月船書林

フィギュアスケートの話題を中心に芸術を語る

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このろくでもないポップな、すばらしき世界

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いとしのプルーデンス 外へ遊びにこないか
いとしのプルーデンス 真新しい一日に挨拶おし
陽が昇り 空は青く澄んで
君みたいに美しい日だ
いとしのプルーデンス 外へ遊びにこないか

いとしのプルーデンス 目を開けて
いとしのプルーデンス 晴れた空をごらん
風はやさしく 小鳥はさえずる
君もこの世界の一部なんだ
いとしのプルーデンス さあ 目を開けて


Dear Prudence, won't you come out to play
Dear Prudence, greet the brand new day
The sun is up, the sky is blue
It's beautiful and so are you
Dear Prudence, won't you come out to play

Dear Prudence, open up your eyes
Dear Prudence, see the sunny skies
The wind is low, the birds will sing
That you are part of everything
Dear Prudence, won't you open up your eyes
(ビートルズ『ディア・プルーデンス』)

☆Dear Prudence (Across The Universe)☆

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まだまだ続く浅田選手のCM画像のご紹介。

まずは比較的新しい、ウィダーINゼリーのCMからキャプチャーの画像を中心に。

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☆ストレッチ浅田真央篇☆


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この前の伊藤ハムやロッテとは随分印象が違う、運動選手たちの特色を生かして、ポップな色彩と溌剌した動きがいかにもさわやかなコマーシャルに仕上がっている。

ともにウィダーのサポートプロジェクトを受ける、テニスプレイヤーの錦織圭とのダブルキャストというのも、人気実力どれをとっても世界トップクラスの選手同士の名を連ねたなかなかの配役だと思うが、何よりもふたりのずば抜けた身体能力を根底に、ストレッチトレーニングをストレートなテーマにしているのが、好感度の高い作品となった決め手だろう。
実際、身体的効果をしっかり監修したストレッチの内容は、アスリートならずとも興味をいだく質の高さのようだ。

ストレッチ体操や身体トレーニングの分野についてはまさきつねは門外漢なので、このたびはポップでキュートな印象と色彩に触発されて、現代アートの話題を少し語ることにする。

…とはいえ現代アートを本気で語り始めたら、古典芸術の話題以上に哲学的で形而上学的な理論があれやこれやと出てきて、概念だ教義だとまたぞろつまらない話を並べなくてはいけなくなるので、現代アートの芸術運動の中でもかなり幅を狭めて、大量生産及び大量消費社会の時代変化を背景にして出現、台頭したポップ・アート(pop art)、さらにその中でもその発祥の中心的グループにいたリチャード・ハミルトンに的を絞って話を進めることとしよう。

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さて、大方の人がポップ・アートから連想されるのは、美術の教科書にも掲載され、日本の公立美術館コレクションでもお馴染みの、アンディ・ウォーホルやロイ・リキテンスタインといったアメリカ出身のドル箱スター作家たちによる代表作だろう。

ウォーホルのマリリン・モンローやリキテンスタインのアメリカン・コミックスをテーマにした作品などは、それ自体、美術館のホールにかけられたものよりもTシャツの図案などでご覧になった人の方が、今や一般的かも知れない。

だが、「ポップ・アート」という名称の発祥となり(発祥元に関する説は諸説あるのだが)、どの国にも先駆けてこの前衛芸術運動を盛んにしたのはアメリカではなく、イギリス、ロンドンのICA(現代美術研究所Institute of Contemporary Arts)というギャラリーを中心に活躍していたインディーズな若手作家たちのグループである。

第二次世界大戦後の疲弊したイギリスに、豊かな戦勝国アメリカから急速に浸透して、若者たちを熱狂の渦に巻き込んでいた映画や漫画、空想科学小説といった大衆文化、あるいはリッチでセンセーショナルな広告や商業デザインなど、こうしたポピュラーな素材を皮肉りつつも、一方で現代世相を見直す美術的モティーフとして見直そうという動きや研究が1952年頃から、ICA周辺の作家たちの間で進められていた。

一説にポップ・アートは、グループのひとりである評論家ローレンス・アロウェイが1956年に、商業デザインを指して「ポピュラーなアート」と位置付けたのに始まる(語源に「ポップコーン」の音を立てて弾けるイメージなどを当てる場合もあるが、どれも定かではないニャ)。

同じ年、ロンドンのホワイトチャペル画廊で企画された展覧会「これが明日だ」(This is Tomorrow)で発表されたリチャード・ハミルトンのコラージュによる作品『一体なにが今日の家庭をこれほどまでに変化させ、魅力的にしているかJust what is it that makes today´s homes so different, so appealing?』は、雑誌や広告からモデル写真や商品を切り貼りしたもので、特にボディビルダーの男性が小脇にかかえたロリポップキャンディーの包み紙にある「POP」の文字が鮮烈なインパクトを与えた。

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作品はご覧の通り、ある室内を舞台とし、右側に裸の女性と中央にボディビルで鍛えた身体を誇示する男性を配置し、左手階段には電気掃除機を使う女性が奇妙な縮尺で置かれ、部屋中に最新の電気器具が所狭しと散りばめられており、壁にはポスターや肖像画が掛けられて、さながらモダンでスタイリッシュな中流家庭のロールモデルといった様相である。

ハミルトンはこの作品について「これは、今日の社会への冷笑的なコメントではありません。私の目的は、日常的な事物と日常的な生き方の叙事詩とは何かを探究することにある」と述べているが、この発言は彼の作品に過剰なほど盛り込まれた、進歩した現代文明を暗示する情報や裕福な家庭の象徴的アイコンが、現代社会の虚構性を揶揄し、批判するようなメッセージ、もしくは警鐘であるかのように鑑賞者に受けとめられかねないという誤解に対する警戒を踏まえたものである。

彼はまた翌年、「ポップ(大衆文化)」について、「『うけ』がよく(大衆向き)Popular(designed for a mass audience)すぐ消えて(短期間でおしまい)Transient(short term solutions)使い捨てで(カンタンに忘れられる)Expendable(easily forgettable)金がかからないLow Cost大量生産されたものでMass Producedガキくさい(若者をターゲットに)Young(aimed at Youth)おしゃれでWittyセクシーでSexyちょっとした『いかさま』もあるGimmickly魅力的なGlamorous『金もうけ』のことである。Big Business」と十一の項目で定義づけた。

これらはどれも、それまでの既存の美術いわゆるファイン・アートにおいて、逆の方向性が常に道義とされてきたことなのだが、ハミルトンはあえて正反対の概念を美術領域にぶつけることで、いつまでも新しい価値観を受け入れようとせず既存の典型的な美意識に重きを置く、厳然としてある美術界のヒエラルキーに揺さぶりをかけるアプローチに出たということなのだろう。

ハミルトンは後にポップ・アートのパイオニアとして現代美術史上に位置付けられ、2008年に第20回高松宮殿下記念世界文化賞(絵画部門)を受賞しているが、その際のインタビューでも「…もしかしたら、ハリウッド映画やポピュラー・ミュージックに、ファイン・アートとされるものにも増して、知的で刺激的なものがあるのかもしれない。そうして、ポップ・カルチャー、サブ・カルチャーを研究、調査することになり、それをファイン・アートというものとポップ・カルチャーとを連携することで、現実に対する新たな芸術的アプローチの方法を追求していったわけです」と語っている。

彼はまた、この質疑応答の中で「今日のサブ・カルチャーには全く関心がない」と答え、キリスト教美術における神話性と同意義で「ポップ」という言葉を同じように冠しても、カルチャーとアートは本来まったく別物で、今日までこの誤解を生んでしまった弊害はそもそも「ポップ・アート」なる名称が固定してしまったことにあると自らの美術史上のキャリアを、反省の意を込めて振り返っている。

つまるところ、ハミルトンにとってポップ・アートとは、大衆文化の卑俗で商業主義に侵された価値観や美意識をずるずると受容したものでも、またその逆に、大衆消費社会やその根底にある営利主義や合理的な生活様式を、問答無用に批判するものでもなかった。

彼はポップ・アートの真価を、現代社会の真相へ迫る革新的で芸術的な手段ととらえており、現実的な不安に充たされたこの世界で既成の概念を打ち破り、空虚なものを打ち払っていく芸術の前衛的な役割を深く理解していた。

最新の科学技術に支えられ、モダンでポップな文化と成熟した経済活動で充足した豊かな世界の裏に、果てしなく広がる空虚と絶望に気づいていたからこそ、彼はポップ・アートの先駆者たり得たし、ポップ・アートが暴いた大衆文化の本質を通じて、現実の果ての虚無感に光をかざすものの存在をどこかに探り当てようとしていたのだ。

ハミルトンの遺した著名な仕事のひとつに、1968年にリリースされたザ・ビートルズの『ホワイト・アルバム』のジャケットとアルバム封入のコラージュ・アートによるポスターがあるが、「The BEATLES」の文字だけエンボス加工された真っ白のカバーと乱雑に集められた写真の混沌が、いかにハミルトンの芸術に対峙する姿勢を暗示していたか、今にしてみれば察知できる気がする。

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ハミルトンは芸術と文化の間の距離感を認識しているが、ポップ・アートと古典的な美術の間にいかなるヒエラルキーも認めていない。
それゆえ晩年間近になった彼は、天使を描くといったオーソドックスな方法で典型的な美の価値へ回帰をはかったりしているが、要するに彼にとって真の芸術はいついかなる時代においても、常にその時代の前衛であり、その時代の社会世相を反映するものだったということなのだろう。

さて、少しのつもりがまたしても長々と語ってしまったポップ・アートであるが、まさきつねもまた芸術という領域において「文化」とは一線を画しつつ、その前衛性や反逆精神を失わないムーブメントを、どの時代においても支持する。

ハミルトンの言う、大衆文化を逆手に取った大衆アートの実験精神、何やら胡乱臭い現実に対する、きわめてポップで明るくラジカルな芸術運動のアプローチを評価したいと思う。

このブログでも繰り返し語ってきたことではあるが、芸術は決して画一化、均質化されたものではなく、多面的な要素を持ち、おそろしく複雑で謎めいた創造活動である。

ファインであれポップであれ、ハミルトンの「ポップな文化の定義」さえのみこんで、時に俗悪(キッチュ)な顔も剥き出しにして時の彼方で美しく微笑んでいるアートなるものは畢竟、通俗的でもなく一過性でも消耗品でもなく、安価でもなければ大量に生産されてもいないし、若者受けもせず、しゃれてセクシーでもなければ、みせかけの魅力もない上に金儲けもできない代物ということなのだ。

全てがコインの裏と表のようだが、ポップ・アートが垣間見せたのは、すべてが受け流され消費されてしまう世界の中で、決して消耗することなく引き継がれ、時にラジカルで過激な側面を見せながら最後には本流に流れ込み、いきすぎた文化の鍍金が剥がれた後でその再生をはかる芸術の役割だったのだろう。

すべてが破壊され、解体された後、突きつけられた幻想を噛みしめる空虚の中から甦り、明日へつながる創造をめざす生命、そのわずかな光が芸術であり、希望だ。

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(リチャード・ハミルトン『自画像』1967年)

そしてここでまた、本筋の浅田選手のコマーシャル画像へ話を戻したいと思うが、そのまっすぐな姿勢を示す、彼女のもうひとつのCMがイメージキャラクターを務めているARSOAだろう。

(誤解のないように言っておくが、まさきつねは別に浅田選手がコマーシャルをしている商品を、ブログを通じておすすめしている訳ではない。ここではあくまでも、イメージとして消費されている芸術を語っているので、経済活動として消費される広告や商法を請け負っている訳ではないので、その旨ご了承を)

☆浅田真央(mao asada) アルソア (フルバージョン HD画質)☆


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東北大震災、そしてその後の福島原発事故など一連の世相を見ていて、誰もがどうしても思い出さずにいられなかったのが、田中正造の「真の文明ハ 山を荒さず 川を荒さず 村を破らず 人を殺さゞるべしTrue civilization is not to despoil mountains, not to ruin rivers, not to destroy villages, and not to kill people.」という名言だったと思うが、この「文明」は「科学」でも「文化」でも「芸術」でも、「美」でも、たとえどんな言葉に置き換えて読んでも誤りではないと思う。

人の手が時間をかけて紡ぎだし、そして息づくものはどれもすべて、自分を生かし、他者を生かし、自然を生かすものへ帰結しなければならない。

彫刻家の長澤英俊さんの、「自然」と「芸術」に関して述べた言葉がまさきつねはずっと心に残っている。

「自然の中では大きな岩が半分に割れてもやっぱり岩だと。だけど我々がつくったこういう茶碗なんかを落として割れたら茶碗ではなくなりますよね。では『彫刻』というのは一体何なんだろうと、『彫刻』というのは本当に壊れて半分になっても『彫刻』でなければいけないのではないかと。要するに、自然だとは言わない、もう一つの自然をつくることなのではないか…」

ミロのヴィーナスは両腕が欠け、造型が損なわれたがその美は損なわれることはなかった。自然がありのままで美しいように、もう一つの「自然」として生まれた真の美や芸術もまた、ありのままで美しいものなのだ。

ファイン・アートもポップ・アートも、薄汚れた人間や社会が政治だか経済だかのために、べたべたと貼り付けた鍍金やラベルが、時間や本質を見抜く目によって剥がされた後、その真髄だけが自然の美と同じ美しさで再生され、その価値が伝えられていく。

山を荒さず、川を荒さず、村を破らず、人を殺さずに、もう一つの自然を創造する力だけが、ポップで明るい未来を拓いていく希望となるからだ。

ろくでもないこの世界のどこかに、素晴らしく美しいものがある、その楽天的な祈りだけが、あなたを愛しているポップ(大衆)の夢となるからだ。


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緑深める樹々、真紅に咲く薔薇も
僕ときみのためにあるようだね
だから僕は思うんだ「世界はなんて素晴らしいんだろう」と

青く澄み渡る空、白い雲が行き
この輝ける祝福の日、神聖なる夜も
だから僕は思うんだ「世界はなんて素晴らしいんだろう」と

I see trees of green, red roses too
I see them bloom for me and you
And I think to myself, what a wonderful world

I see skies of blue, and clouds of white
The bright blessed day, dark sacred night
And I think to myself, what a wonderful world
(ジョージ・デヴィッド・ワイス『この素晴らしき世界』)

☆Louis Armstrong - What a wonderful world☆


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