月船書林

フィギュアスケートの話題を中心に芸術を語る

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輝ける時の割れ目のファンタジー


ライアン・マッギンレーという写真家をご存知だろうか。
彼のホームページはこちら→http://www.ryanmcginley.com/photographs

昨季の冬季五輪でスポーツ写真であるにも拘らず、ドキュメントだの記録だのという束縛から一切解放された芸術写真を撮ってしまったカメラマンである。(というより、元々スポーツ写真よりもアート系のジャンルに属する写真家なのだけれども。)

巻頭の写真はフラット選手を撮った一枚だが、対象が彼女と分かたずとも美しいと評される作品だろう。ほかにもフィギュアではウィアー選手やライザチェク選手などアメリカの選手たちを撮影しているが、いずれも彼らのスポーツ選手としての名声などに全く関係なく、すべての時空から解き放たれた、作者であるマッギンレーの被写体としての存在を強く浮き彫りにされている。

マッギンレーの略歴を多少書き並べれば、若干二十四歳の時にホイットニー美術館で個展、翌年にはMOMAのP.S.1で新作を展示するという米国絶賛の写真界におけるスーパースターということだ。
日本でもここ数年、人気写真家として名前を馳せているが、作品から立ち上るエネルギーや鮮烈な印象、その研ぎ澄まされた感覚は、いわゆる広告写真や報道写真とも違う、格別な色と品性を兼ね備えている。ほかの作家と一線を画する要因には、彼のグラフィック・デザインの学識を持つという経験値的な背景が関係しているのかも知れないが、それだけではなく、彼のカメラワークについての確固たる構想と理念が彼の作品に歴然と表われているからだろう。

彼は活躍を始めた初期のころに答えたインタビューで、「私はこの仕事に全てを捧げている。他人の期待など関係ない、すべて自分のための作品を作っている。自分が見たい写真を撮影している。私はいままでにない写真を制作している」と自分の作品に対するスタンスを語っているという。

アーティストとしては別にさほど凄いことを言っているようには思えないだろうか。だが言葉で語るだけではなく実際にそれを実行して作品に表出することが出来ているかどうかが、評価の分かれ目なのだ。

ホイットニー美術館での個展以前のマッギンレーの作品はその多くが、ドラッグや乱痴気パーティに明け暮れるマンハッタン下町に住む友人知人たちのリアル・ライフのポートレートで知られている。マッギンレーは、一昨年二十七歳で急逝したダッシュ・スノウや、ダン・コレンといった今や米国コンテンポラリー・アートのポップ・アイコンとして名立たる面々と同棲生活をしながらインディーズで活躍、NYのダウンタウンキッズとして注目されたのち、ホイットニー美術館のキュレーターに見出され、写真集出版を経て前述のサクセス・ストーリーの主人公に相成った訳である。

キュレーター、ウォルフさんの分析を端折って解説すると、どうやらマッギンレーの作品は、カメラというテクノロジーを駆使する若者世代が、被写体と写真家という関係性を超えて、レンズを通じてともに演じ、意志疎通をし、自らのアイデンティティーを確立しようとする、一種の共同作業の中に生み出されているものらしい。
ウォルフさんによれば、同時代を席巻したユーチューブや個人のブログのような、不特定多数の目に曝されることを意識しつつも、プライバシーの覗き見あるいは告白的逸楽を独自の表現と変換し得たIT世代ならではの創造性をも持ち得るものと評価されているが、翻って彼の独壇場はそこにではなく、数多いるヴィジュアル表現者の通俗性を抜け出した、時代の流れを汲みとりながらも流行を超越する、自由なオリジナリティにこそあると考えられる。

自らの感覚ひとつで自由気ままに作品を創作しているようなイメージが強いマッギンレーだが、実は個人的に二千冊ものレアな写真集をコレクターしており、過去の写真史に精通した上で「写真の歴史に少しでも貢献できればと思っている」と自己の仕事を正統な時代の流れに帰結していくことを目的として、同時に過去の作品や創作方法を追求することを自らの創造の発露としている理念の持ち主ということのようだ。
彼のインタビューには「フィルムを一回感光させてから撮影したりいろいろ実験した」といった、撮影にさまざまな実験を繰り返して独自の手法を編み出していく様子が述べられている。

こうしてみるとマッギンレーという創作者は、偶さか時代の機運を掴んだいわゆるアメリカン・ドリーマーの体現者のようなアーティストという訳ではなく、ましてや偶然に時代の要請に応えた幸運児というのでもなく、明確な彼自身の意志とコンセプトをもって、現代に欠落した何かを皮膚感覚のリアリティーで投影させながらも、彼が見たい知りたいと思う人生の喜びや美しさ、実際には存在し得なくても彼が生きたいと思う、自由で野放図な世界をファンタジーとして理念的に提供した芸術家ということなのだろう。

「いままでにない写真を制作している」という自負は、シャッターを切ることで被写体の素の姿を写し撮るというだけではなく、被写体を通じて彼自身が作品もしくは彼自身の世界観を構築するという明快なコンセプトに貫かれた姿勢によるものだし、彼が「僕の世界の若者たちには絶望や悲しみはない」と言い切るのも作品をファンタジーとして意識あるいは意図して生み出すことで、真実さまざまな問題を抱えたアメリカの若者たちの素顔を逆説的に浮かび上がらせている手法によるものなのだ。

すなわち彼は、かつてアメリカという国にあった夢と希望の反語的表現として、国や若者たちを蝕んでいる深刻な社会問題によるトラウマの欠片さえ何かきらきら光る美しいものに変えてしまった幻想を呈示することで、古き良き時代を懐古する現代人のこころを鷲掴みにした。
どこにもない世界のどこにもない夢や希望を抱えた被写体の若者たちは、マッギンレーに永遠という枷を与えられたファンタジーの世界の住人なのだ。

つまり彼はレンズを通して被写体らのドキュメントを生み出す共犯者になるのではなく、レンズの上を際限なく流れていく時間と共謀して、被写体のレゾン・デートルを彼の作品のレゾン・デートルに重ねあわせ、ドキュメント以上の肉感的なリアリティーを持ったオリジナルのファンタジーを構築したということのようだ。

話が大分長くなってしまったが、最初のスポーツ写真の話題に戻ろう。
こうした芸術的写真家に撮られるスポーツ選手は、被写体として幸か不幸か…などと野暮なことは今更言わないでおこう。
プリントアウトされた写真は美しく硬質な世界、そこにアスリートの熱い四肢から立ち上る体温が感じられなくても、ただひたすら美しく、永遠に留め置かれた時間の真実というものはそれだけで意味のあるもの。
輝ける時の割れ目をまさぐるように、写真家はシャッターを押し、被写体らの抱える物語は、レンズの向こうで写真家のいだく幻想の欠片と解体されて、新たなファンタジーをヴィジュアルの真実として紡ぎ始める。

マッギンレーの言葉を逆説的見解で受けとめれば、レンズのこちら側では絶望も悲しみも永遠なのかも知れないが、フィギュア競技において今どこかひしひしと感じられる絶望的な状況も、永遠に損なわれることのない選手たちやその演技のヴィジュアルとしての美しさを基準とするなら、スコアも順位も(ジャッジが付けてくる難癖も含めて)そんなことは最早もうどうでもいい遥か彼方の問題として押しやって仕舞えそうな気がする。(いや、そんなことは決してないんだけれどね。)

ともかくもこの世には一方向からしか見えないものは何もない訳だから、スポーツとしての記録や順位とは一切関わりなく、かけがえなく美しくはかなく、マッギンレーが撮影したフラット選手やウィアー選手の写真が存在するように、観衆もまたマッギンレーのような視点でひたすら美しいものに陶酔する気分でこれからはフィギュア競技を観戦しても好い、むしろその方が(精神衛生上)好ましいと感じたこの週末だったのである。


さて、今回はちょっと美や芸術に偏向した内容になってしまったが、最後に彼が昨年、ファッション・ブランド、プリングルのアドキャンペーンとして制作した映像作品をご紹介しよう。

☆SS10 Pringle of Scotland - Tilda Swinton / Ryan McGinley Film☆
フィギュア220-2


起用された主演者はイギリスの女優ティルダ・スウィントンで、スコットランドの乾いた美しさを持つ情景を背後に、光や風や海といった自然に加え、人工の建造物や衣装、そして人肌のテクスチャーをいくつも重ねあわせるように、映像に陶酔する喜びを味あわせてくれる。
写真という静止画像とはまた違った、カメラがとらえたものの動きや生命感が映像に流れる時間にかぶさるように陶然と過ぎてゆき、滅び去りゆくものの豪奢なる実存性が、寄せては返す波のように胸の水際に打ち寄せては消えてゆく。


絶望や悲しみもまた、人の世の喜びの裏返しであることを生きとし生けるものは学ばねばならぬということなのだろう。

フィギュア220-3

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
草原の輝き 花の栄光
再びそれは還(かえ)らずとも
嘆くなかれ
その奥に秘められたる力を見いだすべし(ウイリアム・ワーズワース『草原の輝き』高瀬鎮夫訳)

Though nothing can bring back the hour
of splendor in the grass,of glory in the flower,
We will grieve not,rather find
he strength in what remains behind.


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


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最新記事を楽しみにしているものです。
この頃テンプレートを変えたせいかどうか分かりませんが、せっかくの文章の右側がかけてしまっています。
言葉一つ一つを大切にされているまさきつねさまですから、それを丁寧に読ませていただきたいとおもっていますので、少し改良していただけると嬉しいです。
なお、このコメントは削除していただいて構いません。
それでは、今後も楽しみにしております。
2011/2/8(火) 午前 8:20 [ nekonekomiiko ]

nekonekomiikoさま
初めまして。ご訪問うれしいです。ご指摘ありがとうございます。
修正してみましたが、うまく改良されていますでしょうか。まさきつねの画面では問題ないと思うのですが、また不具合がございましたら、コメントくださいませ。
基本的にパソコンに不慣れで、ブログ設定などに分からないことが多いものですから、ご迷惑おかけします(汗)。せっかくいただいたコメントは削除するに忍びませんのでこのまま留めおきたいのですが、ご都合が悪いようでしたらまたご連絡くださいませ。
2011/2/8(火) 午後 1:56 [ まさきつね ]

はじめまして、まさきつね様。
私も、いつも更新楽しみにしています。
実は私も、右側の文章が欠けて見えることがしばしばあります。 欠けて・・・というより、隠れてしまっているようです。
(折角のフラット選手の写真も、左1/4くらいしか見えずにいます)
今回だけでなく、過去の記事でもいくつかありまして、その度に「私だけかな?」と思っていたのですが、そうでないようなので、便乗コメントさせて頂きます。
ちなみに使用PCはマックで、ブラウザはfirefoxです。
これからの更新も楽しみにしています。 それでは。
2011/2/8(火) 午後 7:56 [ ふみ ]

ふみさま
初めまして。コメントありがとうございます。
修正を試みておりますが、どうも問題点がまだ分からずにおります。
まさきつねのパソコンはWindowsですが、こちらの画面では特に欠けもなくテンプレート内に収まっております。

マックをご使用の皆さまには不具合が起こっている模様でしょうか。
ほかにも同様の状況があるようでしたら、なにとぞご一報ください。また、こうしたPC情報にお詳しい方がおられましたら、ぜひご指導ください。
申し訳ありませんが、皆さまのご助力たまわりたくお願い申し上げます。
2011/2/8(火) 午後 11:20 [ まさきつね ]

こんにちは、まさきつね様。
自分の視力のせいか、言われないと誰なのかさっぱり分かりません(爆)が、実に面白い表現の仕方ですね。写実表現の最たる手法の写真で抽象絵画的表現をするとは、自分のような凡人は考えも及びませんでした。科学でも政治経済でも何でもそうだと思いますが、ものを観察する際は、多方面からという鉄則を持ってないと新しいものや思考や方向性が見いだせないのと同じく、芸術にもそういう考え方が必要なのですね。
さて、nekonekomiikoさんやふみさんのような問題は、自分にはありません。使用PCは、マックですが、ブラウザは、Safariです。こういった不具合は、長年の経験上ブラウサの種類やバージョンの新旧によるものだと思います。こればかりは、完全カスタムメードのホームページやブログを作ったとしても必ず生じる問題なので、閲覧者が、自分のブラウザを閲覧に対応している種類やバージョンに換える以外残念ながら対処方法はないと思います。
2011/2/8(火) 午後 11:32 [ can*dak*ra ]

can*dak*raさま
ご訪問うれしいです。
そうなんです。写真芸術も極めればアブストラクトやミニマルに行きつき得るということを、マッギンレーは写真史の流れの中で示して見せているのですよね。あらゆる可能性に挑戦するという点で、芸術家もアスリートもその前衛性が評価されるべきだと思いますね。
PCに関しては確かに、ブラウザが関係しているのかも知れません。写真画像の欠損については、大きさが問題だったかも知れませんので多少サイズを縮小してみました。
改善が見られましたら好いのですが、またお気づきのことがあれば引き続きお知らせいただけると幸いです。
2011/2/9(水) 午前 1:09 [ まさきつね ]

以前、写真家の荒木さんが「なんで松田聖子写真集の字が大きくて篠山紀信の字が小さいんだ。篠山紀信写真集だろう、プライドを持て」という内容のことを言っていて、成る程今まで疑問にも思わなかったことに笑っちゃったけど、被写体がメジャーな場合、ある程度仕方ないかなともおもう。
浅田真央のアート写真なら「お、真央ちゃん新たな魅力」だしあまり好みでない選手の美しい写真ならアーティストの手腕を誉めたくなってしまう。レンズのどちら側に主役をみるかは受け手の感覚次第かな。無論、その写真が残ってゆくならそのアーティストの作品としてだろうけど。

アート写真と比べるべきではないが、先の大戦のプロパガンダ写真。破壊された瓦礫の中にひとり残された泣き喚く幼児。誰もが一度は目にした一瞬だが、研究者によるとこれも捏造だという。保護者がいたのに、より悲惨な状況を演出する為幼児をひとりにしたという。その事情を知ったとて軽減される悲惨は僅かだけど捏造は捏造だ。カメラマンは被写体のドキュメントを生み出す共犯者でしょうか、ドキュメント以上のリアリティーをもったファンタジーを構築したのでしょうか。続きます
2011/2/9(水) 午後 0:28 [ 花屋 ]

続きます。
すご~く大ざっぱに言っちゃうと、今何でも出来ちゃうんでしょ。
ある選手のスパイラルの足がもう少し上がっていたら、真っ直ぐだったら、体のラインがもう少しシェイプされていたら、自分の見たい写真になるのに。それがテクノロジーの絵筆で可能になるなら写真のリアルに対する信頼はどうなるのかとおもう。選手にとってはその数センチに凄まじい鍛錬があるだろうに。
切り取った一瞬に対する演出はともかく、被写体自体への脚色はう~んと唸ってしまう。それはそれこれはこれで観客席の悦楽を享受してもいるのだけどね。

ティルダ・スウィントン、ナルニアの悪い女王ですね。彼女といいケイト・ブランシェットといい何か古風な顔と感じるのはなぜだろう。古い時代の顔というか。西洋の血脈に懐かしさを感じるゆかりなどなにもないのに。
2011/2/9(水) 午後 0:39 [ 花屋 ]

花屋さま
ご訪問うれしいです。
聖子ちゃんの写真集なのか篠山紀信の写真集なのか、それは受け手(買い手)側の意識の問題かも知れませんね。カメラマンの演出という問題は、戦場写真ではよく話題になりますね。確かに嘘、偽りと言ってしまえばそうですが、(今、巷で話題の)スポーツの八百長問題と同等には論じ得ない話でしょうね。ただ演出と、画像の修整とはまたこれも別問題。顔の整形同様、画像処理など当たり前という意識レベルも一方ではアリの時代ですけれどね。
花屋さまはご了解と思いますが、マッギンレーや才能ある写真家の実験的撮影や技法処理は、観衆受けをあてこんだ演出や脚色とは一線を画すものです。観衆や被写体への媚びがないというのがその特徴なのですから。(浅田選手らの演技も含め、)あらゆるものの真価をどこに見るかという点で、他者への媚びへつらいがない高潔さは一つの基準かも知れませんね。
2011/2/9(水) 午後 1:12 [ まさきつね ]

(続きです)
ティルダ・スウィントン、仰るとおり古風で、ジェンダーを超えた知性と美しさがあります。この女優についてはまた別記事を書きたいのですが、フィギュアとはあまり関係がないかも。
フィギュアネタのない頃にでも(それこそ今なのかな?)UPしたいと思います。
2011/2/9(水) 午後 1:16 [ まさきつね ]

まさきつねさま、こんにちは!
いつも楽しく、胸おどらせながら拝見しています。
写真、「あ、フラット選手だ!フラット選手が夕暮れの中空で、麦の穂をスピンで吹き飛ばしてる!?」と思いました(^O^)
きれいですよね。カメラマンの中には選手の鼻水を撮るのが得意な人もいるようですが、やっぱりきれいな写真を見ると幸せな気持ちになります。
彼女を「社長」と呼ぶ人がいますが、ニックネームなんですかね?
私はWindowsですが、右端がすこし切れます。
パソコンをバージョンアップさせないとダメなんですね…
最近調子がわるいんです。
切れるのはまさきつねさまの記事だけで、投稿欄はふつうに見ることができます。
2011/2/10(木) 午前 0:27 [ windy_weather_windy ]

Windさま
ご訪問うれしいです。
フラット選手いかにも彼女らしく、そしてアメリカンな雰囲気もある写真ですよね。いわゆるモデル的な造形美に頼らない、観衆に媚びない知的な美しさに溢れていると思うのです。それに被写体に対する悪意がないというのは、カメラマンとしての基本姿勢ですよ。
「社長」というあだ名については何とも…知的で貫録のあるところを突いているのかなと思うのですが。ロシェット選手を「兄貴」と呼ぶみたいな感じでしょうね。別に悪意はないのでしょう。
Windowsもブラウザの関係かなと思うのです。よく分からないのですけれども。詳しい方のご投稿つのります。
2011/2/11(金) 午後 4:09 [ まさきつね ]

まさきつねさま、こんばんは。
「フラット社長」についてですが、2009年スケートアメリカでキムヨナの採点を待つ際、ソファに足を組んで座った姿に、貫禄というか社長のような風格があったところからついたみたいですよ。
2011/2/11(金) 午後 10:46 [ ねこまんま ]

ねこまんまさま
ご訪問うれしいです。
フラット選手情報ありがとうございます。おもしろい経緯ですね。
彼女は学業と二足のわらじを履いて頑張っていますが、ハーシュ氏などアメリカ国内でも一部にそれを快く思わない人たちがいますね。マルチな才能は賞賛されこそすれ、責められるいわれはないはずですけれどねえ。
どこの国でも、自国の宝をわざわざ貶める輩がいるということでしょうね。
2011/2/11(金) 午後 11:09 [ まさきつね ]

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