月船書林

フィギュアスケートの話題を中心に芸術を語る

悲しみのメゾン、存在の消えない美しさ 其の壱

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悲しみよ さようなら
悲しみよ こんにちは
お前は天井の筋の上にも書き込まれている
お前は恋人の目の中にも書き込まれている
お前はどんなときも惨めじゃない
どんな貧しい人でも微笑みながら
おまえの名を口にするのだから
悲しみよ こんにちは
愛しいのは体を重ねて確かめる愛
何よりも力強い愛
愛は突然 姿のない亡霊のように
あふれてくる
望みを失った
悲しみよ その美しい顔よ
(ポール・エリュアール『少ししかめつらの』)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


突然だが、久々にモードの話をしよう。


少し前の記事で取り上げたスルヤ・ボナリー選手の懐かしい名前とともに、まさきつねが偏愛するファッソン・デザイナーのことを思い出したからである。

ボナリー選手が競技生活の間中、身に付けていた衣装のほとんどをデザインしていたのがクリスチャン・ラクロワ(Christian Lacroix)である。

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ボナリー選手の衣装も、彼女の黒い滑らかな肌をまるで美しい天鵞絨のように魅せて、色鮮やかでデコラティヴなファッションが常に印象的だったが、ほかのデザイナーの追随を許さない、モード・テクニックと丹念なクチュールの繊細な仕上げがラクロワの真骨頂である。

以下、ファッションプレスからラクロワの略歴をまず紹介しよう。


*****

クリスチャン ラクロワ(Christian Lacroix)は1951年、フランスの南部アルルに生まれる。南部の文化(ジプシーの伝統・闘牛士)は装飾的なラクロワのスタイルに影響を与える。モ ンペリエ大学卒業。73年美術館の学芸員になるためにパリへ移り住む。そこでソルボンヌ大学、エコール・デュ・ルーブルを卒業。

未来の妻となるフランソワーズの勧めでファッションの道に進む。78年、エルメスに入社し、当初はアクセサリーのデザインを手掛ける。80年、ギ・ポランのアシスタントに就任。81年、ジャン パトゥのオートクチュールのチーフデザイナーに就任。

ジャン パトゥでの活躍が認められて、87年、CFDA(The Council of Fashion Designers of America)の最優秀外国人デザイナー賞を受賞。また同年、86年に発表したカクテルドレスのコレクションが認められ「デ・ドール賞」というオートク チュールの賞を受賞。

クリスチャン ディオールを傘下に抱えたアガッシュ(後にLVMHを買収)を率いるベルナール・アルノーにその才能を惚れ込まれ、出資を受けることになる。これがきっかけとなり、87年、自身の名を冠したブランド「クリス チャン ラクロワ」の設立にいたる。ベルナール・アルノーは「ラクロアのスケッチを見たとき、天才だと思った」と語っている。

87年、ベルナール・アルノーが、イヴ・サンローラン以来となるオートクチュールのメゾンをクリスチャン ラクロワのために開設。同年7月、オートクチュール・コレクションを発表し、「金の指貫き賞(デ・ドール賞)」を受賞。

87年、自身の名を冠にしたブランドでパリ・プレタポルテコレクションを発表。90年、初めての香水「セラヴィ」を発表。 94年に「バザール」、96年に「ジーンズ・ド・クリスチャン ラクロワ」をスタート。 2002年から2005年まで、エミリオ プッチのアーティスティック・ディレクターを務める。

クリスチャン・ラクロアのブランド自体は決して成功しているとは言えない。そのファッションは見るものを魅了し、ベルナール・アルノーも惚れ込んでいるが、ラクロアブランドはその投資に見合った売上を上げていない。

アルノーは「ラクロアを通じてクリスチャン ディオールやシャネルのようなブランドを1から築き上げていくのは難しく、偉大な才能だけではファッションブランドは成功しないことが分かりました。ブランドには伝統が必要なのです。」と語っている。

2005年、LVMHがラクロアを売却し、傘下から外れる。2008年、ミネラルウォーター「エビアン」の限定ボトルをデザインして話題となる。

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ラクロワの会社は1987年の設立以来、22年間1度も利益を出したことがなく、累計赤字の概算は1億5000億ユーロ(197億円)にのぼり、結局2009年に経営破綻して破産宣告を受けている。
要するにファッション・ビジネス家としてはまったくの無能であったということに尽きるのだが、その反面、デザインやファッション・クリエーションに一切の妥協をしなかった彼のデザイナーとしての姿勢は、いっそ潔いものだったと思う。

ゴルチエやガリアーノなど、現在も活躍中で彼同様に奇抜で才気あふれるデザイナーはほかにもいると思うが、ラクロワのオートクチュールはもっとも先駆的にアートの領域に達していた。
彼のプレタポルテもオートクチュール同様、身に付ける人間の強いアイデンティティを要求するが、ファッションが人の生き方に提言を与えるという衝撃は、彼以前のラグジュアリーブランドにはなかったものだったからだ。

民族的な特徴を重んじて、フォークロアの感覚を取り入れたのも彼が初めてで、ダサさやキモさの一歩手前でハイ・ファッションに昇華させたそのセンスの鋭さは、今なおほかのデザイナーに卓越している。

ボナリー選手の衣装を手がけたのもラクロワらしい嗅覚で、彼女の黒く燃え立つ炎のような美しさをきらきらしたクチュール・デザインで惹きたてたいと考えたのだろう。
氷上のランウェイを豪華な衣装でジャンプやスピンをしながら駆け抜けていくボナリー選手は、さながらラクロワが氷の上にばらまいた宝石といった風情だった。

ラクロワがアルベールビル五輪のためにデザインした衣装のスケッチが残っている。

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モンタナに始まるビッグ・ショルダーとマスキュランなスタイルが人気の時代だったからか、闘牛士をイメージした上半身の装飾が目を引くが、一方で下半身にはジャンプなどの動きを考えてか重量感のないシルエットで個性的にまとめているのが、いかにも巧い。派手な色彩であっても、決して下衆にならず、ボナリーの特長も生かしているのが、ラクロワの秀逸なセンスを感じさせるのだ。

ちなみにこの五輪のSP公式練習の間で、ボナリー選手が伊藤みどり選手のすぐ近くでバックフリップを跳び、ISUから注意を受けるというハプニングがあった。

今も昔も問題になる公式練習での妨害行為だが、試合のことで頭も身体もいっぱいになっている選手たち同士、多少のアクシデントは起きても仕方がない状況ということだろう。少なくとも、自国開催でいろいろ舞い上がっていただろう若いボナリー選手が、(絶対やってはいけないことではあるが)とんぼ返りをしてしまったのには、それほど伊藤選手へ直接の悪意や牽制の意味があったとは思えない。

伊藤選手のジャンプにあこがれてフィギュア・スケーターを目指したというボナリー選手の経緯からも、また、当時まだ根強い西洋人至上主義の風潮の中で、お互い人種差別的な採点傾向を嗅ぎ取っていただろう同胞意識からも、単にメダル欲しさだけでやみくもに威嚇行為に走ったとは考えられないからである(…とまさきつねは思うが、見解の相違はそれぞれなので、その旨ご理解されたし)。

なおボナリー選手は、1996-1997年シーズンまでフランス選手権では九連覇と国内では向かうところ敵なしだったけれど、実際の最盛期は1994年のリレハンメル五輪を挟んで、世界選手権で三度の銀メダルを獲得した頃だろう。

1993年のワールドは、誰もがそのバレエ的な演技力で評価するオクサナ・バイウル選手が芸術点で差をつけ、優勝をさらっていった。基礎的なスケーティング・スキルの差、表現力の差といわれればそれはその通りなのだが、それでも、その欠点を補うような力強いダイナミックさ、溌剌と弾むような躍動感はボナリー独特の演技表現だったし、さらに難度が高いジャンプ構成からすると、逆に技術点でバイウル選手にもっと差をつけても良かったのではという印象だった。

1994年のワールドは例の表彰台拒否事件が起こった大会だが、これも見解が分かれるところで、事実当時もジャッジの席字数は接戦だった。
今は概ね、その後の採点傾向の流れからも、金メダルになった佐藤選手の滑らかな滑りに軍配を上げる意見が大多数だろうが、当時開催国が違っていたら違う結果だったかも知れないことは充分考慮できる。つまりこの大会は両者の純粋な実力よりも、両者に吹いていた風向きと運が左右した気がする。

ただ確かにこの年、もうどうあがいても表現力で点数は望めないと思ったのか、ボナリー選手はとにかく三回転ジャンプを詰め込むだけ詰め込んだ構成に勝負をかけ、両足着氷や回転不足、お手つきといった細部のミスに加え、スケーティングの粗さとお座なりなトランジションがかなり目立つ演技になってしまっていた。
彼女の競技者としてのピークは実質過ぎていたのだろうし、リレハンメル五輪のメダリストたちが欠場している中で、今回だけは絶対優勝を逃したくないという焦りもあったかも知れない。

いずれにしてももっとも悔しい結果が、ボナリー選手をさらに孤立無援の状況に追いやる行動へ追いつめたのだから、あまりにもすべてが彼女にとって向かい風になっていたのは、同情に値する点がなきにしもあらずだろう。

そして翌1995年のワールドは、前年の選手権では足の骨折で途中棄権を余儀なくされていた陳露選手が、ショート三位からのフリー演技で、ショート四位のボナリー選手を振り切る形で優勝。
ボナリー選手は、五種類の三回転ジャンプを七回跳びほぼノーミス、しかもそのうち三回転ジャンプのコンビネーションを二回成功させて、驚異の追い上げを見せたのにも関わらず、今一歩及ばずという結果だった。

この頃には課題の表現力にも磨きをかけ、芸術点でも5.7以上が並ぶほど個性的な演技が円熟し始めていたのだが、時代がすでに彼女を見放していたのかも知れない。

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ここで唐突だが、以下、田村明子さんの著書『氷上の光と影 知られざるフィギュアスケート』から、ボナリー選手に関する解説を一部引用しよう。


*****

 元体操選手だったボナリーは、本来エッジを使って跳ぶジャンプの基礎を無視して、フラットなエッジの状態のまま跳ぶ。
 それでもちゃんと3回転空中で回って降りてくる彼女の運動能力に、ジャッジたちは舌を巻いていた。
 試合では成功していないが、4回転サルコウにも挑戦していたほどである。
「私にとって、3回転ジャンプなんて簡単なの」と言い切ったボナリーだが、毎回技術点は高いものの、演技点で著しく下げられた。
 そのボナリーが1994年に世界タイトルを争った相手が、佐藤有香だった。
 フリーでは佐藤が3回転を6回、ノーミスで降りた。
 ボナリーは3回転を7回やり、1度は片手をついたもののコンビネーションジャンプが3回入っていた。
 ジャンプの難易度としてはボナリーの方が上である。
 だが滑りの質は、比べ物にならないほど佐藤のほうが高かった。
 上半身がほとんど揺れずに、水の流れに浮かんで移動していくような佐藤のスケーティングと、膝を曲げたままガリガリと蹴って進んでいくボナリーの滑りは、実に対照的だった。
 それでも判定は接戦だった。
 9人のジャッジが5対4に割れ、佐藤有香が世界チャンピオンになった。
 ボナリーは表彰式で2位の台の上に上がることを拒否し、なだめられてようやく上がったが、首にかけられた銀メダルを泣きながらはずした。
「ほかの人と同じように滑っているつもりなのに、なぜ評価してもらえないのかわからない。 私が黒人だからなのかしら」
 記者会見でそう言ったボナリーは、おそらく本当に自分の滑りの欠点がわかっていなかったのではないだろうか。
 何人ものコーチにつきながらも長続きせず、結局スケートのコーチではない彼女の養母が指導していた。
 これもボナリーが関係者たちから非難された一因だった。
 彼女は世界選手権銀メダルを3回獲得しながらも、ついに世界チャンピオンにはなれなかった。
 その4年後の1998年長野五輪のフリー演技中、ボナリーは後方宙返りをしてみせた。
 ISU競技では禁止されているアクロバット技である。
 アマチュア最後の大会で、彼女がフィギュアスケートでは許されない技を見せつけたのは、象徴的なできごとだった。
 あれほどの運動能力を持ちながら、ボナリーは最後まで、「skater's skater」にはなれなかったのだ。

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田村さんの著書にある通り、フィギュア・ファン誰もが覚えている事件だが、1998年の長野五輪で、バックフリップの禁止技を自らの花道を飾るように披露して、ボナリー選手は競技者としての現役を引退した。

この五輪の一件は賛否両論というよりも、「あくまでも競技会の規定の中で、勝負して欲しかった」というNHKアナウンサーの場内実況が当時も今も大方の意見だろうと思うが、失敗続きのフリー演技の内容からもはや、表彰台はおろかエキシビションへの出場すら望めない自己の順位を得心したボナリー選手にとって、今の自分の精一杯を彼女なりに表現したのが、あのバックフリップだったのだろうという気がする。

彼女にとってもはや一番大事に思われたのは、自分の演技を何の偏見もなく、ただ純粋に賛美してくれる観客やファンであり、その証に彼女は演技の最後を採点をするジャッジに向かってではなく、拍手喝采する観客席に向けて締めくくった。

エキシビションでは許されるが「競技会ではやってはいけない」自分の得意技を、ジャッジにではなく、自分を応援してくれる家族や友人そしてファンや観衆に、最後の檜舞台で見せておきたかったのだろうと痛切に思う。

田村さんの記述では、ボナリー選手の悲運はあくまでも人種差別や偏見からの冷遇によるものではなく、彼女の基礎的なスケーティング・スキルの稚拙さと、彼女の養母らを始め周囲の人間関係での不協和音にあるという論調だが、それはどうしたって、公式の競技関係者が組織的なレイシズムや差別待遇を自ら認めるわけにはいかないだろうから、当然のことだろう。

だが、まさきつねはやはり多少なりともあの当時、ボナリー選手及び日本選手ら、人種的なマイノリティへの蔑視や偏向採点はあったと思う。

ボナリー選手がついに「世界チャンピオン」そして「skater's skater」とやらになれなかったという田村さんの突き放したような物言いこそ、どこか人間の本性に内在する冷酷さ、偏見を捨てきれない歪みを理解していないと思う。

(田村さんには申し訳ないが、さまざまな場所あらゆる場面において差別偏見がないというあたり障りのない意見、ましてや差別とか言う人間の方が差別的だなどという頓珍漢な反証は、まさきつねには「この学校にはいじめなんてありません」とか澄まして言っているどこかの教育関係者や「いじめられた方にも問題がある」などと平気で口にする人間と同等に思える。)

スター選手たちは一見華やかなスポットライトが当たる舞台にいるが、その反面、常に大衆からの悪意や中傷、妬みや当て擦りや冷笑に曝されているのだ。そしてスターといえど、か弱い個人の存在は、常に組織的な機構や権力的な体制に支配され、圧力を受けねばならぬ立場にあるのだ。

その状況は現在のフィギュア競技でも、まったく変わっていない。

テレビ番組「マツコ&有吉の怒り新党」ではボナリー選手の「もう(低い採点には)慣れたし、泣き疲れた」というコメントが紹介されていたが、今の日本の選手たちだってもう何度も、ボナリー選手と同じような忸怩たる思いを抱えてきただろう。

もういい加減、ジャッジは絶対だなどという神話は、教育は聖職だというのと同様、なんでも綺麗事で表層的に済ませておきたい人間たちの幻想にすぎないと誰もが気づいておいた方が好い。

この世の中には、絶対なものもなければ、正しいものばかりでもないのだ。

選手たちはとっくにそんなことに気づいていて、それでもけなげに、努力を惜しまず練習を重ね、応援してくれる人々のために冷たい氷の上に立ち続けている。

ボナリー選手の友人だったキャンデロロが、昔も今も、浅田選手の演技を心底愛する理由も分かるというものだろう。

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…とうとう今回も、ラクロワを離れてまたもやいつのまにかボナリー選手について、長々と語ってしまった。最近のまさきつねは、本題を離れて別の話に頭を突っ込み過ぎてしまう傾向がある(反省だニャ)。
今更ながらだがラクロワに戻って、彼の作品の独特な素晴らしさと、経営破綻後の彼の動向について語っておこう。

まず、ラクロワも参加の作品で皆さまにご紹介しておきたいのが、2003年のエディトリアルで若干古いのだけれど、ロシア出身のスーパー・モデル、ナタリア・ヴォディアノヴァと女性フォトグラファー、アニー・リーボヴィッツによる『不思議の国のアリス』の世界である。

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"Alice In Wonderland"

Photograper:Annie Leibovitz
Model:Natalia Vodianova
Magazine:US Vogue
Date:December 2003
Hair:Julien DY's
Makeup:Gucci Westman
Editor:Grace Coddington

Designers:
Olivier Theyskens
Tom Ford
Marc Jacobs
Karl Lagerfeld
Jean Paul Gaultier
Victor & Rolf
Stephen Jones
Christian Lacroix
John Galiano
Donatella Versace
Nicolas Ghesquiere
And Alexis Roches,Rupert Everett


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『Curious And Curiouser』
オリヴィエ・ティスケンスのドレスを着るアリスとルイス・キャロル演じるオリヴィエ

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『Down The Rabbit Hole』
トム・フォード(イヴ・サン=ローラン)の青いシルクサテンのドレスを着るアリスと白兎演じるトム

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『Drink Me』
ヘルムート・ラングのドレスを着るアリスと額の中の絵になってアリスを見つめるヘルムート

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『Advice From a Caterpillar』
マーク・ジェイコブスのシフォンミニドレスを着るアリスと芋虫を演じるマーク・ジェイコブス

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『Pig and Pepper』
カール・ラガーフェルド(シャネル)のサテンジャケットとスカート、レザーブーツパンツを着るアリスとラガーフェルド

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『The Cheshier Cat』
ジャン・ポール・ゴルチエの青いシルクジャージーのドレスを着るアリスとチェシャ猫演じるゴルチエ

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『Tweedledum and Tweedledee』
ヴィクター&ロルフのコートドレスを着るアリスとトウィードルダム&トウィードルディーを演じるヴィクター&ロルフ

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『The Mad Tea Party』
クリスチャン・ラクロワのドレスを着るアリスと帽子屋演じるステファン・ジョーンズ、三月ウサギ演じるラクロワ

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『Who Stole The Tarts?』
ジョン・ガリアーノのドレスを着るアリスとガリアーノ演じるハートの女王。ハートの王はガリアーノのボーイフレンド

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『The Mock Turtle's Story』
グリフォン演じるドナテラ・ヴェルサーチと、俳優ルパート・エヴェレットが演じる海ガメ

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『Through The Looking Glass』
ニコラ・ゲスキエールのミニドレスを着るアリスとアリスの愛猫ダイナ演じるニコラ・ゲスキエール


どれも、それぞれのデザイナーの個性を巧く生かした、豪華な写真だ。

撮影費用に糸目を付けず、贅の限りを尽くしたという作りだが、それだけでなく、写真家の卓抜したセンスや、モデルになった面々の何ともふてぶてしい強烈な個性に寄るところが大きいと思う。

(ちなみにフォトグラファーのアニ・リーボヴィッツは、このところちょこちょこと、まさきつねがブログに挟んできたザ・ビートルズに関連していて、ジョン・レノンが非業の最期を遂げた日、1980年12月8日の朝に彼の最後の公式写真となった、あの有名なローリング・ストーン誌のジャケットを撮影している。彼女の人生を振り返った映画もあったが、ドキュメンタリーとして生々しさがあり面白い。)

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☆アニー・リーボヴィッツ レンズの向こうの人生☆

この作品の中でも、気ちがい帽子屋(マッド・ハッター)の役を振り分けられたステファン・ジョーンズは天才的な帽子デザイナーで、頭に原作通りプライスカードを載せているのも洒落が効いている。
双子役のヴィクター&ロルフ、チェシャ猫にゴルチエ、女王にガリアーノというのも、これ以上のはまり役はないだろう。
ラガーフェルドは当初、白兎を提案されたそうだが、「私は私だ」と役に付くのを拒否された(さすがカールさま!)というエピソードもさもあらんというところだ。

こうしてみると、何もかもがさすがという話ではあるが、まさにモード界は個性派揃いの曲者ばかりということになるのだろう。しかしその作品も、各々全く違う傾向のデザインでありながら、全体の世界観が決してばらばらにならず、アリスのフォト・ストーリーとして成立している。
つまり各人の才能が、まったく異なる個性と表現をもっていながら、どれもが引けを取らず拮抗しているという証なのだ。

ラクロワのメゾンも憂き目を見たが、彼の才能が枯渇していない限り、何度だって「浮かぶ瀬もあれ」という気がする。

現に家具のデザインだの、シーバス・リーガルとのコラボだの、パリのブティック・ホテルの監修だのとますます活躍の場を広げ、そしてどれもが彼らしい独特の臭みと艶っぽさを充分に感じさせる極上の出来に仕上がっている。

事業で失敗したり、金の遣り繰りがうまくいかなかったり、結局はどこでもある話だ。
だが畢竟、芸術家は自分のクリエイトした作品、自分の才能ひとつが勝負であり、それだけが拠りどころなのだ。

彼のメゾンは倒産したが、彼の名前も作品も業界から決して消えることなく、その個性は健在で、パリの街中、東京、ミラノ、ロンドンとあらゆるファッション・シーンで今も輝きを放ち続けている。


スポーツ競技だって、自分の本業はさておいて、どんなマーケティング・ビジネスに走ろうが、政治に首を突っ込もうが、それは各人の勝手だが、観客は必ずその選手の生きざまも見ている。
その選手がどれほど死に物狂いで、競技に渾身を傾けてきたかそうでないかくらい、わかっている。

その演技の裏に隠された、選手たちの涙に暮れた人生、必死にもがいてきた朴訥な歩みを見透かしているのだ。

ボナリー選手が、「skater's skater」でなかったかそうでないか、彼女が当時闘った選手たちの誰よりも長く、地道で堅実なスケート人生を続けているという事実だけでも分かるというものだろう。

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『CHIVAS 12 Magnum by Christian Lacroix』
ラクロワによるシーバスリーガル、プレミアムボトル

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『SICIS NEXT ART “THEODORA”』
ベネツィアンモザイクブランド、シチスによる家具「NEXT ART(ネクスト・アート)」

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『Le Bellechasse ホテル、ル・ベルシャス』
(8 Rue Bellechasse Paris, France)Eiffel Tower/Musée D'Orsayの近く、34部屋



さて、最後に本文とは全く関連性がないが、読売新聞に浅田選手の独占インタビューが掲載されていたので、転載させていただく。
引退表明の報道から、これまで何となくファンが推察していたことが彼女の言葉になって、ソチへの抱負や心境がつづられている。


*****

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真央、ソチへ気持ち強く…「最高の演技に挑戦」
読売新聞 2013年4月20日11時09分


ソチ五輪が開かれる来季限りで現役を引退する意向を表明したフィギュアスケート女子の浅田真央(22)(中京大)が19日、読売新聞の単独インタビューに応じ、現在の心境と来季への抱負を語った。

――引退表明後に心境の変化はあったか。

「ソチ(五輪)に向けて、やる気も向かっていく気持ちも強くなった。ソチまで(そういう気持ちで)やるということを、皆さんに伝えられて良かった」

――「五輪の舞台で最高の演技をしたい」と語ったが、これまで最高の演技は。

「15歳の時にグランプリ(GP)ファイナルで優勝した時は『完璧だ』と思ったけど、今見返すと、滑りもスピンも完璧とはほど遠い。バンクーバー五輪のショートプログラム(SP)は良かった。滑りは年々向上しているので、最高の演技はまだしたことがない」

――どんな演技ができれば満足できるか。

「今取り組んでいる、トリプルアクセル(3回転半ジャンプ)と3回転―3回転の連続ジャンプを入れたレベルでミスなく滑れたら」

――他の誰も出来ない技に挑み続けている。

「(大技を)入れないで勝っても物足りなく感じたので、挑戦している。スケートは芸術性とスポーツ性、両方が必要で難しい。芸術面のほうがやっていて好きだけど、スポーツ選手として挑戦したい気持ちがあるので、トリプルアクセルをやらないと満足しない」

――ソチ五輪が開かれるロシアの印象は。

「何十回と訪れたので、第二のホームタウンみたい。ロシアでの五輪は、私に任せてという感じ」

――現役最後となる来季のプログラムの構想は。

「今季はSPもフリーも、すごく自分らしかったが、来季は違った感じの曲にしたい。SPはクラシックで、ショパンのような曲になると思う。フリーは、いろいろ探している最中」

――7月下旬のアイスショー「ザ・アイス2013」に出演する。

「新しいエキシビションをお披露目するので、皆さんの反応が楽しみ」
(聞き手・永井順子、若水浩)

***************


誰もが心配することだが、浅田選手は変わったのだろうか。
いや、彼女はこれまでも、これからも、その真っ直ぐな信念とフィギュア競技への情熱は変わらない。

さまざまな人生の紆余曲折の中で、気持ちが折れそうになったり、競技から離れたいと感じたり、誰もが思うような自暴自棄の感情だって時にいだいたこともあっただろう。生身の人間なら、それは当たり前だ。

理不尽な現実社会の仕打ちは、あどけない純粋な真央ちゃんですら、ただあっけらかんとしていられない、単純にこれとは割り切れない結果や選択を次々に突きつけ、幾度となく何故という疑問や、如何したらよいか分からない不審に涙を呑んだことだろう。

マスコミやアンチが無責任に垂れ流すうたい文句が煽るような、「彼女は終わった」とか「天才少女が平凡な選手になった」という情報操作は、彼らのいつもの常套手段とはいえ、真実から常にかけ離れた虚構がまことしやかに一般大衆の認識を誘導するのだから、たまったものではない。

実のところスポーツにも芸術にもさほど興味がない、自分の懐に入る収入の損得勘定が考えの中心でしかない大方の人たちにとって、マスコミの情報など面白おかしければそれでいい、よりドラマチックで悲劇的、不幸話であればあるほど蜜の味というのが、ごく普通のことなのだ。

一般大衆にとって、一握りの天才たちの去就などは日々の話題の消耗品でしかない。
いっとき、口の端にのぼり、次の日は忘れ去っても日々の暮らしに何の影響もないことだからだ。

だが天賦の才に恵まれたものは、何の因果か、自らの背負った運命に生身の人間であるこころが躍らされて、才能が与える幸福以上の失望に日々思い悩まねばならぬ。
自分が受け取る幸福以上に、周囲に人生の醍醐味と勝利の陶酔を分け与える天命を噛みしめねばならぬ。


ボナリー選手も浅田選手も、ジャンルは違うがラクロワもまた、自らの才能によって世を変革してゆく使命があった。
それゆえに彼らは天才と呼ばれたのだ。

彼らがその人生において、どうしようもなく冒したいくつかの過ちも、失敗も、その尊い挫折も決して、彼らの天与の資質を穢すものでもないし、その価値を失わせるものでもない。
美はわずかな瑕で損なわれるものではない。

悲しみと美しさに充ちた存在。
その挑戦の証と聖なる重み。


彼らが残した演技や作品を観ればわかる。


それが彼らの才能の一部であり、そしてすべてだ。


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Comment

nori says... ""
私はアスリートとしてボナリー選手の態度は非難したいです。
彼女の競技映像も何度かみましたが今の採点システム下ではなおさら彼女の得点は下がります。
伊藤みどり選手とは違います。
田村さんが言う通りのお粗末な滑りでジャンプも力任せに飛ぶだけで回転不足が多く着氷も汚いものが多い。
偏見だのなんだの言う前にスケート技術を向上させる努力をするべきでした。
彼女の、氷上に図形を描く事から始まったフィギアスケートという競技への敬意が感じられません。
どんなに汚くても技術が無くても持って生まれた運動能力で三回転多く飛べばいいという競技ではありません。

差別がなかったとは決していいませんが彼女を悲劇の女王に仕立てる事には強い抵抗を覚えます。社会で差別を受けてきた黒人として被害者意識が強まるのは仕方ないかもしれませんが
一方で彼女自身の傲慢さ・未熟さが招いた当然の結果と思います。(森を見ず木に吠えてるみたいなコメントでごめんなさい。いちアスリートの私見として聞き流してください。)







2013.04.21 19:21 | URL | #- [edit]
まさきつね says... "ブログの意図を"
noriさま

ご訪問うれしいです。
noriさまはアスリートなのですか。フィギュア競技をやっておられるのでしょうか。

まさきつねはスポーツをやりません。専ら観るばかりです。ですから視点が違うのかも知れませんが、しかし、ボナリー選手がスケート技術を向上させる努力をしなかったという見方はできないのです。
確かに彼女は体操選手から出発しました。でも、フィギュアスケートという競技に対する敬意を持たなかったという見方もできないのです。

確かに基礎スキルが未熟で、力任せにジャンプを跳んでいた時もあります。でも、彼女なりに表現を工夫したり、音楽に動きを合わせたり、スケートを楽しんでいるのが伝わるパフォーマンスをしていますよ。伸び伸びとダイナミックな演技が個性的で、美しいと感じるプログラムも少なくないです。
「汚くて技術がない」というのは、それこそ田村さんの著作みたいな文章から、印象操作を受けている方々の決まり文句です。
勿論、noriさまが彼女の演技をご覧になってそう感じられたなら、ひとにはそれぞれ受けとめ方が違いますから致し方ないことですが、そうなってくると、キム選手の演技がどうとか浅田選手の衣装がどうとかというのと同様、すべての選手に当てはまる個人の感想の違いという話になります。(テリー伊藤と同じレベルということです。)

まさきつねはボナリーを悲劇の女王に仕立てたいのではありません。浅田選手も同様です。
そんなものにたてまつられても、彼女たちは毛の先ほども喜びはしませんよ。(むしろ彼女たちを悲劇の女王に仕立てて、メロドラマで視聴率を稼ぎたい、ひと儲けしたいのはマスコミの方でしょう。)

ボナリー選手の態度に反省すべき点がなかったとは言いません。ですが彼女だけが、傲慢だ未熟だと一方的に非難されなくてはならないとも思いません。人間は誰しも同じように、傲慢であり、未熟である部分を持っているからです。

そもそも人間は欠点だらけ、不完全なところだらけの存在です。ですが、そんな未熟で稚拙で不器用な存在が、時として天賦の才能を与えられ、それを努力して磨き、個性を開花させることによって、美の領域に近づくことができるのです。

まさきつねのブログは、そのように感じられる作品や芸術家たちを少しでも多く、訪問者の皆さまに紹介したいのです。
ちやほやされ、ゴマスリで棚上げされた中身のない模造品だけはお断りです。そしてそんな、端から価値のないものを悲劇の女王や、流離した貴種に祀り上げるつもりもありません。

そうした風潮に加担するつもりはないのですが、訪問された方がそうお感じになっているのなら、まさきつねの文章が下手なだけですから、ブログの意図をどうぞご了承いただければと思います。
2013.04.21 20:38 | URL | #- [edit]
iride421 says... ""
あなたは、当時開催された幕張での世界選手権の表彰式のテレビ映像をみましたか。
佐藤有香さんを睨みつけ、衣装を引っ張りそこから降りろというボナリー選手の映像を。
それでも有香さんは、気丈にも笑顔を絶やさずボナリー選手の要求を拒否して立派に表彰台にたっていました。その光景は今でもはっきり僕は記憶しています。
表彰台にしぶしぶ上がった後の光景です。動画に出ているのは、ボナリーの印象が良いように細工されたものです。
2013.04.23 23:43 | URL | #hqwzTlPE [edit]
まさきつね says... "リアルタイムで"
iride421さま

ご訪問ありがとうございます。

せっかくいただいたコメントですが、何をまさきつねにお伝えになりたいのかよくわかりません。わかりませんが、おたずねのことにはお答えします。その上で、まさきつねの感想と考えを書きますが、リコメになっていなかったら、ごめんなさい。

当時の映像はリアルタイムで観ていました。

ボナリー選手の表彰台での態度は当時も今も、批判されるべき点はあったと思います。一方で、面当ての対象になった佐藤選手には何とも後味の悪い優勝で、それは当然何の非もない彼女には可哀想だったと思っています。

でも表彰台での態度がたとえどんな酷いものであったとしても、その前の彼女たちの演技に対する純粋な評価と結びつける必要はないと、まさきつねは思います。
ましてや競技の結果はすでに出ているのですから、彼女たちの演技も、その後の行動や態度も、押しなべていえば個人の性格だの発言だのと、すべてを一緒くたにして論じるのは、あまりにも筋違いで論理性に欠けます。

繰り返しになりますが、まさきつねは自分のブログで語りたいのは、あくまでも人間が創造する美とその芸術性です。さまざまなことに好き嫌いは述べますが、個人の過失や欠点を一方的に弾劾するつもりはありません。
2013.04.24 01:10 | URL | #- [edit]
iride421 says... ""
美とその芸術性というなら、全体をみなければおかしいですよ。表彰式も競技自体の一部です。
彼女の態度が美意識と外れているのは明確です。悪いことは悪いというのは、芸術においても普通にいわれることじゃないんですか。そしてボナリーの有香さんへの態度は過失でもなければ精神的な欠点からくるものでなく、明らかに悪意にみたちものです。ただあの後キム・ヨナとは違って彼女は反省しているからまだ救いはありますけど。
2013.04.24 22:53 | URL | #hqwzTlPE [edit]
タレミミ says... "ゴージャスな衣装が似合う人"
はじめまして。
>ボナリー選手が競技生活の間中、身に付けていた衣装のほとんどをデザインしていたのがクリスチャン・ラクロワ(Christian Lacroix)である。
コレ今まで知らなかったものですから、ROM専門でしたがコメント残したくなりました。
モードに現在疎くなってしまいましたし、ボナリーも「ああ…フランスの黒人選手でいたねえ…そんな人」くらいの印象しかありませんでした。(その頃は熱心にこの競技を追いかけていなかったのです)
しかし、デザイン画にあったあの衣装。あとピンク主体のものでそれも華やかな衣装(ありましたよね?確か)…それが非常に「似合っていた」ことは何故か記憶にあるのです。
現在フランスではメイテという黒人選手がいて、彼女は古代エジプト女性を思わせるゴールドの衣装を身につけていました。
それも全く「浮いて」いない。これはスゴイ強みだと感じました。
なにせ白人優勢な競技であることは明らかで、黒人選手が色々と不利に思えるのですが、黒人選手というのはゴージャスな衣装に負けない存在感があるものだな…と改めて思いました。美しいバネのありそうな身体…これは有利か?
彼女の態度は確かに褒められたものじゃないでしょう。所謂「お嬢さん」が多いと思われるこの競技。育ちの悪さを感じさせる行動は非常に「浮いて」いたでしょう。が、その時の彼女にはツッパって生きる必要があったのだと思います。
ニースワールドのある演技動画に彼女が一瞬映っているのを見ました。若くて驚きました。現役時代より穏やかな顔になっていた気がします。今現在の彼女の評価は不明ですし、“skater's skater”とは未だ言えない存在なのかもしれません。
でも「今は悪くないんじゃないか?」
あくまでも私の印象です。

長々と失礼しました。
2013.04.25 14:34 | URL | #- [edit]
まさきつね says... "感じた通り"
iride421さま

再度せっかくいただいたコメントですが、やはり今回もまさきつねの記事のどこに対して、何をお伝えになりたいのかよくわかりません。
ですから、今回いただいたコメントについて、まさきつねが感じた通りをお伝えします。言わずもがなのことも多いですが、あえて申し上げます。

> 美とその芸術性というなら、全体をみなければおかしいですよ。表彰式も競技自体の一部です。
表彰式は確かに大会の一部ですが、「採点競技」の対象ではありません。当たり前のことですが、表彰式の態度で選手の得点や順位が変わることはないのですから。すべてを一緒くたに論じられることはたいへん危険ですよ。

> 彼女の態度が美意識と外れているのは明確です。
仰っている「美意識」とは、誰の、何に対する美意識ですか。「美意識」は各人誰もが同じではありませんよ。
表彰式でのボナリー選手の態度が外れていたのは「美意識」ではなく、一般良識でしょう。それにまさきつねは別に、彼女の態度を賞讃してはいませんよ。

> 悪いことは悪いというのは、芸術においても普通にいわれることじゃないんですか。
芸術は多面的なものです。そしてその鑑賞については、主観的なものです。
(スケーターの態度が)悪い=(そんなスケーターの演技は)芸術じゃないという論理の筋立ては成立しません。

> そしてボナリーの有香さんへの態度は過失でもなければ精神的な欠点からくるものでなく、明らかに悪意にみたちものです。ただあの後キム・ヨナとは違って彼女は反省しているからまだ救いはありますけど。
この部分は論理的な解釈ができなくて困っています。ボナリー選手の「悪意」も「反省」もiride421さま個人のお考えなのでしょうが、論拠が示されておらず、まさきつねにはお答えのしようがありません。ただ、たとえiride421さまが、ボナリー選手の気持ちや生き方考え方といった内面をどれほど知っておられるとご自分で思っておられるとしても、随分「上から目線」の一方的なご意見だなという気がします。

以上ですが、まさきつねのiride421さまのコメント解釈が間違っていれば、その旨お伝えください。
考えの相違は、あるのが当然のことですから、致し方ないこととまさきつねは思います。
2013.04.25 15:28 | URL | #- [edit]
まさきつね says... "もどかしいくらい"
タレミミさま

初めまして。ご訪問うれしいです。

メイテ選手も褐色の肌が美しく、演技もとても大胆で迫力のあるスケーターですよね。力強くて伸びのある肢体が豪快なジャンプをするのは、優雅な選手の美しい演技とはまた別の魅力があると思います。

彼女たちには豪華な衣装がまた似合いますね。黒く輝く肌にゴージャスな装飾が映えるので、ラクロワもボナリー選手の衣装には、ゴージャスできらきらしたラメや装飾をふんだんに用いていました。

フランスは一部では人種偏見が激しいですが、ほかの民族文化にはとても理解が深い国です。ヨーロッパにない、オリエンタルな異国文化(日本も含め)には、とても関心が高いですね。スポーツをやる黒人選手には、恵まれた環境だと思います。メイテ選手にも、フランス国内からとても大きな期待が寄せられているのでしょうね。

ボナリー選手は競技を離れて、アイス・ショーでこころの自由を取り戻したのではないでしょうか。今は、自分を自由に表現する手段として、フィギュアを楽しんでいる様子が演技から伝わってきます。
彼女は生き方も演技も、もどかしいくらい不器用で、それが「ツッパっ」た強がりや傲慢な態度に現れ批判の対象になったと思いますが、もがき苦しむ人間らしい純粋さを感じずにいられないのです。
(あくまでも私の印象です。 )
2013.04.25 16:22 | URL | #- [edit]

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