月船書林

フィギュアスケートの話題を中心に芸術を語る

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灰色の菫は語る-アンドロギュノスの系譜-

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コク・テール作りはみすぼらしい銅銭振りで
あるがギリシャの調合は黄金の音がする。
「灰色の董」といふバーヘ行つてみたまへ。
バコスの血とニムフの新しい涙が混合されて
暗黒の不滅の生命が泡をふき
車輪のやうに大きなヒラメと共に薫る。
(西脇順三郎『菫』)

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浅田真央、引退報道に「それはすごい驚きました」
Sports Watch  2013年04月16日10時00分

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今月13日、フィギュアスケート・浅田真央がソチ冬季五輪シーズンとなる来季をもって現役を退く意向を示し、大きく報道された。世界国別対抗戦のフリー後、マスコミに向け“五輪を集大成に”と語った後、“引退か”と訊き直した記者に対し、「今はそういう気持ち」と答えていた。

すると、15日、日本テレビ「NEWS ZERO」では、同日収録された浅田真央のインタビューを放送。聞き手は、嵐・櫻井翔が務め、彼女の真意を尋ねた。

一連の引退報道に対し、「試合が終わってインタビューの時に、“とりあえず、今までのスケート人生の集大成として、自分の最高の演技ができるように”って言った時に、終わって記者の方が“それって引退ってことですか?”って言われたので、“今はそのつもりで考えています”って言ったんですけど、次の日になって、色んな方から“すごい報道になってるよ”って聞いて知ったんです」と説明した浅田は、「それはすごい驚きました」とも――。

“引退”という2文字がクローズアップされる格好となったが、浅田は「気持ちもそうですし、オリンピックに向けた想いも、そういう思いでやっているので。(それだけソチに向けた思いが強い?)そうですね。はい」と語った。

また、バンクーバー五輪後の3年間について訊かれると、「アッという間でしたね。バンクーバー終わった時は、“あと4年もあるんだな”っていう思いだったんですけど、今こうして1年もなくなった時に、“はやいな”って思いました」という浅田は、不調が続いた昨季を振り返り、「バンクーバーオリンピックが終わってから、ジャンプの修正をはじめて、そこから約2年間、迷いながら“これでいいのかな、大丈夫かな”って思いながら続けてきたんですけど、それが今シーズンに入ってようやく自分の身体に馴染んできたので、ソチに向けてはいい状態で臨める」と意気込んだ。

さらに、櫻井から復調のきっかけについて質問された浅田は、「うーん、今自分がやるべきことはスケートですし、振付の先生と来シーズンのプログラム、すごく明るい曲だったので、スケートってこういう素晴らしさもあるんだなって思いながら、練習もしつつ、跳べた時の喜びも感じるようになって、やっぱり自分はスケートが好きなんだろうなって思いながらやってました」と語った。

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3回転半の重圧と戦った浅田真央の1年 フィギュア国別・女子FS
スポーツナビ 2013年4月14日 12:38

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 フィギュアスケートの世界国別対抗戦2013は13日、東京・国立代々木競技場で最終日を迎えた。女子フリースケーティング(FS)では、ショートプログラム(SP)5位と出遅れた浅田真央(中京大)が、フリー117.97点、合計177.36点と奮わず、5位で今シーズン最後の試合を締めくくった。1位は鈴木明子(邦和スポーツランド)、2位、3位は米国の2人、アシュリー・ワグナーとグレイシー・ゴールドが入った。


今季最後の演技で浅田を襲った疲労感
 両手を広げてお気に入りのプログラム『白鳥の湖』を終えた瞬間、浅田の表情が大きくゆがんだ。2012-13年シーズンの最後の最後に浅田が見せたのは、強い疲労感に襲われて苦しそうな、これまでに見たことのない姿だった。

 調子自体は悪くなかった。直前の6分間練習でもトリプルアクセルを着氷。本番では、冒頭でそのトリプルアクセルが開いてダブルアクセルになってしまったが、それ以降は流れも良く、ジャンプも次々と決めていた。

 ところが後半に入って急変。演技後に浅田が語ったところの「ちょっと今までにないような、体も足も呼吸もすごい苦しい状態」になってしまったという。それでも何とか持ちこたえて大きなミスなく滑りきったが、後半はスピード感が失われ、終盤の見せ場であるステップシークエンスでも疲れが見られた。

 浅田自身、突然襲った疲労の原因は「分からない」と困惑気味。しかし、浅田を指導する佐藤信夫コーチには思い当たる節があった。
「年々、そういうところが出てきているのは間違いないと思う。(今日の演技は)最初は結構良いかなと思って見ていましたが、トリプルアクセルの負担が後から出てきたかなという感じはしています」


佐藤コーチ、3回転半は「とてつもなく大きい」精神的負担

 これまで、浅田は難易度の高いトリプルアクセルに果敢に挑戦してきた。しかし今シーズンの前半はその大技を封印。佐藤コーチと話し合い、練習で跳べないなら試合に入れるのはやめようと決めてのことだった。

 代名詞であるトリプルアクセルを欠いた浅田ではあったが、それでも次々に勝ち続けた。グランプリシリーズ(GP)の中国杯とNHK杯で立て続けに優勝すると、迎えた昨年12月のGPファイナルを4年ぶりに制覇。スケート技術の高さや質の高い演技で、ジャンプに頼らずとも高得点が狙えるようになったからこその優勝だった。
 シーズン後半からはトリプルアクセルを解禁。今季初のアクセル挑戦となった2月の四大陸選手権ではSPでいきなり成功させて優勝した。続く3月の世界選手権でもSP、FSともに3回転半を跳び着氷。3位に入り、3大会ぶりに世界選手権のメダルを獲得した。

 しかしながら、結果を残してもなお、佐藤コーチは浅田の思うままにアクセルを跳ばせるわけにはいかないと考えている。トリプルアクセルや3回転-3回転といった大技をプログラムに組み込むことで被るものも大きいからだ。肉体的な負担ももちろんあるが、佐藤コーチが心配するのは「精神的なプレッシャー」。「とてつもなく大きい」という言葉で表現したその重圧は、ジュニア時代からトリプルアクセルを跳び続ける浅田に想像以上に負荷をかけているのだろう。

 佐藤コーチ曰く、それでも浅田は「何が何でも(トリプルアクセルを)やりたいという強い気持ちを持っている」という。しかし、「私としては、それが許される状況なのかというのはよく判断しながらもっていかないといけない。その点についてはなかなか(浅田と)心を一つにするのは難しかった」と葛藤したことを明かした。浅田と佐藤コーチのこういったやりとりそのものが、トリプルアクセルに挑戦する難しさを表しているのかもしれない。


ソチ五輪へ「スケート人生の中で一番良い演技を」

 トリプルアクセルに取り組む中で収穫もあった。佐藤コーチは「他のものを犠牲にしないでなおかつ(トリプルアクセルに)挑戦できるというところに向かって、手応えを感じつつある」と自信をのぞかせる。2月に開催されるソチ五輪を控えた来季に向けては「エレメンツを今まで以上に質の高いものにしていきたい」と、さらなる技の向上に強い意欲を見せた。

 ソチ五輪にかける強い思いは浅田も同じだ。FSを終えた浅田は、「五輪という最高の大きな舞台で、集大成の演技ができるように頑張りたい。良い色のメダルがほしい」と、最大の力をつぎ込む考えだ。
「最後はスケート人生の中で一番良い演技をしたい」と、ソチ五輪後の現役引退に含みを持たせた発言も残しているが、どちらにせよ、競技人生最高の状態で五輪を迎える覚悟であることには違いない。

「すぐにスタートしなければいけない」とすでに来シーズンを見据える浅田。ソチ五輪のリンクで全開の“真央ちゃんスマイル”が見られるよう、浅田の五輪挑戦を静かに見守りたい。

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引退示唆の記者会見や、その後のテレビのどたばたやインタビューや、浅田選手本人の発言から何から取りまとめて考えてみるに、記者の「引退ですか?」のひとことに何気なく「そうですね」と答えたのが始まりで、あれよあれよという間に大騒動になったという感じだろうか。

改めてふりかえると、本人はあくまでもソチを「集大成」にするとこころに決めていたことのようだが、「集大成」=「最後」なんて解釈は元々成立しない。集大成はあくまでもそれまでのまとめ、編纂という意味で、ソチの演技で一度、自分の区切りにしようと考えるのは、四年ごとに行われる五輪が当面の目標になるスポーツ選手なら誰でも、ごく当たり前の流れだ。

バンクーバー五輪のSP『仮面舞踏会』とFS『鐘』だって、彼女の十代をいろいろな面で象徴し、五輪出場を目指してきた自身のそれまでを「集大成」したものだっただろう。

テレビの櫻井翔くんとのインタビューは、なかなか柔らかい雰囲気の好い内容だったと思うが(やっぱり、真央ちゃん翔くんのこと好きなんだろうニャ)、「引退」発言なるものが「ソチにかけての意気込み」「決意表明」という解釈でまとめ、背水の陣に近いほどの切実な思いで五輪に挑んでいるというアスリートの声なき声が聞こえてきたのは、櫻井キャスターの仕事ぶりが充実していたということだろう。

「ソチ五輪に向けていま必要なものは」という質問に、「休むことです」と浅田選手が答え、翔くんが大うけしていたのは、さすがに笑いすぎだろと突っ込みを入れたくなったが、このあたりは以前に、「怖いものは」と聞かれてライバルの名前やスケートの技を上げずに「お化けです」と答えていた彼女らしい天然さを髣髴とさせて気持ちが和んだ。

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肝心のジャンプについては「今シーズンに入ってようやく自分の身体に馴染んできたので、ソチに向けてはいい状態で臨める」と語っているのが、後のスポーツナビのコラムにある、佐藤コーチの「他のものを犠牲にしないでなおかつ(トリプルアクセルに)挑戦できるというところに向かって、手応えを感じつつある」という発言に照応していて、自分自身も周囲の眼からも巧く矯正が進んで、レベルアップが成功している様子が伝わってくる。

何だかろくに取材も確認もせず、実際は心配しているんだか茶々を入れたいだけなのかよく分からないスポーツ報道など読んでいると、やれ腰痛が不安だの練習中ジャンプで失敗続きだの体重コントロールが難しいだのと、目にした側が気分が滅入るような根拠のない情報や憶測ばかりを何が目的か知らないが、配信しては誤報の文責もとろうとしない記者がうじゃうじゃいて、げっそりだ。

テレビ番組でのバッシングや中傷や苛めなども今さら始まったことではないが、ほとほと大人げないに尽きるコメンテーターも、フィギュアの衣装を二言目には「子どもっぽい」と貶す前に、公衆の面前で発言する場所で帽子ひとつとらないマナー知らずな自分のファッションが果たして大人の礼儀に叶っていると言えるのかどうか、振り返るべきだろう。


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さて、くだらないことにいつまでも腹を立てていても仕方ないので、今回はまた遠回りだけれど、まさきつねの好きな花と詩の話から始めよう。

前の華展の報告記事でも書いたのだが、まさきつねはパンジー(三色菫)が好きで、冬から春にかけては必ず庭にこの花を植える。

もともと色とりどりな種類があって、さまざまな色調が楽しめる花ではあるが、近年はフリルのように花弁が縮れたものもあり、大きさも小ぶりなヴィオラまで入れると多種にわったているのでいろんな楽しみ方ができ、おまけに花期も長いのでガーデニングには文句なしに重宝する植物なのだ。

ところで、(まったくフィギュアに関係なく申し訳ないけれど)冒頭に掲げた西脇順三郎の詩だが、実に解釈の難しい詩である。はっきり言って、分からない。

分からないけど、美しい。

(ちなみに、この前の記事で掲げた三好達治と西脇順三郎の間にはかなりの確執があったとかそうでないとか…。三好達治の詩を「俳句のようにイメージから出発している」と考えていた西脇には、自身の詩作に比べると随分異質に感じられたということだろう。)

美しいものは美しいで済ませておけばいいのだが、下世話な人間はついその美しさの理由を探ってみたくなる。
そこで(無用と分かりつつも)、この詩のあっちこっちをひっくり返し、つつき回してみたくなるのだが、まずはまさきつねの知る範囲で詩の中のことばを拾ってみる。


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最初の「コク・テール作り」だが、これは古代ギリシャ語のクラテール(kratēr、古代ギリシア語: κρατήρ)から来ていて、「クラテール」は古代ギリシャで葡萄酒と水を混ぜ合わせるのに使用した口幅の広い大型の甕のことだという。

ギリシャ詩の翻訳で知られる呉茂一はこれを「酒和え甕」と訳しているそうだが、ワインを水割りで飲むのが一般的だった当時いわゆる饗宴の場では,甕を部屋の中央に据え、その中で水割りされた混酒を別の容器に移して客に注いで回った。
こうした宴会の様子はホメーロスの『オデュッセイア』などにも描かれているが、宴会の参加者たちは饗宴を始める前に、ワインを希釈する配合を決めたり、客に給仕したりする亭主役(「酒の普遍的な支配者」と呼ぶらしい)を決めた。亭主役はクラテールの種類を選び、宴会中は客の酩酊状態を見極めながら、水の配合や出す酒の量を判断し、泥酔客を出さずに饗宴を円滑に仕切るのが務めだったようだ。

次の「銅銭振り」というのは、酒からカクテル・シェーカーの「振る」という動作を連想し、「振る」から「御神籤箱」を連想し、御神籤の「籤」から「銅銭」というように言葉遊び的な駄洒落という分析もあるが、まさきつねは、饗宴の亭主が酒と割る水の配合を決めるというところから、銅銭を投げてことの良し悪しを判断するという発想ではないかと感じた。
「みすぼらしい」はいわゆる酒と水を混ぜる吝嗇臭さに由来するものだろう。

けちったらしく葡萄酒と水を混ぜてはいるが、それがギリシャの豪華な哲学者たち詩人たちの顔ぶれを揃えた饗宴で調合されるということばの流れに、「黄金の音」の響きを聴く。

四行目の「バコスの血とニムフの新しい涙」は、ティモテオス〔前450頃-360頃〕の詩「キュクロープス」の断片からそのまま転載した表現らしい。「バコスの血」はワインのこと、「ニムスの新しい涙」は水である。

この二つが混合されて、「暗黒の不滅の生命が泡を吹」くのだが、これはそのまま「葡萄酒が泡を吹く」という、ギリシャ語では比較的慣用に使われる表現として受け取れば良いのだろう。ワインがなぜ「暗黒」かという疑問はあるが、まさきつねは「黒い葡萄酒」という色彩としての受けとめ方より、のぞきこんだ甕の中にあるワインが漆黒に見えたのではないかという視覚的現象でとらえている。

甕の底で泡立つ葡萄酒は、いかにも混沌の中から甦り、泡のような気を吐く生命の象徴とイメージできる。

そしてもっとも問題なのは「灰色の菫」なるバーと「車輪のように大きなヒラメ」である。

順番が逆になるが「ヒラメ」の方から解説すると、これはどうやらプラトンの『饗宴』の中で語られる喜劇作家アリストパネスの有名な「アンドロギュノスの神話」の中にヒントがあるようだ。

『饗宴』(きょうえん、古希: Συμπόσιον、Symposion、シュンポシオン)は、紀元前418年アテナイの悲劇詩人アガトンが劇の競作コンクールで初優勝した翌日、その祝いに友人を招いた祝賀会を設定とした、プラトンの中期対話篇のひとつで、そのイデア論を代表する著作である。

主催者は無論アガトンで、出席したソクラテスの提案で愛の神エロスを賛美する演説を行うこととなり、パイドロス、エリュクシマコス、アガトン、アリストパネスが演説をする。

以下、抜粋である。

「…つまり、人びとは愛の力というものを、全然と言ってよいほど感じてはいない、というふうにね。(中略)第一に、人間の性別は三種類あって、現今のように男性女性の二種族ではなく、そのうえになお、両性をひとしくそなえた第三の種族がいた。(中略)つまり。昔々、男女両性者(アンドロギュノス)というものが、一つの種族をなしていて、形の点でも、男女両性をひとしくそなえつつ、存在していたというわけですね。(中略)
そして、円い背、円筒状の横腹をそなえ、四本の手、手と同数の足を持ち、また円筒状の首の上には、すっかり似通った二つの顔を持っていた。
(中略)ところで、太古の人間に、かく男性、女性、両性と三種族いたこと、およびそれぞれそのように円い形をしていたこと、この原因はほかでもない――つまり、男性はその初め、太陽の裔(すえ)、女性は大地の裔、男女両性者は、月を分有していたからなのです。
(中略)ところが、彼ら三種族いずれも、その強さ、その力の点で、まことにおそるべきものがあった。倨傲なる志をも持っていた。そこで、神々に謀反をくわだてた。(中略)
そこで、ゼウスの神をはじめ、他の神々は、彼ら人間たちをいかに始末すべきかと、ご相談になった。(中略)そこでゼウスの神は、さんざん考えぬいた挙句、(中略)人間どもを真っ二つに両断された。(中略)
僕たち各人は、いわば平目さながら、一つの全体から二つの半身に両断されたわけで、各人それぞれ、人間の割符のようなものとなるわけですね。ですから、各人は、不断に自分の割符を求めておる。」

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☆Speech of Aristophanes☆

ここに出てくる「平目」が、真っ二つに割かれた両性具有(アンドロギュノス)のたとえであり、西脇の詩に登場する「ヒラメ」の背景となる。

なお、この愉快な哲学談義の饗宴はこの後、ソクラテスの信奉者であるアルキビアデスがしたたか酔っぱらって乱入するという騒ぎになり、ソクラテスへの熱烈な少年愛(paiderastia)の告白と失恋を吐露するというくだりになる。
稀代の美少年アルキビアデスが醜い老人のソクラテスに首ったけになり、しかも袖にされるのだから、こうした倒錯した恋愛に興味津々の人間からすると実に趣き深いエピソードである。

(ちなみに美貌と武勇で誉れ高い軍人だったアルキビアデスは、自らの野心ゆえにアテネを裏切る軍事行動に走り、その余波でソクラテスは若者たちを唆したという濡れ衣を着せられる。断罪されたソクラテスは毒人参入りの飲み物で処刑されるのだから、愛の因果は実に怖ろしい。)

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『アルキビアデスの像』

さて、アルキビアデスの登場場面と、彼の語りの一部もいかに抜粋しておこう。

「するとまもなく中庭で、アルキビアデスの声が聞こえた。彼はひどく酩酊していて、アガトーンはどこにいる、と訊ねたり、アガトーンのところへ連れて行け、と言いつけたりしながら、大声でわめいていた。そのうちに、先ほど声の聞こえた笛吹き女や、その他数人のお供が支えながら、彼を一同のもとに連れてきた。彼は、常春藤(きずた)と菫の、葉も房々と編んだ花輪をいただき、頭には、あまたの綬(リボン)を結え、部屋の入口で立ち止まって言った。『諸君、ご機嫌よう! かくもひどく酩酊した男でも、諸君の仲間に加えてもらえるかね!(中略)』
ところで、ソークラテース、この話も、僕がいつわっているとはおっしゃいますまい。さて、かくも僕は振舞ったわけだったが、この人は、げにも鮮やかに僕を負かしてしまった。つまり、ぼくの若さの美を、軽蔑し、冷笑し、歯牙にもかけぬありさまだったのです。」

この一節から、アルキビアデスが「菫」を編みこんだ花冠を被って酒宴の席に現れたということが分かる。

この派手な闖入者のおかげで、形而上学的な恋愛論だった酒宴は一気に人間の愛憎劇ともいうべき生々しさを増し、後世のロマンティストたちの格好の題材にもなって、「プラトンの酒宴」は艶めいたエロスと知が交錯する場面として伝わることになったのである。

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アンゼルム・フォイエルバッハ『プラトンの酒宴』1871-1874年


西脇の「灰色の菫」というバーは、まさにこの、両性具有や少年愛の味付けがされたプラトンの酒宴に構図を借りており、葡萄酒と平目やハーブの入った地中海料理の芳醇な香りがたちこめる空間で、馥郁とした哲学的思索に導かれていく思いがする。

そして詩に散りばめられている「黄金」「灰色」「暗黒」という色の名前に曳かれる色彩的なイメージが、豪奢に過ぎてゆく時間の深さを喚起する。

「灰色の菫」というのはセミナーで語った西脇の言葉からすると、「灰色の菫というのは古典的な言い方でしてね。どういうものか、紫が灰色に見えたのか、ギリシヤでは灰色の菫と言うんですよ。これは、ギリシア語から来たんです。僕としちゃ、おもしろいからつけたんです。日本では、菫が灰色だったらおかしいんです。遠いものが連結されている気がするでしょ」ということらしいが、どうやら西脇の真っ黒な嘘で「ギリシャ人が菫色と灰色を同一視していた」と「思い込んでいた」ことによる誤解だったそうだ。

実際にはギリシャの詩において菫の色は、「黒」とか「青黒」などと形容されていたようだが、ギリシャ語にも色彩の言語学にも疎いまさきつねにはこの辺り、よく分からない。

色に関する真偽は断定できないが、まさきつねは「灰色の菫」という言葉から、クリスティのポワロが口癖にする「灰色の(脳)細胞」を思い出す。
そういえば三色菫のかたちは、なんとなく大脳の断面図に似ている気がするのだがどうだろうか。

灰色の菫の花冠を頭にいただく美貌の酔っ払い男が失恋談義を語り、葡萄酒を水で割る亭主が含み笑いをしながら場を仕切り、海千山千の老ブルー・ボーイが部屋の隅に横たわって若者たちの乱痴気騒ぎを目を細めて眺めている酒場…、何だか現代のゲイ・バーと大して変わらぬ風景のような気もするが、西脇のことばの魔術にかかると、酒宴は不思議なリズムで登場するものたちの輪郭を浮き彫りにしてゆくのだ。

たとえば「銅銭振りであるが」の「あるが」は、異質な改行をされて文頭に置かれ、「コク・テール」と同等の強さで音を響かせる。すると「みすぼらしい」銅銭振りは、「ギリシャ」という言葉と化学反応してたちまち、「黄金」のきらきらしい輝きを纏うのだ。

「灰色の」脳細胞をそなえた知の伝道者たちが集まるバーに、菫の花びらや音楽を辺り一面ばらまきながら酩酊の美少年が登場する。酔った少年はバコスとニムフの血筋を引く、アンドロギュノスの正統な継承者である。
そして泡を吹く葡萄酒と魚料理が振る舞われ、豪奢な酒宴の一夜は過ぎてゆくのだ。…

西脇の難解な詩を分析するつもりはさらさらないのだが、彼がことば遊びを楽しんでいるように詩を読むなら、こんな風にことばを転がしてイメージの遊びを楽しむことも許されるだろう。

西脇は「真の詩人は両性具有である」と言っていたが、彼のことばもぞくぞくするほど官能的に詩人が置き去りにした詩の断片を彩るけれど、彼自身のもつ逸話も同じように悩ましく、そしてなぜかあどけない。

以下、富岡多恵子による、西脇順三郎の不思議な行動をとらえたエピソードである。

「またかなり前のことだったが、偶然に神田でお目にかかって、鳥屋でトリのスキヤキをごちそうになったことがある。広い座敷のようなところにたくさんの食卓があり、ひとびとが鍋をかこんでいた。食卓の間には申し訳のように背のひくいついたてが仕切りについていた。わたしはまわりのざわめきに落着かず、入口からだれかが入ってくるたびに、仕切りのついたてごしにキョトキョトとのぞいていた。あなたは入口からいい男が入ってくるかと思ってキョロキョロしている、と詩人はいわれた。それはあなたが魚だからである、と詩人はいわれた。女は魚である、魚は泳ぎながら産卵する、だからいつもキョロキョロしているのだ、と詩人の声は大きくなった。
とつぜん、わたしは女だからそれがわかる、わたしは女ですよ、といいながら詩人は立ち上った。まわりの食卓のひとびとは、女ですよ、と立ち上った人間が男であったので驚いて眺めた。」

アルキビアデスはソクラテスを「この人は、あたかも自分が愛する者であるかの態度を擬して彼らを欺いてはいるが、そのじつ、彼自身は、愛する者でなく、むしろ愛される少年の役割に身を置いている」とその本性を暴露していたが、西脇自身が白状した正体もなかなかに刺戟的である。

そして彼の詩のように、あどけない。

酒がどれほど入っていたか知らないが、こういう詩人の狂騒は、まさきつねには頭痛がしてくるほどの好物である。

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そしてここからはもうひとり、「菫」つながりで、西脇とは全く違う詩的世界だが、異端の女流詩人をご紹介しよう。

十九世紀末からパリで活躍し、「菫のミューズ」といわれた夭逝の象徴派詩人ルネ・ヴィヴィアン(Renée Vivien)である。

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本名をポーリーヌ・メアリ・ターン(Pauline Mary Tarn)といい、1877年ロンドンの富裕層に生まれた彼女は、妹とともに幼少期をパリの邸宅で過ごし、父の死後、ロンドンに引き上げてからは、抑圧的な母との関係に悩みつつ成人した。
父の遺産の一部を相続すると、パリに移り住んで、専らフランス語による文筆活動に入り、1901年性別不明の名前で処女詩集を刊行している。

1903年からは女性と分かるルネ・ヴィヴィアン(Renée Vivien)の筆名を用いて精力的な文筆活動を開始し、自身の同性愛嗜好を告白して、かつてサッフォーの主宰した乙女の苑に比肩する女流詩人らの文苑建設を夢み、恋人ナタリー・クリフォード・バーネイと行動をともにした。

富と美貌、そして文才に恵まれた彼女は、その詩風やレスボスへの傾倒から「ボードレールの娘」「1900年のサッフォー」とも呼ばれ、象徴派詩人のマドンナとしてその名を馳せたようだ。

しかし恋人であるバーネイは「世紀末からベル・エポックへ」とよばれた時代で最も有名なパリのアメリカ人であり、もっとも有名な美貌の女色家で、そして最もスキャンダラスで不実なパートナーだった。
バーネイの美女狩りは「月光(ムーン・ビーム)」(凄いニャ)と呼ばれ、パリ社交界のスキャンダラスな噂のネタだったが、バーネイはそんなことを意にも介さず、色恋沙汰を繰り返し、ヴィヴィアンを嫉妬で狂わせた。
(この辺りの経緯はジャン・シャロン著作『レスボスの女王』に詳しい。)


バーネイと別れたヴィヴィアンは、ほかの恋人とも愛情と詩作でつながった関係を築き、旅と文筆活動に明け暮れるが、二十代末ころから倦怠と拒食の病に伏せるようになり、東洋趣味で飾った邸宅に引きこもりがちになる。親しい友人が訪れるばかりの日々の中、かねてより念願だったカトリックへの改宗が叶うと、1909年パリの邸宅にて三十二歳の若さで夭折する。

ヴィヴィアンは繊細な感覚の持ち主で、男性の野蛮で粗野な振る舞いを嫌悪していた。
また東洋に憧れ、明治の日本へも来訪した旅行記録があるが、客のマルセル・ティネールの記述によれば、彼女の邸宅は中国の繻子とおぼしき布を張り巡らした部屋には香が焚きしめられ、提灯の明かりのもと、黒檀の家具が置かれ、中国の鐘や日本の書物、それに東洋の仏像や女神像が並んでいたらしい。

彼女は食事の時もシャンパン以外のものを口にせず、喫煙室でソファーに横たわりながら阿片の混じったタバコを吸ったと報告されている。

精神的な偏向と鬱の症が彼女を摂食障害に追いつめ、病的な暮らしぶりが早逝へ至らしめたということのようだ。

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ヴィヴィアンの時代の「菫」はいわゆるラヴェンダー色というのか、まずは紫色をしているだろう。

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ラヴェンダーがレスビアンを象徴する色と広く認識されるようになったのは、1970年代からだと思うが、そのずっと前から薔薇色は同性愛(ピンクトライアングル)、青色が異性愛を表していると考えられ、その両方の色が混じりあってできるラヴェンダー色を両方の性的志向(両刀使い)を表すととらえる傾向があったようだ。

ヴィヴィアンの活躍した十九世紀末に、レスボスの先駆者としてまずその筆頭にあげられた古代の女流詩人サッフォーは、友人でありレスボス島の詩人だったアルカイオスの詩で、「菫のみづらの、きよらかに やさしく微笑(えま)ふサッポオよ」と賛美されており、また彼女の詩の中にも彼女と恋人が菫の花冠を被る描写が残されている。

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「喜びをもって行きなさい、そして私のことを思い出しなさい
私たちがどんなに結ばれていたか知っているでしょう
知らないの、それなら
思い出させてあげましょう
私たちがどんなに美しいことを共にしたか
たくさんの花冠を
バラやすみれやクロッカスで作って
髪の毛を飾り
香り高い花綵をたくさん
愛らしい花で編んで
首のまわりにかけ
たくさんの没薬を
高価な香油を……
なめらかな肌にすりこんで
やわらかい床に横になり
憧れを…………」

先ほどの『饗宴』にも菫の花冠が出てきたが、たとえば「挿頭 (かざし)に編むは白すみれ、編むはやさしい水仙の花。桃金嬢 (ミルテ)に添へて、編むはまたほがらかに笑ふ百合の花。」というように古代詩の中で、恋愛や美しいひとを形容する表現として菫は多く出現する植物なのだ。

そしてこうした事情から、1910年代から50年にかけて、レスボスの愛に生きる女性たちの間で菫の花を贈りあう習慣が見られたらしい。

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勿論、最初に述べたように、菫は色も形もとりどりで、ニオイスミレやサンシキスミレなど種類も豊富な上、後の改良種もたくさんあるので、すべてを一緒くたにして論じてはいけないのかも知れないが、詩というのは元来言葉のイメージを楽しむ世界だし、図像学的な観点から受けとめれば、菫が古くからこの異端の愛のモチーフであったことは間違いないのだ。

翻って、まさきつねは西脇順三郎の「私は女ですよ」ということばの裏に、両性具有からもうひとつ踏み込んだ女性同性愛の香気を感じる。

二つに断ち切られた平目の、あてどなく自分の割符を探して菫の花で飾られたサロンを彷徨う、頽廃の美貌を想像する。

菫、水仙、ミルテ、百合、そして薔薇といった花々が咲きほこるギリシャの野辺から、葡萄酒の酒杯が酌み交わされるバーをめぐり、漁師たちが網を打つエーゲ海の紺碧の入り江まで、詩人のことばに導かれるように,やさしい春の風に吹かれてイメージの欠片を踏んでゆくのだ。

ことばの馥郁たる香りに目覚める灰色の細胞が、詩の効能だと思う。


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ギュスターヴ・モロー『岩の上のサッフォー』1872年頃

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さて、今回はこの前のローリー・ニコルプログラム五選に続いて、まさきつねが好きな浅田選手のプログラム、タチアナ・タラソワ篇を挙げておこうと思う…が、実は正直な話、嫌いなプログラムがひとつもないのだ。
どれもが何度繰り返し観ても飽きない、エレメンツもギュウギュウ詰めの振付だと感動する。だからとりあえずの五選だと思っていただきたい。

そして、多分大方のファンが選ぶものとさほど差異はないのではないかと思う。


五位 『ポル・ウナ・カベサ』
作曲:カルロス・ガルデル/パジャドーラ 作曲:フリアン・プラサ
ふぃぎゅあ317-20


四位 『仮面舞踏会』
作曲:アラム・ハチャトゥリアン
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三位 『バラード第1番ト短調』
作曲:フレデリック・ショパン
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二位 『ヴァイオリンと管弦楽のためのファンタジア』映画『ラヴェンダーの咲く庭で』より
作曲:ナイジェル・ヘス
フィギュア317-23


一位 『前奏曲「鐘」』
作曲:セルゲイ・ラフマニノフ
フィギュア317-24


タチアナコーチのコレオ作品はこれまでのところ、十作しかない。なのでいっそ、十位まで並べても良かったのだが、そうすると無理矢理、全部に順位を付けなくてはならなくなる。

ショパンの『ワルツ第7番 嬰ハ短調作品64-2』はあまりに披露した回数が少ないので外したが、衣装も演技もたまらなく愛くるしくて、凝ったコレオも見飽きなかった。

シュニトケの『タンゴ』は、試合ごとにほとんど毎回別衣装に変えるという贅沢さだったが、裏を返すと、ジャンプの矯正中ということもあり採点が伸び悩み、打開策を探して迷走したあげくの荒技だったのだろう。
(つまり浅田選手の場合、衣装デザイン変更にほとんど手を付けない方が演技内容としては満足しているということなのだろうが、観る側としては、一作に付きせめて二回くらいは衣装変更があるとうれしいかも知れない。)

この『タンゴ』は最後までなかなか納得のいく出来に到達しなかったのかも知れないが、哀愁を帯びたメロディーに詰め込まれたエレメンツは高難度で、あっという間に時が過ぎるくらい、演技を追う側にとっては面白い作品だった。
しかし、やはりジャンプなどの瑕が大きく、その背景を思い出すのもつらい部分があるのでこのたびはこれも泣く泣く外した。

『カプリース』などは、『ポル・ウナ・カベサ』と比べて、初見の衝撃度で落としたが、あの小道具の扇を使った演技も忘れがたい作品である。不思議な印象のコスチュームも個性的でまさきつねは好きだった。

『シェヘラザード』は最後まで外したくなかった珠玉の作品だが、可愛らしくまとまった分、演技の大きさで物足りなさが残り、これも選外へ。

そして今季の『白鳥の湖』なのだが、『シェヘラザード』同様、王道中の王道で、『バラード第1番ト短調』と入れ替えてもとは思ったのだけれど、癖のあるものが好きなまさきつねとしてはやはり、本番の晴舞台に立ったプリマバレリーナのグラン・ヒュッテよりも、練習場でパ・ド・トロワの稽古をしている初々しいバレリーナを垣間見るような作品の方により魅かれるのである。

…と勝手なことを書き連ねているが、勿論ファンそれぞれどの作品に思いがあるか違っていて当然なので、どうかあまりお気にされぬように。


ところで、まさきつねはいつもタチアナコーチのコレオを観るたび、その美しさと強さ、優雅さと高貴さの入り混じった複雑な表現に、ジェンダーを超えた芸術性を感じる。

豪奢な詩を読んだ時と同じような、灰色の細胞を揺さぶる衝撃に全身が共鳴する。

日常を外れた異端の美しさ、孤高の反逆精神、聖的な郷愁と透明なエロティシズム、得体の知れぬ想像の力、そして背徳のポエジーが根底にある。
西脇の弁によれば「真の詩人」だが、真の芸術家もまた「両性具有」だと思う。

『ヴァイオリンと管弦楽のためのファンタジア』の浅田選手は朝露を浴びたニンフだった。彼女の妖精のような透明感は、俗世の人間臭を一切持たなかった。

そしてラフマニノフの『鐘』は、おそらくこの先この作品の芸術性を超えるプログラムは現れないだろうと確信できるほど、すべてを突き抜けた異形性に充ちていた。

年を重ねるごとに、五輪の記録が頭から薄れていくほどに、ただその作品の本質と美の衝撃だけがこころの中で浮き彫りになってゆく。

うるわしきアンドロギュノスの系譜は、真の芸術を創造するもの、真の美と、真のポエジーを伝えるものだけが引き継ぐのである。


フィギュア317-18

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


菫たちの慎ましい加護のもとに、
私は物言わぬため息と苦悩を置きましょう。
それは今宵私について離れないもの。
このあまりにも美しい宵に!
(ルネ・ヴィヴィアン『菫への祈り』)

フィギュア317-8



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Comment

通りすがり says... ""
はじめまして、まさきつねさん。
いつも知的な記事をひっそりと拝見させていただいているものです。
今回の去就に関して私は雀を無邪気に追いかけていた若紫が環境に苦しみ、最期に別の世界での幸福を願うようになった場面を思い浮かべ、すごくやりきれない気分になりました。
ご指摘されているように彼女の魅力は音楽、スケート、美といった彼女の好きなものに対するイノセンスさな気がします。
多くの人が安直な発言、カメラワークとかにごまかされ、スケート、彼女の本質を見ていなくて悲しいです。

私もタラソワさんのプログラムは大好きです。
タラソワさんのプログラムを生観戦して思いますが、彼女のプログラムはリンクの使い方も凝っていてジャッジだけではなく観客全体に訴えかけるものが多いため、TVではわからなかったすごさに感動します。
最近のプログラムはジャッジばかりに語りかけるものが多いので、滑りと身体表現で会場の観客全体を歓喜させるようなものは少なくなったように思います。
また高難易度ジャンプの数々も彼女の命の輝きみたいでスポーツとして見ていて面白いので、五輪ではどういうジャンプで挑んでくるか、スポーツの歴史を作るか楽しみです。

最期に運命論等は私はあまり好きではないのですが、
彼女の誕生日の方々はショスタコーヴィチ、フォークナー、魯迅といった時代や環境の不遇、苦難に耐えた芸術家の方が多いことに気がつきました、そういう人なのでしょうね。。。
様々な選手を見ていて思いますが、ベテラン選手はジャンプのピークの時期と滑り、世界観が完成される2種類のピーク期があるように思います、きっと彼女の場合は来季なのでしょうね。
この1年も色々わからないことが起こるのでしょうが、そっと彼女を信じていようと思います。
大変長々と長文乱文失礼しました...
これからも素敵な記事を陰ながら楽しみにさせていただきたいと思います。



2013.04.19 21:49 | URL | #- [edit]
まさきつね says... "二種類のピーク"
通りすがりさま

ご訪問うれしいです。

源氏物語は日本が世界に誇る女流文学で、悲劇的な最期を終える登場人物が多いですが、浅田選手には俗世でもあまり辛い思いはして欲しくないですよね。しかし、芸術的な歓喜は約束されている気がします。

タチアナコーチのリンク全体を使ったコレオは確かに素晴らしいですよね。ジャッジにおもねらないのも凄い信念だと思います。ボナリー選手が長野五輪の演技の最後で、ジャッジではなく観客に向けてフィニッシュしたのを逆に思い出しますが、いかにも最近の競技ではジャッジアピールがミエミエで、観客が置き去りですよね。
芸術としてもスポーツとしても楽しめる、こんな選手はそうそういない筈なんですけれど、マスコミの偏向記事や酷いテレビ放映の編集で、スケートの本当の面白さも、選手たちの演技の本質も全く一般大衆に伝わらないのが、残念でなりませんね。

ショスタコーヴィチの誕生日が一緒なのは、前に仮面舞踏会の記事を書いていた時気がつきました。少し調べてみたら、映画監督のブレッソンやグレン=グールドも同じなんですね。
有名なブロガーのSAWAKICHIさんが星座にお詳しかったですが、あの方なら何か楽しい運命論を聞かせてくださったかも知れませんね。

二種類のピークに関しては、仰る通りだと思います。安藤選手が二年前のシーズン、素晴らしい演技で世界を制しましたが、浅田選手も来季、バンクーバーとは一味もふた味も違う世界観を完成させてくれる予感がします。本当に楽しみですね。
2013.04.19 23:10 | URL | #- [edit]
says... "管理人のみ閲覧できます"
このコメントは管理人のみ閲覧できます
2013.04.21 12:55 | | # [edit]
まさきつね says... "そっぽを向かれる"
-さま

ご訪問うれしいです。
WFS58号の記事は読みました。
ほかにもクリック女史のインタビューなどがありましたね。酷い内容でした。
ドイツとロシアの確執や、それにつけ込んだカナダのやり口が透けて見え、うんざりしました。

日野選手はジャンプのURがメンタルに影響しているようですね。今季、演技に時々やる気のなさを感じたのは、裏にジャッジアピールに関する苦悩があったのですね。彼は羽生選手にはない、世界に通用する魅力があると思うのですが、せっかくの若い才能をいかにISUの老害が踏みにじっているか、しみじみ感じます。

選手自身が手ごたえを感じている演技の上達が、不可解な採点によって、数値としてジャッジに認められないのですから、落ち込むのも当然です。若い悩みだと感じるところもありますが、若い芽を摘みとるような真似を組織が権限を振りかざしてやっていいという理屈にはなりません。

いい加減、真っ当な人間が目を覚まさないと、ファンは無論のこと若い次世代の選手たちからもそっぽを向かれる日も近いかも知れませんね。
2013.04.21 18:34 | URL | #- [edit]

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