月船書林

フィギュアスケートの話題を中心に芸術を語る

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透明な時間、透明な道

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メフィストフェレス
道はありません。歩いたもののない、
歩かれぬ道です。頼まれたことのない、頼みようのない所へ
往く道です。思い切って往きますか。
貫木(かんのき)や錠前を開けるのではない。
あなたは寂しさに附き纏(まと)われます。
一体寂しいと云うことが分かっていますか。
(中略)
ファウスト
昔から新参を騙し騙しした、魔法の師の中の
一番の先生のような話振をするね。
ただあべこべだ。伎倆や力量を進めさせに、
君は己を空虚の中へ遣る。
火の中に埋めてある栗を取りに遣られた、
あの猫のように、君は己を扱うのだ。
宜しい。一つその奥を窮めて見よう。
君の謂う空虚の中に、己は万有を見出す積(つもり)だ。
メフィストフェレス
いや。お別(わかれ)をする前に褒めて上げます。
兎に角あなたは悪魔の腹を知っていますね。
(ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ『ファウスト』)



此の道を行けば どうなるのかと
危ぶむなかれ 危ぶめば 道はなし

ふみ出せば その一足が 道となる 
その一足が 道である
わからなくても 歩いて行け 行けば わかるよ
(清沢 哲夫『無常断章』)

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・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


悪魔ではない、むしろ天使のようなひとから若々しい新芽への教示に充ちていて、お互いが滋養となるものを咀嚼しあうような関係が見た者にも心地よかったのが、(コメントでもいただいたのだが)『子供が憧れの有名人に本気インタビュー!スポーツ選手部門』というバラエティ番組の企画である。

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これは昨年九月本格的なシーズン前に、『THE ICE』のモリコロ公演の後に行われたインタビューから構成された番組だったので、かなり古い情報なものだから、ブログのUPをためらっていたのだが、せっかくコメントもいただいたことだし、内容もとても充実していたので、記録として残しておくために掲載することにした。

番組をご覧になった方も多いと思うし、今もまだ動画がネットに上がっているので、大体の骨組みだけをまずお話しするが、幼いころから空手で頭角を現し、世界の頂点を目指している小学六年生の少女が、憧れる浅田選手へのインタビューアーとして抜擢されるというものである。

小学三年生で日本一になったものの、その後の自分の成績やモチベーションなど、さまざまな悩みをかかえ、違うジャンルの選手とはいえ尊敬する浅田選手にその示唆を求めたいという、空手少女の真摯な思いが背景にあり、ストレートな言葉に純真な気持ちの強さが滲んだ、とても素敵なインタビューになっていた。

フィギュアスケートと空手、まったく交わらない世界のようでありながら、少女いわく「真央ちゃんはみんなが見ている広い会場でひとりで演技することだったり、負けず嫌いなところとか…ちょっとうまくいかない時期があったり、今まで私がしてきたことと似てるなって」という言葉から察するに、同じように個人競技で、ただひとり自分の演技に向き合わねばならない孤独や、頂点を追求する姿勢などどこか共通する境地をすでに見出しているのはやはり、どんなに年齢が低くても早くから高みを見つめて日々の鍛錬に励んできた人間同士、共鳴するものがあるのだろうという気がした。

そしてインタビューの前に、浅田選手は自分の演技をアイス・ショーで、空手少女の方は浅田選手目の前での演武でというかたちで、お互いにそれぞれの精一杯を尽くした表現を見せ合い、それを前提に話を進めていくという構成も素晴らしかった。

少女はアイス・ショーを「演技の中に本当にすいこまれるように見とれちゃいました」と飾り気のない言葉で賛美し、浅田選手も少女の凛々しい演武を「はじめて生で見ました。すごく音がするんだね」と素直な感想で感動を伝えていたが、相手にへつらって胡麻を擂るのではない何気ないこうした言葉のやりとりが心地よく、語感にも年齢を超えた互いへのリスペクトが感じられて、それが以下の本格的なインタビュー内容も、さらに無駄のない充実したものにしていたと思う。

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(少女の演武に拍手)

動画から書き起こしたのは、ほぼ次のような内容で、少女(恵都さん)は礼儀に叶ったしっかりした口調で質問をし、浅田選手はひとつひとつの質問にじっくり考えながら、自分の言葉で自分の気持ちを偽らないように答えている様子が見える。

*****

恵都:私の夢の世界一に、(浅田選手は)ジュニアとシニアの時になった事を知っていて、そのときに、なった後のチャンピオンでしか感じられない事とか、新たに挑戦したいなって思う事とかがあるんですか?

真央:…そうですね。1回、世界チャンピオンになる前に2位だったときがあって、それですごい頑張ってもう一歩だったところで、あの、1番を逃してしまったから、そこで頑張ろうって思ったんですけど、優勝したときはすごい達成感っていうのを感じられたので、また2回目もそういう風に味わいたいと思って、もっと練習を頑張るようになりました。

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(世界一になったその先の夢は?)
真央:逆に次は、次の世界選手権の時に今度は1番だからどうしようっていう、ちょっとした不安っていうのが出てきてしまいました。

恵都:その不安というのと同じだと思うんですけど、私も今それで自分の演技ができなくて悩んでいて、そこであのふだん、真央ちゃんがプレッシャーに勝つ方法で、ふだんからやっていることはあるんですか?

真央:真央は、試合だからあの、変えちゃうんじゃなくて、いつもと同じような状態を自分で作って、あ、いつもどおりだから大丈夫って、思うようにしています。

恵都:すごい究極なんですけど、自分の演技ができなくてもらえた金メダルと、自分の演技ができたけどもらえた銀メダルは、どっちが欲しいですか?

真央:これ難しいですね。…とっても難しいですね。
自分のオリンピックの時なんだけど、銀メダルだったんだけど、やはり最初はすごく悔しかったんだけど、あとから本当にたくさんの人から「おめでとう」とか、自分が頑張ってきた事とかが、ほとんど全て出すことができたし、っていう気持ちに変わってきたので、最終的にはすごい嬉しかったですね。

真央:その時はすごい金メダルじゃなくてくやしかったんだけど、今はすごく(銀メダルで)良かったなって思っていて、頑張れたから(銀メダルで)良かったって思えたんだよ。

恵都:ありがとうございます。

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(大切なオリンピックの銀メダルを、直接触らせたのは意味があるのか?)
真央:自分もバンクーバーオリンピックの前の時に、高橋尚子選手に、お会いした時に初めてオリンピックのメダルを見せていただいたんですよ。その時に、すごく感動して手が震えちゃったんですけど、「あぁ、欲しい!」って思いましたね。なので、今日はぜひ、あの恵都ちゃんにもメダルを見せてあげたいなと思って…

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(インタビューを終えて)
真央:ほかのスポーツをしている女の子なのに、フィギュアスケートを見てくれていて、それで自分を憧れてもらってるってことは、本当にすごい嬉しいことですし、必ず頑張れば、またトップに上がれると思いますし、これからもっともっと成長できると思いますので頑張って欲しいなって思いました。

***************


少女の問いかけはかなりストレートに、スポーツをやる人間なら誰もが感じるだろう葛藤の悩みを突いていて、そのひとつが、優勝した後の次のモチベーションの保ち方で、これはさすがに世界女王の座に二度上りつめた浅田選手らしく、たびかさねる練習によって「いつもどおり」を保つという、適切なアドバイスが返されていた。

だがもうひとつの質問、究極の選択の方は、浅田選手といえどなかなか答えにくかったようで、加えて、自らのバンクーバーの経験に再び直截向き合わねばならぬという成り行きも、いつまでも片付かない宿題を与えられているようで、それでも懸命に答えを探している姿は、いかにもアスリートらしい誠実な率直さが少女にも伝わったのではないだろうか。

「私はすごい結果にこだわるタイプで負けず嫌いだから」と自分自身を冷静に分析する少女は、一方で「今の目標は自分の形を打つことだから銀メダルの方が良いのかな」と、揺れ動く気持ちを正直にインタビュー前に語っていた。

浅田選手の「頑張れたから(銀メダルで)良かったって思えたんだよ」という言葉は、本当に負け惜しみでも何でもなく、人生の不条理とともに彼女に与えられた多くの試練を実直に乗り越えてきたその足跡が垣間見えて、五輪の銀メダルの重みとともに、少女には何よりの先人からの教えになった気がする。

そして一方で、「(このインタビューから)数えきれないものを得たし、次からは優勝したいと思うけど、自分の最高の形が打てるように頑張る」という少女の言葉は、インタビューに答えた側の浅田選手にも、何よりの宝物になったことだろう。

ところで、拙ブログでも何度がお話ししたと思うが、まさきつねはほとんどスポーツをやらない。ウィンター・スポーツについても、リンクだろうとゲレンデだろうとただのレジャーでまさに子どもの遊びの域を出ず、していることは赤ちゃんのよちよち歩きと大差ないレベルだ。

だからスポーツの側面で身体活動について語るのは、いつも多少的外れかなと不安な部分もあるのだが、それを敢えて承知でお話ししたいのは、いわゆるスポーツの分野でしばしば論じられる「術」と「道」に関する考察である。
とはいえ、まさきつねごときが今更、剣術と剣道、柔術と柔道、弓術と弓道、武術と武道などなどを例に挙げて何かを論じたところで、さほど目新しい分析ができるとは思えない。

元より、身体を使うスポーツにおいて「術」と「道」の違いを論ずる自体、机上の空論であり不毛と感じておられる方々も少なくないようだ。
そこで伝え聞いた概論であるが、武の道に通じておられるひとの大方の意見からすると、術と道の二つの概念は並列でも対立でもなく、優劣もないので同じと捉えても構わないようで、強いて言えば「『術から道へ』という表現がより正確」あるいは「『道』とは『術』を修練していく過程で自らが学ぶもの、結果的に到達できる境地であったはず」と考えられているようである。

これは「求道無限」(みちをもとめるにかぎりなし)といういわゆる武士道的な考えに基づいているらしく、術・技・芸をより普遍的な精神の次元へ止揚しようとするとき、そこに「道」という概念が生じるものという流れがあるからだ。
すなわち、術・技・芸そのものが道であり、これらを限りなく求める先に、かろうじて「道」がある可能性があるだけで、こころと身体の合致を求める「術」を修練していく過程で自らが学び、その果てに到達でき得る境地が「道」とされている(と、まさきつねは受けとめている)。

興味深いのは、ここに入ってくる「型・形(かた)」という存在の認識で(空手少女もしきりにこだわっていたが)、これはその会得と相伝という教育の在り方もふまえて、スポーツの分野だけでなく、まさきつねも足をつっこんでいる茶道や華道、香道、さらに書道といったいわゆる文化系のジャンルでも同様に、基礎となる技術や規範となる手本、さらにはもっと高度に洗練され研磨されたかたちの追求といったように、いかに既成の技や旧知の様式を踏襲しつつ、昔のものに忠実でありつつ新しい世界を開拓していくかという課題に繋がっていく。

ただここで、スポーツと明らかに違うのは、文化系の分野では「道」はあるが「術」はない、つまり「茶術」「華術」「香術」「書術」という概念はなく、はじめから「道」という概念のみが示されているということだ。

これは「芸道」と「芸術」の違いということを考察する点で、非常に面白いポイントではないかとまさきつねは思う。

「江戸学」の大家で知られる西山松之助さんは「家元制度」の研究でも定評があるが、その『芸道と伝統』という著作で、日本の伝統芸術と西欧やほかの東洋諸国のそれとの違いのひとつに「芸道」という概念を挙げ、次のように定義しておられる。

「芸道というのは、芸を実践する道である。芸とは、肉体を用いて、踊ったり、演じたり、画いたり、嗅いだり、味わったり、話したり、弾いたり、等々、体の全体または一部をはたらかすことによって、文化価値を創りだすとか、または再創造するとかする、そのはたらきをいう。(中略)…はたらきかた、その方法、さらにいえば、演じ方とか、弾き方とか、それぞれの文化領域における具体的な実践法、それが道である」

「はたらきかた、ということは、そこに、ある法則性、規範性というものがあることを意味する。演じかた、弾きかた、歌いかた、踊りかた、などというときの、日本語の『かた』には、そこに『型』という字が意味するような法則性や規範性が存在している。(中略)…つまりそれが道なので、日本の芸道には、このような規範性が強く存在している」

「『型』の規範性、拘束性は、逆にいえばそれを規範とし、拘束されなければ芸道の道を通れないか、あるいは、通るのに甚だ困難だということに、むしろその存在基盤がある」

西山さんの定義によれば、規範に従って修業し、「型」の再現を修練することで、多少の能力の差はあれ芸道の奥義を窮めることが可能になる。
門戸は誰にでも開かれている。

「型」の相伝が畢竟、他国にない特殊な日本文化として家元制度を形作り、その典型として指導者と呼ばれる「宗匠」という存在を生み出す。

数学者の藤原正彦さんは(ゴルフに言及してではあるが)「型はあるが、合理追求の結晶ともいうべきそれは、何故か常に美しさをを備えている。だからこそ初心者にはまず型を教えるのだが、その意義は初心者に論理的に説明するのは難しい。従って、頭ごなしに教える。…人間道には、無論どんなスポーツよりはるかに多くの型がある。…自己流ばかりではダメだ。」と言っておられたが、結局、先人の知恵のひとつとして残された「型」を指導することによって誰もが道の上に立つことができ、またその「型」の中に一種の秘儀ともいうべき上達のヒントが隠されていて、さらには人間性やその精神の見えざる部分までが磨かれるということなのだろう。

こうしたいわゆる「精神論」に異論を唱えても水掛け論であるし、感銘を受ける受けないは個人の自由なので、このような捉え方もあるということなのではあるが、一方で、こういった日本的な審美主義に基づく解説に真っ向から噛みついて、「芸道」の型を離れ、もっと直截に日本の伝統美と向き合いなさいと唱えた日本の前衛芸術家がいた。

岡本太郎だ。

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驚くべきことに岡本太郎が日本の芸道と「芸術」の違いに挑戦的に言及して、彼の考える芸術の本質を語ったのは今からもう五十年(半世紀!)も前のことで、そして今でも衝撃的な部分があるというのは、まだ日本の中に数百年に渡る普遍的な考え方がこびりついており、そしてそれは決して忌むべきものというだけでなく、庭の苔や仏像の金箔に付着した煤のように、まさに日本的な美の本質であるからかもしれない。

岡本太郎によると、「日本人くらい一方に伝統のおもみを受けていながら、しかし生活的にその行方を見失っている国民はないでしょう」という、日本人の日本の伝統美に対する節穴ぶりはまさに絶句という体たらくらしく、これはこの前にUPした記事のプライスさんの感想にも近い認識であろう。
日本人は西欧のジオットー、ミケランジェロ、ゴッホ、シャガール、ピカソ、ミロらの作品に匹敵するはずの、自らの伝統芸術をないがしろにしてきた、そしてそれは日本人が日本の伝統を見るとき、何かに惑わされているせいだと岡本太郎は考える。

岡本太郎が例に挙げるのは、まずは(定番の)縄文式土器、そして尾形光琳の『紅白梅図』や『菖蒲図』といった屏風、さらに銀閣寺の銀紗灘と向月台である。彼はこうした日本の造形の中に、「型」では語れない、そして伝統審美主義の解説も必要ないもっと強烈ではみだすようなエネルギーと美の暴発を見る。

「あらゆる幻想も思い出も拒否される」要するに「画面以外になにものもない世界」と彼は光琳を感嘆するが、その背景には亀井勝一郎や竹山道雄らのような美術評論で、伝統美を分析しながらわざわざ本質を分かりにくくするような解説があっては困るという、彼独自の主張が渦巻いている。

最終的に岡本太郎は、世間の評判や「型」の枠組みが何となく作り上げてきた共同幻想のような伝統美に対し、それを破壊して自分の眼と自分の言葉で再構築するという実験的な試みを著作『日本の伝統』の中で行っている。このロジック的な模索は斬新すぎて、というか空論が空回りした感があって、腑に落ちる内容とは思えなかったが、岡本太郎がいかに日本を愛し、その伝統に彼なりにこだわりつつ、そこから爆発的な呪術のような力を探り当てようとしていたかという過程を知ることはできる。

つまり岡本太郎は、日本の伝統美から「芸道」の古臭い黴を削ぎ落とそうとしながら、そこに潜む、西欧の「芸術」にはない何かをついに否定し得なかったのだ。
そしてその何かこそ、彼が光琳の屏風図の中に見出したのと同じ、「生活にない緊張感」や「シンと冴えてすべてを拒否しているもの」、「鑑賞者は夢みることも許されない」ほどの硬質な精神性、もはや伝統も型もない、独創的な創造の領域ということではないのか。

翻って考えれば、しょっぱなの「術」と「道」の違いを論ずる不毛ということに立ち戻ってしまうのであるが、結局はスポーツであれ、芸術であれ、「型」を極めた先に新しい創造へ挑戦する気概がなければ、後進の魂をうち震わせる衝撃は生まれず、闇を切り拓く道は続かないということになるのだろう。

最後に一般的な辞書や漢字の語源からの「道」と「術」の言葉の解説を掲載し、私見を述べておこう。

まず「道」はいわゆる「みち」であり、「一直線に通っているみち」を意味するという。
さらに「首」と「しんにょう」から成り立っているところから、「首」は踏むの意、「しんにょう」は止まると行くの組み合わせであるので、「踏みしめ、行きつ戻りつする」すなわち、幾度となく反復思考して最後にたどりついたひとすじのものを「道」とするらしい。

これに対し、「術」の方にも「みち」の意が含まれており、ただしこちらは「むらの中の屈曲した小道」という解説がある。「わざ」や「すべ」「てだて」の意味が一般的であるから、つまりは曲がりくねった中を迷い歩いた挙句、身に付けて講じることができるものが「術」ということのようだ。

やや人間の本性に接近し過ぎた泥臭い解釈になってしまったが、何か氷解されるものがあるだろうか。

空手少女は自分の最高の型を探して、それを演じることが最高のメダルを得ることよりも今の自分の求める「道」だと語った。
これは今の彼女の精一杯であり、偽りのない気持ちであり、またそれも武道の真実だろう。

彼女が浅田選手の前で披露した空手の型は、清冽な美しさを持っていたし、「音がする」と浅田選手が思わず口にしたほど鋭く空気を引き裂く、若い強さに漲っていた。
だがそれでも、なかなか思う結果にはたどり着かない。

しかしその苦悩と模索が、今回浅田選手との邂逅を実現させてくれたように、これからもさまざまなものへの試みや挑戦に彼女を駆り立て、すんなりと得たメダル以上の価値ある何かを彼女の人生にもたらしてくれるだろう。

岡本太郎は「芸術は爆発だ」と言った。
人と人の出逢いもまた、エネルギーとエネルギーがぶつかる壮絶なぶつかりあいであり、パワーの爆発だ。そこにはそもそも道はない。
透明な瞬間があるだけ。だがその瞬間に思いがけないアクションがあり、ハプニングが起こり、一期一会の透明な芸術が生まれる。

非日常の緊張、情熱の噴出、激しく怖気立ち、うち震える魂の共鳴が芸術なのである。


◇◇◇◇◇

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ついでと言っては申し訳ないが、空手少女も観覧した「サ・アイス」関連の画像を掲載。
最初は小塚選手とともに「ザ・アイス」の紹介をしていた、テレビ番組からのもの。それから「ザ・アイス」出演者の写真。

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以下は概ね、オープニングからアイス・ショーの画像。
ただし会場や順番はランダムに混合しているのでご了承の上、雰囲気だけをお楽しみいただければと思う。

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女子グループによる群舞は佐藤有香さん振付、舞選手が衣装を担当。手染めで染めた藤紫の柔らかい色のドレスと、ビヨンセの歌『アヴェ・マリア』の歌詞が印象的なナンバー。

She was lost in so many different ways
Out in the darkness with no guide
I know the cost of a losing hand
Never thought the grace of God go high

I found heaven on earth
You were my last, my first
And then I hear this voice inside
Ave Maria

彼女は試行錯誤の末
自力で暗闇から抜け出した
私は救いの手を失い
髪の恩寵も失くした代償の大きさを知っている

私は地球に天国を見つけた
あなたが私の最初で最後で
心の中からこの声が聞こえる
アヴェ・マリア

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男子グループはジェフリー・バトル振付でクラブ・ナンバーの『Club Can't Handle Me』。

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フィナーレの浅田選手とバトル選手によるペアプログラム『Unforgettable』。

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挑戦した不成功者には、再挑戦者としての新しい輝きが約束されるだろうが、挑戦を避けたままオリてしまったやつには新しい人生などはない。
(岡本太郎)


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