月船書林

フィギュアスケートの話題を中心に芸術を語る

空中庭園の散歩 其の拾 梔子と雨と悲しみと

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「だって、一番仕合わせじゃないかしら、死んじまうのが。おれは家じゅうのやっかいもので、心配ばかりかけているんだもの。なにしろ、からだが弱くて、それに…」
「さあ、はっきりおっしゃい。かくしたって駄目よ」
「それに、生れつきの苦労性がどうしても直らないもんだから」と、シルヴィネはやっとのことで言った。
「それに気立てもよくないしね」と、とても手きびしい調子でファデットが言ったので、シルヴィネはずいぶんしゃくにさわったが、またそれ以上に、ファデットがこわくなった。
(中略)ファデットの方はどうかと言えば、自分の言い分がひどすぎることはちゃんと承知していたが、シルヴィネのこころをいたわり慰めてやる前に、まずうんと痛めつけておいた方がいいと思って、わざとそうしていたのだった。だから、うわべは怒ってるように見せかけて、一生懸命きびしい言葉を使ってはいたが、心の中ではシルヴィネが可哀そうで、いじらしくて、こんな心にもないことを言うのがつらくてたまらなかったので、シルヴィネの部屋を出た時は、さんざ言われたシルヴィネよりも、言ったファデットの方がよっぽど参ってしまっていた。
(ジョルジュ・サンド『愛の妖精(プチット・ファデット)』)

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梔子(くちなし)の花が咲き始めた。
甘ったるく絡みつくような匂いを、年増女の深情けみたいだと言ったひとがいた。白い花弁も最初は清々しく、木下闇に映えるのだが、花腐しの雨が降り続くといつしか茶渋が付いたように黄ばんできて、見た目も無残になってゆくのが、そのひとには苦々しく映ったのかも知れない。

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この流れで梔子から連想するのもちょっと気の毒な気がするが、今回はショパンの年上の恋人、ジョルジュ・サンドから話を始めたい。

サンドとショパンの恋物語はこれまで何度もドラマティックに語られたり映画化されたり、多くのひとに知られている内容なのだが、一般的な解釈では多少、彼女がショパンに尽くした献身からは程遠い誤解の中に位置付けられてきたような気がする。
どうしても世間通念上は、ふたりの子持ちで経験豊富な年上の女性と、純粋無垢で将来性のある若い音楽家の組み合わせとなると、サンドの側に分が悪い。若い青年が海千山千の女に騙されて手玉に取られたと受けとめられて仕方のない部分もあるし、また実際そういった側面もあっただろう。

だがショパンが本当に、ポーランドから出てきたばかりの田舎者で世間知らずの若者であったことは否めないにせよ、サンドの手管に思いのまま操られて、彼女にあたら有望な才能を蝕まれて、あげく不要になったら捨てられた上に早逝したという話になれば、それは全く違う展開ということのようだ。

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サンドに出逢った頃、ショパンは既に数回の恋愛遍歴を重ねており、いずれも失恋を迎えて傷心を抱えていた。サンドもまた横暴な夫と別れたばかりで、今までつきあった男性のタイプにない風貌のショパンに、新し物好きの女性らしく心魅かれたものと思われる。
この辺の経緯は映画『愛と哀しみの旋律』でも描かれていたが、諸書の文献を見る限りどれもさほど違いはなく、第一印象では男装のサンドに対し、あまり好印象ではなかったショパンが、女性側の熱烈なアプローチとその誠意に次第に心動かされ、ついに「僕は彼女に惚れてしまった…」と特別な感情に惹き込まれていったのだろう。

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サンドの方は何かといえばスキャンダラスで多情という見解が多いものの、ショパンに対してはむしろ母親のような手厚い庇護で誠心誠意をもって尽くし、ただひとときを楽しむ恋愛の相手としてはどちらかと言えば不向きとしか思えない、金銭感覚に無頓着でさらには肺結核を患った子供以上に手のかかる年下の恋人に対して、九年に渡って注いだその愛情の背後には、計算高さや邪念のようなものはあまり感じられない。

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このふたりの交際に関して、その始まりと行く末、そして結末については、こちらのサイト『ショピニストへの道~ショパンを極めよう』にある『ショパンの生涯』や、ピティナの連載漫画『ショパン物語』を参考にしていただきたい。どちらも、ショパンにもサンドにも公正で冷静な解釈で彼らの恋路を紹介してくださっていると思う。

ところでショパンの恋愛遍歴の中でも興味深いのは、デルフィーナ・ポトツカ伯爵夫人との関係で、絶世の美女で美声の歌手であったらしい彼女を、ショパンがサンド以上の恋心を捧げた生涯の恋人として候補に挙げる向きも多いようだが、これにも各説あって、なかなかふたりの関係を実証する客観的材料が見つかっていないのが現状のようだ。
先ほど挙げたふたつのショパン解説でも、『ショパンの生涯』の方は永遠の謎となっているその神秘性ゆえになのか、麗しのポトツカ夫人恋人説を希望しておられるようだが、『ショパン物語』の方はどちらかと言えばそれには懐疑的という雰囲気である。

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ショパンの遺品にあった手帖の中に、サンドのイニシャルを記した髪の毛が挟まれて残されていたことからも、たとえポトツカ夫人との間にもそれなりの交流があったにせよ、ショパンが彼女にサンド以上の深い感情を抱いたとは思えないのだが、やはり世の中には繊細なショパンにはどうしたって似つかわしくない強烈な個性のサンドに対して、生理的な拒否反応を感じる傾向があるのかも知れない。

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1934年の映画『別れの曲』では婚約までした第二の恋人マリアをそっちのけで、初恋の人コンスタンツァへの想いばかりが強調されていたが(無論、古い映画ということで時代考証を外れたフィクションが多いことは研究者たちには承知のことらしいけれども)、それにしてもこの映画の印象はショパンのオールド・ファンには鮮烈だったらしくて、日本ではこの映画と『エチュード第3番ホ長調op.10-3』が強く結びつき、海外では『悲しみ(Tristesse/ Sadness)』、または『親しみ(L'intimité/Intimacy)』という名称で知られる曲が日本では『別れの曲』という特別なテーマで語られるのも不思議な因縁なのだろう。

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ちなみに、コンスタンツァ、マリア、そしてサンドの三人は、ショパンにとってはいずれも重要な恋愛感情の相手であった筈なのだが、そのどれもが破局に終わったためであるのか、この三人には献呈された曲がないというのも共通している。
それに対してポトツカ夫人には、ワルシャワ時代の代表作「ピアノ協奏曲第2番」とパリ時代の晩年の作品「小犬のワルツ」が献呈されており、この事実をほかの三人よりも特別な存在だったと考えるか、あるいはほかにも大勢の友人知人に自作を献呈しているショパンの性格から鑑みて、さまざまな方向で世話になった交流の深い友人のひとりと受けとめた方が妥当かということなのだろう。

まさきつねもどちらかと言えば後者で、ポトツカ夫人は確かに美しい女性ではあるが、ショパンにとってはいわゆる音楽という共通項を持った友人、あるいは音楽的インスピレーションを授けてくれたミューズと捉えるのが精々の関係ではないかと思う。少なくとも、お互いの心が血を流し、愛が苦悩に変わるほどの交情を持ったサンドとの運命的な結びつきを超えるものではないだろう。

さてもサンドの影響を受けつつ、ショパンが多くの名曲を世に送り出していった経緯に関しては、映画も文献も資料も山ほどあるので、もはや格別な説明は必要ないだろう。それを踏まえた上で、まさきつねがひとつだけここでスポットを当てておきたいのは、ショパンの音楽作品ではなくサンドが残した文学作品の方、古典とはいえあまりに語られることの少ない彼女の小説とショパンの関係なのである。

サンドはショパンと出逢う前、カジミール・デュドヴァン男爵と結婚し、モーリスとソランジュの一男一女をもうけた訳だが(ただしソランジュに関しては別の男性との間に生まれたという説が有力である)、夫の横暴などを理由に別居し、その後、作家のメリメ、詩人のミュッセ、医師パジェロ、さらに音楽家のリストらと浮名を流したことが知られている。
小説家の道に目覚めたのはやはり夫との別居後、27歳の頃で、年下で法律家の学生だったジュール・サンドーと恋仲になった彼女が、彼との合作で文筆業に入ったのが始まりという。その後、男名前を筆名にして男装で19世紀パリの社交界に颯爽と登場したのが、1832年発表の小説『インディアナ』の執筆者ジョルジュ・サンドだったのである。

それから45年間に及ぶ彼女の文筆活動は、学習院大学仏文科の篠沢秀夫教授によると四つの時期に分けられ、それぞれの代表作が以下のように列挙されている。

1.恋愛至上主義時代・・・『インディアナ(1832)』『モープラ(1837)』
2.人道的社会主義時代・・・『アンジボーの粉ひき(1845)』
3.田園生活の抒情的描写・・・『魔の沼(1846)』『捨て子フランソア(1848)』『愛の妖精(1849)』『笛師の群れ(1853)』《田園四部作》
4.晩年の楽天的物語・・・『ジャン・ド・ラ・ロシュ(1860)』『ヴィルメール侯爵(1861)』

このうち、今日でも評価が高いのは三期の作品で、日本でも古くから知られているのは1849年出版の『愛の妖精』だろう。
『愛の妖精』は、サンドの叙情的な田園文学の代表作で、病気がちで繊細なシルヴィネとたくましく朗らかなランドリという双生児の兄弟と、村中の嫌われ者で「こおろぎ」と仇名されていた娘ファデットの三人を主人公にした抒情性豊かな恋愛物語である。
サンドはこの作品を、ショパンとはすでに縁を切った1848年、彼女が生涯愛したノアンのあるベリ地方に取材して、自身の田園生活への傾倒や人物の感情表現を飾ることなく素直に表出して一気に書き上げた。

サンドは1836年にショパンに出逢い、1838年にはともにマジョルカ島に逃避行して1847年までノアンで同棲しているが、その恋愛期間の大半で民主主義的志向を強め、アラゴ、マルクス、バクーニンといった政治的思想家、活動家との交流を通じて1848年の二月革命には政治的活動に参加するまで、共和主義思想を理想と考えていたようである。
同年の六月、パリの市街戦が民衆側の惨敗に終結するに至って、社会と芸術に対するサンド自身の幻滅と失望も深まり、いったん政治活動から手を引いて、ノアンに引きこもって自らの傷ついた信念の修復と執筆活動の再出発に努めたのである。

この頃、ノアンを訪れた親友フランソア・ロリナの、社会的動乱の時代には牧歌的な物語によって人心を慰める事こそ芸術家の使命であることを説いた言葉がサンドに大きく影響したらしく、これをきっかけに七月から九月の間に完成させた『愛の妖精』のはしがきには「人間が誤解しあい憎みあうことから世の不幸が生じているような時代においては、芸術家の使命は、柔和や信頼や友情を顕揚して、清浄な風習や、優しい感情や、昔ながらの心の正しさなどが、まだこの世のものであり、もしくはあり得るということを、或は心をすさませ或は力をおとしている人々に思い出させてやることである。」という一節が残されている。

前述の篠沢教授のサンド批評には「やわらかい感受性と、人間性への優しい理解力に富み、優れた知性に恵まれているが、思想的にはなんの独創性もない。こう言ったら、サンドが常に周囲からの影響に動かされて、変わって行ったことの必然性が理解できるだろう。」とあるが、サンド自身が文才豊かで情熱的な感性の持ち主であったことは間違いないのだけれど、本質的には革命的な才覚の文筆家というよりもむしろ、叙情的な感性を持った人情家であり、それゆえ作品においても人物的にも、鋭角的な社会性よりも人道的なロマンティストとしての側面により強い魅力が感じられるのが事実のようだ。

プルーストの『失われた時を求めて』の中にもサンドの作品が扱われており、主人公が幼少期の頃に祖母からの誕生日のお祝いとして、『愛の妖精』を含む田園四部作を贈られ、その中の一冊を母親に読み聞かせてもらうという印象的な場面がある。
美しい田園風景の描写と、少女の成長物語であるオーソドックスで純朴なストーリー、一般読者が共感し易い道義的な主題が年少者向けの読み物語として発表当時から尊ばれていたということなのだろうが、プルーストのサンド評にも「その散文はつねに善良さ、道徳的卓越をあらわし、作者の心の格調の高さをも、あらわしている。」とあり、サンドがそのスキャンダラスな私生活に対する世間からの風当たりとは別に、文学創作者としての高雅な品性と作品に滲む崇高な格式を、同じ芸術家の仲間からは公正に認識されていたのだと思う。

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(※高畠華宵が描いた『愛の妖精』表紙。児童書向けなので、幼い画調が合っていると言えなくもないが…。)

『愛の妖精』は主人公にサンド自身や彼女の幼少期の経験が投影されていると言われるが、小悪魔的な魅力を持つ反面、内面的な優しさと聡明な知性で双子のひとりランドリを魅了し、さらに成長するにつれ美しさと洗練された女らしさを増してゆくファデットには、男性を翻弄する奔放さと宗教的慎み深さという矛盾した両面を併せ持つがゆえに、外見的にも内面的にもサンドが考えていた、人間としての究極の理想が描写されているのだろう。

ファデットの持つ思慮深さと強い意志、誠実さと人情深さはまた、サンドが抱いていた望みの女性像であり、ファデットが双子の兄弟に示す母親的な優しさや献身はそのまま、サンドの年下の恋人たちへの愛情表現に重なってゆく。

ファデットがランドリと結婚を約束した後、最初は弟を奪った憎き相手としてファデットを嫌っていたランドリの兄シルヴィネが、誰にでも平等で寛大な姿勢を見せる彼女に対し次第に惹かれてゆく様子にはどこか、男勝りだが近代的で自由な解放精神に充ちていたサンドに、だんだんのめり込んでいったショパンの面影がちらついている。
シルヴィネは弟嫁であるファデットへの不義の愛情に葛藤し、苦悩の末、軍隊に入ることを決意して家を出る。異常なほど嫉妬深く病弱だったシルヴィネが、ファデットへの愛を知ることで精神的に一人前の男性として成長し、そしてその愛をただひとり胸に収めてナポレオンの軍隊へ身を投じてゆく物語の後半は、ランドリとファデットの愛の成就を描いた前半のクライマックス以上に鮮烈な心理劇で、登場人物の感情を緻密に拾った内容としても奥深い。

篠沢教授を始め多くの文学者は、『愛の妖精』について、後半部分のストーリー構成のわざとらしさや話を端折ったご都合主義、女性主人公の美化され過ぎていることや、男性キャラクターの女性的な脆弱さなどを欠点として上げているのだが、確かに物語的には描写としてリアリティに欠ける部分やストーリー展開の強引さが目に付きはするのだけれども、ショパンとサンドの人間像を登場人物に重ねあわせてみるとこれほど生き生きした心理描写や納得のゆく終結はないという風にも思われるのである。

ファデットがいささか欠点のない女性の理想像として作られ過ぎているのはサンド自身の投影として仕方ないと認めるにしても、ひ弱で我儘なだけだったシルヴィネが愛を知った勇敢な兵士として自立してゆく姿の陰には、サンドが心の底から願っていたショパンの芸術家としての大成、そして故国ポーランドへの純粋無垢な忠誠心といった、別れた恋人へのはなむけのような精一杯理想化したカリカチュアの味わいを感じてしまうのだ。

現実のショパン自身は、1849年の十月に三九歳の若さで帰らぬ人となってしまうのだから、(サンドが彼が自分の著作を読むことについてどう考えていたにせよ、)ショパンがもしサンドの作品に目を通す機会があったとすれば『愛の妖精』がその可能性がある最後の作品であったことは間違いない。
(『愛の妖精』は1948年九月に書き終えられ同年十二月から社会主義者の機関紙《クレディ》紙上に連載されている。初版は翌年で、獄中の社会主義の同志アルマン・バルベスに献上されているが、病床とはいえショパンが当時話題になっただろうサンドの新作を一度も手に取らなかったとは言い切れまい。)

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一般的にショパンとの関係を暴露して、離別の理由のひとつになったとも言われている1847年の『ルクレツィア・フロリアーニ』に出てくる嫉妬深い青年カロルよりもシルヴィネの方が、サンドがショパンの本質として感じ取っていた優美だが芯があり、母国のために生命を懸けて戦場にも飛び込んでゆく青年像を描き出しているとまさきつねは思っているのだが、はたしてどうなのだろうか。
いずれにしても、『愛の妖精』の作品中でもファデットと結ばれた明朗快活なランドリ青年より、愁いを帯びた脇役のシルヴィネの方が、よりモダンで人間的な奥深さのある人物像に描き出されているのはまぎれもないことではあるのだが、まさきつねの知る限り、『愛の妖精』にショパンの面影を解読する研究にはこれまであまりお目にかかったことがないので、このたび私見をエントリーした次第である。


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さて、いつもながら音楽と文学談義が長くなってしまったが、今回も最後に浅田選手の2007年-2008年エキシビションナンバー『So Deep Is The Night』の動画と画像をご紹介する。
EXながら、要素は競技用とさほど変わらないほど盛り沢山で、2008年のジャパンオープンでは、三回転の連続ジャンプや2Aの三連続というジャンプ構成の間に、イーグルやスパイラルをふんだんな見どころにした内容だった。ゆるやかな音楽に合わせた動きはしっとりと優雅で、ダイナミックな風格を漂わせ始めたいかにも世界女王らしい演技である。浅田選手が「別れ」を意識していたのかどうかは分からないが、ここには確かに愛することの「悲しみ」と歓びがその苦悩とともに表現されている。

☆MAO ASADA 2008 JSC☆

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結びにドラクロワが描いたショパンとサンドのスケッチ、そしてサンドが描いたショパンのスケッチを続けてご紹介しておく。

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ドラクロワはこのスケッチを基に、1838年ショパンとサンドを描いた油彩画を完成させたが、その作品は後の1889年(一説によるとショパンに嫉妬したサンドの息子モーリスの画策とも言われているが)持ち主によって分断され、現在ショパンの肖像画の方はルーブル美術館、サンドの方はコペンハーゲンにあるオー・ドロップゴー美術館に収蔵されている。
ドラクロワの筆力は元来の画面構成を失っても、瑞々しいショパンの情熱的な若さや円熟したサンドの貫録に充ちた威厳を人間の本性としてとらえているが、どこか冷徹な芸術家の視線に貫かれている一面は否めない。


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サンドが描いたショパンは、いかにも愛する青年を女性らしいひいき目でとらえた甘やかさが感じられる。
たとえ年増女の深情けと言われようと、不釣り合いに後ろ指をさされようと、その愛情は真実のものであったに違いなく、梔子の花がいつか雨に打たれて見る影もなくしおたれていったように、その結末がどんなに惨めで悲しみにまみれてしまったとしても、ふたりが過ごした時間に生み出された芸術の美しさ、その愛の結晶は、どんなに歳月が流れても、どんな人間の手垢や思惑に汚されたとしても、きらりと光る雨のしずくのような輝きを決して失うことはないのである。

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人間が誤解しあい憎みあうことから世の不幸が生じているような時代においては、芸術家の使命は、柔和や信頼や友情を顕揚して、清浄な風習や、優しい感情や、昔ながらの心の正しさなどが、まだこの世のものであり、もしくはあり得るということを、或は心をすさませ或は力をおとしている人々に思い出させてやることである。現在の不幸に直接言及したり、醗酵しつつある激情に呼びかけたりすることは、決して救済への道ではない。むしろ、一つの甘い歌、鄙びた鳥笛の一声、幼な児たちを怯えも苦しみもなく寝つかせる一つの物語の方が、小説の色づけによって一層強烈に陰鬱になった、現実の不幸をみせつけるのにまさるのである。
(ジョルジュ・サンド『愛の妖精』はしがき)


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Comment

azki says... "こんばんは"
浅田選手が好きです。気負って大きな声で主張するでもなく、好きではあるんですけど…と気弱そうに主張するでもなく、ごく自然に相手の目をみてハッキリと「浅田さんが好きです」と言えるようになりました。
ただただ、そこにいてくれるだけで、心がほっこりします。演技もスパイラルも、がんばってるジャンプもぜーんぶ綺麗です。それ以上に精神性の高い演技にこころ打たれます。
演技もきれいだけど、それ以上に貴女の意思は眩いばかりです
…なんてハズカシイファンレター送ってしまいたいくらいです。
私のような者、きっとたくさんいるんでしょうね。
2011.06.21 21:57 | URL | #- [edit]
まさきつね says... "好きなものだから…"
azkiさま
初めまして。ご訪問うれしいです。
そう、きっとazkiさまのようにお考えのファンは沢山おられると思います。だからまさきつねは、世に言われる大勢のマヲタさんの存在が信じられないのです。
(ショパンやリストの時代にも、彼らを心底好きで、追っかけをするようなファンは山ほどいたようですが、ファン同士が争っているような様子は見受けられません。ファンって自分の好きなものにとことん夢中になるから、ほかのものを貶める労力なぞ使わないものなんですよね。)
好きなものを好きと言えることって大事ですよね。好きなものにこころを寄せていると、それだけで気持ちが癒されていくものですね。だから、尚更浅田選手に誰もが魅かれていくのでしょうね。
2011.06.21 23:47 | URL | #- [edit]
cha says... "ショパンとの..."
まさきつねさん、こんにちは。

私は真央ちゃんとショパンのピアノソロのコラボが大好きです。彼女の美しさがより一層きれいに見えます。

今季のフリーは愛の夢でしたね。曲調も衣装も新しくなるようなので楽しみですね。
タンゴの完成形が見れなかったのは残念ですけど、タチアナプロでプリンセスになるっていうのがかなり想像が膨らみますね。彼女のプロは正統派クラッシック(特にロシア作曲家)が多いので、巷でも話題に上がってますがシンデレラ?!と思ったんですけど、どうでしょう...?ただ真央選手が"女王様”みたいな発言もしてたようなので、シバの女王?!とか。

いずれにしてもすごーく楽しみです!
2011.06.22 16:56 | URL | #- [edit]
まさきつね says... "まだお預け"
chaさま
ご訪問うれしいです。浅田選手、メディアに登場しましたね。
彼女のSPは今や巷の噂ですね。ざっと数えても
『スペードの女王』』『チャルダッシュの女王』『椿姫』『シェヘラザード』『眠りの森の美女』『アイーダ 』『白鳥の湖』『ロミオとジュリエット』『ライモンダ』『皇帝円舞曲』『亡き皇女のためのパヴァーヌ』『亜麻色の髪の乙女』…山ほどありますね。
まさきつねはパヴァーヌを希望ですが、バレエ音楽の可能性の方が高そうですね。オーロラ姫かオデットか…、ディズニー定番のシンデレラかも知れませんね。
タチアナコーチのことですから、ひと捻りふた捻りありそうですが、もう少し楽しみはお預けですね。
2011.06.22 21:24 | URL | #- [edit]
革命 says... "No title"
浅田選手がは日本のスケート選手の革命だと、思います。
きれいに演出してくれるだけで、心がほっとします。演技もスパイラルも、革命だと思います。♪がんばってるジャンプもぜーんぶ綺麗です。
これからも、がんばって下さい♪
2011.07.01 00:01 | URL | #F3Dgw1fA [edit]
まさきつね says... "革命は評価されにくい"
革命さま
ご訪問うれしいです。
彼女の出現はいろんなスケートの常識を変えましたね。
女子の3Aは勿論のこと、空間を劇場化してしまう才能も抜きん出ていました。
革命は同時代的には評価されにくいことが多いですね。彼女が正当に評価されるのは、まだもう少し時間がかかるかも知れませんね。
2011.07.01 00:43 | URL | #- [edit]

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