月船書林

フィギュアスケートの話題を中心に芸術を語る

バッハのアリアのゆかしき

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悲しみの余震のなかを
去って行くバッハの背中。

他人の破滅をふかくいつくしむ端正。
自分の破滅ときびしくたたかう端正。

いつまでくりかえされるのだろうか。
肩や胸や腰の揺らぎ。
重たげで軽やかな
軽やかで重たげな。
(清岡卓行『ひさしぶりのバッハ』)


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もうすっかり、フィギュアスケートのブログの様相ではなくなっている、まさきつねの部屋だが、シーズン・オフでもあることだし、あいかわらず絵画だの詩だの映画だのと別ジャンルの話を続けるけれど、適当に楽しんでいただけたら幸いである。

今回は素敵な動画のご紹介と、それに使用されていた『G線上のアリア』から連想した映画の話を語ってみたい。

まずは動画がこちら。制作者のコメントによると、アジエンスとオリンパスのCM映像のみで作られたそうだ。

☆浅田真央(Mao Asada)Montage(G線上のアリア)☆

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『G線上のアリア』はご存知、ヨハン・セバスティアン・バッハJohann Sebastian Bach (1685年-1750年)がケーテン時代におそらく36才から37才の頃、管弦樂組曲第3番二長調.BWV1068の第2曲(=エア(アリア))として書かれたものが原曲でとなったものだ。
バッハ生存中はさほど評判になることもなく、没後100年以上経った1871年、ドイツのヴァイオリニスト、アウグスト・ウィルヘルミAugust Wilhelmjによるピアノ伴奏付きのヴァイオリン独奏のための編曲が行われ、ようやくこの曲の優雅で荘厳なメロディーに焦点が当てられた。

ヴァイオリンのソロ演奏など、楽器の地位が確立してきた頃で、ヴァイオリンの一番低い音源のG線だけで演奏するというアクロバティックなことが話題に上っていた時代らしく、ライプティヒ音楽院に学び、天才と名を馳せていたウィルヘルミは当時、多くの名曲を掘り起こしてヴァイオリン演奏用に編曲することに情熱を注いでおり、このバッハの旋律はニ長調からハ長調に移調することでG線のみの演奏を可能にした。

バッハの方に話をしぼると、音楽家を目指して向かったワイマールの南にあるアルンシュタットで、ヴァイオリン演奏の仕事を得た後、教会専属の音楽家として地位と名を挙げた。この地で、ひとつ年上のマリア・バルバラに出逢い、二十二歳の時ミュ―ルハウゼンの聖ブラジウス教会オルガニストの職を得て、彼女と結婚、七人(うち数人は早逝)の子どもをもうけて、ささやかな家庭を築いた。

その後、ワイマールで宮廷の職に就くが、人間関係のもつれで投獄されて結局この地を去り、1717年ケーテンの宮廷学長に迎え入れられ、しばらくは家族ともども幸せな日々を送っている。
突然の不幸が襲ったのは1720年の夏で、十三年間連れ添った妻が急死、大勢の子どもを抱え、バッハは途方に暮れたようだ。

翌年、十六歳年下の有能な音楽家であった宮廷歌手のアンナ・マグダレーナ・ヴィルケと再婚。
夫の仕事を助け、写譜なども任された妻は、その美しい歌声としっかりした子育て(アンナはバッハとの間に十三人もの子どもを産んでいる)で、夫に慰安と音楽の幸福に充ちた家庭生活を与え、バッハは妻に、家族のために演奏されたと思われる曲を折々に書き込んだ『アンナ・マクダレーナ・バッハのための音楽帳』を贈っている。
『G線上のアリア』の原曲となる管弦組曲もこの時代に書かれ、バッハの充実した創作活動が結実した作品のひとつといえるだろう。

しかしこの後ケーテンを離れ、ライプティヒに移り住むと、教会音楽を中心とした創作活動はあいかわらずの幅広さで続き、また多くの理解者からの尊敬を得ていたものの、一方で成功を妬む人間からの迫害や、脳卒中や眼病など身体的な不調で不運に見舞われ、決して万々歳とはいえない状況に陥っている。
特に眼疾患の手術の失敗は大きく、晩年は失明と後遺症に苦しみ、六十五歳で没。死後は次世代の古典派に古臭い音楽と理解されず、埋没した存在になっていった。
唯一、家族との暮らしだけは最後まで円満で、愛情と音楽にあふれた人生であったことが現世的な救済といえるかも知れない。

ところで、このような作曲家の日常とアンナとの半生を、妻の視点で映像化したのが『アンナ・マグダレーナ・バッハの日記(年代記)Chronik der Anna Magdalena Bach』である。

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☆Chronik der Anne Magdalena Bach - Famous Scene 01☆
☆Chronik der Anne Magdalena Bach - Famous Scene 02☆
☆Chronik der Anne Magdalena Bach - Famous Scene 03☆
☆Chronik der Anne Magdalena Bach - Famous Scene 04☆
☆Chronik der Anne Magdalena Bach - Famous Scene 05☆


フランス出身の映画監督、ジャン=マリー・ストローブとダニエル・ユイレが西独とイタリアで共同製作した作品で、1967年に発表された。この映画は、古楽器オーケストラの草分けであるコレギウム・アウレウム合奏団Collegium Aureumのほか、チェンバロ奏者ボブ・ファン・アスペレンBob van Asperenやチェロ奏者ニコラウス・アーノンクールNikolaus Harnoncourt、ヴィオラ奏者アウグスト・ヴェンツィンガーAugust Wenzingerといった名立たる古楽器演奏者たちがそろって出演し、十八世紀の生活習慣や衣装、演奏風景の忠実な再現に努め、きわめて純粋で禁欲的な音楽への愛着をフィルムに収めた、多少マニアックなドキュメンタリー風な仕上がりの伝記映画となっている。

今日の古楽演奏に関する研究や時代考証からすると、演奏技術の水準の低さや、解釈の間違いなどがいくつか目に付くようだが、こうした瑕もさほど気にならないほど、映像に魅力を与えているのが、バッハ役のグスタフ・レオンハルトGustav Leonhardtの謹厳な演奏と、その礼節正しい立ち居振る舞いで、謹厳実直なバッハのイメージにぴたりと重なるその演技が、この映画に対する高い評価にも結び付いている。

レオンハルトはオランダを代表する鍵盤楽器奏者で、古楽演奏のパイオニアだが、当時はまだ無名に近く、その彼を起用したという点で映画製作者たちの炯眼の凄さがうかがえる。
また、映画が製作された1960年代には古楽器研究も緒についたばかりだったにも拘らず、内容のほとんどがその演奏風景とアンナによる日記の朗読という、シンプルかつ大胆な構成で全編にわたって派手なドラマひとつ導入せずに、ストイックで静謐な映像美を作り上げているのも、通常の劇映画と一線を画すところだろう。

音楽が主役の「音楽映画」と呼んで好いのだろうが、楽曲が終わるたびに唐突な日記の朗読を差し込み、勿論監督の計算と思うのだけれど、音の余韻を、まるでフィルムを切り落とすようにばっさり断ち切っていく手法は、「詩の映画」とも呼ぶべき散文的な魅力も備えている。

ぶつ切りの記憶、ぶつ切りの心象風景がぶつ切られた音楽に合わさり、合間に挿入される現実のエピソードを描いた寸劇が、奇妙なリアリティーをもって立ち上がってくる。

学校と対立したバッハが、自分の曲を断りもなく使用している演奏会に乗り込み、指揮者を追い出す場面。
アスペレン扮するバッハの従兄の息子がアンナに「教頭が首をつって自殺した。むごい死にざまだ」と告げにくる場面。
晩年、もはや視力を失った眼で窓の外を眺めるバッハの姿に、「ほとんど眼が見えなくなった彼でしたが、死の数日前、まるで光が見えるようでした」というアンナのモノローグが被さる場面。

抑制された感情表現と、常に繰り返し演奏風景に立ち返っていく構成スタイルが、観客を偽物のメロドラマに溺れさせることなく、バッハの実に人間的なふたつの側面に対峙させるのだ。すなわち、聖的な芸術創造への奉仕に埋没する音楽家であると同時に、子どもの教育や職場での人間関係や政治的駆け引きに悩む世俗的な父親という、彼の少々偏屈だが実に微笑ましい個性が、淡々と続く清楚な映像によって虚飾なく浮かび上がってくる。

全編を彩る古楽器の演奏はどれも、出演している演奏家たちによる念密な打ち合わせや知識、才能を駆使した活力のあるもので、無駄な贅肉を省いた疾走感が音楽的な快感を呼び起こすが、映画に描かれている説得力のある人間像やドラマも、余分なものが一切なく、観客と一定の距離を取りながらも十八世紀の世界観へ、独特の緊張感を途切れさせずにいざなっているのである。

この映画出演の三年後、1970年に、レオンハルトとアーノンクールは分業で、バッハの二百曲に及ぶ教会カンタータの全曲レコード録音に挑んでいる。この途方もない企画は、1989年の完成を見るまで十九年の歳月をかけて実現され、その間の1980年にはレオンハルトとアーノンクールふたりして同時に、文化のノーベル賞ともいわれるエラスムス賞を受賞した。
バッハのカンタータの全曲録音という偉業を通して、古楽の復興に対して絶大な貢献をしたことが、受賞の理由である。

その式典のスピーチの中で、レオンハルトは、己を空しくして作品と作曲家に献身する、またそのような行為を通じて聴衆にも献身する、という彼の演奏哲学を披露したという。
このレオンハルトの芸術に対する禁欲的な態度が、映画にもその風貌を通して滲み出て、何よりもバッハとその音楽に対する敬意と献身が、観客に感覚的な心地よい陶酔と知的な衝撃を存分に与えてくれるのだろう。


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ところで、浅田選手の動画に使用されていた『G線上のアリア』は及川リンとユニットQ;indiviによるハウス・ミュージックにアレンジされたバージョンで、祝福や愛情をテーマにした英語歌詞を歌うヴォーカルが透明感のあるイメージを喚起させ、軽やかなビートが古典的な楽曲の可憐なメロディーを引き立たせている。
この曲を含むクラシック・カヴァーのアルバム『Celebration』は、ほかに『月の光』や『別れの曲』といった浅田選手のプログラム使用曲も入っており、クラシックといえど今はかなりポピュラーな旋律の選曲になっているので、BGMにおすすめかも知れない。

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モノクロームの映画にゆらりと立ち現れるバッハも、硬質で物静かな印象を胸に強く刻む映像だったが、彼が残した美しい旋律が現代のエレクトリックなサウンド・テイストで味付けされて、浮遊する電子脳のシノプスにほの見えてくる十八世紀の幻想もまたゆかしいものだ。

マルティン・ルターは「音楽は神が人間に与えた最も美しい贈り物」とその教えで説き、バッハはその教えを最もシンプルで複雑な美しさを持つ旋律に顕現化した。
バッハが好んでいたルターの箴言が次のような一節である。

「天然の楽の音が人の手を通して高められ霊化せらるるならば、人間はその楽の音のうちにこそ、大なる驚異もて、 いかばかりか(けだし「のこりなくすべて」というは不可能なれば)偉大にして全き神の叡智をさとるなる。
神はその創造の大なる楽曲のうちにこの叡智を据えたまえり」


世俗の地上に君臨する領主を讃える歌も、神の栄光を賛美する歌もバッハにとっては何の分け隔てもなく、ともに神の叡智を人間に伝える手段にすぎなかったということなのだろうが、つまりは聖なるものも俗なるものもすべて呑み込んで、常にその時代の活力を表現する芸術となり得るものを、この偉大なる作曲家が楽譜にしたためていた結果なのだ。

美しきものは美しきままに。
神のみこころは神のみこころのままに。

「天然」という存在のかけがえのなさを、現代人ももう一度、バッハの音楽の楽章の陰に感じてみるべきだろう。


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地球の裏がわから来た
老指揮者の振るバッハに
幼い子はうとうとした
風に揺らぐ花のように。

父は腕を添え木にした。
そして夢の中のように
甘い死の願いを聞いた
鳩と藻のパッサカリアに。

幼い子が眼ざめるとき
この世はどんなに騒めき
神秘になつかしく浮かぶ?

ああそんな記憶の庭が
父にも遠くで煙るが
フーガは明日の犀を呼ぶ。
(清岡卓行『音楽会で』)


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Comment

KEI says... "美しきもの"
まさきつね様

再度お邪魔致します。1枚目の浅田選手の足首から先を見て
「何と美しい!」と・・・仕事柄、少々そういう部分に目が行ってしまいますが
学生に「完璧な足のデッサン」と教えたくなるような部分です。
でももしかしたら、来年から、浅田選手も高橋選手も、競技では見られなく
なるのですね・・・本当に淋しいです。若手で応援したい選手も数多くいますが
この2選手は、別格です。最後の競技プログラムが何になるか、ドキドキしています。
浅田選手のプログラムは、あまり心配していないのですが
高橋選手は発表まで落ち着きませんね。

彼自身は濃厚なクラッシックが好みのようですが
一度でいいから、イタリアンバロック、スカルラッティなどの軽やかな
曲も観てみたかったです。
まあそれもこれも、選手達が一番滑りたい曲と振り付けで
その真価を見せてくれれば、長年応援してきたフアンとしては
それだけで満足です!・・・と強がりを言いつつ、高橋選手のコレオグラフィー
発表まで落ち着かない日々ですね。
2013.05.19 17:24 | URL | #fUnmc6zQ [edit]
まさきつね says... "稀な才能"
KEIさま

ご訪問うれしいです。
新しいプログラムの発表、待ち遠しいですね。

高橋選手は昨季、SPを途中で変更するなど、あまりうまくいかなかった部分がありますから、ぜひとも五輪シーズンは、絶対後悔のない態勢でのぞんで欲しいですね。

仰る通り、軽やかなクラシックも好いかも知れません。美しく軽快なメロディーに、縦横無尽のステップを巧く生かしたコレオが観たいですね。
マンボやタンゴのラテン音楽も好かったですが、やっぱり今年度はロシアを意識せざるを得ないかも知れませんね。
何にしても、新しい世界が見られる楽しみがある選手、そんな才能は稀だと思います。勝負の行く末以上に作品の完成が待ち遠しい、そんな選手たちが揃う日本はやはり今が黄金期なのでしょうね。
2013.05.20 02:45 | URL | #- [edit]

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