向を平常心で見守っておられる姿勢には、ある種のファンの鏡だろうという気がしている。
まさきつねも以前の記事で書いたが、ファンは依怙贔屓するもの、好きな選手に対しては我が子のように目に入れても痛くないという甘い見方でも仕方ない、他選手を根拠もなくこき下ろすのは論外だが、逆に、引き比べては「あの子に負けないように」とお尻を叩く必要もないという風に考えている。
浅田選手が今大会の結果で、安藤選手やキム選手らから何かを学びとろうと考えるのは彼女自身の姿勢として間違ってはいない。コーチや周囲の関係者らも当然、何らかの策なり今後の方向性なり見習うべきものはあるだろう。
だが日本のマスコミやフィギュア・ファンなら、少なくとも日本の選手たちのここが悪い、ここが拙かった、こうすべきだったと要らぬ口を差し挟むよりも前に、ましてや採点法や他選手の順位妥当性を下手な屁理屈で正当化する以前に、日本選手たちのこころに寄り添って、彼らがつまずきつつも為し得たものの真価、ほかの誰にも表現し得なかった個性的な世界観を、言葉を尽くして讃えてあげて欲しい。
間違っても理の通らないPCSの正当性とか、そのPCSが示す通り表現力が及ばないとか、くだらない理論を展開して欲しくない。
世界の頂点を極める身体芸術の表現者のポテンシャルに、個性の違いはあっても、実力の差異はないのだ。今のジャッジによるPCSの数字が示している差異は、数字による単純な操作で観衆に選手の実力差を印象付け、実際に順位をジャッジが左右しようという作為に充ちた組織の思惑に他ならないのだ。
ファンならばもっと純粋に、選手らの演技を褒め称えて、彼らの良かったところを言葉にして、次の目標を目指して歩みを続けるための糧となる励ましを与えてゆくべきだろう。
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