月船書林

フィギュアスケートの話題を中心に芸術を語る

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自由な魂は氷の上に

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☆真央ちゃん 15歳 2005 GPFinal SP☆


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カルメンは何よりもまず、自分が女だということを完全に意識した女性です。いえ、それ以上です。私は、メリメ(原作者)はこの人物によって一つの女性タイプを創造したと確信しています。つまり、カルメンは文学的創造物として、普遍的価値を持っていると確信しているのです。…カルメンは軽率な女でも、浅薄な女でもないし、気まぐれでも、無分別でもありません。まして売春婦などでは絶対にありません。あまりにもしばしばそう解釈されます。でも絶対違います。
…カルメンはストレートに献身することのできる女性です。ただし彼女はこのような決定が人間として立派な行為であることを知っているので、彼女の側から、彼女が献身する男性に、同じ態度(=献身)を要求します。…彼女は、ホセは他の男と違うと思います。…そして、これはメリメの小節での話しですが、死ぬときでさえも、自分で自分の責任をおうことを拒否するような男なのです。カルメンは激しく彼をなじります。「あんたの心はウサギより意気地がないね」。「あんたは、遠くにつばをとばせるから、自分は大きいなんて考える小人みたいだよ」。そして愛はたちまちのうちに潰えさり、カルメンは悟ります。彼女の運命は、この復讐心に燃えた男の手にかかって死ぬことだと。けれども彼女は自分の誤りの報いを、泰然と受け入れるのです。
(テレサ・ベルガンザ『ピーター・ダイアモンドへの手紙』)

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これは、スペインのメゾソプラノ歌手ベルカンザが映画監督ダイアモンドに宛てた手紙の中で、彼女のカルメンという女性観について述べた部分。ベルカンザは実際、セクシーさを強調しないカルメンを演じており、作品の出来としては少しばかりおとなしめ過ぎて物足りなさが残るが、可愛らしい清純なカルメンを作り出している。

「カルメン」という非常に有名な女性キャラクターに関して、もう多くの人が指摘するところではあるが、妖しい魔性の女とか、浮気性の尻軽女とかいった下賤な解釈があまりにも横行していて、原作のメリメが描いたそもそものカルメン像が歪曲されてしまっているということなのだ。

スタンダールと同時代の作家、メリメは少々ペダンチックな側面があるものの、かなりの教養人で歴史や言語学の素養のある(そして猫好きの)文筆家だった。そこで『カルメン』は単なる想像による小説ではなく、彼が神秘的な魅力を感じていたスペインに舞台を取り、強い関心を寄せていたジプシーやジプシーの言語であるロマニ語研究の成果を加味した、一種の研究エッセイのような教養文学となっている。

長らく謎とされていたジプシーの起源についても、それまでは「エジプシー=エジプト」と考えられていた通説から、言語研究の分析によってインドという定説が明らかにされたのがメリメの時代だったらしく、この点についても『カルメン』の中に記述が残されている。

メリメは筋書においても男女の恋愛沙汰を描いた単純なメロドラマに仕立てるのでなく、作者の分身である考古学者があるとき偶然にカルメンとドン・ホセの二人の主人公に出会い、後日カルメンを殺害したホセの話を聞きに獄中へ出かけるという、すべてが作者の創造によるフィクションであるにもかかわらず一見ドキュメンタリーに受けとめられるような凝った構成で、物語そのものの臨場感を盛り上げ、メリメ自身のジプシーに関する知識教養の深さを読者に印象付けるようなお膳立てを、理論的に整えているのである。

しかし当然のこととはいえ、作品をオペラ化するにあたって、物語の筋立ても登場人物もかなりの改変が行われており、原作が文芸作品的な心理描写で登場人物の内面的葛藤を描いているような場面も、わかりやすいオペラ独自のキャラクターを投入したり、台詞を追加したり、状況設定をまるきり変えたりと、音楽やドラマに劇的な抑揚が付くような工夫がされている。

たとえば、ホセの同郷の恋人ミカエラやホセの母親、恋敵の闘牛士エスカミーリョはオペラのオリジナルだし、カルメン殺害の場所も祭りの日の闘牛場附近ではなく、コルドバ近くの淋しい谷間にある原野である。

舞台で演じる上では、ドラマとして平板になるのを避け、主人公たちの感情の起伏がさらに演劇的効果を生むように施された必要な演出ではあるが、こうした原典との違いがカルメン像だけでなく、『カルメン』という作品そのものも全く違う別物に仕立て上げてしまったことは否めない。

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特にドン・ホセは原作では、田舎出ではあるがそれなりの氏素性があり、品性や知性を持ちあわせた純情な若者に描かれ、その反面、世間知らずで性格的な弱さが目立つ。カルメンとの初対面でまるで魔女のように彼女を感じ、田舎だったら思わず十字を切るところだと言っていたホセが、内面的葛藤の末、それまでの思慮分別を捨てて彼女に走ったという構図が、そもそもの文芸作品にある心理劇的な醍醐味なのである。

平凡な男がやむを得ない事情で、情にほだされた女が棲むならず者たちの世界に入り、結局そこに安住する強さを持ちあわせていなかったために、カルメンとの無理心中を図って、さらに弱さゆえに自殺も出来ず、自首したというのが、メリメの描いたホセなのだ。

オペラでは、ミカエラや母親、エスカミーリョといったカルメン以外の登場人物が彼に絡むため、さまざまな人間関係や周囲の思惑に翻弄されて懊悩するさまが、彼自身の人間的弱さを押し隠してしまう。
カルメンに対する殺人動機にしても、闘牛士への嫉妬がその要因だったと受けとめられかねないが、メリメはホセとカルメンふたりの性格や、カルメンという女の奥深くに潜む、運命に殉ずる情念的な暗さによる死の必然性を、本来の作品的主題としているのである。

オペラの台本(リブレット)を書いたのは、アンリ・メイヤックとリュドヴィク・アレヴィとされ、作曲家ビゼーも首を突っ込んだようだが、当初は音楽(歌)の間を台詞でつないでいくオペラ・コミック様式で書かれた。

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上演の際に、オペラ座は「非常に純潔で汚れない娘」と「喜劇的」ジプシー達を伴った「馴らされ、和らげられたカルメン」の登場を注文として出したらしく、その結果、脱ジプシー化した工場労働者である面が強調され、カルメンは平凡な女になってしまい、1875年3月のパリでの初演は歴史的な不評で終わってしまった。
不道徳という声も起きたようだが、それは結局、ビゼーの斬新な音楽とストーリー的な不整合によるものではなかっただろうか。

『カルメン』の驚くべき再生は、ビゼーが初演からまもなくして病死した後、同年の10月にウィーンでの上演で、舞台監督ヤウナーがビゼーの友人エルネスト・ギローに依頼し、話言葉の台詞を、歌い言葉のレシタティーヴォに置き換え、異質の楽曲からバレエのための曲を挿入して、グランド・オペラ様式に改編してから起きたものである。

レスタティーヴォ版の『カルメン』は非常に評判がよく、大衆受けも良かったが、この作品で描かれたカルメンは淫蕩で、誰彼かまわず誘惑するような性悪女だったために、その印象がメリメの原作もビゼーのオペラもそっちのけで一人歩きするようになり、今なお定番のカルメン像として定着したものだろう。

しかし、華美な音色と壮大な楽曲への変化、劇的解釈の強調、濃密な演出といったビゼー本来の意図とは違うものが追加されたとはいえ、ビゼーの創作した楽曲にはその後のオペラ的成功につながる音楽的技法や主題的旋律の工夫が豊富にあり、それが『カルメン』を音楽史上に残る悲劇的名作にしていることは確かである。

カルメンの音域を野性味があってセクシーな響きのあるメゾソプラノに設定したのも巧妙だが、彼女の登場といくつかの印象的な場面に繰り返し流される、悲劇性を表す主題の旋律「♪レード♯シ♭ド♯ラー」が実に効果的に彼女の運命的な死を予感させ、中でもトランプカードが不吉な「死の暗示」を占う場面では、カルメンが歌う独り言のような悲しげな歌とともに宿命の不気味な恐ろしさを余すところなく伝えている。

メリメの小説はトランプだけでなく、コーヒー占いや「出がけに僧侶と会う」とか「馬の足の間をすり抜けてうさぎが通った」といった凶情報の暗示をいくつも差し挟み、カルメンにいつかホセに殺されるという運命を確信的に予感させている。ビゼーは同様の手管で序曲の段階から「カルメンの死のモチーフ」となる旋律を何度も出現させ、彼女の運命的結果を観衆に刻みつけているのだ。

ビゼーはさらに二種類以上の異なる旋律を組み合わせて一つの音楽を作る「対位法」の技術を駆使して、ドラマ的展開を盛り上げる工夫をする。たとえばホセの「帰営のラッパ」にカルメンの「誘惑の踊り」の旋律を重ねて、その場を離れたい男と後ろ髪を引く女という、実にもどかしげで焦れったいがゆえに逆に破滅的に深まる男女の恋愛模様を音楽的な図式で表現するのである。
こうした楽曲による彩りはカルメンの死という見せ場で最高潮に達し、「闘牛場の喚声の音楽」に先ほどの「カルメンの死のモチーフ」を重ねて、もはや逃れられない運命に絡め取られた女の最期を、音の重層的な色彩で描いてみせる。

メリメはホセに最後の引導を渡すカルメンに次のように言わせている。

「ホセ、お前さんは出来ない相談を持ちかけているよ。私はもうお前さんにほれてはいないのだよ。お前さんはまだ私にほれているのさ。お前さんが私を殺そうというのはそのためだ。私はまだお前さんにうそをつこうと思えば、いくらでもできるけれど、そんな手数をかけるのがいやになったのさ。二人の間のことは、すっかりおしまいになったのだよ。お前さんは私のロムだから、お前さんのロミ(女房)を殺す権利はあるよ。だけど、カルメンはどこまでも自由なカルメンだからね。」

このような台詞からも、カルメンがならず者の世界にいながら、自由奔放である自分を自覚した、他人にも自己の感情にも妥協しない自立した女であるということが読み取れる。
彼女が抗えなかったのは運命だけであり、それも元々違う世界にいたホセを行き掛かりの部分もあるとはいえ自分の側に引きずり込んでしまった落とし前をつけた結果といえなくはない。
してみると、彼女が売春婦あるいは無法なジプシー女であるということの如何に関わらず、あるいはオペラ・コミックだろうとグランド・オペラであろうとどのような劇化によるメタモルフォーゼがあったかも関係なく、カルメンという女の本質は、「自由の追求」と「運命を受諾する潔さ」という純粋な魂の自由の顕現にあるのだろう。

「殺されたって嫌なものは嫌」というカルメンの言葉は、ホセ自身に向けられたものではなく、彼が指し示す小市民的な結婚観や管理社会にまつわりつく規制やモラルであり、オペラ作品を観る観衆がどうしようもなく惹かれるのも、そうした一切のしがらみから解放された近代的な女性像としてのカルメンのもつ精神的な魅力なのだ。


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さて、このたびも長々と語ってしまったが、浅田選手が2005-2006年シーズンのSPとして使用した『カルメン』も、以上のような作品解釈の流れの中で考えると、いろんなことに合点がゆくのではないかと思う。

まだうら若い女の子で、しかも妖艶さからは最も程遠いスケーターがなぜこの曲を選んだかというごく単純な疑問も、「死に向かう愛の崩壊」という哲学的なテーマを複雑な色彩で描いたビゼーの音楽に乗せて、束縛を嫌い自由を求める魂を、若く軽やかに氷上を跳びまわる溌剌とした演技で表現したという方向性で充分得心がいく。

実際、浅田選手の『カルメン』の曲構成は、最初に『闘牛士の歌』、一分を過ぎたあたりから『第三幕への間奏曲』、二分を過ぎたころから『ジプシーの歌』という流れで、カタリーナ・ヴィットのあの有名なプログラムの曲構成とは全く異質である。

(ちなみにヴィットの構成は、最初と最後が鐘の音で、『前奏曲の一部』『第4幕への間奏曲(アラゴネーズ)』『ハバネラ』『第2幕フィナーレの合唱』『あんたね、俺だ(ホセが復縁を迫って切々と歌う部分)』『第1幕への前奏曲』という、特に演技前半から中盤は有名な『アラゴネーズ』と『ハバネラ』で蠱惑的なカルメンを押しまくり、ラストで「死」を模して氷上に崩れ落ちるという、わずか四分の中にカルメンの悲劇を詰め込むだけ詰め込んだ内容だった。)

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浅田選手のプログラムはカルメンの色恋沙汰よりも、スペインの明るい陽光の下、生命力の象徴のような闘牛士と自由を謳歌するロマの民という、おそらくメリメの原作が一番伝えたかったであろう、管理を逃れた人間の自由な近代的精神を体現する部分を取り上げ、オレンジの目も覚めるような衣装で華やかに、そして伸びやかにその作品的主題を踊ってみせているのである。

昨季の『アイ・ガット・リズム』の衣装でこの『カルメン』の衣装と演技を想起した人は多いと思うが、それはやはり、浅田選手の演技がいずれも本質的に、音に開放された自由さと喜び、そして果てしないものへの憧れを具象化していたからにほかあるまい。

ニーチェがビゼーの音楽を評した言葉が何とも象徴的で、まさきつねはまるで浅田選手の演技をニーチェが観ていたような感覚を覚えた。

「この音楽は完全に思える。それは軽やかに、しなやかに、にこやかにやってくる。それは愛嬌があり、汗をかかない。『優れたものは軽やかであり、心的なものはすべてほっそりした足で走る』これが私の美学第一命題だ。この音楽は意地悪で、洗練されていて、宿命論的だ。しかもそれは民衆的だ。―――」

これはニーチェが、「魂の救済」というテーマを愛と死の悲劇的な題材で表現することに長けたワーグナーの重苦しい音楽に比較して、ビゼーの軽やかな音楽もまた、「筋運びはメリメの激情の論理」を取り入れつつ「魂の救済」を目的としていることを述べた文章である。

芸術は畢竟、作品の重さや軽さ、あるいはどんな題材をいかに取り上げたかなどといった表現上の些細な問題は関係ないのだ。

その作品が人間の本質的な部分にどれほど触れ得たか、鑑賞する人間の魂をいかに浄化し得たかということが問題なのであり、ヴィットと浅田選手の表現の違いやテーマの相違もさておいて、いずれの演技もまた、メリメやビゼーが描いたカルメンの世界、および自由なロマの魂を彼女たちなりに昇華して、それぞれの色彩で表現していたということが重要なのである。


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おまえの出番だ! さあ行け!
構えにつけ! 早く、早く! ああ!
闘牛士、気を引き締めろ! 闘牛士、闘牛士!
そして戦いのなかでも覚えているのだ、
黒い目がおまえを見ていることを、
そして恋が待っていることを。
闘牛士、恋がおまえを待っている!
そして戦いのなかでも覚えているのだ、
黒い目がおまえを見ていることを、
そして恋が待っていることを。
闘牛士、恋がおまえを待っている!
(『闘牛士の歌』)


☆Mao ASADA 2005~2013☆

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Comment

KEI says... "挿入されている漫画"
まさきつね様

今気づいたのですが、途中に挿入されている、漫画は水野英子さんの
物ですか?ただ原画のように見えるのですが・・・。
吹き出しの中が鉛筆線のままですので、このままの状態で
出版または外部に出る事はあまりないと思いますので(殆どないですよね)
まさきつね様が描かれたものなのでしょうか?
少々驚きましたので、コメントさせて頂きました。
2013.06.24 06:55 | URL | #fUnmc6zQ [edit]
まさきつね says... "昭和漫画の珠玉"
KEIさま

ご訪問うれしいです。
情報足らずでしたね。ごめんなさい。

原画はおたずねの通り、水野英子先生のもので、学研から出ている『オペラへご招待』という企画で描き下ろしされた作品のようです。画像は学研の販促サイトに掲載されていたと思います。

水野先生もオペラやバレエにお詳しくて、とても雰囲気がありますよね。まさきつねは『ホフマンの歌』とかが好きでした。昭和漫画の哀愁を感じる絵柄が懐かしくて、たいへん美しいですよね。
2013.06.24 10:33 | URL | #- [edit]
KEI says... "お返事ありがとうございました"
やはり水野英子さんでしたか。私は個人的には水野さんの代表作は
「ファイヤー」(で水野作品は完全に方向転換されましたが)ではなく
やはりストーリー少女漫画を確立した「白いトロイカ」だと思っております。
また饒舌をお許し頂けるなら、お好きと書かれていた萩尾望都さんは
「ポーの一族」「トーマの心臓」の原型となった読み切り漫画
「11月のギムナジュウム」と後期の名作「半身」に止めをさすと思われます。
「半身」がストーリー漫画の基本、16頁で描かれた事に感嘆致しました。
もし未読でいらっしゃいましたら、少女漫画の正統な系譜として、地味ですが
川原泉さんをお薦めさせて頂きます。フィギュア漫画もあるのですよ、笑。
「銀のロマンティックわはは」という?なタイトルですが
他の川原漫画同様、知識、知性、感性、それでいて笑え、泣ける
素晴らしい作品と私は思っております。漫画の話しが長くなり申し訳
ございませんでした!
2013.06.25 17:51 | URL | #fUnmc6zQ [edit]
まさきつね says... "少女漫画好いですね"
KEIさま

再度のご訪問うれしいです。
興味深い少女漫画のお話もありがとうございます。

まさきつねもいつか、少女漫画についてはもっと詳しくお話ししたいのですが、実はまさきつねの少女漫画歴はかなり偏りがあって、いわゆる正統派乙女チック路線に関しては非常に弱いです。
せいぜいフレンドの大和和紀から文月今日子までで、陸奥A子らりぼん系や岩館真理子らマーガレット系はさっぱり、川原泉さんら白泉社系もほとんど手つかずです。
川原泉さんについては、前から大島弓子も彷彿とさせる、ペダンチックで文学的な味わいが魅力と聞いています。ぜひ今度、『銀のロマンティックわはは』読んでみます。

『愛のアランフェス』から続くフィギュア漫画路線について、何か語ることができそうなら、また記事にしてみますね。ただ、かなりキワモノ作品が並びそうですけれども(笑)。

萩尾望都先生はまさきつねも『半神』は凄いと思います。何度読んでも最後のネームで涙がこぼれます。いわゆる感傷ではなく、脳髄が感応するんですよね…
『11月のギムナジウム』も好きですが、『この娘うります!』のロマンティックコメディー路線も好いですね。こうした幅のある萩尾作品を読んでしまったので、もしかしたらほかの少女漫画をあまり読まずに過ぎてしまったのかも知れません。
萩尾先生以外に読み耽ったのが、青池保子先生のエロイカですから(苦笑)。
2013.06.25 22:38 | URL | #- [edit]
みのり says... "漫画"
うわぁ、まさつねさまもエロイカをお読みになるんですね。嬉しくて、なんか興奮しちゃいました。私もエロイカ好きです。長い休止の後、赤の広場に仁王立ちする少佐を見たときは、狂喜しました。

萩尾望都さんも好きです。私には少し難しいところもありますけど。最近の作品集『なのはな』は読むたびに最後の作品で泣いてしまいます。

地震の後、本をずいぶん処分したのですが、萩尾望都とエロイカは手元に残したんです。
2013.06.28 14:22 | URL | #6wH.DH8I [edit]
まさきつね says... "甘酸っぱくて、切ない"
みのりさま

ご訪問うれしいです。
少佐は学生時代の憧れでしたね。ベルリンの壁が崩れ、鉄のカーテンがなくなるなんて、あの頃は想像もできませんでした。ドイツに行けば少佐に会えるかもなんて、馬鹿な夢も本気で考えたものです。

今から思うと、少佐とミーシャがいがみ合ってる図も平和な証拠だったんだなと思います。裏工作し合っていても、どこかにお互いへのリスペクトを感じましたから。

少女漫画は本当に奥が深いですよね。
いつまでも甘酸っぱくて、切ない思いをかき立ててくれる素敵な日本文化のひとつだと思います。
2013.06.28 18:32 | URL | #- [edit]

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