月船書林

フィギュアスケートの話題を中心に芸術を語る

黒鳥の来襲

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まずは映画の話である。

巷で話題の『ブラック・スワン』を友人と観に行ってきた。
内容や主役のナタリー・ポートマンについての情報は、それこそ巷に溢れているので大半は省略させていただくが、まだご覧になっておられない御仁は、ネタバレになってしまう部分もあるかと思うので、当記事をお読みいただく際はご注意お願いしたい。

さて、フィギュア・ファンの多くが気になっておられるのは、主人公のニナに浅田選手のイメージを被らせてご覧になった方々が、結構な数でネット上に感想を寄せておられるということではないかと思う。

中でも、一般的なユーザーに最も大きく波及したのではないかと思われるのが、楽天のエンターティメントニュースに掲載されていたこちらの記事ではないだろうか。
ナタリー演じるヒロインはバレエ界の浅田真央? 実は変化球な「ブラック・スワン」

結論から先に言うと、正直な話、まさきつねはニナに浅田選手が被ることは毛筋一本たりともなかった。
もっと厳密に言えば、ニナにもっと(性的な部分も含め)内面を曝け出せと迫る芸術監督に関しては、数年前、安藤選手の演技に対し「もっとセクシーに」と要求していたモロゾフコーチを多少思い出さないこともなかったが、それでも安藤選手にニナというイメージを抱くこともなかったし、ニナの向こうを張る奔放なバレリーナのリリーにキム選手を思い描くこともなかった。

なぜなら、この『ブラック・スワン』という作品の中には、さまざまな人間関係に苦悩するニナというひとりの人間の心象風景は描かれていても、身体芸術の方向性や創造に懊悩する芸術家の姿も見えなければ、ましてや(当然のことだが)真剣勝負を前にしたアスリート精神の欠片ものぞいてはいないからだ。

ニナは芸術監督に「不感症の踊り」とダメだしされるほど、表現に悩んでいたではないかと仰る方はまあ、性的体験の有無が演技の芸術性を深めるかどうか、本気でお考えになっていただきたいものだが、ここではもうこの点についてこれ以上言及はすまい。

要するに、この『ブラック・スワン』という映画は、(サイコ・スリラーとかホラーとかいったジャンルに入るのかはさておき)バレエ映画かと言われればバレエ映画ではなく、主人公のニナは本質的に悩めるバレリーナでも身体表現者でもないのである。

ニナはストーリーの便宜上、バレエ・ダンサーという肩書を与えられ、物語はおそらくニューヨークシティバレエ団あたりを想定したバレエ劇団のプリマ交代劇の内幕を描いているかのように進んでいるが、現実的にニナのような心理状態にあるトップバレリーナでは、エトワールは務まらないだろうし、バレエ界の実情からすれば、芸術監督やバレリーナの間にこんなドロドロした人間関係や感情のもつれが存在する筈もない。
無論、名立たる芸術家や身体表現者たちの間といえども、一緒に活動する中では、人間的な感情のぶつかり合いや微妙な問題が起こる場合もあるだろう。
だが、『ブラック・スワン』はそうした意味ではすべてが誇張されて脚色化されたフィクションだ。

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ニナを演じたナタリー・ポートマンはボディ・ダブルの件で、サラ・レーンという舞踏家とひと悶着あったようだが、スタントマンどころか今やCG合成が当たり前の映画制作の時代において、レーンの発言が女優ポートマンのキャリアを著しく傷つけるとはとても思えないのだけれど、舞踏表現を映像化するという一点においては、バレリーナのキャリアを持たないポートマンのバレエを一切のカメラワークも何の映像加工もなしに使用することは厳しかっただろうし、やはりそうした意味からすれば、この作品をポートマンの「バレエ映画」と銘するのは難しいのだ。

とはいえ、以上のことを踏まえた上でも映画『ブラック・スワン』がかくも面白いのは、母親などの家族、同輩や上司といった仕事仲間など周囲の人間との関係やプレッシャーに悩む、ごく一般の人たちが感じているのとさほど変わらない現代的なストレスや、自己の内なる欲望を抑圧するものからの解放を求めて主人公が悩み悶えるさまを、ヴィジュアル的に分かり易く、しかも美しいバレエという身体表現にまつわる映像に凝縮した演出的な巧さからだろう。

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現実のダンサーや振付師、その他バレエ関係者やバレエファンからすれば、自分たちが日々体感しているものと映画に描かれている世界との間に、かなりの感覚的な違和感はあるだろうが、まさきつねも含め一般的な門外漢からすればバレエという身体芸術が本質的に備えているように感じられる、精神性の深淵さと、ダンサーの肉体が追求する身体性の限界という、対極の特性が醸し出す独特の雰囲気、臭味や不気味さや怖さといった負の部分も入れた「美しい狂気」というべき側面が、苦悩に追いつめられる主人公に昇華されて描かれていたということになるだろうか。

この際、身体表現者である主人公の悩みが「色気が足りない」というえらく下世話で「ちゃち」なものだとしても、その内容はあまり問題ではなく、「白鳥」と「黒鳥」というかたちに顕現化された人間の外面と内面が、身体性を超越した精神性の表現によって同一化されるまで、悩みを克服しようとひたすら自分を追い込んでいった主人公によってついに「完璧(パーフェクト)」と呟くに至る舞踏に結実したことが重要なのだ。

すなわち、まさきつねはこれまで何度か別の記事でも語ってきたが、この世の現実として芸術表現に「完璧」というものは存在する筈がなく、あるとすれば表現者の理想の概念としてのみあり得る現象に過ぎないものなのだ。
つまり、主人公の言う「完璧」な演技は必然的に、「死」という破滅を内包している訳で、そして映画の視覚的な結末ではその通りに、主人公ニナはガラスの破片が突き刺さって真っ赤な血に染まってゆく腹部を周知に曝して、劇的なエンディングとなる。
しかしこのエンディングに関しては、映画を観ている各人によってほかにも多様な解釈が認知されているので、その他映画のそこ彼処に差し挟まっていた主人公の妄想シーンと同様、流血もまた主人公の妄想と考え、物語的には純然たるハッピー・エンドと捉えることも出来るし、最後の初演バレエのシーンすべてを主人公の妄想と考えることも出来るし、そもそも主役に抜擢されたところから主人公の妄想と考えることも出来るし、そうなれば際限なく、主人公の娘の存在すべてさえ主人公の母親の妄想とまで言い出したら、映画そのものが映画監督のフィクションならぬ妄想ではないかと身も蓋もないことを言い出す御仁も出てくることだろう。

もっとも、映画が端から映画監督の映画監督による誇大妄想の顕現化という特質を持つ映像芸術である以上、結末が一体どれかなどと不毛な論議を続けたところで致し方ない訳で、そもそもこの監督が作品を通じて伝えたかった主題は、かくも人間存在とは曖昧かつ不確かなもので、かくも人間の「完璧」への挑戦が神への冒瀆にも等しいが故に悲惨な結末につながり得るかということに尽きるのだと思う。

ところで「神への冒瀆」というキーワードでまさきつねが連想したのは、数年前からサプライムローンの破綻問題などとの関連から脚光を浴びていた「ブラックスワン理論」というものである。

これは元ヘッジファンドの達人として知られた認識学者のナシーム・ニコラス・タレブが2006年に刊行した著作『ブラック・スワン―不確実性とリスクの本質』の中で、彼のそれまでの持論を総括して論じていたもので、ヘッジファンド用語集からそのまま解説を引用するが、「従来全ての白鳥が白色と信じられていたが、オーストラリアで黒い白鳥が発見されたことで、鳥類学者に大きな驚きを与えた。従来からの知見では、黒い白鳥はいないとされていたためだ。黒い白鳥の発見により、鳥類学者の常識が大きく崩れることになった。タレブ氏は、この出来事を元に、確率論や従来からの知識・経験からでは予測できない極端な現象が発生し、その現象が人々に多大な影響を与えることを総称して『ブラックスワン理論』と呼んだ。」というのが、その概要である。

要するに、大恐慌のような経済的危機は数万年に一度しか起こり得ないというのが、学者たちが理論上導き出した答えだが、「実際には数十年おきに発生している。世の中の事象は人間が算出できるほど単純ではないのだ」というのがタレブのブラックスワン理論に則った主張であり、結局のところ人間は、数学的に計算された筈のリスクを反映したサプライムローンが大危機に陥ったように、あらゆる「想定外」を回避し得ることは出来ないということなのだ。

予測出来ない黒い鳥の襲来を、誰もが震撼として見守るしかないという現実。
そして(話が大きく飛ぶが)多くのひとが、東日本大震災で日本に起きたふたつのブラックスワン現象、すなわち地震と津波の自然災害に、原発事故という人災が打ち重なる、途轍もなく大きな衝撃に人間の力が及ぶ範囲では予測することも回避する手立ても使えない危機を認識した。

不思議なことにこのブラックスワン理論を逆手にとって、「サンプルの少ない出来事については、あらゆる可能性を列挙することができないので、ブラック・スワンが生じることは避けられない。だから確率の大きさを論じることには意味がなく、最悪の場合に何が起こるかという最大値が問題」などという論理から、「最悪の条件でもレベル7の事故は起こらない」ので原発は安全という滅茶苦茶な解説をする学者がいるので如何ともし難いのだが、タレブの主旨は全くの反対で、人間の制御し得ない危険は必ず起こり得る、つまりブラック・スワンはいつか姿を現すのだからそのための防止策をしろというのが正しい解釈なのだ。

そもそも、「危機的状況」というものはリスクとハザードという二つの側面から備えや回避策を練らなくてはならないもので、それぞれの定義をまず説明すると、リスクは「ある行動に伴って(あるいは行動しないことによって)危険に遭う可能性もしくは損をする可能性を意味する概念」であり、いうなれば災害が発生する確率である。
これに対し、ハザードは「潜在的な危険の因子」であり、災害がもたらす被害の大きさを意味している。つまりウィキによれば、「ハザードがあるとしてもそれがまず起こりえない場合のリスクは低く、一方確率は低くても起こった場合の結果が甚大であれば、リスクは高い。」ということになるのだ。

つまりリスクは、人間の行動によって如何様にもコントロールしたり、ヘッジしたりマネージしたりでき得る危険なのだが、タレブはブラック・スワンをいつか必ず襲来するハザードに位置付けているのだから、放射能駄々漏れ状態に至った原発事故などが間違っても安全とは言い難いだろう。

いずれにしても、どこかバーチャルな数字が踊るマーケティングの世界とは異なり、実存世界での災害や事故が引き起こした被害は、取り返しがつかないほどの痛みと悲しみをもたらす。
失われた多くの人命や財産、豊かな自然や懐かしい風景は、それが二度と戻ることがないという喪失感で、こころに深い空洞をあけてしまうのだから、いまだに黒を白と言いくるめるような胡散臭い話を学者レベルででっち上げるのは勘弁してもらいたいものだと思う。
これまでリスクの管理を元に安全神話を築き上げてきた原発問題だが、まさきつねにはどうしてもそれは、不確実性に対する人間の根拠のない自信によって神の聖域を冒瀆した行為への罰、リスク認識を誤り、ブラック・スワンというハザードを招き入れる愚行へのしっぺ返しというようにしか思えないのだ。


さても、話が際限なく広がり過ぎてまとまりがつかなくなってしまった感があるけれども、もう一度、映画『ブラック・スワン』に論を戻すが、ダーレン・アロノフスキー監督がタレブの著書とその題名を意識していたかいなかったかに関わらず、ニナに舞い降りた「漆黒の狂気」、ブラック・スワンへの変貌は、自分自身の中にある闇、乗り越えねばならぬ自分自身という壁に対峙して苦悶する人間に、いつか必ず訪れるべきハザード(心理的危機)だったという気がする。

回避することの出来ない、また何らかの備えをすることも出来ない心理的葛藤が、人間には誰しもあるのだ。それは、バレエ・ダンサーやスポーツ選手といった特殊な能力を持つ者のみに与えられる試練ではなく、また、特別に病的な精神障害を抱える者の症例でも勿論なく、どんな人間でも多かれ少なかれ心の中に抱えているコンプレックスやプレッシャー、ストレスといったものがない交ぜになった心的障害であり、誰もが自らの精神的成長のために、いつか必ずしなければならない人生の選択と呼ぶべきものではないかと、まさきつねは考える。

映画の映像世界では、バレエの魅惑的な舞踏と官能的なシーンによって、狂気や妄想すら美しい幻想に昇華されて描かれていたが、人生というものはどだい、いつか必ず襲来するブラック・スワンを目の前の現実として受け入れねばならぬ残酷なものと認識すればこそ、ニナの絶望も歓びもいつかカタルシスへと変わる心象風景として観客の多くが共鳴出来得るのである。

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さて最後に、付け足しのようで申し訳ないのだが、再度、浅田選手とフィギュア競技についてひとつだけ語っておきたい。

まさきつねは記事の最初にも述べたように、『ブラック・スワン』の主人公や物語に浅田選手や彼女の苦悩を思い浮かべることはなかったのだが、タレブの理論から、リスクやハザードについて考えているうちに、ふと髣髴としたことがあった。

今でもいろいろに思いめぐらすことなのだが、多々あるスポーツ競技の中でも勝利するにはリスク・マネジメントが重要とされるフィギュア・スケートにおいて、常にリスクを恐れることなく果敢に、ポジティブに自己の限界へ挑戦し続ける浅田選手であるが、その痛々しいまでに採点基準というものから身を切り離し、孤高に完結した自分の理想を目指す強さには、ただ惹き付けられつつも、ルールを駆使して執拗なまでにリスクを押し付けてくるISUやジャッジに対して何がしかの不条理を感じ得ないということについては、まさきつねも今まで何度も過去記事の中で語ってきた。

審判を無視してはどんな競技であれ、勝利は望み得ない。これは確かに、あらゆるスポーツ競技の道理なのだ。
ISUと審判の理想にぴたりと水準を合わせて、チャン選手やキム選手のような、特別待遇の加点や評価で銀河点を叩き出す選手も生まれ出た。そしてまた一方で、彼らの戦法を一部踏襲しつつ、さらにふてぶてしく採点基準の裏をかいて、彼らの演技の劣化をも計算に入れたかどうか分からないが、今季キム選手の打倒を果たしたモロゾフコーチの巧妙な戦略もあった。

だが浅田選手はやはり、あいかわらずリスクをヘッジしたりマネージしたりすることはない。
ISUのルールもその運用も、今季の始まる前には「真央に有利」などという肝煎りで回転不足の緩和などと報道されていたが、ふたを開けてみると事実はまるで逆で、彼女の武器であるジャンプがことごとく総包囲網に掛けられたように得点源にならないありさまである。
その中で彼女はひとり黙々とジャンプの改造に勤しんだ訳だが、その努力が少しずつ結実していったシーズン最後になっても、本来彼女の後ろ盾となるべき日本の組織は一切機能せず、あろうことか五輪シーズンから変わらず日本人のコーラーが率先して日本の選手に牙をむく現状である。
四方八方立ち塞がられて、どこに逃げ場があるというのだろう。

こう語ってくるとすべてが絶望的状況であるかのように思われてくるが、だがまだ、どこかに何か突破口があるような気がしている。いや、それは確かにある。

たとえば、バンクーバー五輪の舞台。
キム選手とロシェット選手を向こうに回して、どうしようもなくアウェイの空気の中で、審判どころかファンも含め多くの人間が否定的だった『鐘』の演技を3Aとともに一切のリスク回避することなく披露して、浅田選手は銀メダルをもぎ取った。
演技後、彼女は完璧な演技ではなかったという理由で綺麗な涙をこぼしたが、あの瞬間、あの場を支配していたのは確かに、僅かな瑕を持ちながらも圧倒的な迫力でリスクもろとも審査の基準を吹き飛ばしてしまった彼女のスケートであり、スポーツとか芸術とかそんな分類分けも空しいほど蠱惑的な美しさを持ち得た彼女の身体表現であり、貶めるためのどんな理屈も通用しないそれはやはり、純真なアスリートのチャレンジ精神から変容した「浅田真央」という狂気の発露だった。

トリノでもう一度「浅田真央」の奇跡は、戦意喪失したキム選手相手に繰り返され、それはバンクーバーとは全く別の決着を見たが、おそらくこの二度の浅田選手の演技はキム選手との競い合いなどとは別の次元で、ISUとその審判団には美しさとダイナミズムの結晶したフィギュアの極致というだけでなく、別な意味での震撼を与えたのだと思う。
おそらくは「ブラック・スワン」、ISUが審査の基準を長い時間をかけて設えて理想として持ち上げてきたものを崩壊させ、彼らが死守したい競技の規律というのか、フィギュア表現の模範というのか彼らが許容し得る範疇を超えて、頑なに準拠してきたものを粉々に打ち砕くハザードだったのではないかという気がしてならないのである。

それは無論、浅田選手自身が意図したものでも、渇望した結末でもなかった筈と思うのだが、意識的だったか無意識のことだったかに関係なく、ISUにとっては予測不可能なあり得べからざるもの、あってはならないことの顕現であったに違いなく、故に「ブラック・スワン」を封じ込める組織的なルールとジャッジによる包囲網が粛々と進められたのだろう。

畢竟、浅田選手をがんじがらめにして「黒鳥」どころか「白鳥」の羽根さえももぎ取ってしまったような、競技の現場のそこ彼処にのぞいているジャッジによる作為、それがたとえ「もうこれ以上メダルは与えないぞ」といった悪意に充ちた組織的な意思であったとしても、あのバンクーバーの舞台に展開したのと同様、逆境を構うことなく突き破り、閉塞状況に風穴をあけて、浅田選手にしか為し得ない金字塔を打ち建ててゆくそのための手立ては、ただひとつだけ。

浅田選手がただ浅田選手たり得ること、彼女が唯一無二の存在としておよそISUのお偉方や堕落しきった審判の群れが想像しても及びもつかないような、競技者の限界領域をはるかに超えた芸術表現の世界、官能性と美意識に支配された崇高なる奇跡として、神の「完璧」に接近するを畏れぬ強さで「ブラック・スワン」を再びみたび、アリーナの氷上に来襲させることしかないのではないかと思った次第である。

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Comment

saho says... "No title"
こんばんは。今回の記事も興味深く読ませていただきました。

来季アシュリー・ワグナー選手がこの映画「ブラックスワン」のサントラでフリーを滑るようですね(ソース:http://web.icenetwork.com/news/article.jsp?ymd=20110519&content_id=19268546&vkey=ice_news)。私はこの映画を見ていないのですが、まさきつね様の評論を拝読して、彼女がどのようにこの曲を滑るのか非常に興味が深まりました。映画も是非見てみたいです。
最近の映画サントラを利用したプログラムは、作品中の登場人物になりきってストーリーを表現する、というタイプのものが多い印象でした。でも彼女は、折角作品世界としてバレエ界を取り上げた曲を用いるのですから、このプログラムではストーリー云々は措くとして、バレエ的な美しさの表現に力を注いだものになっているといいな、と個人的に思います。ともあれ、非常に面白い題材ですから、アシュリーの来季プロがこれまでの映画系プロとは一線を画すものになっていることを期待しています。
話が全然関係ない方向に進んですみませんでした汗
2011.06.03 21:52 | URL | #- [edit]
まさきつね says... "来季が"
sahoさま
ご訪問うれしいです。
まだご覧になっていないのですね。ネタバレ大丈夫ですか? まあ、予告編もかなりのネタバレですけれども。
ワグナー選手の情報は聞いてはいたのですが、あまり想像出来ません。映画のストーリーを生かしたら、黒と白を強調した女性版ジキルとハイドみたいな感じになりそうですが、でも仰る通り、バレエ表現に力を入れて欲しいですね。
来季のプログラムがいよいよ話題になってきましたね。楽しみですね。
2011.06.03 23:50 | URL | #- [edit]
moonlight says... "夢は夜ひらく"
まさきつね様。
「黒鳥の逆襲」二転、三転、「ブラックスワン理論」を逆手にとり、真央の逆襲で着地。正直ハラハラしましたよ。
こちらは、今季の演目にドキドキ、ワクワクしてるうちに、ISUの採点なんか糞くらえって気持ちになって、真央中心の架空アイスショーを妄想してみました。
1.高橋&浅田 映画「黒いオルフェ」よりポール・デスモンドカルテット版の「カーニバルの朝」真央が一人で踊っている所へ、大輔が入る。振り付けの五分の三は別々。組んで踊るのは十分の一程度。イメージとしては浜辺なのでポール・デスモンド版が都会的すぎるなら、もう少しゆったりとした調子のアルトサックスかギターの演奏で。

2.アダム・リッポン&浅田 白い衣装でアイスダンス。(架空ですから二人とも出来ることになっている。なんだかカナダのあのペアを思い出すって?)リッポンのナンバーの選曲は真央にそのまま使える。タラソワ様、振り付けしてくれそうです。

3.一転、真央の白うさぎ、大輔の黒うさぎ登場。キャッキャキャッキャ飛び跳ねる。(どんなダンスだって?「うさぎのダンス」だよーん)村上・織田・小塚の茶うさぎ登場。(赤塚不二夫マンガを想像してください)未来も入ってくる。なぜか連獅子の頭をかぶってフラット登場。しゃがんだ村上の頭上をアボットが飛んでいく。ジュベールが勝手に参加していた。大とり伊藤みどりがトリプルアクセルで飛んでくる。また飛んでフェンスを越えて消える。(大丈夫。演出だ。マット用意してあります)
最後はペレスプラード「マンボNo.5」ウーで全員ポーズ。

4.場面一転。「氷の女王」荒川静香登場。イナバウアーで去っていくと、白鳥羽生、白鳥J・ウイアー登場。二人で踊っていると、黒鳥安藤の逆襲が始まる。(EXで安藤選手の黒鳥マジで見たい)中野火の鳥より本当は黒鳥やってみたかったと復活。なぜかライザチェックが黒い鷲の恰好で登場。ランビエールの王子登場で一応は大円団で終わるが、黒鳥鈴木がタンゴのステップで待ったをかける。王子高橋もタンゴのステップで待ったをかける。三者三様のタンゴ合戦始まる。最近、タンゴを覚えたライザチェック、アボット出たがるが、暗転。真央満面の笑みを浮かべ、扇子持って登場。待ってました!「カプリース」(ロシアの若手になんか渡さないよ。今思うと、バンクーバーのSP,FS,EXってすごすぎますよね)

5.ミハルブレジナ$真央のペア(架空で出来ることになっている。放り投げるのもブレジナなら許す。)

6.フィナーレ 「ツアラストラはかく語りき」西洋の美と東洋の美はこれで融合した(のかな?)

各選手の皆様、御出演ありがとうございました。各選手のファンの皆様、怒号、顰蹙、罵詈雑言なんでも受け止めます。失礼をお許し下さい。まさきつね様、場を汚したらごめんなさい。浅田真央を全力で応援していきます。

2011.06.04 03:24 | URL | #- [edit]
まさきつね says... "マオの逆襲"
moonlightさま
ご訪問うれしいです。素晴らしく長編の夢の舞台ですね。こんな幻想のアイス・ショーも可能なフィギュア界なら本当に楽しいと思うのですが。
今季はタンゴにマンボ、フラメンコとラテン流行りでしたが、来季はバレエが流行ってくるのでしょうか。『ブラック・スワン』のお蔭か、バレエの観客動員も増えたとか? 
今季の『愛の夢』は美しさと果敢なさをよく表現していましたが、それだけじゃ駄目なんだということもよく分かりました。SPのタンゴでバランスが取れていた筈なのですが、五輪のときのように、SPで美しく、FSで強くという戦法が正解だったようですね。
二転、三転する美と狂気のせめぎ合いを、どうにも見せつけないと今のジャッジを吹き飛ばすには至らないように思います。
来季、ミラクル・マオの逆襲をタチアナコーチに演出して欲しいと思っています。
2011.06.04 07:40 | URL | #- [edit]
くまねこ says... "狂気・・・"
まさきつねさま、こんばんは。

>演技後、彼女は完璧な演技ではなかったという理由で綺麗な涙をこぼしたが、あの瞬間、あの場を支配していたのは確かに、僅かな瑕を持ちながらも圧倒的な迫力でリスクもろとも審査の基準を吹き飛ばしてしまった彼女のスケートであり、スポーツとか芸術とかそんな分類分けも空しいほど蠱惑的な美しさを持ち得た彼女の身体表現であり、貶めるためのどんな理屈も通用しないそれはやはり、純真なアスリートのチャレンジ精神から変容した「浅田真央」という狂気の発露だった。<

この文章にとても共感しました。
優勝した世界選手権は会心のノーミス演技でしたが、本当に神がかっていたのは五輪の演技だったと思います。(見ると感情移入しすぎてしまうので、録画したのに一度も見返していませんが^^;) 五輪の女神に魅入られすぎて、ミスをしてしまったのかと思うほど。

それにしても、何度くりかえし見ても分からないくらいの"回転不足"(←カッコつき)によって台無しにされてしまう昨季までのルールで、3Aを3回も入れるなんて、客観的には狂気の沙汰であったかもしれません。モロゾフも五輪前にそんなコメントを出していたような記憶が・・・

浅田選手にとってのスケートや3Aというジャンプ、それからその達成感や満足感は、ほんとうに彼女の内側にある、誰からも不可侵なものなんだなと思います。もしかしたら、そうなっていったのも、どんなことが起きても自分のスケートを愛し続け、手放さないための、浅田選手が出した究極の答え・・・防御法?・・・だったのかもしれませんね。
2011.06.05 00:42 | URL | #vK4Zx032 [edit]
オレンジ says... "ブラボー!"
すばらしい!最高です、まさきつね様!

とても興味深く読ませて頂きました。
私も先月この映画を観てきました。浅田真央さんのことをなぞらえた評が出回っていることを知った上で観たのですが、正直単純な輩が飛びつきそうなテーマだな、と思って苦笑してしまいました。

これは確かにバレエ映画ではありませんし、私も本当は『ダンシング・チャップリン』の方を観たかったのですが、実際にバレエダンサーだった人とのを比べてはいけませんね。
官能的な演技をするには実生活でもセクシュアルになんて、そんなストレートすぎる話じゃおかしいですよね。
あの異常な母親がミッツ・マングローブにそっくりなのには受けましたが(笑)

映画はともかく、今回のエントリーはタイムリーで、そして凄く同感させられました。
>誰もが自らの精神的な成長のために、いつか必ずしなければならない人生の選択と呼ぶべきもの

それは浅田選手にとって、『鐘』を選んだときなのではないでしょうか。
『鐘』は恐ろしいプログラムでした。凄まじいほど高難度であるだけでなく、いままで彼女が持っていた柔らかく儚げなイメージを覆し、重厚で迫力のある難しい世界観を、圧倒されるような気迫で滑りきり、シーズン最後には完璧に仕上げてみせてくれました。
今季はまた、夢のように美しい愛の妖精となって幸福感溢れる光を振りまいてくれていますが、これを表現力と言わずして何をそう呼ぶのかと問いたいです。

最初に『鐘』を観た時には、他の多くの方々と同様なじめなかったのですが、完成されていくのを観るにつけ、いつしか不安にかられた叫びや祈り、燃え盛る真っ赤な炎の色まで見えてくるようで、彼女のダイナミズムに呑み込まれ、のめりこむようにして堪能したものです。

華やかで軽やかなデビュタントの舞踏会といい、コケティッシュでスピーディなカプリースといい、本当に浅田真央というスケーターは色んな顔を見せてくれて魅了されますね。なにがブラック・スワンのニナじゃい(笑)

そんな彼女を取り巻く現状に、もうまともに観るのよそうかな~、と思ったりもするんですが、カメレンゴさんが真央に振付けてみたいといったという話をきいたりすると、もう来季はどんな衣装でどの曲を使うのだろうと胸が躍り、結局また浅田選手の演技が観られればと心待ちにしてたりするんですよねえ。

もうISUなんかの思惑には振り回されん、というか、もうみんなばれてますもんねえ。
こうなったら私もmoonlightさんのように妄想に遊び、思いっきり楽しませてもらいましたよ。
いや~、こんな真央ちゃんのアイス・ショー、最高でーす!!
2011.06.05 01:16 | URL | #aqzl0.Kg [edit]
まさきつね says... "神々の黄昏"
くまねこさま
ご訪問うれしいです。
まさきつねもあのバンクーバーのFSだけは、何度も繰り返し観るのが怖ろしくなるのです。キム選手は何かのテレビ番組で、「真央が私のFS後、(音が聞こえないように)ずっとイヤホンをしていて笑えた」「ほかの選手は緊張し過ぎて笑えた」と言っていましたが、テレビ画面を通じても誰もが胸が震えるほど感じられた五輪の空気を、当の選手のひとり、しかも金メダリストが何も感じていなかったというのなら、これこそ不感症と言わずして、何と言うのだろうと思いました。
あの瞬間に、神は確かに浅田選手とともにいました。それは「狂気」と呼ぶしかない選択だったかも知れないし、まさきつねにはつまらない演技のキム選手を優勝させてしまうISUの審判に対する、神々の黄昏のようにも感じられましたね。
2011.06.05 09:19 | URL | #- [edit]
まさきつね says... "フィギュアのエトワール"
オレンジさま
ご訪問うれしいです。
確かに草刈さんの『ダンシング・チャップリン』の方が、純粋にダンサーの映画でしたね。ミッツ・マングローブですか…似ていたかも。母親といい、ウィノナ・ライダーといい、ニナだけでなく、誰もが何かに病んで、何かに苦しんでいましたね。ニナの狂気の演技で救われるという結びそのものは、とても共感出来たので、その辺がこの映画の巧さだったでしょうね。
浅田選手の『鐘』を選択した表現者魂は凄いと思います。とうに競技者の閾を超えているのです。メダルが手に出来ないから普通の選手だという人たちは、フィギュアをスポーツとしか観ていない、それだけのことです。
まさきつねは正直な話、浅田選手も高橋選手も、こんな競技にさっさと見切りをつけてショーに専念して貰った方が純粋に演技を楽しめるのにと思ったりするくらいです。
ふたりともバレエなら充分、エトワールが務まる実力の表現者なのですから。
2011.06.05 09:39 | URL | #- [edit]
Canadaから says... "我慢と引き際"
こんにちは、まさきつね様。
自分もリーマンショックで多少影響を受けた人間の1人ですが、底を打てば何れは上がる、売り時が買い時、と我慢し、最終的には、15%プラスにして、別の投資に切り替えました。まあいい引き際だったかなと…(しかし、この引き際を見誤って、損失の穴埋めに走る余り、逆に傷口を広げ、破綻に追い込まれ収拾がつかなくなる場合が多々あるわけで、来襲した黒鳥も何時かは去ると解っていてもその不安は中々去らないのもまた事実…)
一流のスケーターは、頂点に立って潔く退き、余力を残して第2の人生を歩むか、肉体の限界まで続けるか、その引き際は、本当に難しいと思います。古くは佐藤有香さん、そして、荒川静香さん、バトル氏、最近では、ランビエール氏とサラ・マイヤーさん、実に美しい幕引きでした。自分も選手だったら本当に幸せな終わり方だよね、と思います。
そして、今回の世選での高橋選手のアクシデント、あれは、天の「もう少しやりなさい。」との声とも取れますが、正直な所、自分には、「もうこんな茶番に見切りをつけなさい。」との啓示に映りました。天性のエンターテイナー高橋大輔は、やはり試合より、ショーで、ルールに縛られることなく自由に滑って欲しいのが、彼のファンの1人としての偽らざる心境です。これだけインターネットの発達した時代ですので、THE ICEのような専用チャンネルを作って世界中に発信出来れば、フィギュア人気の底上げにもなるだろうと思うんですけどね。
まあ、本人が決めた事、生暖かく見守ることにします。(爆)
真央選手は、彼女自身も言っているように試合が好きなようですし、ソチで今度こそコーラーのグウの音も出ない完璧な演技をするその執念を貫徹してくれることを期待しつつ、ショーナンバーは、もっぱらTHE ICEのネットチャンネルで楽しませてもらいます。
真央ちゃんがんばれ!
2011.06.05 11:59 | URL | #ArpryNns [edit]
まさきつね says... "進退を決める幸せ"
Canadaから さま
ご訪問うれしいです。マーケティング市場でのブラック・スワンは実体のない影の場合もありますが、やはり襲来は怖ろしいですよね。
それにしても引き際を見極めるというのは大変なことですね。日本の村主選手も何だか観ているのも痛々しいですが、周囲は引退を勧めてもそれでも本人たちには納得のいくまでという思いがあるのでしょう。そういう意味では、村主選手にウィノナ・ライダーの引退プリマの淋しげな後ろ姿が被ります。
高橋選手にも納得のゆく美しい引き際がいつか訪れて欲しいです。そういえばランビとマイヤー、ともにスイスの名選手ですが、今のところ、彼らの後進として目立つ選手はいませんが、自身の幕引きに引き換えることは出来なかったのでしょうね。そうすると、本人が引退したがっているのに出来ないでいるキム選手には、かなりの国圧がかかっているということでしょうか。
少なくとも日本の選手は、自分の意志で進退を決め、引きたいときに幕が下ろせるというだけ、幸せということなのかも知れませんね。
2011.06.05 16:03 | URL | #- [edit]
cha says... "本当その通り!"
>テレビ画面を通じても誰もが胸が震えるほど感じられた五輪の空気を、当の選手のひとり、しかも金メダリストが何も感じていなかったというのなら、これこそ不感症と言わずして、何と言うのだろうと思いました。 <

最高に笑えました。

私もこの映画観ました。フライト中だったし英語字幕だったので理解できない言葉もありましたが、誰もが持っている不安とか恐怖とかすごくわかりやすく演出されてました。

キムさんの強気発言&態度はこういう恐怖感の表れではないかと常々思ってます。韓国でのファイナルでも練習どころかリンクサイドに出てきた時から、かなりピリピリムードでしたから。ま、オリンピックでは自国民のプレッシャーを感じなかったのが良かったんでしょうね。もし平昌で開催されてたら、間違いなく自滅してたでしょう。
真央選手の切り替えの早さといつも淡々としてる態度を見て、優勢な立場だったとしても私ならかなり恐怖を感じます。ISUも真央選手の逆襲をかなり恐れていますよね。応援しがいある本当にすごい選手ですよね。
また是非タチアナプロで警鐘をお願いしたいものです。
2011.06.06 12:50 | URL | #- [edit]
まさきつね says... "潜在的に…"
chaさま
ご訪問うれしいです。
そうなんですよね。「不感症」って性的な意味でよく使われますが、本来はもっと繊細な感情や人間らしい気遣いに気がつくかどうかだと思います。
話がちょっとずれますが、浅田選手やタチアナコーチのことを古臭いと揶揄する方が時々いますが、『007』の選曲も含めキム選手の方がよっぽど昭和(日本人じゃないですが)臭いというか、野暮ったさを感じるのですがどうでしょうね? タチアナコーチなどは古いというより正統で重厚なクラシックというのが妥当で、それを斬新な感覚で滑り込む浅田選手にはモダニスムを感じます。キム選手って、ファッションにしても広告にしても、何だかとても流行遅れになりやすい古めかしいセンスが潜在的にあるように思うのですがいかがでしょうか。
2011.06.06 13:40 | URL | #- [edit]

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