真央がいない
個人的な話だが、隠すほどの内容でもない。
そして今頃になってお伝えする必要もないことなのだが、覚書として記しておこうと思う。
ニースで世界選手権が始まって二日目、まさきつねの母が突然高熱を出し、立つことも覚束なくなったので、救急車で病院に運んだ。病名は急性の腎盂腎炎、元々慢性の膀胱炎や水腎症などに悩まされていたから、今更驚くような診断ではなかったのだが、ともかく一週間は入院が必要ということだったので、嫌がるのを仕方なく搬送からそのまま病室収容という経緯になった。
母がなぜ入院を嫌がるか、おそらくは以前、倒れた時の療養生活で軽度の鬱病を発症したからだと思うのだが、確かにあまり打ち解けて話す人間もいない病室で過ごす辛さは想像に難くない。それでもさすがに、二十四時間付き添うという訳にもいかず、とりあえず日中だけはまさきつねが母に付き添って、患部の炎症を鎮める点滴続きの病室暮らしを我慢させることにした。
何事も起こらず、何事も変わりのない午後、窓ガラスから注ぐ昼の日差しの中で、点滴の針を打たれたまま昏々と眠る母の顔を見ていると、何事があったという訳でもないのにいつか静かに涙が目頭を濡らしてくる。
別段、命にかかわるような大病をしている訳でもないのに、それでも後どのくらいの年月、母とこの俗世で一緒に過ごせるか、それはまさきつねに限った事でもなく、人は誰でも常に死までの執行猶予期間のように一瞬の生を謳歌するしかないのだけれど、その僅か許された時間の切なさを時として人間は、消えようのない悲しみとして噛みしめるしかないのだろう。
母を病院に残して帰宅した夜に、世界選手権で浅田選手が懸命に滑った演技をパソコン画面で確認しながら、昼間に流したのと同じ熱い滴がいつの間にか頬を伝って、彼女の夢見るような薄紫の衣装のデザインがまるで分からなくなるくらい、視界をぼやけさせてしまったことに、不覚にも『愛の夢』の最後の一小節が鳴り終わる頃になって気がついた。
ブログ記事は書けなかった。
何を語って好いか分からなかったからだ。
ホームページを開くことさえ出来なかった。いつもコメントをいただいている方々に申し訳ないことは分かっていたのだけれど、言葉を発する力が出なかった。
浅田選手の戦績やその演技が、望ましい結果ではなかったからという訳ではない。浅田選手は今季どの試合でもそうだったように、彼女のすべきことをやり、その結果をすべて受けとめていた。彼女はいつもどおりの彼女で、いつもどおり、昨日よりも一歩、前へ進む時間の重ね方を続けていた。
前へ進めない、重苦しい文鎮のような思いを胸に抱えたような時間とやるせなさにとらわれているのは、まさきつね自身だった。
いつもよりも桜の遅い春、いつもよりも時間が進むのが遅い日々、失われゆくものの予告に怯えながら、いつか去るものの影を感じながら、言葉を失ったのはまさきつねの方だった。
ようやく絞り出した言葉も、自分のブログに記載することが出来なくて、かろうじてヤフー記事のコメント欄に投稿するのがやっとだった。あいかわらず、汚い言葉や誹謗中傷めいた内容がちらほらするコメ欄ではあったけれど、ともかく少しでもかたちに出来た言葉を人目に曝すことで、まさきつねも一歩くらいは前進したいと考えたのだろうと思う。
以下、その全文。お見かけになった方もおられただろうか。
【フランスのジャッジは良く観ていた。PCSが示す通り、ジャンプは跳べなかったが、よく滑っていた。美しく、完成されたスピン、見事なステップだった。今シーズン何も収穫がなかったわけではない。
浮き沈みのない人生、それに左右されない人間などいない。彼女は誰よりも感受性の豊かなスケーターなのだ。そんなに簡単に、身近な人間の死を乗り越えられる訳がない。母のいない世界でスケートを続ける意味を、まだ彼女の心の奥底が見つけ出していないし、彼女の肺腑が納得していないのだ。
今の彼女のスケートは、真の人間そのものが顕れている。どんな演技よりも感動した。】
今から読むと、ひとりよがりなコメントだった気もする。ニースで必死に闘った浅田選手に対して、その心情について、どこか無理解だったことは否定できないと思う。
やはり投稿当時、多分に、まさきつね自身の心情を浅田選手に重ねてしまったのだろう。
そうこうしているうちに、(まさきつねの母も無事退院したのだが)、海外から浅田選手の世界選手権について考察した記事を読む機会があり、日本国内でもなかなか理解されない彼女のスケート、彼女の闘い方や考えに関して、これほど深く共鳴する記者がいるのなら、まさきつねがこれ以上の言葉を重ねる必要もあるまいと安堵した。
遅くはなったが、その記事の拙訳をともかくも掲載しておこう。
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浅田真央―果てなき闘い
☆Mao Asada – The fight must go on☆
April 04, 2012
By Vladislav Luchianov
ニース開催世界選手権で、浅田真央の演技を観ていた多くのフィギュアスケート・ファンが考えたことだろう。
「なぜ彼女はあの難しいと分かっているトリプルアクセルに再度挑戦するのだろう? 何のための闘いなのか? ダブルアクセルが決まれば、後は連続三回転を跳ぶだけで充分なのに。彼女が持ちあわせているコンポーネンツの高得点で、確実に金メダルが獲れていたはずなのに! それが終わってしまえば、結局六位だなんて!」
初めのうちは私も同じように考えていたものだ。
しかしそれも、キス&クライの席に座る彼女の凛とした姿を見るまでの束の間の間だった。
真央は、ほかの大多数なら当然用いるような手段であろうと、彼女が試みた以外のやり方で世界選手権の座を手にすることなど、望んではいなかったのだ。彼女は彼女のトリプルアクセルを必要としているのだ。なぜなのか? おそらく彼女は全く違う次元のことを考えている。
彼女はほかとは全く異なる戦略と戦術で闘っているのだ。
興味深い点は、彼女にはもはや、いかなる誰かにも、いかなる何かを証明しなくてはならぬ必要などないということだ。
既に彼女は2010年冬季五輪で銀メダルを獲得し、2008年と2010年には二度の世界チャンピオンの称号も手中にし、2008年と2010年は四大陸選手権で優勝、グランプリファイナルも2005–2006シーズン、2008–2009シーズンと二度制しており、2005年は世界ジュニアチャンピオン、2004–2005シーズンのジュニアグランプリファイナル優勝、そして全日本選手権は五度の優勝(2006~2009, 2011)を経験しているのだ。
しかしだからこそ、このフィギュア選手ならではの特異性があり、未来のため、その展望のためにやるべき努力が彼女には課せられている。ファンが望む望まぬに関わらず、彼女はこの先、女子シングルスケートがさらに困難さを増すことを理解している。エリザベータ・トゥクタミシェワ、アデリーナ・ソトニコワ、グレイシー・ゴールドといったジュニア世代のスター選手陣が大舞台に姿を現す場合になれば、来シーズンは早くも状況が変化するだろう。
こうしたジュニアの選手たちが、たとえば連続三回転のような大技も抜きで、主要な国際大会で勝つことなどありえない。これも非常に高難度な技であることは確かなのだけれど、悲しいかな、もっと平易な三回転‐二回転‐二回転のジャンプよりも基礎点が低いということは否めないのだが。ともあれ、彼女たちはプログラムの充実に余念がないだろうし、無論真央もそんなことは重々承知だ。これこそ未来のため、払うべき努力なのだ。
この日本のフィギュアスケーターが求めているのは、単純な勝利なのではなく、有無を言わさぬ勝利なのだ。ライバルたちにつけ入る隙ひとつ与えず、誰もが首を傾げる余地のない勝利。
今シーズンの彼女は、このゴールに向けて着実な実績を重ねてきた。真央は現在の女子スケート技術が到達した、あらゆる複雑な技巧すべてに通暁している。その中で唯一不安定な側面を残しているのがトリプルアクセルなのだが、そこにも進化の兆しは見えている。
ニースで披露したフリープログラムの中で、彼女がトリプルアクセルを成功させる可能性はあったけれど、私個人の意見では、力み過ぎていたのが失敗の原因と考えている。しかし徒労に過ぎなかったことは何ひとつない。彼女はあらゆる失敗について深慮し、懸命な練習で改善に取り組み、望みどおりの成果につなげていくだろうことは疑うべくもないのだ。
こうした歩みは、古代ローマの勝利に比較してみることができるだろう。
ローマが大抵の場合、あらゆる初陣で敗北を喫していたことを、歴史に詳しい人ならば熟知しているはずだ。しかし彼らは、敗戦から多くのことを学び、敵を知り、改善に努力を重ね、ついには真に重大で、最も重要な戦いにおいて驚異的な勝利をおさめ、制覇を成し遂げたのだ。こんな背景からすれば、中世の諸国がおさめた勝利などあまりにも慎ましやかに見えてくる。
浅田真央が、ほかの多くの選手たちとの間に一線を画す要素は以上のことがすべてだ。彼女は毎年開催される世界選手権の勝利を放棄する余裕があるのだ。しかし彼女が勝利する時、その栄光は途方もなく偉大な足跡を刻むだろう。
※※※※※
さて、この記事を書いている今は、国別対抗戦とやらのお祭り騒ぎのイベント開催中だ。どうやら女子シングルの順位も決まって、高橋選手や鈴木選手といったベテラン勢の活躍が功を奏したようで日本チームの優勝が決まったらしい。
まさきつねは以前からこんな、誰に何の益があるのかよく分からない国際大会には懐疑的だが、結果は良いに越したことがないだろう。
アイス・ショーとしての見応えは充分だった。一方で、浅田選手も安藤選手もいない大会を、まるで今後のフィギュアスケートの未来像のシミュレーションであるかのように見せつけられた気持ちもどこかにある。
勿論、鈴木選手や村上選手に何ら問題があるわけではない。ましてや、男子選手やペア、アイスダンスの選手の演技も頑張りも、フィギュア・ファンにはたまらなく魅力的だったことは確かなのだ。
それでも何か、こころのどこかにある空虚感、日本チームの優勝ごときでは補えない寂しさをまさきつねは感じている。
限りなく遠く、限りなく何かを超えている、圧倒的な美しさ、ほかの何ものにも代えられない存在の永遠。
ベッドに座って、ぼんやりとテレビを観るともなく観ていた母が、リンクの六分間練習に励む女子選手たちの画面に切り替わったとき、ふいにひとことつぶやいた。
「真央ちゃんがいない…」
そう、今はまだ、あなたはここにいない。
まさきつねもその事実をもう一度、噛みしめる。
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いっぽんのその麦を
すべて苛酷な日のための
その証としなさい
植物であるまえに
炎であったから
穀物であるまえに
勇気であったから
上昇であるまえに
決意であったから
そうしてなによりも
収穫であるまえに
祈りであったから
天のほか ついに
指すものをもたぬ
無数の矢を
つがえたままで
ひきとめている
信じられないほどの
しずかな茎を
風が耐える位置で
記憶しなさい
(石原吉郎『麦』)
☆浅田真央(mao asada) 何をしていたのかなあ-凄く大切な事をしていたよ!☆
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