月船書林

フィギュアスケートの話題を中心に芸術を語る

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空中庭園の散歩 其の拾四 月の光のノスタルジア

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浅田選手の2008年-2009年SPはクロード・ドビュッシーの『月の光』である。
このシーズンはSPをローリー・ニコルが振り付け、FSをタチアナコーチが振り付けた。コーチ不在になってしまった昨シーズンに、苦手なルッツやサルコウへの取り組みなど浮き彫りにされた多くの課題が盛り込まれ、よりパーフェクトなプログラムの完成を目指す試練のシーズンが始まった。

『月の光』についてはすでに過去のエントリーで多少ながら解説をしているので、こちらを参照されたい。
『月下の一群』

ところで、今回は少し切り口を変えて、この『月の光』を使用したフェリーニの映画の話をしたいと思う。

フェリーニと言えば、高橋選手が五輪シーズンにカメレンゴ振付で滑ったニーノ・ロータ作曲『道』の主題曲がフィギュアファンには記憶に新しいと思うが、ネオリアリスモの後継者として注目されていた若きフェリーニが妻のジュリエッタ・マシーナを主人公にしてイタリアの各村にロケをし、叙情性とヒューマニズムに充ちた物語で国際的な名声を得たのが1954年製作の『道(La Strada)』だった。
フェリーニはその後、ネオリアリスモ的な作風を離れ、宗教的あるいは精神的な象徴性を持った映像表現や寓話性の強いストーリーに近づいていき、チネチッタで組んだ巨大なセットによるスタジオ撮影を中心とした、重層的で夢幻性を深めた映画手法を確立した。

この辺りの、イタリア映画と映画撮影所チネチッタの歩みについても以前のエントリーで語っているので、ご一読いただけたらと思う。
『「道」の続くところ』

そして今回、お話ししたいのはフェリーニがスタジオ撮影にこだわりつつ映画製作をした中期以降、1983年作品の『そして船は行く』である。

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☆E la nave va de Fellini☆


端的に説明すると、これまでの幻想と虚構で作り上げたチネチッタでの製作作品、「甘い生活」「8 1/2」「魂のジュリエッタ」「世にも怪奇な物語」「サテリコン」といった映画の流れにつながるものでありながら、その世界を集大成したものという側面と同時に自らが確立してきた「フェリーニ的世界」を破壊してまた別の虚構を再生するというひとつの節目のような作品として扱われているように思う。
それゆえか賛否両論が多く、フェリーニっぽさとその映画手法全ての凝縮という側面が、衰退しつつある映画芸術そのものへのオマージュあるいは失われゆく時代への哀悼として好意的に受けとめられる反面、彼自身の創作意欲や映画的な創造力もすでにピークを過ぎて、その僅かな残り火のようなアイディアとアイロニカルなテーマをかき集め、過ぎし良き時代へのノスタルジアを断片のように紡いでみせたいわば燃え滓のようなものと捉える向きがあるようだ。

確かに『そして船は行く』のストーリー自体が雑然としており、フェリーニ作品に馴染みのないひとには冒頭から、一体何のことやらと理解し難いエピソードの積み重ねで構成されているのである。
映写機の動作音とともに無声映画のようなセピアの画面から始まるプロローグ、やがて港の雑音が被さり、カラーに変わってゆく画面から出演者たちのコーラスが響き、豪華客船を舞台にしたオペラ風の味付けをした人間ドラマの幕開けを告げるのだ。

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出来事らしい出来事が起こる訳ではない。物語は、野次馬たちが集まって船に乗り込む選ばれた人たちを眺めている最初の場面から、数多くの登場人物が入れ代わり立ち代わり、愛すべき奇妙なエピソードを繰り広げてゆく中で航海の終焉、そしてストーリーの終焉へと移り変わってゆく。
航海の目的は亡くなった偉大な歌手(マリア・カラスがモデルらしい)が生まれた島の沖で葬儀を執り行い、散骨をするためという話が、同船する新聞記者オルランドによって語られる。オルランドはフェリーニの分身のような存在で、取材手帖を手に航海の経緯を綴っていく彼が映画全体の狂言回しの役回りをし、登場人物たちのエピソードを次々にナレーションしてゆく手法は、フェリーニのシネマトグラフィーでは常套手段である。

全編に溢れる音楽の多彩さは、1979年に没したニーノ・ロータに対するアイロニカルな構想でもあるのだろう。厨房の水を張ったグラスで奏でられるシューベルトの『楽興の時』第三番。数小節でお茶を濁すのではなく、年老いたふたりの音楽教師が全小節をしっかり演奏して、クラシック音楽を映画の添えもののように扱わない。

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また、機関室を見学に来るオペラ歌手たちも次々に、船員たちの要望に応えてアリアの一節を歌って自慢の美声を披露しあう。
セルヴィアからの難民が甲板で踊る民俗舞踊も、ラストの伏線となる第一次世界大戦前夜の政情不安を裏返しにした映像上のアクセントである。
こうした中で、登場人物たちはひたすら亡き偉大なディーバを讃える言葉を口にする。彼らは何を偲び、何を懐古してレクイエムのような音楽を奉げているのか、だがのんびりした鎮魂の旅であった筈の船にもついに、サラエボでのオーストリア皇太子暗殺事件の余波が押し寄せ、オーストリア=ハンガリー帝国の大公と皇女も乗船していたという設定から、政敵の予期せぬ砲撃を受けて船は沈没の憂き目にあうというあっけない終幕が待っている。

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沈んでゆく船と遥かな海原へ落ちてゆくディーバの遺骨、だが船も海も空も、すべてがチネチッタの作り物で、物語も虚構なら映されている光景もすべて虚構という映画の嘘の中に悲劇はある。
そしてドビュッシーの『月の光』は、まさにこのスタジオにセッティングされた虚構の海と難破船を映し出す、ライティングによる虚構の月の光の中で、切々と夢幻の調べのように流れるのだ。
もはや何を哀惜しているのか分からない、だが確かに失われゆくものへのノスタルジアと限りない悲しみを込めて、もともと太陽の光の反映でしかない「月の光」という虚像によって、フェリーニの生み出した映画という虚構の群像劇はその真のリアリズムを明らかにしてゆく。『そして船は行く』の幕切れはチネチッタで撮影しているカメラや撮影隊、大道具を動かす人たちまで、セットや張りぼてのあらゆる内幕を暴いて、映画作りにおける多くの約束事を何でもないことのようにあっさりと裏切って、映像芸術における幻想をことごとく打ち砕いてゆくのである。

そしてエピローグは何故か船底に積まれていた犀をオルランドが連れ出してボートに乗せ、いっしょに難を逃れて「犀のミルクは美味しいから助かった」という彼のナレーションでフェイドアウト。オルランド同様に大半の乗船客も助かったという結末になっているので、この物語は難破する船の悲劇を描きながら、フェリーニらしい悲劇性のない寓話の世界に成立する夢幻のストーリーに過ぎないことも確かなのだ。

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思うにフェリーニは、この世のはかなさや美しさというものを描きつつも、それが決して「虚しさ」と一体ではないことを知り尽くしていたのだろう。
サイレントからやがてトーキーへ、モノクロの画像はやがてカラーへと変幻していった映画の撮影技術もまた、日を追うごとに進化し発展していったが、その中で銀幕のスターもまた虚像を暴かれ、秘密は失われ、約束事は消えて、芸術への憧れも薄れてゆき、距離を失った鑑賞者と演技手の間には二者を隔てていた溝がなくなった。
いつかさまざまな産業技術の発達によって、遠く触れがたいもの、手に入れ難かったものへの憧憬の念は失われ、何もかもが簡単に手に入り、その上楽にポケットに仕舞えるほどのサイズに変わってしまい、ベンヤミンの説に従えば、メディア=複製技術の発達は多くの芸術からその希少性を奪い去り、近寄り難さや珍しさといった価値を削ってしまったが、それが人間にとって幸せなことであったか不幸なことであったか、おそらくフェリーニは現代人が多くのものを手に入れると同時に失くしてしまった精神的な歓びと、その反面こころをうち塞ぐ虚しさに気づいていたのだろう。

まさきつねはフェリーニがこの作品で結びつけた三つの象徴的な存在、「犀」と「難破船」と「月の光」が秀逸な選択だったと思う。

「犀」は今でこそさほど珍奇な生き物ではないが、ヨーロッパでは1515年にデューラーが制作した木版画による普及とその芸術的影響が1930年頃までドイツの学校教科書に採用されるほど根強く、その絵画的正確さも学術的根拠も何もない虚像が「装甲に覆われた生きもの」という固定観念を長く人々に植え付けてきた。
つまり実物の姿とデューラーが描いた「奇怪で間違った姿」が錯綜し、長期に渡りこれほど大衆のイメージを混乱させ続けた動物の例としてヨーロッパでは類がないのだが、それゆえに絵画の虚構性と、様式化された記号的手法を語る上では重要な鍵を握るシンボリックな存在として受けとめられてもいるのである。

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「船」については、難破してゆく船としては「タイタニック号」の悲劇が最も有名な歴史的事件だと思うが、フェリーニは先ほども述べたように、乗船客の大半を救うことで沈没する船を悲劇のドキュメンタリーとして描くのではなく、あくまでも寓話として扱おうとしているように思う。つまり、フェリーニにとっては「船」は悲劇を演出する道具ではなく、集った人間たちの群像劇を描く舞台として重要だったのだ。
ヨーロッパで多くの人間が乗り込んだ船として昔から寓意の中で扱われるのが、ミシェル・フーコーの『狂気の歴史』の中で言及されている「阿呆船(愚者の船)」である。歴史的に実在したか否かに関してはいまだにその論の分かれるところではあるが、いわゆる精神病患者たちを乗せて水上を漂泊する船のモティーフは15世紀ごろの北方ヨーロッパの絵画や文学、あるいは風俗の中で散見されており、その代表的なものがたとえばフランドルの画家ヒエロニムス・ボスの絵画や、バーゼルで出版されたセバスティアン・ブラントの風刺文学『阿呆船』なのである。

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フェリーニは無論、オペラ歌手の葬礼に向かう船に乗り込む貴族や音楽家たち、劇場支配人といった面々を愚者扱いしている訳ではない。
だが豪華客船の中で延々と繰り広げられる人間模様や風変わりなエピソードの数々は、傍で見ている限りどれもが馬鹿げたお祭り騒ぎであり、愛らしいがくだらない喜劇の類いである。フェリーニの目線では、いずれ難破してゆく運命にある船に乗り込みながら浮かれた狂騒に興じている人間たちは、精神的に病んでいるか否かに関係なく何も知らない愚か者たちの群像劇としか描けなかっただろう。けれども、彼らの大半を水中に没するという絶望的な終幕にしないのが、フェリーニの人間に対する温かな姿勢であり、愚者たちの船をあくまでもアレゴリーの中で戯画的に描こうとするヨーロッパの知的な風刺精神のひとつの顕れといって良いだろう。

そしてフェリーニは「犀」と「難破船」が紡ぎだす幻想的な寓意の物語を、スタジオで作り出した虚構の「月の光」で充たし、ドビュッシーの軽やかな旋律で包み込む。ドビュッシーの『月の光』に反映されていたイタリア喜劇の道化師たちの群像に関しては、前に紹介したエントリーを参照いただきたいが、ドビュッシーと彼のイロニー的手法については、興味深い記事があったのでその中の一文を引用させていただくとともに、ご紹介しておこう。

        
http://blog.goo.ne.jp/frutta_2005/e/56c0ed9782190197e3eebd1a684aaea2
「イロニーのおかげで、重いものは軽くなり、軽快なものは滑稽にも重々しくなる。重さの転倒が生じるのである。たとえばドビュッシーは、ペタペタ歩きの子守歌、《象の子守歌》の小曲を、鍵盤の低音域の音符に託した。そして、ソクラテスがあるときは重大なことをおどけた調子で言い、あるときは取るに足らないことを重々しく語ったりするように、ドビュッシーにあっては、重いものが軽やかになり、他方、軽快なものは象のおどけたステップを踊るのである。それは無限に続く『倒置法』である」(Vladimir Jankelevitch, L'Ironie, Paris, 1964, p. 79)。

     ※

『月の光』のこの上なく美しく軽快な旋律が奏でられる沈んでゆく船内で、偉大なディーバはそのプライベートを写し撮った「フィルム」に甦り、その麗しき声は録音した「蓄音機」に再生され、その確かな存在は消息を大衆に実況中継しようとする「新聞記者」によって伝えられる。映像の中で、実存性が確認出来るのはメディアの方だけなのだが、大衆のこころに刻まれてゆくのはすでに実体を失ってしまったディーバの虚像、そのはかなくも美しい芸術の残り香だけなのだ。

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フェリーニは映画の虚構と虚構を暴く映像、自身の投影と投影が赤裸々にする自己の内面という幾重にも重ねられたアイロニーを、ニーノ・ロータ亡き今、『月の光』という借り物のクラシックの楽曲に乗せて鑑賞者たちに届けた。
すべてが借り物で作り物でまがい物…だが人生とはそうしたもの、誰もが生きるということは日々失われてゆく確かさを、ひとつひとつ丹念に拾って他者のこころに刻みつけて託してゆくことでしかないと、フェリーニは無言で語っているのだろう。

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さて、芸術談義ばかりが長くなって申し訳ない。
浅田選手の『月の光』の画像を、最後にまとめてご紹介することとしよう。

ラヴェンダー色の衣装は前のシーズンの『ヴァイオリンと管弦楽のためのファンタジア』から彼女にぴったりの色彩として定着したのだろうが、月光を表現するのにこうした寒色系を用いるあたり、太陽の温かさや激しさとは裏返しの冴え冴えとした冷たさや静謐さをイメージさせる方向性により強く傾倒していたということなのだろう。
胸元を飾る三日月を組み合わせた金銀のモティーフは、お気に入りだったのかそれとも三日月が主要なテーマだったのか分からないが、デザインを変えた青の衣装でも用いられており、丸い月よりもどこか鋭角な月の輝きが、浅田選手やニコルの想像の中にあったのだろうか。

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☆Mao Asada 2008-09 SP ドビュッシー「月の光」☆


四大陸選手権ではさらに青味の強いロイヤル・ブルーの衣装になり、デザインもギリシャ風をイメージさせるようなアシメトリーに右肩を露出したもので、月の女神をより連想させるかのような雰囲気になっていた。だがこの大会での戦績が思わしくなかったのが心的に響いたためか、このコスチュームは一度きりのお目見えとなっている。

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☆Mao Asada 2008-09 4CCspfs☆


はかなくも美しいもの、いつの日か浅田選手の演技にもこうしたコピーが被せられる時が来るだろう。いや、もしかしたらすでにそのような言葉が寄せられているのかも知れない。
スポーツ選手とりわけフィギュア・スケートのような採点競技においては、そのいとけない新鮮さがまだ十代にも達さぬ頃から愛でられ、その賞味期限が僅か十年かそこらの短さで消費されてしまうという厳しい現実がある。浅田選手や安藤選手のような、神から授かったような才能をもってしてもその身体的衰えを留めることは出来ないのだ。

ディーバのごときその美しさを、現代の鑑賞者たちはメディアの普及していない時代よりもはるかに便利よく、単純にカメラがとらえた画像や動画のみならずデジタルやCG技術を駆使した再生方法によって、さまざまに楽しむことが出来るようになった。
だが美神たちのはるけき姿、その真性の美を鑑賞者がどれほど誠実にとらえ、憧憬と陶酔に充ちた悦びを得ているかとなると、メディアの発達していなかった頃よりもはるかに進化しているかどうかは甚だ疑問だ。

メディアの技術が進化すればするほど、悪意に満ちた作為や、実体からかけ離れた虚像を作りだして大衆を惑わそうとする輩も増えて、「はかなくも美しいもの」を純粋に愛でようとする鑑賞者たちは疑念と困惑の渦の中に巻き込まれることも多くなってしまった。
現代のメディアはものごとの実相を暴こうとしていかがわしい粉飾に走り、人びとの想像力をことごとく奪って、自分たちに都合のいい理屈だけを押しつけようとしているのだ。

フェリーニは情報の波に楽に流されていこうとする大衆の無知と、それにつけ込もうとするメディアの愚行に気づいていた。だからこそ彼は「私は想像と現実との間に境界線を引かない」と言い切り、想像する人間の本物を見極める力を信じていたのだ。
そう、失われしディーバを現代に甦らせることが出来るのは、再生メディアの機械的な複製能力ではない。
ディーバを愛し憧れる人びとが想いを寄せ想像し、口々に語り伝える伝説、はかないものをはかないまま、美しいものを美しいままに過ぎ去ったものを追い求めるノスタルジアしかない。
浅田選手のはかなくも美しき『月の光』には、消え去ったものを愛おしみ懐かしみ、遠く触れがたいものになってしまった過去を哀惜する懐旧の力が、おぼろな暈のごとく滲んでいるのである。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


理論などありません。単に聴くのみです。空想が法律です。
(クロード・ドビュッシー『作曲の師エルネスト・グィローとの対話から』)

Clair de lune : Verlaine

Votre âme est un paysage choisi
Que vont charmant masques et bergamasques
Jouant du luth et dansant et quasi
Tristes sous leurs déguisements fantasques.
Tout en chantant sur le mode mineur
L'amour vainqueur et la vie opportune,
Ils n'ont pas l'air de croire à leur bonheur
Et leur chanson se mêle au clair de lune,
Au calme clair de lune triste et beau,
Qui fait rêver les oiseaux dans les arbres
Et sangloter d'extase les jets d'eau,
Les grands jets d'eau sveltes parmi les marbres.


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

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Comment

よっこいしょういち says... "今更ですが。"
まさきつねさま、またまたこんばんは(^^;)
このプロも美しかったですね。くるくると回るステップで残像が見えるよう余韻があってうっとりしました。ブルーも素敵ですが、ラベンダーは映えるというか、溶け込むというか、氷との色合わせが好きです。
ずっとのほほ~んと見ていたのですが、ここ2~3年で少しは目が肥えた(まだまだですよ、もちろん)のか、改めて見返すと、前シーズンよりさらにスパイラルが美しくなっていたことに今更気付きました(汗)
あ、そうそう、例のショーは「Worlds Largest Ice Show」だそうです。中央日報の記事には地上最大と。お笑い芸人だと「無茶ぶりや~ん」と言われませんかしら。
2011.07.18 22:34 | URL | #- [edit]
よっこいしょういち says... "あ゛~~~っ"
なでしこジャパンのことを書き忘れました!
おめでとうございます!ありがとうございます!!
2011.07.18 22:58 | URL | #- [edit]
まさきつね says... "世界が祝福"
よっこいしょういちさま
ご訪問うれしいです。
改めて見直すと、浅田選手の進化の過程がよく分かりますよね。彼女は年々、成長しているのです。
いろんなことに挑戦しながらバンクーバーを目指したんだなと今更ながら感じ入ります。そして彼女のお蔭で、ファンも目が肥えたということですね。
なでしこJAPAN、素晴らしかったですね。地道な努力は必ず報われるんですね。
日本は再生し、必ず復興します。世界に祝福される勝利、すべてが美しかったです。
2011.07.19 02:39 | URL | #- [edit]
saho says... ""
お久しぶりです。最近ドビュッシーがマイブームでして、そこにまさきつね様の興味深い記事を発見したのでお邪魔します。

「理論などありません。単に聞くのみです。空想が法律です。」
というドビュッシーの言葉は初めて知りました。私が知っている限りのドビュッシーの曲と考え合わせるととてもしっくりいく言葉です。とにかく目の前で様々な色が流れるように移り変わりゆくように感じることが多いので。

浅田選手×ローリー作品の中では、月の光が一番好きな作品です。月の光という曲自体は、個人的には暖色系の色彩を思わせることが多いのですが、あの上品な藤色や、深い青色の衣装が月の光の冷たさを、そこに浅田選手の動きが月の光の柔らかさを思わせるようで、月が持つ複合的なイメージを見事に表してくれたと思っています。それにしても、青色衣装がとっても好きなので、一回きりのお披露目は勿体ないと思ってしまいます…もっとも、浅田選手の衣装でそう思うものってこれに限らないのですが笑

記事とは関係ない自分の感想語りばっかりすみません汗 お邪魔しました。またの記事を楽しみにしていますね。
2011.07.19 12:10 | URL | #- [edit]
まさきつね says... "ファンの楽しみ"
sahoさま
ご訪問うれしいです。
グィローもドビュッシーも当時の作曲技法や音楽理論の中では、進歩的な考えを持っていましたからこうした言葉が出てくるのでしょうね。ほかのドビュッシーの言葉では「音楽は色彩とリズムでつくられているのだ」という持論も面白いです。メロディーではなく色彩…まさに音楽の中に、象徴主義あるいは印象主義といった絵画理論を応用した彼ならではの感覚ですよね。
青の衣装、綺麗ですよね。ほんとに一回きりは勿体ないです。気に入った衣装をずっと着続けるのも良いですが、いろんな色やデザインで同じプログラムを見比べるのも、ファンの楽しみですよね。
2011.07.19 15:18 | URL | #- [edit]
bonbon says... "絵空事だからこそ"
世間の評価は低いですが私は映画史に名高い「甘い生活」や「81/2」より好きでしたね「そして船は行く」の芳醇な虚構性の方が。
映画や小説でも実社会にことよせた鑑賞・評価が幅を利かせる昨今ですが私は常に「つくりごとで何が悪い」と開き直ってしまいます。
「桃から生まれた桃太郎」や「月に帰っていったかぐや姫」のおはなしの方が特に幼児期には英語なんかよりどれほど重要か…
すみません、大逸れに逸れました。
浅田選手の新プログラム、お姫様のストーリーだそうですね。
西洋のお姫様も素敵ですが美しすぎて誰のものにもならず、月に帰っていったかぐや姫もぴったりだと思うのですが…あれ、何だかスケツーのネタとかぶってしまいましたね。失礼しましたー
2011.07.20 00:00 | URL | #- [edit]
まさきつね says... "やまとなでしこ七変化"
bonbonさま
ご緒訪問うれしいです。
フェリーニのネオリアリスモを評価する人には、後期の彼の作品は堕落のように思えるのかも知れませんね。映画人としては当然の変化であり、必要な提言だったと感じるのですが。
絵空事の重要性はもっと注目されて然るべきです。現実に足がついていないものに対しては、世間の風当たりがきついですよね。夢やロマンばかりを追い求めろとは言いませんが、それがない世界はあまりにも淋し過ぎますね。
浅田選手、今季は不二子ちゃんになったり、お姫さまになったり、まさにやまとなでしこ七変化ですね。日本は古来、女性は太陽だったといいますから、女性が輝く時代こそ日本の再生に希望が持てるのかも知れませんね。
2011.07.20 07:23 | URL | #- [edit]
ぽぽ says... "なでしこ"
地上の花は楚々としていても、野の花の芯は強いのですね。
なでしこジャパンおめでとうー(☆▽☆ )
普段のリーグも知らないけど<(_ _)>ハイテンションになってしまいました。アリガトー。

浅田選手のパステル調の衣装は透明感がステキです。
お姫様の衣装も楽しみです。(不二子ちゃ~んも)
浅田選手も、より一層強い宿根草になれますように(*^_^*)
2011.07.20 16:06 | URL | #wKydAIho [edit]
まさきつね says... "宿根草と根無し草"
ぽぽさま
ご訪問うれしいです。
なでしこたち、今までは水も栄養もやらず、まるっきりほったらかしだったにもかかわらず、今度は国民栄誉賞の話がやにわに持ち上がっていますね。無論、賞に値する活躍だったとは思いますが、裏側はどうも政府と菅総理の国民へのごますり根性がミエミエで、スポーツをすかさず政治に利用しようとする人間の浅ましさにうんざりします。
同じ世界一なら、フィギュアの世界王者や女王はどうなの? と思ってしまいます。世界を狙えるくらい実力のある競技なら、栄誉賞の前に、もっと振興費を奮発してよと思います。奇しくもスポーツ振興費を仕分けしてしまった蓮舫さん、ツイッターが炎上ですって? やれやれですよね。
仕分けするならスポーツや文化じゃなくて、政治家のお給料やボーナス、豪華な宿舎の方でしょう…話が大脱線してしまいましたね。
本当に、実力や才能のあるひとは、しっかり根を張って伸びてゆきますね。根無し草のような今の政府には太刀打ち出来ないでしょうね。
2011.07.20 18:55 | URL | #- [edit]
niko says... "No title"
おひさしぶりです。
今日初めてthe ICEを観に行きました。ショー全てが楽しくてすばらしい、幸せな時間でした。
羽生選手の爆発しそうなエネルギーや、シズニー選手と長州選手の「川の流れのように」の曲と滑りが一体となったコラボなど、あげればきりがないくらい素敵満載でした。
そして、浅田選手の「ジュピター」…。どの選手からも「元気を届けたい」と、震災への思いを滑りに託しているのは強く感じられたのですが、私が浅田選手から受けた印象は他の選手とは少し違いました。
「ともに悲しみ、ともに立ち上がり、ともに生きよう」とでもいうか…。観ていて悲しくて、でも力が湧いてくるというか…。神々しいまでの美しさなのに人間の強さを感じる、やっぱり浅田選手の凄さは桁外れです。
こう感じている自分がおかしいのか、他の人はどう感じたのか知りたい。今記憶がふわふわしています(笑)
2011.07.25 00:34 | URL | #5HtZ3GCk [edit]
まさきつね says... "ふわふわの凄さ"
nikoさま
ライブな情報ありがとうございます。記事のエントリーで返信が遅くなってごめんなさい。
最初の夢のようなオープニングから、最後のフィナーレまで充実して楽しい内容だったようですね。
まさきつねも浅田選手の『ジュピター』と聞いて一瞬、首を傾げましたが、リベラの音源と聞き、納得がゆきました。彼女が伝えようとしているメッセージは、安っぽい言葉による慰めやその時限りの癒しではないような気がします。
そう思ったので、かなり偏狭な記事ですがまさきつねの思うところをエントリーしました。
ここ数年、彼女やほかのフィギュア選手たちをめぐって、何かの代理戦争のような悶着が絶えません。ファンに対してはまるで忌むべき存在のように、マヲタなる悪名で呼びつける輩もいます。
いかがわしい情報操作や世論誘導は今に始まったことではありませんが、姿の見えないネットを使った許しがたい暴挙です。
まさきつねは、そんなものに惑わされず、ただ自分の愛するもののため信じるところへ向かう浅田選手が、自らの意志と演技でそれを皆に示唆してくれているのだと感じています。
2011.07.25 16:00 | URL | #- [edit]

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