月船書林

フィギュアスケートの話題を中心に芸術を語る

白い少女の永遠

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(春山行夫『ALBUM(白い少女)』)


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春山行夫は異色の詩人だ。

近年では、彼の詩作活動そのものよりも、詩誌『詩と詩論』や文芸誌『セルパン』、前衛詩誌『新領土』などの編集に携わり、海外の文芸思潮を紹介したり、モダニズムや前衛詩の詩風を詩壇に定着させたりといった編集家、評論家としての足跡を評価する傾向が強いが、その作品も彼自身が唱えた詩精神やポエジーの純化、あるいは実験精神や乾いた知性が感得される詩が多い。

冒頭に掲げた詩はその中でも有名なものだが、この斬新さ、言葉の意味も失われて、もはや「活字の図案」に過ぎないと揶揄(?)されることもあるが、その揶揄はむしろ褒め言葉のような完成されたフォルムを持つイメージの創造であろう。

「白い体操服を着て運動場に整列した女子生徒」とか、「少女のような白い花の群れ」といった具体的な連想を挙げる例も見たが、そのような目に見える風景でなくとも、もっと純化されたことばから立ちのぼる香気のような、魂のようなものを心象風景として受けとめてもいいかも知れない。

およそ、ロマン主義とモダニズムの詩学的論争は、日本の詩壇においても戦前から、三好達治、萩原朔太郎、西脇順三郎という日本近代詩の中枢的存在の中で行われているが、現代の俯瞰的視点から見れば、枕草子と源氏物語で昔から言われる「をかし」と「あはれ」のような世界観の違い程度にしか感じられない。

詩に精神的深淵を求めようとするロマン主義と、「意味のない詩を書くことによって、ポエジイの純粋は実験される。詩に意味を見ること、それは詩に文学のみを見ることにすぎない」という春山行夫の言葉にあるように、深さを持たないいわゆるフォルマリスムの実験的詩作として、「オブジェ」の詩の世界を展開したモダニズム詩人たち、このどちらも、まさきつねには思索のすべてを持って行かれるイメージの波動に充ちている。
だが、もっともモダニズム運動にとって不幸だったのは、第二次世界大戦をはさみ、戦時下は軍部による思想統制によって沈黙を余儀なくされたこと、そして戦後は戦争協力詩に対する反省を含む思想弾圧への反動から、詩には「批評」が必要という文脈の中で、「意味の希薄な世界」という側面のみがモダニズムの詩論として定着し、その運動の芸術的意味や、ポエジーの思考的模索という主題がことごとく「無意味な形式(鮎川信夫)」や「一種の文学的スタイル(村野四郎)」という批評家の言葉で清算されてしまったことだろう。

確かに、「イメージの審美的パタアンの作成」という言葉で詩作のフォルムという作業が置き換えられてしまったら、それは畢竟、進展性なくルーティンを繰り返す形骸化した詩に貶められてしまう。

春山行夫の詩を古めかしい、詩的感興を受けないと感じる向きがあるのは、こうしたモダニズム批判に即するものだろうが、そのシンプルな実験詩の欠片は、西脇順三郎が『文学青年の世界』で述べたところの「……美のための芸術という考えは宝石に加工することであるにすぎない。また炭をダイヤモンドにするという意味にすぎない。僕の求める文学は炭でもダイヤモンドでもない。だが炭を透明な光線にあてることである。アリストテレスの文学論としては炭の真似をすることがポエジーであると考えるし、美のための文学論者は炭をダイヤモンドにすることを考えている。僕の求める文学は透明な光線をつくることである。文学をつくるということは光線にあたる思考をつくることであると思った。」にある、「透明な光線」にあてられた炭素の塊のひとつだったのだ。

西脇はまた「僕の求める文学の重要な点は思考の内容ではなく、その思考の光沢とか光度である。文学上の価値は宝石そのものではなく宝石の光度であると思う。」とも述べている。

まさきつねは、お行儀よく並べられた「白い少女」ということばの一群に、少女という存在の限りなく潔癖で限りなく一途な、邪念のない精神の透明な「白」のリズミカルな行進を見る。

ここには宝石の輝き以上に純粋な、いくつも並んだ透明な光のつながりがある。


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唐突な連想であることは承知しているが、このまるでミニマリズム絵画のような「白い少女」の詩から、まさきつねは螺旋階段の永久に終わらない奈落へ降りていく少女らの一群、エドワード・バーン=ジョーンズの『黄金の階段』を思い出す。


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画面の舞台は、廃屋のような建物に設えた奥行きというものの感じられない螺旋階段。

天上界を意味する吹き抜けの屋根に白い鳩、地上界を意味する画面下の閉じられた扉、素足で古代ローマ風の白いチュニックを纏って、トランペットやヴィオラ、タンバリンやシンバルといった楽器を手にして階段を下りてくる少女たち…どれもがシンボリックなマテリアルで、「天国へ至る階段」と「楽奏する天使たち」を想起させる。

そして何といっても、ダンテの『神曲』の「黄金の梯子」とうるわしきベアトリーチェへの連想…


土星天から光の梯子がどこまでも、もはや目では望めぬ高みへと昇り、それを渡って今、無数の光たちが(光の天使たちが)降りてくる。次から次へと、それはまるで、きらめく星の滝のよう……。(中略)私はベアトリーチェに導かれ、黄金の梯子に足をかけた。私の足がその第一段にかかるやいなや、全ての重力から解き放たれて、私はただ、白い光が放つ強い磁力のような力だけに引きつけられて上昇した。宇宙全体が微笑む中を、やさしい歌声に包まれて、私は天を翔け昇る。(中略)まっしぐらに光の梯子を舞い昇りながら、私はどこまでも自由だった。ベアトリーチェがそばにいた。彼女は前を向いていた。私は光の中にいた。(中略)私は愛。私は光。
(ダンテ・アリギエリ『神曲』)


しかし、もっとも謎めいているのは少女たちの顔で、無表情と言ってもよいほど心ここにあらずという風情だが、何かに操られているという不自然な動きをしている訳ではない。少女たちの所作は、構図の曲線に添って計算されているのだが、どの少女も一律同じような顔立ちで描かれ、そろって魂が抜けたような感情の無さが、彼女たちの汚れのない清らかさと、装飾的な美しさを際立たせている。

まるで一人の人間のコマ送り画像のような感覚にすら捕らわれるが、画家の理想像と思しき少女の群像が、嘆美な理想郷への到達を感じさせるのも、描写的な狙いなのかも知れない。

曲線を用い、聖的な世界を描くのは、初期ルネサンスのボティチェリやマンテーニャに影響を受けているといわれ、またこの絵画がベルギーの象徴派の画家クノップフに啓示をもたらしたという説もある。

バーン=ジョーンズの神話的世界への接近や、夢想的特質は、彼自身の現実逃避的な性格から来たものという指摘は真っ当なものだろうが、もともと聖職者を目指していた彼にとって、経済活動と物質主義に走り始めた十九世紀末のヨーロッパにおいて、より純度の高い精神世界を求めるのは当然の成り行きであっただとうし、作品が象徴主義や装飾主義といった形而上学的な方向性を持つに到ったのも自然な流れだったのだろう。

そして、描写されたマテリアルだけではなく、もう一つ興味深いのは、バーン=ジョーンズが、画面構成における距離感の排除、すなわち古典絵画において積み重ねられた知識に基づき確立した技法としてのパースペクティブを踏襲せず、平面的な絵画空間を作り出しているという点である。

曲線を描く階段の構想については、ウィリアム・ブレイクの『ヤコブの夢』との関連性が論じられている。

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ブレイクの画面にある、天空へ向かう階段と、上り下りする女性的なイメージの天使の群れに、着想を得るに足る相似性があることは理解できるが、とはいえその相違は画面から受ける印象の違いに明らかだろう。
ブレイクの作品では主題的強さを持つ階段だが、バーン=ジョーンズの作品では、階段はある部分において可視的空間を把握できないほどの奥行しかなく、その円弧も捻りも、おそらく三次元の物体として数学的な解析ができないもので、その存在そのものが画面の構図上、横の直線描写としての働きしかない。

つまり、描法としては、まるでエッシャーの透視図法のような不可思議な絵画空間の上に階段が背景として配置され、そして十八人の女性群像が各々しっかりした量感と、さざ波のように動きを持った衣服の襞を波立たせながら、連なるパターンによってもう一つのカーブを描き、リズミカルな装飾美をもった画面構成を完成させているのである。

この、むしろ華やかな装飾空間を繰り広げる象徴派的な絵画が、何とも底のない奈落への墜落、深さも奥行きもないのに永久に落ち続けているような、宙ぶらりんの感覚を突き付けてくるのは、どこかで破綻した遠近法や、内面的追求から解放され、彼独自のアーキタイプに置き換えられた女性群像がさまざまな方向に投げかける視線といったものによるのだろうか。

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まるで鏡の世界に放り出され、ウサギの穴に永遠に落ち続けるアリスのような、不安定な落下の記憶が呼び覚まされるという点で、まさきつねはバーン=ジョーンズの少女たちと、春山行夫の「白い少女」に共通する純度の高いイメージを見る。それは透明な光線によって、脳髄に焼き付けられた奥行きのない記憶である。

ぺらっと剥がせてしまう世界への拘束と解放、白昼夢のような眩暈にとらわれる瞬間、その抽象性と象徴性(シンボリズム)は、カレンダーの数字の整列にも等しい永遠と無限のスペクタクルだと思う。


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☆Sir Edward Coley Burne-Jones, The Golden Stairs, 1880☆


◇◇◇◇◇

カレンダーつながりで、昨年と今年のネピア・カレンダーの画像を掲載。

《Mao in a World of White》
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《Mao Asada in Wonder Paper Seasons》
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引き続き、かなり古くて申し訳ないが、ネピアのウェットントンのCM画像を、ネピアサイトから鼻セレブの画像も更新されていたので、トイレットンの画像とともに転載。

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ネピア関連は製品の印象から、白いイメージで統一されているので、「白い少女」といえば、やっぱりこれでしょうという流れだけれど、浅田選手はもう少女というより、立派な貴婦人の域に達しているかも知れない。
ネピアの銀座本社に出現した、黒い礼装の浅田選手もまた、白い衣装の鼻セレブ大使とは違った独特の美しさにつつまれている。


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かつて大塚英志は、「近代社会というものが、初潮を迎え使用可能になった女性の身体をしかるべき男に実際に使用されるまで無傷でとっておくために、彼女たちを囲い込もうとしたところ、“誤って”産み出してしまった異物が〈少女〉という存在である。」と述べた。

いかにもキリスト教的な教義を根底に持たない国の、近代的な経済活動を第一として、人間の創造への行動動機も流通する商品価値ではかろうとする、心根の貧しい批評家の言いだしそうな見解だが、こんな身も蓋もない「異形」のものに押し込められてしまっては、堕天使の片翼さえもがれ、自動装置(オートマティック)の歯車さえ抜かれてしまったビスク・ドールが、使い古しのマネキンのようにゴミ箱に打ち捨てられ、自傷行為の果てに苦しんでいる図のようなものしか想像出来なくて、まさきつねとしてはとても辛い。

社会は人間を利用するものではない。男は女を、女は男を利用するものではない。
少女もまた、身勝手な欲望に利用されるものではない。

少女よ。天空の庭に、すっくと立つ一本の木のように、風に美を奏で、雲に音楽を描くものであれ。
少女よ。御身の足裏(あなうら)に、輝かしき天空の梯子の金箔がはり付けよ。

御身の白き悲しみに、永遠の旅人がその杖を置き、御身の白き影に、失われた時がその砂を盛る。

少女よ。その遠くはるけき距離に、小鳥らの声も淋しく響き、薔薇のその香もうるわしきノートを記せ。


まさきつねは詩人ではないが、透明な光を浴びて階段に春のステップを踏む、ミューズのような少女の姿を眼にすると、西脇順三郎の言う脳髄の戦慄を覚える。


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☆Figure Skating/Underwater Montage☆


夏川に木皿しずめて洗いいし少女はすでにわが内に棲む
(寺山修司『我に五月を』)


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

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Comment

nori says... ""
白い少女 

の後ろに羽根が見えます。
2013.05.11 09:09 | URL | #- [edit]
KEI says... "はじめまして!"
まさきつね様

初めまして!いつも浅田選手への暖かいまなざしと美しい画像の選択
(これは重要ですよね、あまりに美しくない画像が使われる事が多いです)
に慰められている、フィギュアスケートフアンです。
ただ私は主に男子フィギュアのフアンで、特に高橋選手の音を体感で現す素晴らしさに
魅了されております。その上でなおクワドに固執して努力する姿には頭が下がります。
浅田選手は「鐘」で、あの芸術性を評価しないで、何が芸術点なのだ・・と感じて
おります。最近はそういった現時点での評価ではなく、フィギュアの歴史が
浅田選手や高橋選手への評価はしてくれると、少し気を落ち着けております。

今回コメントを残そうと思ったのはバーン・ジョーンズ、フェルナン・クノップフを
取り上げられたからで、バーン・ジョーンズのあの絵はどう見てもジョットの
影響ではないか?とクノップフもバーン・ジョーンズも版画はかなり集めておりますが
バーン・ジョーンズがクノップフに影響を与えたのではなく、相互に、が近いと
感じております。
アーツ&クラフツ関連の銀器、陶磁器に傾倒し少しコレクションをしており
HPも作っております。
これからも浅田選手を始め、日本の素晴らしいフィギュア選手への記事
楽しみにしております。初めてのコメントで長文お許し下さいませ。
2013.05.12 17:45 | URL | #fUnmc6zQ [edit]
まさきつね says... "白い羽根は"
noriさま

白い羽根が見えますか。
きっとポエジーだけが見せる、美、なのでしょうね。
2013.05.13 02:25 | URL | #- [edit]
まさきつね says... "こちらこそ"
KEIさま

初めまして。ご訪問うれしいです。

バーン=ジョーンズはラスキンに連れられてイタリアで絵の修業をしていますから、ジョットーの影響も受けているでしょうね。構図などはイタリア絵画の伝統に倣って描いてますから、似ているかも知れません。実のところ、バーン=ジョーンズは天才肌の画家ではないので、古典の模倣がなくては画面構成も技法も垢抜けなかったのです。
ただ、彼の特徴であるロマンチシズムや人間臭さはジョットーにはないもので、ジョットーの絵画はもっと厳粛で、人物が神格化されていますね。バーン=ジョーンズが少女らに天使の羽根を描かなかったのは、実にラファエロ前派らしいと思いますが、ルネッサンス以前の宗教画と一線を画すところだと感じます。

クノップフとの関係は長い目で見ると、仰る通り「相互に」と考えても好いかも知れませんね。美術史的には、クノップフは1878年のパリ万博の前後で、モローから象徴主義を、ラファエロ前派から装飾主義を学んだと考えられているので、時系列でとらえると、最初にバーン=ジョーンズから感銘を受けて、その後、彼と交友を結んだという流れです。
クノップフはウィーン絵画などの影響もあって、ラファエロ前派以上に背景が複雑なので、彼について語るにはもっと詳しい論述が必要でしょうね。

HP拝見しました。
とても興味深い作品がいっぱいで、楽しませていただきました。
クラフツの世界もとても奥が深いですよね。こちらこそ、またよろしくお願いいたします。
2013.05.13 03:15 | URL | #- [edit]

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