月船書林

フィギュアスケートの話題を中心に芸術を語る

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悲しみのメゾン、存在の消えない美しさ 其の弐

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湖のほど近くにありて 片すみに寄る二つの石の
すきまより 泉が 湧き出でてくる

泉の水はささやく

「ああ なんという幸せか
土の下は あんなにもほの暗くて
それが今 わたしの岸辺はみどりうるわしく
空は わたしの水面を鏡としてその姿を映し
鳥たちは わたしの杯を受けて喉をうるおす

あといくたびか 流れも曲がれば
わたしは 谷や 岩や あららぎを漱ぐ川となるだろう」
    
誕生もまもない泉は
先だつ気持ちを抑えきれず、こころは逸る……
(テオフィル・ゴーティエ『泉』)

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ジャン=オーギュスト・ドミニク・アングル『泉』1820-1856年

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前の記事があまりに長くなったので、分割させていただいたが、今回はクリスチャン・ラクロワが手がけた舞台衣装とその舞台について、お話ししたい。

彼がボナリー選手のフィギュア競技衣装をデザインしていたことはすでにお伝えしたが、彼の真骨頂である壮麗なファッションは、オペラやバレエといった舞台衣装でさらに花開き、ついには2006年に開館した、フランス、ムーラン市の国立舞台衣装設置センター(National Centre for Stage Costume、CNCS)の特別顧問として節理の準備段階から関わって、名誉理事長の職まで務めている。

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もともとソルボンヌ等で美術史を学び、エコール・ド・ルーヴルで難関の美術館コンセルヴァターの資格を取得したラクロワなのだから、博物館関連の仕事はお手のものといったところだろう。
ましてや彼自身が情熱を注いでいる服飾デザインそのものだけでなく、テキスタイルやファブリック、あるいはクチュール縫製に関連したレースや刺繍、繊維織物の加工技術など、さまざまな製作工程に強い興味関心をいだいていたということから、衣装作品の保存と修復、技術の伝承や研究、そして一般公開という同センターの設立使命に共感し、任務を引き受けたという経緯のようだ。

ラクロワがデザインした作品で有名なものとして、オペラでは『カルメン』や『ドン・ジョヴァンニ』『フォルチュニオ』、バレエでは『堕ちた天使』や『シェヘラザード』『ジュエルズ』、演劇作品でも『シラノ・ド・ベルジュラック』や『フェードル』『町人貴族』、さらには詩人ミュッセとサンドの恋を描いた映画『年下のひと』など枚挙にいとまがないが、どれも斬新な色の組み合わせと、彼らしく手の込んだディティール、思いもよらない意匠が舞台に別の魅力を付け加えて、その都度話題になっていた。

(浅田選手や安藤選手もプログラムに取り上げていた)演目『シェヘラザード』については、パリ・オペラ座でブランカ・リー振付の作品が、アニエス・ルテステュのドキュメンタリー映像に一部扱われている。本番の舞台は、相手役のジョゼ・マルティネズとともに黒い衣装で踊っており、これも豪華ではあるが、リハーサル場面で着ていた赤い衣装が何とも贅沢な装飾でエキゾチック、独創性で意表を突いている。

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アニエスの美貌は折り紙つきだが、その美しさをさらに引き立て、アジアの寵姫のイメージをこれぞと言わんばかりに印象付ける。頭の上から爪の先までじゃらじゃらと飾り立てて、肝心の踊りは大丈夫なのかと要らぬ心配をしてしまうが、アニエスの優雅な動き、スローでもその妖艶さと硬質な美しさは揺るがず、バレエの官能的なポーズを瞬間に創りあげるのだから、その磨かれたテクニックは確かなものである。

フィギュア競技の衣装で、特に浅田選手が着たタチアナコーチデザインのコスチュームを、ごてごてし過ぎとか、おばさん臭くて古めかしいとか、さんざんその装飾過多を馬鹿にする意見が時折あるが、まさきつねはコスチュームなんだからむしろ、ここぞとばかりに飾り立てたものを観たいと思うのだけれど、なかなか賛同を得られない。

すっきりとシンプルでモダンな衣装、(たとえば小塚選手などはバレエ衣装みたいに派手派手しいものはお好みではないというか、ちょっぴり恥ずかしいみたいでほとんどお召しにならないが、)彼の衣装のような日常着とさほど変わりがないようにみえるくらい、飾り気のないコスチュームがここ最近は主流のようで、まさきつねはちょっと寂しかったりする。

リンクの上はバレエの舞台と同じ、非日常の空間なのだから、いつも背中に薔薇を背負えとは言わないが、テキスタイルと縫製技術の数奇を凝らした意匠のコスチュームで時には観客を楽しませて欲しいと思う。

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さて、もう少し詳しい資料のあるものから、昨年六月先ほど述べた国立舞台衣装装置センターで開催された、クリスチャン・ラクロワの手がけたバレエ衣装の展覧会についてご紹介しておこう。

当時のニュース記事は以下の通り。


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【6月13日 Relaxnews】フランス・ムーランの国立舞台衣装装置センター(National Centre for Stage Costume、CNCS)で6月16日から、クリスチャン・ラクロワ(Christian Lacroix)が手がけたバレエ衣装の展覧会が開催される。

 会場には、昨年10月にパリ・オペラ座で公演された舞台「La Source(泉)」 のためにラクロワが手がけた衣装を展示。日本の生地を使用したチュチュやヴィンテージのサリーを使ったチュニック、スワロフスキー (Swarovski)のクリスタルをあしらったドレスやアクセサリーなど、オリエンタルな魅力溢れるコスチュームが並ぶ。

 さらに、衣装デザインのために集めた資料や写真、コスチュームのデザイン画、何度も作り直した試作品などを公開。クリエーションの舞台裏に触れられるまたとない機会だ。

 展覧会「Christian Lacroix, La Source et le Ballet de l'Opera de Paris」の会期は、6月16日から12月31日まで。(c)Relaxnews/AFPBB News

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記事の中にあるオペラ座で公演された舞台「La Source(泉)」は、、「フランス・バレエ音楽の父」クレマン・フィリベール・レオ・ドリーブ(Clément Philibert Léo Delibes:1836-1891)とオーストリアの作曲家で、バレエ「ドン・キホーテ」(1869年)で有名なレオン・ミンクス(Léon Fedorovich Minkus:1826-1917)の合作による古典的なバレエ作品。
1866年パリのルペルチエ劇場(当時のオペラ座)による初演で、全3幕4場の構成のうち、1幕と3幕2場はドリーブが、2幕と3幕1場はミンクスが作曲を担当した。

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ストーリーはペルシャを舞台にしたお伽話で、泉に毒を混ぜようとした悪人の企みに気づき、それを防いだ狩人ジェミルの恋を泉の精ナイラが手助けするというもの。

おおまかなあらすじは、まず第一幕、オアシスの領主である皇帝カーンのもとへ嫁入りするために、隊商の娘ヌレッダとその兄らコーカサスの一行が砂漠を進んでいる。泉の傍での休憩中、ヌレッダは険しい岩山に咲く花タリスマンを欲しがり、彼女に恋するジェミルは危険を冒してそれを摘んでくる。

第二幕、隊商の到着を待つカーンの壮大な宮殿の庭園。カーンの寵姫たちはヌレッダを快く思っていない。ナイラはジェルミのために、自分がカーンを誘惑し妃になる計画を立て、見事カーンはナイラを選び、ヌレッダを退ける。

第三幕、屈辱と悲嘆に暮れるヌレッダはジェルミを責める。ヌレッダの兄がジェルミを殺そうとし、ナイラは魔法で時を止める。目覚めないヌレッダを助けるために、森と泉の護符でもある魔法の花タリスマンの力を懇願するジェルミ。タリスマンの魔法はしかし、代わりにナイラの命を要求する。ジェルミをひそかに愛していたナイラは自分が死ねば、森の精ザエルやニンフたちや自分の泉を守ってあげられなくなると分かりつつも、ジェルミとヌレッダの恋の成就のために、ヌレッダの胸にタリスマンの花を手向け、永遠の眠りについていく。…

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以下の記述は、基本として公演プログラムの解説に補足したものだが、いつも通り、まさきつねの私見等も交じっているので、多少読みづらいかと思うがご容赦。


音楽 レオ・ドリーブ、レオン・ミンクス 
編曲 マルク=オリヴィエ・デュパン 
振付 ジャン=ギヨーム・バール 
舞台 エリック・リュフ 
衣装 クリスチャン・ラクロワ 
照明 ドミニク・ブリュギエール 
演出 クレマン・エルヴィユー=レジェ、ジャン=ギヨーム・バール 

配役
ナイラ(泉の精)/リュドミラ・パリエロ
ジェミル(狩人)/カール・パケット
ヌレッダ(カーンの婚約者)/イザベル・シアラヴォラ
モツドク(ヌレッダの兄)/ヴァンサン・シャイエ
ザエル(森の妖精)/マチアス・エイマン
ダジェ(カーンの寵姫)/ノルウェン・ダニエル
カーン(皇帝)/クリストフ・デュケンヌ

Etoiles, Premiers Danseurs and Corps de Ballet
パリ国立歌劇場管弦楽団 指揮 コーエン・ケッセルス

詩人、小説家であり優れた評論家でもあったテオフィル・ゴーティエによると、台本を書いたシャルル・ニュイテールはアングルの絵画『泉』にインスピレーションを得て、美女が多いことで知られるコーカサス地方に湧き出る泉を舞台に作品を仕上げたらしい。この記事の冒頭に掲げたゴーティエの詩『泉』もベースにあったという説もあるが、真偽は分からない。

初演は『コッペリア』などで知られるアルチュール・サン=レオンの振付だが、この作品は69回の上演と、1876年に来仏したペルシャ皇帝を歓迎するガルニエ宮のこけら落し公演を最後に、オペラ座のレパートリーから消えていた。

新生の『泉』はニュイテールとサン=レオンによる3幕の台本を、演出担当のレジェとバールが2幕3場のバレエに改編し、振付師のバールが、物語と無関係のディヴェルティスマンと長いパントマイムをカットすることで、3時間以上もあった原作を2時間20分にまとめあげたらしい。
本筋とは無関係の魔女モルガブといった登場人物も外し、音楽も現代の作曲家デュパンが大幅に入れ替え、ドリーブのほかの曲を織り交ぜて、世界観を統一したようだ。

ガルニエ宮の舞台でのプロダクションについては、初演当時の記録がほとんど残っていなかったこの作品に、ドリーブの音楽やわずかなバレエ史にあった記録から興味をいだいたバールが、1997年オペラ座バレエ団芸術監督のブリジット・ルフェーブルに話を持ちかけたのがきっかけらしい。
賛同したルフェーブルがフランス演劇界の権威であるコメディ・フランセーズの有識者たちに声をかけて、ついに衣装、装置、照明など舞台演出に関わる豪華メンバーが勢ぞろいして、国立オペラ座の総力を傾けた復活公演が実現したのだという。


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また脱線するのが分かっていて敢えて語るが、バールはバレエの指導者、振付家としてもかなりの知見者であるが、そのダンス・クラシックに対する哲学や理論は実に独創的でしかも現代的、論旨もぶれがなく主張が一貫していて、バレエのみならず身体表現の芸術に関わる人間には実に興味深いと思う。

以前、ブログにUPしようとしてそのままになっていた2012年青山学院大学文学部フランス語学科主催の彼の講演の覚書から、その趣旨を凝縮してご紹介したい。

◇ジャン=ギヨーム・バール氏講演会◇
「ダンス・クラシックの今:伝統と革新のはざま、逆説に満ちた世界」(通訳付)

日時:2012年5月18日(金)18:00~19:30
場所:青山キャンパス9号館4階940教室
*ジャン=ギヨーム・バール氏は元パリ・オペラ座エトワール。現在は後進の指導に当たるとともに、振付家としても活躍されています。

◇◇◇◇◇

まずダンス・クラシックの定義として、バールがあげるのが、次のような要素である。

① 道具としてダンサーの身体を用いる
② 身体表現によって感情をはこぶ
③ 理性と感情、知性と創造力を結びつける
④ 芸術という光に充ち、絶対を追求するもの
⑤ 文明の叡智を得た表現者によるもの

以上からバールは、自分を取り巻く状況やあらゆることについて考察し、何かを創造する力を得た人間の身体表現をダンス・クラシックと呼ぶ。彼のこの論理に従うと、自らの身体の可能性について知識を持ち、その限界を追求することによって、あらゆる感情をコントロールすることが可能になるという。

そして造形として出現するのが、古代の彫像に由来する均整という調和、絶対という超越を獲得したもので、それがダンス・クラシックの基本となるエポールマン(上半身をひねって作り出す肩から首の位置)に象徴される。
例として上がるのがレオナルド・ダ・ヴィンチの『洗礼者ヨハネ』のポーズ。古代彫刻からルネッサンスの芸術にまで、水平と垂直のラインが生み出す安定と、上体の垂直軸を起点とするひねりの動きからあふれる情感が、作品に機能しているとバールは考える。

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彼は表現者の腕の動きと視線の使い方にも、美を導き出す要素を見出しているが、このあたりはバレエだけでなく、ほかのダンスでもあるいは体操やフィギュア競技にも重要な示唆となるように感じる。指の先まで張り詰めた神経と、目線の配り方を疎かにすると、あらゆる動きは繊細さを失い、いくら正確な動作でも魂のこもらない機械的な冷たさを帯びる。

インドの伝統舞踊にある基本原理とも共通すると彼は考えているようだが、18世紀の半ばにフランスのバレエマスター、ノヴェールが「手が行き着く場所に視線が向かい、視線が行き着く先に精神が宿る」と述べたことにバールは共鳴する。

演じ手の視線の動きが舞台空間の広がりを観客に感じさせるからである。インドではさらに「精神が行き着くところに感動がある。エモーションが湧き上がったところに感情がある」と、ダンスによる感動を生み出すのは、身振りから派生した視線、そして魂の放出だと考える。
バールはこうした教えを踏まえ、ダンス・クラシックにおいて観客に伝えるべきなのは、ダンサーの身振りではなく思考の力であり、ダンスのテクニックはその思考を観客にはこぶ手段に過ぎないとする。

バールの考えの中で特に興味深いのは、現代のバレエがテクニックを重要視するあまりに、よりアクロバティックで体操的な踊りに傾倒するようになり、その結果、ダンサー生命を縮めたり、豊かな感情表現に欠けたり、ポージングのラインの調和を失ってしまったりという弊害が起きているという批判である。

シルヴィ・ギエムの登場が時代を革新させたことに異論はないのだが、彼女の超人的なパフォーマンスによって、観客の関心はダンサーがいかに高く脚を上げるかといった身体的能力に集まるようになり、芸術的な資質を置き忘れるようになったとバームは考えており、優秀なダンサーになるには特殊な身体性や、体操選手並みの超人的なテクニックが必要なのかと疑問を投げかける。

行き過ぎたテクニックの追求や、テクニックを数値化したコンクールは古典芸術の思想に添っているとは言えないし、身体的条件やプロポーションに恵まれないためにキャリアを積むことができない優れた才能が、日の目を見ることなく埋もれていくのは忍びないと彼は、ダンス・クラシックの将来を悲観する。

バールにとって身体表現が観衆のこころを惹きつける大事なポイントは、ダンサーが自らの体の声を聞き、自らの思考や感情をいかに伝えるかであり、テクニックはそのための手段、道具にしか過ぎないということなのだ。

バールは講演の質疑応答の中で、バレエ教育者へのメッセージとして伝えるならと前置きして「舞台でインパクトを受けたのと感動を受けたのはまったく別のことである。動かない瞬間もダンスの一部である。演劇的な面も重要である。言葉にならないものを表現する力を身に付ける。身体を歌わせることを学ぶ必要がある」といったことを、後進に伝えるべきだとしている。

バールは彼自身が、先駆者バランシンの作品によって、身体が歌うことを教えてもらい、身体が歌えることを教えてもらったと、音楽と一体化した豊穣な表現の必要性を訴えるのである。

このバールの考え方は、『泉』の振付や演出にも強く反映しており、音楽やパントマイムの冗長な部分を極力排除し、わかりにくいストーリーを明解にして余分な内容を削ぎ落とし、観客を感動的なフィナーレへ時の流れを忘れる盛り上がりで導いた。

踊りや振付では、ヌレエフ以来ロシアの伝統的な技巧中心のスタイルから外れて、バランシンやロビンズを規範とする、音楽性を大切にした流麗な「Pas」を多用し、いわゆるフランス流の優雅さと気品を本領とする情緒豊かなバレエの理想の顕現に努めた。
これによって、難しいテクニックを盛り込みながらもそれらを水面下に隠した、エレガントで情感あふれる作品を実現したと評されている。

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まさきつねがフィギュアの芸術性を判定したり論じたりするのなら、その際にもっとも参考すべきだと感じたバールの考え方は、「完璧さを求めすぎると踊り手に歯止めをかけてしまう。テクニックの完璧さは表現に制御を与えてしまうものだからだ。完璧さの追求を目的としてはならない。芸術に完璧というものはない。芸術は未完成なものであり、あえて言うなら絶対(absolute)を探求するべきだ」という論旨である。

バールに言わせると、若いうちから練習によって正しい筋肉の使い方を学び、正確さを求め、鍛錬によって絶対を探求するのは重要なことだが、厳密さと正確さを混同してはならないと警鐘を投げかける。

「絶対を探求」すれば自分自身のあるべき姿を見出すことができる。だが厳密に規律を守ろうとすると、表現が失われてしまい、表現すべき美が損なわれると彼は理解しているのだ。
バールは、探求には日々の鍛錬が大事だが、自分の限界を超えて自分の中にあるこころを自由に解放することが、表現において最も重要だと訴えるのである。

回転不足だエッジエラーだと、基準もあいまいなままでマイナス判定を容赦なく繰り返し、一方で特定の選手には不透明な加点を山積みする不可解な採点システムを一向に改める気配のない競技の中で、演技の芸術性がどうとか表現力がこうとかと、ふた言目には芸術鑑賞の主観性を持ち出すジャッジやその追随者たちは、少しはバールの実に先駆的な芸術論を肝に銘じてみればいいと思う。

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第1幕第3部<ナイラの世界>より、ナイラ(ミリアム・ウルド=ブラーム)とジェミル(ジョシュア・オファルト)のパ・ド・ドゥ

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第2幕第1場<カーンの宮殿>より、中央=ヌレッダ(ミュリエル・ジュスペルギー)

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第2幕第2場<犠牲>より、ヌレッダ(ジュスペルギー)とジェミル(オファルト)のパ・ド・ドゥ


閑話休題。

話がバールからダンス・クラシック(バレエ)の芸術論に向かって止まらなくなったが(それはそれで、実に興味深い内容だったろうとは思うのだけど)、本題のラクロワの衣装へ戻ろう。

で、その前に少しだけ『泉』の舞台装置についてお伝えしておくが、幕が上がってシンプルでモダンな舞台美術の中に、観客の目を引く夥しい数の太いロープやビロードの帯が天井から吊り下げられているのだが、これらのロープ紐やタッセルはガルニエ宮のステージで昔から使用されていた年代ものらしく、踊りの振付や演出効果にも一役かうと同時に、その華やかで壮麗な存在感が空間をアラベスクのように煌めかせている。
いかにもフランスらしい、粋な趣向だと思う。

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そしてこれほどすっきりと洗練された舞台だからこそ、スワロフスキーの光り輝くラクロワの華麗な衣装も鮮やかに引き立つのだろう。ストーリ―の内容に忠実ではあるのだが、こういったオリエントな民俗色の濃いデザインは、まさに民族衣装への造詣も深いラクロワの真骨頂である。

スワロフスキーのビーズに加え、羽毛やファー、レースやオーガンジー、刺繍のリボン、アラベスク模様のテキスタイルなど、あらゆる色とテクスチャーを豊富に織り交ぜ、組み合わせたデザインは、もはや画家のコラージュ技法に匹敵する芸術性を持ち、そして優雅さと可憐で軽快な明るさ、温かさを兼ね備えている。

さらにあくまで舞踏衣装としての動きやすさ、人間が動いたときにテクスチャーが見せる表情の美しさも計算され尽くしている。
これはボナリー選手のフィギュア衣装のデザインなどから培った部分もあるだろう。


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☆La Source - Opera National De Paris☆


実際に作られた衣装もさることながら、彼の軽やかな筆致で描かれたデザイン・スケッチも充分にその美しさと気品を伝え、オートクチュールの職人的達人ラクロワ・コレクションの一部を形成する。
『泉』のほか、オペラ『ペール・ギュント』、モリエールの『町人貴族』の衣装など、以下ご紹介するので、どうぞご堪能されたし。


まずは『泉』の衣装とラクロワのスケッチ。

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次は、コメディ・ フランセーズ グラン・パレ 2012年5-6月公演『ペール・ギュント』から衣装を着た俳優陣の写真。

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ペール・ギュントのエルヴェ・ピエールと母オーセのキャサリン・サミー

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花嫁イングリッドのアデリーヌ・デルミーとペール・ギュント

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魔王のセルジュ・バグダサリアンと魔王の娘のフローランス・ヴィアラ

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モロッコの四人の紳士

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ソルヴェイグの家族、彼女の両親と妹ヘルガ

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そしてモリエールの『町人貴族』からラクロワのスケッチ。

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ラクロワのデザイン・スケッチもその衣装に負けず劣らず、ゴージャスなコラージュ技法が駆使され、画家の作品と見紛うばかりとお感じになるのではないだろうか。

豊かな色彩感覚はゴージャスだが、実に軽やかで音楽的でもあるし、詩的でもある。
流れるような筆致は情感にあふれ、フランスらしいエスプリが効いた表現が柔らかなユーモアで画面を包んでいる。
哲学的な知性も感じさせるが、陰に落ちず、弾けたような明るさと遊び心が、光に充ちた生への喜びを伝えるのだ。

そういえば、バールがテオフィル・ゴーティエについて語った上智大学の講演で、ゴーティエは「もし自分がオペラ座のディレクターだったら、作家ではなく画家にバレエの台本を作らせる。」と言っていたというエピソードを紹介していた。
バレエには、文学的、演劇的な要素よりも音楽的な感性が大事とするゴーティエの考え方では、バレエをいかに「目に見える交響曲」としてダンサーが美しい形やPasで舞台を構成するかが重要視されるからだ。

ゴーティエが音楽を見えない絵画、絵画を見える音楽としてとらえ、バレエを音楽と絵画が融合した空間芸術として位置付けていたという、詩にも絵画や音楽にも精通した彼らしい感覚だと思うが、あらゆる芸術に、そもそも境目などないのだろう。

そう考えると、ラクロワのスケッチなどは充分、演劇やバレエの台本に匹敵する饒舌な内容を兼ね備えている気がする。

豊穣な泉のようにあふれる才能というものは、世界を明るくて温かな光で充たし、挑戦するひたむきなこころ、革新に向かう冒険心を育むものだと思う。


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◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

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Comment

ホビット says... "素晴らしい!"
まさきつねさん、また素敵な記事をありがとうございます。
バレエ、オペラも大好きな私には、とてもうれしい記事でした。確かに、現在、全体的には、テクニックの優れたダンサーがもてはやされているような印象を受けます。ガラなどでは、確かにテクニックを魅せるダンスも見ごたえがあるのですが、やはりひとつの作品としてバレエを観るときには、テクニックにプラス、音楽をとおして表現したいものが何かを感じさせるダンサーかどうかはとても重要なポイントですね。
私は、やはり、しっかりしたテクニックと美しいプロポーションを兼ね備えたロシアのバレエが好きなのですが、衣装や舞台を含めて一作品として楽しむとなると、断然、オペラ座なのです。ロシアテイストはやはり、どこか田舎くささがあり、その点、オペラ座は素晴らしいと思っていましたが、やはりラクロアをはじめとした、芸術としてファッションをきわめてきたデザイナーを多く輩出してきた国だからなのですね。
ラクロアのデッサンの美しさ、楽しさに驚きました。絵画にしても、詩にしても、バレエにしても、そしてスケートにしても、美しい「絶対性」を求めるものを見ていきたいなと感じました。
2013.04.26 18:38 | URL | #- [edit]
すみこ says... ""
まさきつねさま、こんにちは。
ラクロアの衣装、芸術的で素晴らしいですね。これらを見て思うのは今季集大成となる浅田選手の衣装を見果てぬ夢ながらラクロアデザインで浅田選手に着て舞ってもらいたいものだと思いました。
タラソワさんの振り付けで。浅田選手にはちょっとこってりしすぎかなとも考えましたが案外ぴったりとはまる気がします。相乗効果ですばらしくなるのでは。
2013.04.27 08:04 | URL | #- [edit]
まさきつね says... "絶対性を基準に"
ホビットさま

ご訪問うれしいです。
多分、まさきつねのブログをご訪問の方は、バレエやオペラにもご興味があるだろうと思い、今回の記事をUPしました。
バールの講演は昨年でしたので、もっと早くご紹介できれば好かったのですが、申し訳ないです。

日本やアジアもこの近年、バレエ人気がすごいですが、テクニック重視の傾向が強いのは世界的な風潮ですから仕方ないにしても、バールは苦言を呈したかったのでしょうね。
たくさんの表現豊かな才能が、超人的な身体的能力や驚異的なテクニックを持ち得ないがために埋もれてゆくのを、彼は大変残念がっていました。
テクニックは基礎的な表現として重要ですが、それに溺れるとアクロバティックになったり、アスリート的になりすぎたり、バレエとしての美しさや音楽との一体感を失ってしまうということですね。

これはフィギュアでもいえることですが、しかしフィギュアの採点という中では、このバールの理論を逆手に取るみたいに、もともとたいした能力も挑戦心もない選手のつまらない演技を、表現力という一言で持ち上げてしまうから可笑しなことになっている気がします。
おそらくバレエは長い伝統の中で、しっかり培った「絶対性」、正確で美しいポージングや動き、Pasの手本が定まっているからだと思います。
フィギュアは回転不足にしても、エッジエラーにしても、あるいはスピンやスパイラルのポージングにしても、正確さの基準が基本的に曖昧すぎるのですよ。採点競技の根幹を揺るがす、致命的な欠陥だとまさきつねは思います。

観客はもはやジャッジの出した得点や順位に頼らず、自分自身で求める「絶対性」を基準にバレエにしてもフィギュアにしても、あらゆる芸術を鑑賞してゆくべきなのでしょうね。そして自分の感性がどれほど揺さぶられたか、それこそが真の表現力なのだと思います。

2013.04.27 19:50 | URL | #- [edit]
まさきつね says... "ふわふわ、きらきら"
すみこさま

ご訪問うれしいです。
オートクチュール、素晴らしいですよね。テクスチャーと縫製技術の真髄を極めた芸術だと思うのです。

日本選手のフィギュア衣装も、もっとこうしたクチュールの世界から参入して欲しいですね。バレエやオペラといった演劇も同様です。
日常着で過度に贅沢することはないと思いますが、舞台や晴れの衣装などにはもっと贅を尽くしても良いと思うのですよ。

浅田選手にはもう尽くせる限りの装飾をした衣装を希望します。勿論プログラム次第ですけれどね。
でもラクロワのナリラのバレエ衣裳みたいな、ふわふわ、きらきら、素敵でしょう?
こんな雰囲気の衣装が似合う選手も、めったにいないと思うのですけれどね。
2013.04.27 20:05 | URL | #- [edit]
みのり says... "うっとりしました"
まさきつねさま、こんばんは。

ラクロワのデザイン・スケッチ、素敵ですね。(語彙が陳腐ですみません)
一枚一枚見ていると、上質な絵本をめくっているような感覚になりました。人物の姿だけで、物語が立ち上がってくるかのようです。

浅田選手のシェヘラザードの衣装も大好きでした。シュニトケの衣装も、私は世界選手権で着ていたものが一番好きでしたが、評判悪かったですよね。大胆なデザインにはじめは驚きましたが、浅田選手は品よくまとっていたと思います。タチアナさんの衣装を批判する人は、ただ単に自分の好みに合っていないだけなのに、それに気づいていないんじゃないかと疑っています。

確か浅田選手自身が、「いろいろな衣装が着られるのもフィギュアスケートの好きなところのひとつ」という発言をしていたと思います。見る側も楽しみですよね。
2013.05.13 20:36 | URL | #6wH.DH8I [edit]
まさきつね says... "いろんな衣装"
みのりさま

ご訪問うれしいです。

陳腐な表現ではないですよ。ラクロワのスケッチ、一枚一枚物語がありますよね。創造性があるというのは、こういうことでしょうね。

衣装に文句をつけたくなる気持ちも分からない訳ではないですが、すべてに難癖をつけるのはどうかと思いますね。改善案みたいなものも時々拝見しますが、そんなに好いと思うパターンはあまり見かけないです。デザインって難しいですよ。実際に着てみたら、動きとかがきれいじゃないこともありますしね。

いろんな衣装が着られる楽しさというのは、良いですね。いろんなキャラクターになり変われるということの証です。
来季も楽しみですね。
2013.05.14 12:45 | URL | #- [edit]

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